【参考文献】 2. 各名所旧跡・神社仏閣等の記念碑、パンフレット 「境川を歩こう」久米準著株式会社 230 クラブ新聞社発行 1. 4. 5. 6. 7. 8. 3. 各市町村教育委員会・区役所・青年会議所製作の掲示板 神奈川県高校地理部会編 「かながわの川」 「藤沢の地名」 中学校社会科副読本「大和」 「大和の文化と伝説」 「いずみいまむかし」 ~ 泉区小史 ~ ( 第 1 集 ~ 第 11 集 ) 日本地名研究所編 大和市教育委員会編 大和市教育委員会編 横浜市泉区役所発行
鷓瀬橋 ~ 鹿島橋 境川の左岸側は、鶴瀬橋の手前で 東京都町田市から神奈川県横浜 市 ( 瀬谷区、泉区 ) となる。 右岸側は、大和市の下鶴間 ( 西田 橋 ~ 大和橋 ) 、深見 ( 上瀬谷橋 ~ 境橋 ) 、上和田 ( 新道大橋 ~ 下分 橋 ) 、下和田 ( 緑橋 ~ 新緑橋 ) の 4 地区が順に接している。大和市 は相模原台地の南部に位置し、南小 北に細長い市域を形作っている。 従って全体としては南に向かっ て緩やかに傾斜しているものの ほぼ平坦な地形である。 境川はこれらの土地を一路南に 流れ下っていく。沿岸付近には神 社仏閣の他遺跡・城跡もあり、歴 史の深さを感じさせてくれる。 鶴瀬橋 境川左岸側で、東京都 ( 町田市 ) と神奈川県 ( 横浜市 ) との都県 境があるすぐ下流に鶴瀬橋が 架かっている。 この橋の西側 ( 大和市 ) のすぐ 傍に、観音寺や大山阿夫利神社 御分霊地 ( 大黒天開運神社 ) な どがある。 西側から見た鶴瀬橋 ( H11. 7.29 撮影 ) 85
大和橋 これまでの橋の中で最大である。 国道 246 号が通る橋で、 第みド 響類、。 ~ 当・こ′叫丱第をを i ま物を門 北側から見た大和橋 ( H11. 7.29 撮影 ) 長掘南遺跡 大和橋の南に大和市北部浄化センターがあ り、その入口の近く、隣の「深見歴史の森」 との間の道路脇に、「長掘南遺跡」に関する 掲示板がある。これによると浄化センター 建設時の事前調査でこの遺跡が発掘された 由。その内容は下記の通りである。 長掘南遺跡 この場所は北部処理場建設に伴う事前発掘調 査として昭和 58 年 4 月から翌年 7 月まで発掘 調査された遺跡です。旧石器時代から中世に至 る重複遺跡でした。旧石器時代では 8 つの文化 層が確認されていますが、第Ⅳ文化層の資料が 特に充実しています。当時は氷河時代でその資 料を残していった狩人達が生活していたのは 現地表面下約 2. 5m の関東ローム層中の B 、 BI 層下部と推定されます。今から約 19 , 700 年前 頃の狩人達のキャンプ生活の跡が古富士火山 起源の降下火山灰により封じ込められたもの といえます。狩道具にはナイフ形石器が使用さ れ、加工具にスクレイバー・彫器・敲石 ( たたき いし ) が、伐採具には礫器 ( れつき ) が用いられ、 暖房・調理の跡としての礫群も発見されていま す。この時期の資料はナイフ形石器を量産する ための石刃を作る石割技術に特徴があり、その 技術は「石川型刃器技法」と呼ばれています。 この時期の同じ様な遺跡は全国的に広がりを もち、それには地域色があることも認められて 大和市教育委員会 います。 91 下流川から見た大和橋 ( H11. 7.29 撮影 ) 大和市北部浄化センター入口 ( H11. 7.29 撮影 ) 第Ⅳ文化層の石器等の出土状況 柱状に残っているところは石器が出 土した所を示している。 それらはまとまりをもっていて当時 の狩人達の生活空間を推定できるも のとなっている。 ( 上の写真は掲示板の写真を複写し たものである。 )
深見神社 佛導寺の南側に「 ( 相模国十三座の内 ) 延喜式内深見神社」がある。最初の鳥居の 左脇に市指定重要文化財の「社号標」がある。また、本殿の左に市指定天然記念物 で神奈川の名木 100 選に選定されているハルニレの巨木がある。 境内入口の鳥居横に立てられている市教育委 員会による掲示板には深見神社について次の ように書かれている。 深見神社 「深見」という地名は「倭名類聚鈔」 ( 931 ~ 937 ) に相模国高座郡深見郷と記されており、 市内の地名が初めて文献に登場したものです。 しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めて かなり広い範囲を総称していたもののようで す。深見神社は鹿島社の別称がありますが、 い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県 鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市 内に存在している神社の中では唯一の「延喜 式」神名帳 ( 927 ) に掲載された延喜式内社と なっています。縁起式内社は全国で 3132 社あ るが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆 盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当 時の国の中枢である天皇家と直接結びつくも のでありました。村の鎮守という一面と地方を 代表するものという一面の両者を持っていた といえます。なお、境内には大和市指定重要文 化財である寛政 3 年に建立された「深見神社社 号標」と天然記念物であるハルニレがありま す。 大和市教育委員会 標 号 社 社 神 見 大和市指定重要文化財 ( 有第 4 号 ) 昭和 47 年 2 月 25 日指定 深見神社社号標 形状尖頭角柱製、高さ 146Cm 、幅 31cm 、奥行き 25cm 年代寛政 3 年 ( 179D この社号標は、深見村の領主であった旗本坂本重治が造立し たと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神 社」と書かれ、深見神社が縁起式内社であることが明記され ています。縁起式内社とは延長 5 年 ( 927 ) に完成した延喜 式の神名帳に列記された神社のことで、相模国には寒川神社 など全部で 13 座ありました。このことから深見神社は平安 時代にはすでに存在していたことがわかります。 平成 9 年 3 月 大和市教育委員会 102
薬王院 下分橋の西方の道路に面して生 養山薬王院 ( 薬師堂 ) がある。 本堂前の掲示板にはこの縁起に ついて下記のように記されてい る。 を第ツなを 薬王院入口と薬師堂 ( H11. 8. 18 撮影 ) 薬師如来縁起 当山に安置し奉る薬師如来は行基大士の御作と称し、往古より霊験あらたかなること世 人のすべてに能く知る所なり。夫れ薬師如来は諸病悉除の誓願あり。中古三浦大助の二 男和田小太郎義盛は当村の士頃なりし時、眼疾を患いて尊像を祈る事 17 日、ついに羽奣 する事を得たり。其後誓って云く「若し擁護を蒙りて侍所の別当たるを得ば一院を創せ ん」と志願空しからずして其職に任ずる事を得たり。因って一院を創建す。即ち薬王院 是なり。亦元和年中石川家祖先の内室目丙にて医薬効なきを以て乃ち尊像にネ廳貞する事 17 日昼夜速やかに明眼を得たり。故に再建する今の伽藍是なり。夫れより以来毎年 9 月 8 日をトして会日とし寅年を以て開扉し普く平等大悲に結縁せしむる事となり。大正 12 年 9 月 1 日の大震災は関東一円の堂塔仏寺の大半は倒潰せしも当薬王院の伽藍は幸にも 其難を免る事を得たり。之偏に薬師如来の諸難悉除の霊験なり。このあらたかなる尊像 を安置し奉る。是薬師如来の縁起なり。神奈川県高座君 1 輟谷村上和田薬王院信徒一同 また入口の横にある掲示板には次のような説明が記されている。 大和市指定重要無形民俗文化財薬王院の双盤念仏 念仏にあわせて演奏される仏法音楽で太鼓と鉦で行われます。その音は単純で素朴です が、それを聞けば正念増上するといわれ、今昔物語にも阿弥陀の聖が金鼓を打って念仏 したと記載されています。この信法寺の別院薬王院の双隴念イム兼倉光明寺の流れと伝 えられています。「享保元丙申稔極月吉日粉河市正作」の銘が陰刻されている鉦があるの で、この頃には ( 1716 ) 既に演奏されていたことがわかります。この念仏を 9 月 8 日の 薬田躡彖日に行えば、無病息災・家運隆昌の利益を授けられるとされています。また農 剩所事の虫送り、風祭り、氷祭りにもこれを唱えて五穀豊穣を祈って今日に至っている といいます。また南西方向にある信法寺には市指定重要文イオの旧石川家墓地がありま す。石川家は江戸日弋に上和田村を知行地としていた徳川家の旗本で村内に屋敷を構え ていて、付近は御蔵屋敷と呼 ( ています。 大和市教育委員会 112
左馬神社 この左馬神社は新道大橋の南西、大和市 上和田にある神社である。 左馬神社のタブノキ ( H11. 8.18 撮影 ) 左馬神社の鳥居と本殿 ( H11. 8.18 撮影 ) を馬神社 御祭神 : 左馬頭義朝鎮座地 : 大和市上和田 1168 番地例祭日 : 9 月 24 日 境内三社殿御祭神天照大神 ( 中央 ) 、神武天皇 ( 右側 ) 、須佐之男命 ( 左側 ) 由緒 : 宝暦 14 年 3 月桃園天皇徳川 9 代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門・小川清右衛門 この地に宮を建立。左馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや漸次庶民 崇敬の的となり、文化 3 年 4 月 3 日上和田信法寺 14 世住職憧与上人、氏子の賛同 を得て五穀豊穣の祈願をなしたるや、その御神徳の偉大さに武家一般庶民に深き感 銘を与う。尚境内社として天照大神、神武天皇、須佐之男命 3 神を奉斎し、国土安 穏氏子崇敬者の安泰 ( 疫病・痘癒・厄除 ) 守護を念ずる参詣者今尚多し。 宮久保橋 ( s 50 年架設 ) 大和市と横浜市の境界線 は、この宮久保橋から境川 を離れて東側を流れる相、 - 沢川沿いに移り、境川との 合流点で再び境川が境界 線となる。この橋の東には 下瀬谷団地があり、川沿い に南へ下ると左に上和田・一 中学校がある。 西側から見た宮久保橋 ( H11. 8. 18 撮影 ) 109
大和橋の南に大きく広がる森が深見歴史の森 ( 城山史跡公園 ) である。 森の中には何処にも城跡を示すものは見当たらないが、森の中の道に「天竺坂」 と標された石柱があり、側面に下記のように内容が記されている。 天竺坂と称する古道 ( H11. 7.29 撮影 ) 天竺坂の標柱 てんじくざか 深見城築城の際につくられた空掘にあた る道。この坂と交差する南北の道は鎌倉古 道と呼ばれ、市域では公所から境川右岸を 川沿いに南下し、藤沢宿に至り、東海道に 合流した古道です。 大和市教育委員会 平成 2 年 3 月 「城山史跡公園」の標柱と森の一部 ( H11. 7.29 撮影 ) 八雲神社 深見歴史の森の南側道路沿いに ある神社である。 八雲神社の鳥居と社殿 ( H11. 7.29 撮影 ) 93
引地川流域全体図 相模原 . 座間市 東京都ノ 大和市 海老名市 ) 綾瀬市 川一 寒川町 横浜市 藤沢市 茅ヶ崎市 柏 鎌倉市 相模湾 引地川河口・、 . 江ノ島 184
境橋 ~ 新緑橋 境橋 卍西福寺 幵左馬神社 瀬谷屋跡 大橋 境川は、途中上和田 2 号橋の下 流で「相沢川」と合流しさらに 水嵩を増して大和市の東境を流 れて行く。 横浜市との境界線は、宮久保橋 から境川を離れ相沢川に移り、 合流点で再び境川の線に戻る形 となっている。従って上和田 1 号橋、上和田 2 号橋、境川と相 沢川の間にある上和田中学・宮 久保公園・宮久保スポーツ広場 等は大和市の所属となる。 下分橋から藤沢市の境までにか けての境川の流域周辺には、公 団上和田団地や県営いちょう団 地など大きな団地の高層ビルが 建ち並んでいる。 境橋 ( s 46 年架設 ) 県道 40 号が通る幅の広い橋。 」田急亜島線 、、′が丘訳 上和田号橋 2 号橋 45 保 / 園 緑地 薬王院卍 玉れ逢、橋 上市 新 興寺 坐渋谷駅 ケキ物 国 長門 万緑 第いちょうけ也 高 境橋の上流 ( H11. 8.5 撮影 ) 境橋の下流側欄干 ( H11. 8.5 撮影 ) 105
左馬神社 本殿 ( 拝殿 ) はこの奥にある 下和田のケヤキ 左馬神社へ通ずる道の途中、左手に欅の巨木がある。 大和市指定の天然記念物となっており、立札には次のように書かれている。 市指定天然記念物 ( 記第 3 号 ) 卞和田のケヤキ イ 指定年月日昭和 47 年 2 月 25 日 形状高さ 25m 目通り 4. 1 m 枝幅 13. 1 m 根回り 4. 5m ケヤキはニレ科の落葉高木で高さ 40m 以 上にもなります。東北地方から台湾の山地 まで自生しているものです。県内では沿岸 部でタブノキとともに谷あいに生え、内陸 では特に段丘の斜面に多くみられます。多 くは農家の屋敷林として防風用などに残 されているものですが、本来この地域には 自然にたくさん生えていたものです。 このケヤキは境川に面した段丘斜面に位 置し、大津家の庭内にあります。屋敷林の 一部となっていますが、植えたものという よりは自然に生えてきたものを残したも のと思われます。周囲のケヤキ林の中でも 特に目につく巨木であり、神奈川県の名木 百選にも数えられています。 平成 10 年 3 月 大和市教育委員会 左馬神社の入口 ( H11. 8. 18 撮影 ) 天然記念物「下和田のケヤキ」 ( H11. 8. 18 撮影 ) 116