重要文化財 - みる会図書館


検索対象: 湘南散歩 境川・引地川
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1. 湘南散歩 境川・引地川

妙光寺 上瀬谷橋から高速道路下をくぐり横浜市瀬谷区の竹村町の主道路を南へ進むと左 手に妙光寺がある。道路脇の標柱には、「日蓮宗蓮昌山妙光寺高祖日蓮大聖人御 一宿之御霊跡」とあり、山門の手前に下記の掲示がある。 光 妙 妙光寺の山門 ( H11. 7. 29 撮影 ) 蓮昌山妙光寺 はくち この寺は縁起によると、はじめ孝徳天皇の白雉 3 年 ( 652 ) に明光比丘尼が建てた庵で、明光 が亡くなり、その後大同年間 ( 806 ~ 81 のに辨通が天台宗福昌山明光寺と称して寺にした といわれています。弘安 5 年 ( 1282 ) 9 月 17 日に日蓮上人がここに一泊し、その寺の住職文 教は教化を受けて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山とし、自らは二世 となりました。宝徳 4 年 ( 1452 ) 相州瀬谷郷に住んでいた山田伊賀入道経光が大檀那とな って正中 2 年 ( 1325 ) 鋳造された武州恩田 ( 緑区恩田町 ) の萬年寺の梵鐘を寄進しました。 この梵鐘は中世の関東地方で活躍した鋳物師物部氏の一人守光の作で神奈川県の重要文化 財に指定されています。境内には明光比丘尼の開基堂、江戸時代瀬谷村に采地 ( うねち ) を 賜った鷹匠長田白政 ( あきまさ ) の墓碑があります。 平成 2 年 3 月 ( 社 ) 横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課 境内の左手に、県指定重要文化財の梵鐘を吊るした鐘楼があり、鐘楼の柱に「除 夜の鐘以外には突かないで下さい」と張り紙してある。その横に横浜瀬谷八福神 の一つ「大黒尊天」と標された大黒堂がある。 県指定重要文化財の梵鐘 7.29 撮影 ) ( H11. 大黒堂 ( H11. 7.29 撮影 ) 94

2. 湘南散歩 境川・引地川

佛導寺 鹿島橋の通りを相鉄線路沿いに西へ直進する と左手に佛導寺がある。東向きの山門前の門柱 には「親縁山一心院」・「浄土宗佛導寺」と標刻 ーこには 4 つの大和市指定重要文 されている。 化財がある。その文化財について下記のように 纏めて書かれた掲示板がある。 イ弗導寺所在の市指定重要文化財 佛導寺は、寺伝によると天文年間 ( 1532 ~ 1555 ) に称念上人が開山した といわれています。現在本寺には大和 市指定重要文化財が 4 件あります。坂 本家の墓、梵鐘、慶長年間の墓、徳本 念仏塔です。坂本家は江戸時代の旗本 であり、深見村を所領していました。 ーは 3 基あり、板碑型のも ので、被葬者は 4 代重安の弟の貞俊、 3 代貞吉、貞吉の夫人の 3 人です。 4 代坂本重安は村内にあった 1200 坪 の屋敷から大坂の合戦の時に出陣し たといわれています。 は元禄 11 年 ( 1698 ) に江戸鋳物 師木村将監・木村三郎の手で製作され た梵鐘で市内では最も古い梵鐘です。 ーは慶長 3 年 ( 1598 ) の 銘が刻まれた墓で、板碑型の形式で雄 大な石碑です。市域を含む近隣地では 石塔を建てて故人を供養するという 行為は 1600 年頃はまだ少数であり貴 重です。 1650 年頃から急激に増加し、 以降 50 年を経過しないうちに石塔を 建てて供養するという行為が定着し たといいます。 ーは文政元年 ( 1818 ) に建 立された石塔で尖頭角柱型の形式で す。 大和市教育委員会 梵鐘 総高 117Cm 口径 66 c m ( 昭和 56 年 8 月 1 日指定 ) 第 - ー℃ 佛導寺の山門 ( H11. 8.5 撮影 ) 佛導寺本堂 ( H11. 8.5 撮影 ) 徳本念佛塔 高さ 174 c m 幅 35 c m 奥行 33 c m ( 昭和 47 年 2 月 25 日指定 ) 文化財の梵鐘が吊るされている鐘楼 101

3. 湘南散歩 境川・引地川

御嶽神社 金沢橋の西方道路沿いにある神社で「みたけじん じゃ」という。鳥居の左脇に「御嶽山神礼寺文殊 院跡」と標した木柱が立っている。参道を進み本 殿への石段の前に来ると「猿田彦大神石廟入口」 と刻んだ石碑があり、本殿の左奥にその石廟があ る。これは藤沢市の重要 文化財に指定されており、 正面の扉に鍵のかかった 木製の小屋に保存されて いる。この文化財に関す る掲示板には次のように 記されている。 猿田彦大神石廟保管小屋 御嶽神社本殿 ( H11. 6.26 撮影 ) 市指定重要文化財 ( 有形民俗文化財 ) 猿田彦大神石廟 高床式、切妻造、総高 93cm 、間ロ 60cm 、奥行 66cmo この石廟は延宝 8 年 ( 1680 ) 造立。 その後天明 6 年 ( 1786 ) に修復されたものである。 4 柱間の前面扉及び石室の 3 面壁に花 応院、文殊院以下村民 48 人の助縁者名が刻まれている。全体が安山岩質の石造りで、廟の 前方に縁を出し、石廟は上床、人口の扉は観音開きになっており、屋根はゆるい勾配で 2 枚板石の合せ葺き、前屋根に 2 匹の猿像を陽刻しているのが特徴である。右側の猿は半迦 の姿勢で左手に葉っきの桃を持ち、左側の猿は両手を広げて匍匐している。もと字御所ケ 谷に祠られてあったのを後年ここに移したと言われている。西俣野には神道系の庚申塔と 見られる「猿田彦大神」石造塔が数基残っているが、これは仏教系の庚申信仰に対し御嶽神 社を信仰するものによって造立され、この猿田彦大神石廟は当地のそうした流れのなかの 藤沢市教育委員会 昭和 40 年 5 月 31 日指定 所産と見ることができる。 神明社 小御嶽神社 東西橋の西方 御嶽神社から少 道路沿いにあ し南へ下ったと る神社で、村の ころに小御嶽神 鎮守という感 社がある。文字 じである。鳥居 通り御嶽神社の の傍に高いイ 子供のような小 チョウの木が 聳えている。 小御嶽神社 ( H11. 6.26 撮影 ) 神明社入口の鳥居と銀杏 ( H11. 6. 12 撮影 ) 132

4. 湘南散歩 境川・引地川

諏訪神社 目黒橋の西方にある神社で、境内に長 文の由緒が掲示されている。要約する と下記の如くである。 諏訪神社由緒 祭神建御名方神 創立年代は不詳。古来式内石楯尾神社と 伝えられ、鎌倉中期の頃諏訪社として祀 られたものと思われる。元禄 6 年 ( 1693 ) 領主江原氏、都筑氏の各代官が本地を寄 進し御神体として本殿に奉安した。宝永 8 年 ( 171 の再建。安永 7 年 ( 1778 ) 再 建。明治 5 年 ( 1872 ) 社殿再建。大正 12 年関東大震災で被害。昭和 4 年復旧 工事完了。昭和 15 年村社に昇格。社名 「諏訪神社」に変更。昭和 57 年覆殿幣 殿神饌所祭具所玉垣等再建、社殿改修。 末社 : 稲荷社八坂神社 秋葉神社古峯神社 境外末社 : 日枝神社伊勢社 諏訪神社本殿 ( H11. 7. 29 撮影 ) なお、当神社にある御神像と奉納額は大和市指定の重要文化財となっている。 その現物は見られないが、境内にある掲示板によると下記のようなものである。 市指定重要文化財 ( 有第 2 号 ) 諏訪神社御神像昭和 47 年 2 月 25 日指定 形状 : 立像、寄木造り、玉眼嵌入高さ : 54.4 c m 年代 : 8 世紀前半頃 市指定重要文化財 ( 有第 17 号 ) 諏訪神社北辰一刀流奉納額 平成 6 年 4 月 1 日指定 形状 : 奉納額寸法 : 縦 182.0 c m 横 273.5 c m 年代 : 明治 19 年 10 月 15 日 江戸時代後期に成立した剣道の 4 つの新興流派 ( 北辰一刀流、鏡心明智流、無刀流、 天然理心流 ) の分布が、額面に記載された奉納関係者一覧によって把握できる。 [ 参考 ] 北辰一刀流 : 千葉周作 無刀流 : 山岡鉄舟 鏡心明智流 : ( 初代 ) 桃井直由、 ( 2 代 ) 桃井春蔵直一 天然理心流 : 近藤内蔵之助長裕 ( 近藤勇は 4 代目 ) 千葉周作、桃井春蔵直一、斎藤弥九郎は三剣士といわれた。 90

5. 湘南散歩 境川・引地川

長福寺 長寿橋と常盤橋との中間ぐらいの位置の町田街道沿い北側にこの禅寺がある。 道路際の階段を上がると参道があり、突き当りの道の前に立派な彫刻のついた山 門がある。この山門は町田市の有形文化財に指定されている。この他にこの寺の 本堂格天井花丸絵画や文珠堂 も文化財に指定されている。 その内容については山門の左 手前の案内板に下記のように 記されている。また、山門の 右手前には高い石柱があり、 これに「相原学校開校地長福 寺自明治 7 年至明治 15 年」 と刻まれている。 曹洞宗籌国山長福寺 町田市重要文化財 襠等山円 欅材を使用し、彫刻もよく、特に唐戸上部 の蟇股は斜めに雨を呼ぶ雲の中に龍を刻 む構図で、雄大な感を出しており、その他 裏表の彫刻など変化に富んでいます。文久 2 年 ( 1862 ) 8 月 11 日落慶の記録が残され ています。 長臨等女 唐破風付で向拝の昇り竜の一本刻の柱、そ の他四面の彫刻など、現今では得がたい作 風をとどめており、文久 2 年 ( 1862 ) 4 月 8 日落慶の記録があります。 長福寺本堂格天井花丸絵 天宝 13 年 ( 1842 ) 秋、江戸の絵師長谷川 雪堤によって描かれたもので、杉板 36 枚 に桜、紫陽花、水仙、蓮、牡丹、木蓮、芍 薬などが彩色鮮やかです。 昭和 48 年 3 月 8 日指定 東京都町田市教育委員会 影 撮 堂 33

6. 湘南散歩 境川・引地川

藤沢市指定文化財 ( 天然記念物 ) 混生樹 ( 寄り木 ) 右が指定文化財で、モチノキ ( モ チノキ科 ) 4 株、タブノキ ( クス ノキ科 ) 3 株、スダジイ ( ブナ科、 シイノキのうち樹皮が縦に割れ るもの ) 1 株の 3 種類 8 株が根元 でくつついて一部融合した寄り 木です。樹齢は 300 年以上と推 定され高さは約 10m 全体の根回 りは 7. 5m にもなっている大変 珍しい樹木です。左も同様にケ ヤキとサクラの混生樹で輪状に 植えられた苗木が成長して行く 過程でこのような形になったも のと思われます。共にもとは本 堂裏手の丘の上にありました。 昭和 44 年 2 月 8 日指定 藤沢教育委員会 影 撮 混 の 記 天 市指定重要文化財 慈眼寺の旧江島寺梵鐘 ( H11. 6. 10 撮影 ) 藤沢市指定重要文化財秘仏十一面観音立像と梵鐘 この寺は無量山慈眼寺と号し曹洞宗に属す。 天文 2 年 ( 1533 ) の頃玉縄 3 代城主北条左衛門大夫綱成が開創し中興開山は韓嶺和尚と伝え られる。歌舞伎「小栗判官」で知られる常陸国真壁郡小栗城主満重と照手姫を蘇生させたと いう観音縁起の版木 ( 寛政 6 年 1794 ) が存在する。十一面観音立像は等身大 ( 178.5 c m) の 本格的造像で寄木造、玉眼を嵌し頭体とも四材矧ぎを基本に造られている。太づくりな肉 取りを見せる量感ある体部やよく引き締まった面相など鎌倉地方の中世像らしい作域を示 すが、やや硬く形式化した衣文表現などに多少時代の下降を思わせ、造立時期は 14 世紀後 半と思われる。平成 3 年藤沢市により解体修復が行われ、往古の優れた尊容に復されたが、 この折像内より紙片が発見され、これにより天正 11 年 ( 1583 ) に玉縄 6 代城主北条氏勝の弟 直重は祖母の菩提のために鎌倉仏師快円に修復を依頼したことやこの寺院が慈眼山観福寺 と号し北鎌倉の円覚寺の塔中天池庵に関係があったことなど貴重な事実が新たに確認され た。本堂正面右手に吊るされている梵鐘は陰刻銘によれば当所上州藤岡 ( 群馬県藤岡市 ) の住人が「現生安穏、後生善処」を祈願して梵鐘を鋳造し江島寺に寄進し、明和 8 年 ( 1771 ) に藤沢宿大鋸の住人が江島寺よりこの梵鐘を買受け慈眼寺に寄進したことを知ることがで きる。銅造で総高 100. 5cm 口径 54cm とやや小振りではあるが、寛永 6 年 ( 1625 ) の鋳造 で旧江島寺梵鐘であることなどであることなど往時を知ることができる。 秘仏十一面観音立像 平成 1 年 12 月 15 日指定 旧江島寺梵鐘 藤沢市教育委員会 平成 10 年 2 月 12 日指定 151

7. 湘南散歩 境川・引地川

花應 俣野橋から県道 403 号道路を西へ行くと花應院への案内標識があり、それに従って 左折して進むと道路の右手に「曹洞禅宗西嶺山花應院」「奉祈馬頭観世音菩薩」と 刻まれた標石柱のある入口に着く。人口 の掲示板には次のように書かれている。 「小栗判官・照手姫縁起の寺」 品川越して大森や鶴見、神奈川後にして、 行くは横浜その次は程ヶ谷越して戸塚宿や 大坂上りてニ坂女殺しと早過ぎて、藤沢 宿へと着きぬればここに旅路の疲れをば直 して北に一里哉。今その場所をと尋ぬれば 西の俣野は御所ヶ谷と字を為す。乾の御門 前ゑと来りける。 ( 西俣野・小栗判官ー代記より ) こ花應院には小栗判官照手姫縁起絵巻と 地獄変相十王図が伝来し、例年 1 月・ 8 月の 2 回閻魔祭りを行い、時代絵巻のご開帳と共 に、貴公子小栗・美女照手姫の奇想天外な 物語と地獄の様子が花應院と西俣野史跡保 存会により絵解きされます。この地西俣野 は「小栗・照手姫ゆかりの地」として多く の史跡・地名が残されています。 藤沢市教育委員会 平成 6 年 3 月 本堂の前にある掲示板にはこの寺 花應院本道 ( H11. 6. 26 撮影 ) の文化財「閻魔大王坐像」につい 市指定重要文化財 ( 彫刻 ) て右記の如き説明がある。 石造閻魔大王坐像 本像はもと閻魔堂 ( 正しくは法王院十三堂といい 花應院の北方 100m に「閻魔堂跡」として現存 ) の本 尊である木造閻魔大王坐像の。。おまいだち”とし て安置されていたが、天保 11 年 ( 1840 ) のお堂の 火災の際に村の若者の手によって危うく難を免れ 花應院に移されたものである。本尊の閻魔大王坐 像は木造彩色坐像で像高 104Cm 袖張 104Cm と大型 像ながら丁寧な彫刻が施されており、一説には平 安時代の漢学者、歌人である小野篁の作と伝えら れている。他方市指定重要文化財の石造閻魔大王 坐像は前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高 24cm 袖張 25cm と小像ながら安山岩製の硬質な石 材を巧みに彫りこなして大王の風貌を遺憾なく表 文化財指定の石造閻魔大王坐像 現した秀作で、像立年代は室町後期か桃山期と推 ( 手前ケースの中 ) と木造閻魔大王坐像 定されている。 ( H11. 6.26 撮影 ) 昭和 41 年 1 月 17 日指定藤沢市教育委員 0 ー物ーを第晉一 : ~ のま第 ミ 130

8. 湘南散歩 境川・引地川

深見神社 佛導寺の南側に「 ( 相模国十三座の内 ) 延喜式内深見神社」がある。最初の鳥居の 左脇に市指定重要文化財の「社号標」がある。また、本殿の左に市指定天然記念物 で神奈川の名木 100 選に選定されているハルニレの巨木がある。 境内入口の鳥居横に立てられている市教育委 員会による掲示板には深見神社について次の ように書かれている。 深見神社 「深見」という地名は「倭名類聚鈔」 ( 931 ~ 937 ) に相模国高座郡深見郷と記されており、 市内の地名が初めて文献に登場したものです。 しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めて かなり広い範囲を総称していたもののようで す。深見神社は鹿島社の別称がありますが、 い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県 鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市 内に存在している神社の中では唯一の「延喜 式」神名帳 ( 927 ) に掲載された延喜式内社と なっています。縁起式内社は全国で 3132 社あ るが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆 盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当 時の国の中枢である天皇家と直接結びつくも のでありました。村の鎮守という一面と地方を 代表するものという一面の両者を持っていた といえます。なお、境内には大和市指定重要文 化財である寛政 3 年に建立された「深見神社社 号標」と天然記念物であるハルニレがありま す。 大和市教育委員会 標 号 社 社 神 見 大和市指定重要文化財 ( 有第 4 号 ) 昭和 47 年 2 月 25 日指定 深見神社社号標 形状尖頭角柱製、高さ 146Cm 、幅 31cm 、奥行き 25cm 年代寛政 3 年 ( 179D この社号標は、深見村の領主であった旗本坂本重治が造立し たと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神 社」と書かれ、深見神社が縁起式内社であることが明記され ています。縁起式内社とは延長 5 年 ( 927 ) に完成した延喜 式の神名帳に列記された神社のことで、相模国には寒川神社 など全部で 13 座ありました。このことから深見神社は平安 時代にはすでに存在していたことがわかります。 平成 9 年 3 月 大和市教育委員会 102

9. 湘南散歩 境川・引地川

養命寺 ( H10. 11. 16 撮影 ) そうげんいん 引地川橋の西に宗賢院の末寺・ ようめいじ 養命寺がある。 ここにはオビンヅル様という像 があり頭が痛いときに像の頭を、 手がいたいときに像の手をなで ると治るといわれている。また、 ここに奉られている木造薬師如 来坐像は国の重要文化財 ( 国宝 ) に指定されている。 境内にはこれにつ いての藤沢市教育 委員会による説明 文が下記の如く掲 示されている。 4 第 養命寺本堂 国指定重要文化財 ( 彫刻 ) 像木造薬師如来坐隊 坐 来曹洞宗、引地山養命寺の本尊で、その伝来に 砌ついては定かではないが、像高九〇・五Ⅷ の等身大の坐像である。 この像は、偏袒右肩 ( 僧衣を左肩にのみかけ る着方 ) で右手は施無畏印、左手は与願印を 結び、その手のひらに薬壺を持っ通例の薬師 如来である。桧材の寄木造りで玉眼入り、表 面は漆箔である。 昭和二年に行われた美術院の解体修理の際 に胎内より、「建久八年百 ( 一一九七 ) 八月 十二日」の墨書銘が発見された。 これにより本像は、彫刻史上でいう藤末鎌初 ( 藤沢様式と鎌倉様式の両方を持ち合わせ た仏像の存する時代 ) に属するもので力強い 第男性的な尊顔、尊体の豊かな量感と緊張感、 重厚で精彩のある彫技等といった作風をも っ東国運慶様の代表的な一例であり、おそら く運慶の兄弟弟子あたりが手がけた尊像で あろうと推定されている。 また、本像は、南北朝期 ( 十四世紀後半 ) 頃 の作とされる木造の日光・月光の両菩薩を 脇侍として従えている。なお、公開は十二年 に一度の寅年に行われる。 昭和二年四月二十五日指定 藤沢市教育委員会

10. 湘南散歩 境川・引地川

長後地域には平安時代末期から戦国時代にかけて渋谷氏が庄司として支配してい た荘園が置かれていた。その範囲は 66 カ村に及んだといわれている。 長後や高倉を含むかっての渋谷村はこの渋谷庄に因んでつけられた地名である。 江戸時代にはこの地域には上長後、下長後、千束、七ツ木、下土棚の五村があった。 明治の初めに上長後村と下長後村が合併して長後村となった。この地域の東西には 大山道、南北に滝山街道が通っており、その交わった所を藪鼻といい江戸時代から 店や宿が立ち並びにぎわい栄えた。現在も藤沢市北部の交通の中心となっている。 この藪鼻付近に現在の長後駅がある。藪鼻という地名はここが亀井野の方から北に 伸びていた大きな藪の端だったことから付けられたものとされている。 天満宮 ( H10. 11. 19 撮影 ) 診“きをミを 長後橋の北東にあり、この地域を天神添とい この天満宮は渋谷重国の祖父六郎基家が 永久年間 ( 1113 ~ 1118 ) に秩父より移住して 築城したとき守護神として建立し菅原道真を 祭神として祀った。寛永 4 年 ( 1627 年 ) 渋谷 氏の子孫朝岡久兵衛国豊が再建し、後に山王 添の山王権現と伊勢山の神明社を合祀して天 満宮とし長後の総鎮守とした。境内の石燈籠は 天満宮の本殿 徳川家の旗本朝岡丑之助がこの地の地頭として寛永 19 年 ( 1642 ) 11 月に造立奉納 したもので当時の姿をそのまま伝えており、市の重要文化財に指定 ( 昭和 52 年 4 月 13 日 ) されている。祭礼は 9 月 25 日で、神楽殿での田舎芝居は、地面にゴザを敷き 飲食しながら見物する昔ながらの楽しいお祭り風景が見られる。「石造狛大一対」は 貞享 3 年 ( 1686 ) 3 月 25 日中村氏が娘おち世・支むら ( 姉妹 ) のために奉納したもの である。両手に乗るほど小型で奉納者の愛玩用又分身として無病息災を祈願して奉 納されたと考えられる。平成 4 年 2 月 1 日に市の有形民俗文化財に指定されている。 藤沢市指定有形民俗文化財の石造狛大 ( 左「吽」、右「阿」 ) 藤沢市指定文化財の石灯籠 211