稲荷橋 ( H10. 10.22 撮影 ) ()I 年架設 ) この橋は本鵠沼と鵠沼海岸を縦断する主要道路と海岸沿いの国道 134 号線をつな ぐ橋である。黄金色の美しい橋である。近くに鵠沼伏見稲荷神社がある。この辺り は引地川から灌漑用に水車で汲み上げ掘割に沿って水を流していたことがあるの で鵠沼では引地川を堀川とも呼びそれが集落の名前にもなり、この辺りの水田を 堀川田といわれた。その豊作の願いがこの橋にも込められているように思える。 ほりかわだ 西南側から見た稲荷橋 ( 下流側の欄干 ) 上流側から見た稲荷橋 右の記念碑は日の出橋・稲荷橋間の右岸 の遊歩道脇に設置されている。 碑には下記の通り記されている。 この鵠沼耕地整理事業は旧引地 川以東の鵠沼地域を中心とした 水田の用水を確保し米の生産性 の向上と安定的な生産をはかる ため昭和六年四月組合を設立し 直らに事業を着手しました またこれを機会に県町の強い要 請によりたびたび濫を繰返し ていた引地川の抜本的な改修を 伴う区画整理を併せ実施しまし しかしながら戦中戦後等はげし い時代の変遷と種々の事情によ り換地処分が未処理のまま半世 これをこのまま放置することは 権利者はもとより行政上にも重 大な支障があるので昭和五十五 年新役員を選出し県市の強力な ご指導と役員をはじめ組合員一 同が渾然一体となって冏題解決 のため最善を尽し本事業も五十 五年有余の歳月を経て総面積七 十五ヘクタールの耕地整理事業 が完了したのでこれを記念して ここに碑を建立しました 昭和六十一年十一月吉日 高座郡藤沢町鵠沼耕地整理組合 241
上村橋 ~ 祚橋 藤沢本町駅 上村橋を過ぎると右 岸側は辻堂地区、左岸 側は鵠沼地区となる。 川の両岸は護岸壁で 固められており川辺 には容易に降りられ ないが J R 東海道線 の下をくぐると清水 橋付近に親水広場が あり、安全に水遊びが できるようになって いる。 鵠ロ神明 31 町 本 上村橋 士堂新町 . 、、森皇大神 鵠、ロ神明 卍万言 辻堂新町 鵠沼神明 本鵠沼 辻堂元町 水 主月 、普 30 士見橋 みど 及センター 保公園 ) 長久保緑 はい 平橋 鵠沼桜が岡 辻堂東海岸 。、沼運公 作橋 鵠沼海岸 上村橋 (H 1 年架設 ) を - 繕ー ( H10. 10. 22 撮影 ) 上流側の欄干 「かむらばし」という。 緑青色の銅製飾りものが特徴である。 かって引地川が蛇行していた頃この付近 の川の中には中州があり西に上村橋、東に 水車橋があったが河川改修で中州がなく なり上村橋だけが残ったとのことである。 234 東側から見た上村橋
鵠沼橋 ( H10. 10.22 撮影 ) ()2 年架設 ) 引地川は大和市上草柳の水源地を発って約 2 0 km の旅を終えてついにここ終点 河口にたどり着き太平洋 ( 相模湾 ) へ注ぎ出る。最後の橋「鵠沼橋」に立ち河口を 眺めると江の島の全貌が真正面にシルエットのように海に浮かんで見える。 この橋は国道 134 号線の鵠沼海岸に架けられてあり交通量の多い橋である。 なお「鵠沼」は湿地が多く「鵠 ( 白鳥の古名 ) 」が飛来していたことからこの地名 が付けられたという。 くぐい 鵠沼橋から江の島と湘南海岸公園 ( 左手 ) の眺め 鵠沼橋からの上流龍宮橋側の眺め しム上」あー、 河口側から見た鵠沼橋 ( H10. 11. 16 撮影 ) 耳記念碑 ( H10. 11. 16 撮影 ) ニエア / レ 鵠沼橋の東側袂に「聶耳記念碑」がある。 聶耳は中国の国歌「義勇軍行進曲」を作 曲した人で、昭和 10 年にこの鵠沼海岸で 水泳中に不慮の死を遂げた。 その死を悼んで昭和 29 年に記念碑を建 立されたという。 243
鵠沼伏見稲荷神社 ( H10. 11.16 撮影 ) 伏見稲荷大社は奈良朝の和銅 4 年 ( 711 年 ) に深草の里の長者秦伊呂具公が勅命 により三柱の神を伊奈利山三ケ峰の平地に祀ったのが始まりという。この伊奈利 と表記された神号が稲荷となり広く使われるようになったのである。 鵠沼伏見稲荷神社は地域住民の要望により、昭和 18 年 5 月京都の伏見稲荷大社の 分霊を勧請して創建された。現在の社殿は鎮座 50 年記念事業として平成 6 年 4 月に改築されたものである。 祭神 さたひこのおおかみ うかのみたまのおおかみ 宇迦之御魂大神 ( 穀物の神様 ) 佐田彦大神 ( 開運交通安全の守護神 ) たなかのおおかみ おおみやのめのおおかみ 大宮能売大神 ( 商売繁盛の守護神 ) 田中大神 ( 稲荷山麓の里人が奉祀した神様 ) しのおおかみ 四大神 ( 秦氏一族が往古より奉祀してきた神様 ) これら五柱の神の名を稲荷大神と総称する。 龍宮橋 ( H10. 10.22 撮影 ) ( S 58 年架設 ) 鵠沼の沿岸部は鵠沼浦と呼 ばれる漁場で鰯漁が盛んで あった。したがって引地川 河口東部には「鰯干場 ( ヤ シバ ) 」という地名が残って いる。漁は地引網が主体 である。その頃に海上安 全と大漁を祈願する龍宮様が現在の龍宮橋のそばの砂丘に建立されたとの ことである。龍宮を模った橋を作り龍宮橋と名づけた所以である。 242 →、い朝 1
日の出橋 ~ 鷭詔橋 辻堂東海ロ 作橋 稲荷橋 34 公園 耳沼伏名荷神 宮橋 鵠沼松が 鵠沼松が岡 鵠沼海岸尺 丿。 1 、海岸 鶺沼桜が岡 、 i 沼藤が谷 。、。駅ク 鵠ぐコー岸 引地川河口 作橋を過ぎると川は大きく左にカープして日の出橋、稲荷橋、龍宮橋、そして 最後の橋鵠沼橋を通過するとついに 20km の旅を終えて太平洋に注ぎ出る。 そこは相模湾の一部湘南海岸公園のある海岸である。 明るい太陽の光が打ち寄せる波に反射してまぶしい。 日の出橋 ( H10. 10.22 撮影 ) ( S 60 年架設 ) 日の出橋の欄干には鳥の鋳物 が飾られている。 平和を願ってのハトをあしら ったものか、あるいは日の出を 喜ぶカモメであろうか。 西側から見た日の出橋 ( 上流側の欄干 ) 240
本願寺 ( H10. 11.16 撮影 ) 対岸の東側の山腹に往生山浄 土宗本願寺がある。本寺は戦 前戦後各 2 回にわたり山津波 により土砂で埋まるという被 害を受け、現在の本堂は 20 年 前に再建されたものとのこと である。昔、本願寺の観音堂 は現在の老人福祉センターや すらぎ荘のある場所にあり観 音像が出土したそうである。 コワ、ー 本願寺本殿 引地川橋 ( H10. 10.22 撮影 ) 国道 1 号線にあり、この先は 湘南バイバスにつながる。 高速の車が行き交う。 引地川橋 引地橋 ( H10. 10.22 撮影 ) ( S60 年架設 ) 大庭と鵠沼、羽鳥との境に この引地橋があり、 ら大庭、鵠沼、羽鳥、稲荷 の 1 番地がはじまってい 東側から見た引地橋 ( 下流側の欄干 ) 232
賀来神社 境橋の近くの江ノ電鵠沼駅から 賀来神社の由来と御神霊 かくじんじゃ 宇佐八幡宮よりの御分霊を戴き、九州大分県の賀 西へ少し行った所に賀来神社が 来荘にて貞勲 11 年 ( 869 ) より、賀来神社 ( カク ある。鳥居をくぐり階段を上ると ジンジャ ) と呼ばれてから平成 9 年までには 1128 小ぢんまりとした本殿がある。鳥 年経過しました。その後約 800 年徳川時代には三 河松平家が賀来荘の藩主となりましたが、 6 代目 居の手前左に掲示板があり、そこ の松平近涛 ( チカモト ) は、敬神の心厚く , 安永 9 に瀬戸物で作られた由来の説明 年に江戸屋敷に御分霊を祀り、社殿 , 拝殿 , 神楽堂 までを建設しました。明治時代となって畑も人家 板が掲げられている。 もない荒野の鵠沼を住宅地に開発した伊東将行 は , 賀来神社の御神霊と、旧松平家の鳥居や灯台を 文京区から鵠沼に遷座し、明治 36 年 ( 1905 ) より 賀来神社は鵠沼住民の郷社となりました。賀来神 社には仁徳天皇とその御一族、景行、成務、仲哀、 応神、仁徳の 5 朝に奉仕した武内宿禰が祀られて いましたが、徳川時代からは大国主命、塩土老翁 に稲荷神社などが加わり、家業繁盛に離厄、安産、 経済と技能に力をつける 13 柱の御神霊が鎮座さ れています。 1997 年宗教法人賀来神社 責任役員三輪梅三郎 境橋の東側にある「高野山真言宗片瀬山大聖院 泉蔵寺」である。本堂左には近代的な建築様式 の大師堂がある。また、少し離れた北の山手に 当寺が別当として管理している「岩谷不動」 ( 石籠山不動尊 ) がある。これは弘法大師が穴 居修業した所で、元禄 8 年片瀬に生まれた快祐 上人が石籠山救法教寺を開き不動尊を安置し たといわれている。祠 ( 巌窟 ) は建物の内と外 にあり、境内の広場には沢山の灯篭が立ち並び 夜も明るいという。 賀来神社の入口 ( H11. 5.31 撮影 ) 泉蔵寺 ま 4 泉蔵寺本堂 ( H11. 5.31 撮影 ) 外の祠祠前の広場には寄贈され 建物の中の祠に安置され た灯篭が二十数基立てられている ている不動明王 道案内の標柱 163
ー引地川は最後の橋「鵠沼橋」の下をくぐり抜け相模湾と流れ出 る。鵠沼橋に立ち河口を眺めると、キラキラと光る海原の向う正面に江ノ島がシル 工ットの如く浮かんで見える。 右手には湘南海岸公園がひろがる。この海岸付近では、カモメが群れをなして飛び 交い、また夏を過ぎたこの時期でもサーフィンを楽しむ若者たちで賑わっている。 ニエアノレ 橋のたもとに「聶耳記念碑」がある。聶耳は中国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲家 で、昭和 10 年ここ鵠沼海岸で水泳中に不慮の死を遂げた。 共産党弾圧のため釧路刑務所に投獄されていた福本和夫が戦後解放され藤沢の地 ( 西富 ) で大著「日本ルネッサンス史論」を完成した。その福本の提案によりこの 記念碑が昭和 29 年に建立されたとのことである。 川は一見無言で静かに流れているように見えるが、饒舌で色々と話しかけているよ うでもある。昔話、人々の生活、喜怒哀楽、動植物との係わり合い、人間の優しさ と身勝手さ、四季折々の変化などあらゆることを知り尽くしていながら、しかし何 も無かったかのように、良いことも悪いことも全てを飲みこんで流してくれている のだ。川岸に腰を下ろし川面を眺めているとふとそんな思いにかられるのである。 そして、横井弘作詞、桜田誠一作曲の「川は流れる」を無意識に口ずさんでいた。 「川は流れる」 わくら葉を今日も浮かべてまちのたに川は流れる ささやかなのぞみやぶれて悲しみにそまる瞳に たそがれの水のまぶしさ 思い出の橋のたもとに ある人は心冷たく 吹き抜ける風に泣いてる ともしびも薄い谷間を 人の世の塵にまみれて 嘆くまい明日は明るく さびついた夢の数々 ある人は好きで別れて 一筋に川は流れる なお生きる水をみつめて 183
引地川の河口 ( 鵠沼海岸 ) 煢ロ 河口付近でサーフィンを楽しむ若者達 早朝河口近くで憩うかもめ達 ( 日 10.10.22 撮影 ) 244
弓ー土也丿日 179 ~ 244 宗賢院、高名橋 高山橋、普門寺 引地川を訪ねて 引地川流域全体図 引地川水源地 ( 泉の滝 ) 水源地のしくみ 泉の森 泉の滝、森のはらつば 緑のかけ橋、笹山高架橋、 ・・・ 181 ・・・ 184 ・・・ 185 ・・・ 186 187 188 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 189 ・・・ 190 190 206 207 208 209 210 211 ・・・ 187 ~ 189 ・・・ 194 ~ 198 ・・・ 191 ~ 193 永明寺、熊野橋、熊野社 六会橋、下土棚大橋 中村橋、善然寺、白山神社 上河内橋、湘南台橋 柳橋 ~ 山田橋 柳橋 円行大橋、円行新橋、馬渡橋 亀井神社、桐原公園、諏訪神社 東山田橋、山田橋 石川橋 ~ 引地橋 石川橋 ・・・ 216 ~ 219 ・・・ 220 ~ 233 しらかし広場、しらかしの家 上草柳 2 号橋、上草柳 4 号橋 ふれあいの森 東ヶ里ふれあい橋、熊野神社、 草柳 2 号橋 ~ 下山王橋 草柳 3 号橋 六軒支線 1 号橋、山神社 下草柳橋 下草柳橋 ~ 草柳 3 号橋 ふれあい広場 佐波神社、自性院、天神社、山王社 横浜水道引地川水道橋、大庭鷹匠橋 天神橋、大庭神社 大庭城址公園 舟地蔵、舟地蔵公園 城下橋、関下橋、大庭神社旧跡 臺谷戸稲荷のタブノキ、大庭大橋 柏山橋、柏山公園、柏山稲荷神社 本願寺、引地川橋、引地橋 草柳 2 号橋、草柳 6 号橋、草柳 -- ー一号橋 草柳橋、木下さくら橋 やまと冒険の森、境橋 引地台公園、福田一号橋 山王橋、下山王橋 御嶽橋 ~ 八幡橋 御嶽橋 御嶽山公園と御嶽山神社 山下橋、新道下大橋 本八幡橋、八幡橋 田中八幡宮、鬼子母神 福田 5 号喬 ~ 福田 13 号喬 福田 5 号橋 福田 6 号橋、福田 14 号橋、 福田 8 号橋、神明橋、若宮橋 常泉寺 神明神社、若宮八幡宮、 福田 10 号橋、福田 11 号橋 蓮慶寺 山王社、福田橋、福田 13 号橋 長後橋 ~ 湘南台橋 長後橋 天満宮 ・・・ 199 ~ 203 ・・・ 204 ~ 209 ・・・ 210 ~ 215 養命寺 上村橋 ~ 作橋 上村橋 清水橋、富士見橋 万福寺、烏森皇大神宮 引地川の河口 ( 鵠沼海岸 ) 鵠沼橋、聶耳記念碑 鵠沼伏見稲荷神社、龍宮橋 稲荷橋 日の出橋 日の出橋 ~ 鵠沼橋 大平橋、作橋 長久保公園、長久保緑橋 ・・・ 234 ~ 239 ・・・ 240 ~ 243 212 213 214 215 216 217 218 219 221 222 223 224 225 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 ・・・ 244 おわりに 索引 ・・・境川索引 ・・・引地川索引 ・・・ 245 ー 1 ~ 5 -1 ~ 2 6