り絵画作品 - みる会図書館


検索対象: 西洋名画を読み解く
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1. 西洋名画を読み解く

レオナルドよりややのちのジョルジ ョ・ヴァザーリ ( 一五一一ー七四年 ) は、 その著書「美術家伝」の中で、レオナル ぼうだい トの十数点の絵画作品に触れて、厖大な 量の手稿、書簡、素画に比べて、完成作 品は極めて少数であったと述べている その十数点の作品とは、種々の間題は あるが、徒弟時代に師事したアンドレ ア・デル・ヴェロッキョ ( 一四三六 八八年 ) およびその工房の兄弟弟子達と の共作とされる《キリストの洗礼》以下、 《受胎告知》、《ジネヴラ・デ・べンチの 肖像》、《聖ヒェロニムス》、《東方三博士 の礼拝》、《最後の晩餐》、一一点の《岩窟 の聖母》、《聖アンナと聖母子》、《モナ・ リザ ( ラ・ジョコンド ) 》、および《洗礼者 ヨハネ》などが挙げられ、現存する素描 から考えられる未完の作品数点を加えて も、彼はまさに寡作の画家であったこと が知られる レオナルドは、イタリア・ルネサンス年代、チンクエチェント ) と展開する まず、Ⅱ世紀トレチェントでは、中世の の後期に属し、ミケランジェロ ( 一四七五 ー一五六四年 ) より十数歳年上で、それ象徴的な作風の時代を越えて、自然に学 ぞれフィレンツェ、ミラノ、ローマを舞び、自然を手本として美術作品を制作し た時期、次いで世紀クワットロチェン 台に活躍した。 前記ヴァザーリはミケランジェロを トでは、自然を誤りなく正確に写しとり、 監修 / 裾分一弘 ( 学習院大学名誉教授 ) 1924 年、岡山県生まれ。美術史家。九州大学文学部美学・美術史科大学院中退。学習院大学助教授、教授を 天才ではなく努力の人だった 経て、 1995 年同大学名義授。レオナルドが遺した現存する約 8000 枚の手稿のファクシミリ版 ( レプリ カ版 ) を、生涯をかけてすべて収集し、世なレオナルド研究家として知られる。に「もっと知りたいレオ ナルド・ダ・ヴィンチ」 ( 泉美術 ) 、「レオナルドに会う日一 ( 中央公論夫術出版 ) など多数。 レオナルドの作品を読む 例えば、彼の後期の名作《モナ・リザ》 その写実は自然と競い合うまでに上達し 自然を超越した優美な表現の「神の如き」と讃え、またレオナルドを は、現実の女性をモデルに扱ってはいて た時期、さらに第三の世紀チンクエチ 「万能の才人」と記している 探求か作品制作の目的だった エントでは、美術家の描写力は自然を越も、作品としては現実を微妙に越えた表 イタリア・ルネサンスの美術の歴史は、 世紀 ( 略して三〇〇年代、即ちトレチ え、創造的な段階にまで達している。レ情で描かれている。レオナルドはこの表 オナルドは、まさにこの第一二の段階の人現を「美 ( べレツツア ) 」とは呼ばない エント ) に始まり、世紀 ( 四〇〇年代、 で「優美 ( グラツィア ) 」と表示し、自 り口に属す クワットロチェント ) 、世紀 ( 五〇〇 らの作風が自然を越えた表現であるとの @Bュ dge ョ a コ、、アフロ 自覚に達している。自然を越えた芸術表 現が、彼の探求している絵画制作、つま り絵画作品の基本であり、またその目的 でもあった。《モナ・リザ》より数年早 い時期の《聖アンナと聖母子》、および そのカルトーネ ( 画稿 ) も同様の作風で ある 今日に遺されているレオナルドの厖大 な手稿、素描、素画には、自らの制作意 図に向けて歩み続けた地道な努力、悪戦、 苦闘のあとが到る処に見えている レオナルドの比較的後期に属す手稿 「マドリッド手稿二」 ( 一五〇三ー五年頃 ) のある紙葉で彼は、 「聖アンドレアの夜 ( 十一月三〇日 ) 、 かはおさ 私は遂に円の面積の求め方を理解した。 ン年と齢記 ローソクの光も夜も、記入していた紙も るて年と ヴ期劇 ほば尽きるころ、時間ぎりぎりに私は結 、々 . 象そ象い肖 論を得た」 とのメモを遺している。地道な努力の ド彼辺身。ョれ ナ 、下自るチ 2 豺自い 3 赤ム人、レオナルドの実像を示すさりげない 《のレ証らなけれト 記人である 7

2. 西洋名画を読み解く

15 0 2 、 16 年頃一、歳頃 聖アンナと聖母子 十数年の歳月をかけて構想した 大胆かっ不思議な構図の聖母子像 《聖アンナと聖母子》 1502 ~ 16 年頃 聖母の母アンナと聖母子の親子三代を 描いたレオナルド晩年の傑作。人物の 身体と視線カ各み合う構図カ叫芋勺で、 暗示的な作風から、ときに心理勺解 釈も行われる。 板、油彩 168X130Cm パリ、ルーヴル美術館 ーⅱ dg 日 1 旧 n / アフロ 《聖アンナと聖母子》は、晩年のレオナ ルドが長い時間をかけて構想した作品 だ。最 , 初のきっかけは 1499 年・、フラ ンス国王ルイ世が娘の誕生を祝うため に行った注文であったと考えられている 聖母マリアの母アンナは、彼女自身も無 原罪の状態でマリアを身ごもったと言わ れ、妊婦の守護聖人とされる。またアン ナは、フランス王妃の名前でもあった。 だが、レオナルドが、完成作を国王に収 めることはなかった。 3 作描かれた作品 のうち、現在ロンドンにある最初の画稿 は油彩画にされることはなく、 1501 年にフィレンツェで公開されて好評を得 たとされる下絵は失われてしまった。こ の作品は、その後、レオナルドが構図や 人物の配置の研究を重ねて描き続け、フ ランスまで携えていった油彩画である 「この絵の構図は極めて大胆です。アン ナの膝の上にマリアが座り、マリアはイ エスを抱きかかえようとしている。一方、 イエスは受難の象徴である子羊を抱えよ うとしていますから、マリアはそんな 子を危険から守ろうとしているようにも 見えます。聖母子は互いに見つめ合い その聖母子をアンナが優しく見守ってい る。かっての《岩窟の聖母》にも視線の 交錯がありましたが、ここではアンナを 構図の中心軸として幾層にも重なり、絡 み合うように描かれた人物たちが、こう した視線の結びつきにより一体化してい 重なる身体と視線の交錯が 生む親子三代の緊密感 2 3

3. 西洋名画を読み解く

祭壇 キリスト教の内陣に安置された、 ミサ聖祭の行われる台のこと。祭壇画 はこの背後に置かれたり、別の台に置 かれて、祭壇を飾る。 て上段中央には聖母マリアと洗礼者ョ グリューネヴァルトの《ィーゼンハ き観世が ミサの雰囲気を盛り上ける ハネにはさまれた父なる神 ( キリストと イムの祭壇画》 ( 圏 ) や、カンビンの ための装置たった祭壇画 ンなこの のダブルイメージ ) を描いたこの祭壇画 《メロードの祭壇画》 ( 西など、キリ 頃フぼ。 もうひとつ、キリスト教美術で欠かスト教美術を代表する祭壇画はいくつは、当時描かれ始めた油絵の技法を駆 せないのは祭壇画だ教会内陣に安置もあるが、その中でも、ひときわ輝き使した徹底的なリアリズムで、観る者を をか フされる、宗教的な画題を描いた板絵をを放っているのが、北方ルネサンスのを圧倒する諸川先生でさえ「世紀 ク祭多ハ裏 何枚も連ねたこの祭壇飾りは、ミサの画家ファン・イク兄弟が描いた、《ゲの祈りの世界 ( と、完全にトリ「プし てしまった」というこの作品は、当時 ルラとン時にパネルを開いて中の絵が公開されントの祭壇画》だ。下段にはキリスト る。いわば、ミサの雰囲気を演出する荘の復活の象徴である仔羊とその礼拝者、の人々に、キリスト教への強烈な畏怖 ンンフでギ - 閉るトö アケ . のいレネをれン と信仰の念を呼び起こした。 上段の両脇にはアダムとエヴァ、そし フ「兄継 2 紀画現ゲ厳な装置ということができるだろう

4. 西洋名画を読み解く

[ レオナルド・ダ・ヴィンチの作品と生涯 ] 1 2 年 0 歳 4 月 1 5 日、フィレンツェ近郊のヴィンチ村で、公 証人の父、セル・ピエロの庶子として誕生。母、 カテリーナは間もなく他家へ嫁ぎ、村の祖父母 の家、または父と義母のもとで育つ。 房に弟子入りか。 1472 年 20 歳 聖ルカ画家組合に登 録。この頃ヴェロッキョ の《キリストの洗礼》の 天使像 0 や、《受胎告 知》 6 を手がける。 年記と署名入りの最初期の作品《風景の習作》を描く。 1473 年 21 歳 1474 年 22 歳 《ジネヴラ・デ・べンチの肖像》に着手か ( 1478 年頃 ー制作説もある ) 。 1475 年 23 歳 後にライバルとなるミケランジェロ誕生。 1476 年 24 歳 男色行為の嫌疑で告発されるが無罪となる。 1478 年 26 歳 2 点の聖母子像に着手。 パッツィ家の陰謀事件で絞首刑にされた首謀者の、 1479 年 27 歳 姿をスケッチする。この頃、ヴェロッキョ工房から独 立か 6 この頃、 ( 聖ヒ工ロニムス》 6 に着手 9 14 年 28 歳 1 年四歳 サン・ドナート・ア・スコペート修道院のために〈東方 三博士の礼拝》 9 に着手。 1 2 年歳 この頃、《東方三博士の礼拝》を未完で残したまま、 ミラノに移住し、ルドヴィーコ・スフォルツアの宮廷に 召し抱えられる。この頃から手稿を書き始める。 1 3 年 31 歳 「無原罪のお宿り」同信会より祭壇画の依頼を受ける。ミラノの 画家デ・プレディス兄弟が共同制作者となり、レオナルドは中央の 《岩窟の聖母》目 ( ルーヴル蔵 ) を制作。この年、後にレオナルド を崇拝するラファ工ルロ誕生。 1 5 年 33 歳 皆既日食を観察する。ミラノでベストが蔓延、 3 年ほど続く。この 頃、巨大騎馬像 ( スフォルツア騎馬像》の構想を開始か。 1 7 年 35 歳 ミラノ大聖堂のティブーリオ ( 円蓋を覆う塔 ) の設計に着手。この 頃の手稿に、幾何学的に整った「理想都市」を構想する素描や、 飛行に関する素描が見られる。 14 年 37 歳ー ~ 頭蓋骨に関する考察を行う。この頃から「解剖手稿」を「人体に ついて」の書物としてまとめる構想を抱いていた。 14 年歳 ミラノ宮廷の祝賀劇「天国」の舞台美術を制作。 主に光の性質を探究する手稿を書き始める。パヴ ィアを訪れ、パヴィア大聖堂の再建に協力。いさ さか手癖の悪い少年サライを召使い兼弟子にする。 この頃、ルドヴィーコの愛妾チェチリア・ガッレラー ニの肖像とされる《白貂を抱く貴婦人》を制作。ま た、人体比例を研究した素描《ウイトルウイウス的 人体》を描く。 1491 年歳 ルドヴィーコの婚礼の祝祭劇「ダナ工」を演出。 1492 年歳 ロンバルディア地方のコモ湖周辺を旅行。 1493 年 41 歳 くスフォルツア騎馬像》の原寸大粘土模型制作。手稿に「カテリ ーナが来た」 ( 実母との推測もある ) と記載。 14 年 42 歳 ルドヴィーコ、《スフォルツア騎馬像》制作のためのプロンズを大 砲製造用として、戦時下にあらた義父に贈る。これによ広騎 馬像制作計画が中断する。 14 年 43 歳 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道 院のためにく最後の晩餐》 6 制作開 始。カテリーナ死去。 14 % 年鬨歳 数学者ルカ・パチョーリと親交を結ぶ。 スフォルツア城内の室内装飾に携わ る。 14 年歳 《最後の晩餐》がほぼ完成する。この頃、ルドヴィーコより、ミラ ノ市壁の外にある葡萄園つきの土地を贈られる。レオナルドはこ れを「庭」と呼んでいた。スフォルツア城アッセの間の天井装飾を 手がける。 14 年 47 歳 フランスのミラノ優攻により、年末か翌年早々ミラノを脱出。〈ス フォルツア騎馬像》の粘土模型が仏軍兵士により破壊される。 15m 年歳 マントヴァの侯欝夫人イザベッラ・デステの宮 廷に滞在し、彼女の肖像素描を描く。イザベ ッラからは後にたびたび制作依頼を受けること になる。ヴェネッィアに滞在し、トルコ軍に対 する防衛施設強化に関する報告書を作成。 4 月、フィレンツェへ帰還。この頓、《聖アンナ と聖母子》の画稿 ( ロンドン、ナショナル・ギャラ リー蔵 ) 制作か ( 制作年は諸説ある ) 。 1 年 49 歳 現在は失われた《聖アンナと聖母子》の下絵をフィレンツェで公開 し好評を博す。 1502 年聞歳 教皇軍の総司令官チェーサレ・ポルジアに仕え、建築家兼土木 技師として各地に随行。ポルジアの宮廷が置かれたイーモラなど で正確な測量に基づく地図を作成する。この頃より、《聖アンナ と聖母子》 ( ルーヴル蔵 ) の構想に着手か ( 油彩画の制作自体 は 1510 年頃とする説がある ) 。 1 3 年 51 歳 ポルジアのもとを離れ、フィレンツェ政府のために 軍事機器や要塞の設計を行なう。フィレンツェの ピサ包囲にともない、アルノ川の迂回路計画を立 てる。オスマン・トルコのスルタンに、ポスポラス 海峡にかける橋の提案書を送る。フィレンツェ政 庁より《アンギアーリの戦い》の壁画制作の依頼 を受ける。後に政庁は、向かいの壁面の壁画制作をミケランジェ 口に依頼することになる。この頃、《モナ・リザ》 0 に着手か。 父セル・ピエロ死去。父はレオナルドに遺産を残さなかった。 ( ア 15 年 52 歳 ンギアーリの戦い》の制作準備に追われる。この頃、現在は行 方不明の作品《レダと白鳥》の構想に着手か。 〈ァンギアーリの戦い》の壁画彩色に着手。だが、この作品は 15 年 53 歳 未完に終わった。′ 長く続いた〈岩窟の聖母》の訴訟が終結。フランス総督シャルル・ 15 聞年歳 ダンボワーズ 2 世の招きで再びミラノに赴く。レオナルドの熱烈な パトロンとなったダンボワーズより、ミラノ郊外の邸宅と庭の設計 を依頼される。 1 7 年 55 歳 ミラノで、ルイ 12 世の宮廷画家兼技師に任命される。貴族の 子息メルツィを弟子にとる。献身的な弟子メルツィは後にレオナル ドの遺産相続人の一人となり、レオナルドの手稿から一絵画論」を まとめることになる。親しかった叔父フランチェスコよリ全遺産を贈 られるが、これが異母弟たちとの間に紛争を招く。 この頃までに、《岩窟の聖母》 3 の第 2 ヴァージョン广 15 年聞歳 ( ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵 ) 完成か。フラ ンス軍の傭兵隊長の依頼により、仆リヴルツイオ - 一騎馬像》のための習作を手がける。 幾何学と数学の問題に打ち込む。 15 年 57 歳 1510 年歳 パヴィア大学の解剖学者マルカントニオ・デッラ・トッ レと共に、解剖学研究に打ち込む。 アルプス旅行。 12 月、ミラノで政愛が起き、一時メルツィの父 1511 年 59 歳 の別荘に身を寄せる。 ミケランジェロ、ヴァチカンの《システィーナ礼拝堂天井画》を完 1512 年聞歳 成させる。 1513 年 61 歳 ローマに赴き、教皇レオ 10 世の弟ジュリアーノ・デ・メディチに仕 える。ジュリアーノより、ヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿内に仕 事場を与えられる。この頃、最後の油彩作品とされる〈洗礼者ヨ ハネ》住に着手。 この頃、大洪水の素描を描く。 1514 年歳 ミラノを再征服したフランス王フランソワ 1 世への贈 1515 年歳 り物として、メディチ家の依頼で、機械仕掛けの ライオンを制作。 ジュリアーノ死去。フランソワ 1 世の招きでフランスのアンボワー 1516 年歳 ズへ赴く。「王の画家」として厚遇される。 ルイジ・ダラゴーナ枢機郷の訪問を受ける。このときの証言から、 1517 年歳 晩年のレオナルドが 3 点の絵を手元に残していたことが知られる。 フランソワ 1 世のため、宮殿建設の計画に携わる。 かって舞台美術を手がけた「天国」を自邸クルーの館で再演。 1518 年聞歳 5 月 2 日、アンボワーズのクルーの館で死去。享年 67 歳。 1519 年 67 歳 ウインチ村 マントウア・↓ウエネッィア↓フィレンツェ フィレンツェ ミ一フノ ローマ アンホワース 9

5. 西洋名画を読み解く

もうひとつの《聖アンナと聖母子》 《聖アンナと聖母子》は 2 点現存する。もう 1 点はロンドンにある画高だ。構成は似てい るが、画高では、子羊のかわりに洗礼者ヨハネが描かれ、核となるアンナの姿も違う。 アンナと聖母の顔カ洞じ高さに並ぶ高では、三角幵身満図の安定感に欠ける面もある。 06 ュ品コ円くアフロ 聖アンナの目線 優しく見守るう彡に対し、 画稿の方は何かを諭すよ うな強い視線を送る。 聖母の表情 共に優しい表情だが、油 彩の聖母はイエスを案じ てか、より憂いを含む。 アンナの左手 画高のアンナは指を立て、 天を示す。イエスの役割 を示しているのだろうか。 ヨハネが子羊に 大きな違いは洗礼者ヨハ ネが子羊になった点。イ 、、一 = ェスの位置も違。ている。 ロンドン、ナショナル・ギャラリー版 ルーヴル版より以前に描かれた画稿 原寸下絵と考えられるが↓写し取って本画を描いた 痕跡は認められない。旧所蔵家名にちなみ、「バー リントン画高」とも呼ばれている。 ロンドン、ナショナル・ギャラリー @Bュ品也1ミくアフロ 三角形の中に 人物が収まる 安定した構図 聖母が母親の膝の上に座るとい う、無理な姿勢の大胆な翩内だ が、画面を自然に見せている理 由の一つが、構図の安定感だ。 アンナを軸とした三角形の中に、 聖母、イエス、羊のすべてが収 まっている。 ます。それによって、聖アンナから聖母 へ、そしてさらにイエスへと続く宗教的 受肉の系譜の概念を、目に見えるかたち で表わしているのです」 ( 裾分先生 ) もちろん構図以外にも、この絵の見ど ころは多い。 背景はレオナルドに特有の 岩山と水辺。空気の薄いべールに包まれ たように青く霞む景色は、おなじみの空 気遠近法とともに、彼が地質学や気象学 への探究をさらに進めていたことを表わ している。この作品以前に描かれた現存 の画稿との比較からは、レオナルドが何 を目指していたのかが推察できるかもし れない晩年のレオナルドは、いまだ飽 くなき探究の道の途中にいたのである 《聖アンナと聖母子》 のための習作 1501 ~ 1510 年頃 紙、ペン、インク、黒チョー ク 121 x 1 ヴェネッ ィア、アカデミア美術館 登場人物の 位置関係に悩んだ習作素描 ルーヴル版の習作素描。画高と比べると、構成はか なり近い。だが、アンナの顔の位置などが未で、 試行錯誤の様子がうかがえる。さらにう彡では、イ 工スがマリアの膝から降りることになる。

6. 西洋名画を読み解く

鑑賞のポイントー バンドラの象徴の 「壺」から「箱」への変化 宗教改革者工ラスムスが、ギリシ 殪 ( ピトス ) を、小さし蒴を 表す ) に尺してしまったこ とから「箱」として広まった、禍 を納めた入れ枷 . しかしこの中 身が彼女の魅力の源泉になってい るという事実は変わることはない。 シュール・ショゼフ・ルフェーヴル《パンドラ》 油彩・画布 1882 年個人蔵 ゼウスが用意した宿命 厄災をその手に握った美女の肖像 置かれた壺には善が入っているといわれ ていますが、蓋はしまったまま。原罪と 過誤を女性に押しつけているともいえる この作品は、ジェンダー美術史では女性 蔑視のシンポル的な存在です」 炻世紀に盛んに描かれたパンドラが、 再び絵画の主題として脚光を浴びるのは、 1 世紀になってからのこと。 「近代化の中で、様々な社会問題が表面 貧富の差や犯罪の多発化など、新し い災いが顕在化するにともない、男性に 不幸をもたらす女性像、フアムファター ルが盛んに描かれ、神話世界の代表とし て、パンドラが選ばれたのでしよう」 と井出教授はその理由を説明する 「フランスのジュール・ジョセフ・ルフ エープルの作品では、パンドラは少女の ようなイノセントな体つきで描かれ、何 も知らない美少女が禁断のを弄んでい る様子が詩情豊かに表現されています イギリスのジョン・ウィリアムス・ウォ ータハウスの作品では、開けてはいけな ン頃館ロ い禁断のを逡巡しながらも遂には開け ド年術フ レ美ア てしまうパンドラの姿が幻想的に描かれ ています。いずれの作品も、罪の意識を ロ布リ イ画 一感じていない女性が、知らず知らずのう デ彩トØ オ油メ◎ ちに不幸の種を蒔いてしまう、というよ うなある種逆説的な女性の魅力が巧みに 表現されているといえましよう」 ゼウスによってあらゆる美を与えられ たパンドラは、四世紀の画家によって無 垢の魅力を演出されたことで、さらに危 険な薫りを漂わるフアムファタールとし て昇華されたのだ。 125

7. 西洋名画を読み解く

, 世界で最も有名な芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチは「ルネサンスの巨人」「万能の天才」と称される 0 第 ~ しかし ~ その陰には常に努力レ、苦悩し続けた人間の姿かあった。彼か私たちに遺したものは何たったのか 作な絵画作品と大量に遺した手稿 ( デッサイノート ) を紐ときながら、レオナルトの素顔に迫る「ツ犇お氓 一 ) を気を文第年山ゆか新叩 レオナルド・ダ・ヴィン 全作品に隠された一 ~ 暗号を解く ーサ、イン 孤高の天才か作品に記録した象徴と 万物を研究したもうひとつの遺産

8. 西洋名画を読み解く

ロンドン、ナショナル・ギャラリー版 《岩窟の聖母》 1491 ~ 1508 年頃 ルーヴルの〈岩窟の聖母》とほぼ同寸、剛図の 作品。どちらがオリジナルかカ ~ を呼んだが、 現在は、こちらがコピー作品で、レオナルドの キ酎軍のもと、前作の共同野乍者だったプレディ スが描いたとされている。祭壇画のため、天使 を描いた両翼がっし、ている。 板、う彡 189.5X120Cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー 日 1 / アフロ きつけられるのです」 ( 裾分先生 ) 確かにこの聖なる空間に集まる人物た ちの微妙な視線や手の表情は謎めき、見 飽きることがない印象的なのは、天使 が画面の外にいる私たちに視線を向けな がら、向かいの幼子を指さしていること だ。幼子は一一人おり、聖母が支えている ことから、一瞬、この左の子がイエスか と錯覚するが、実はこちらが後にイエス に洗礼を施す聖ヨハネ。指さす天使は、 このヨハネに注目するよう、私たちの注 意をうながしているのかもしれない。一 方、聖母はヨハネを守ると同時に、左手 をイエスの頭上にかざす。教会の屋根の ように我が子イエスを庇護しているとも いうのだが、それにしてもなぜ彼女は我 が子と距離を置いているのだろうか 精緻な表現のなかの謎ーーーそれがレオ ナルドの絵の特徴とも言えるが、実はこ の絵には大きな謎がもうひとつある 「それはほば同じ絵が 2 点あることです 2 点とも同じ形で、ほぼ同寸、同構図の ため、どちらがオリジナルかという議論 が長く交わされてきました。報酬を巡る 訴訟があり、文書記録は残っていますが、 その内容が矛盾するため、さらに議論は 紛糾しています。わかっているのは、現 在ルーヴルにある絵がレオナルドの描い た第一作目、もう一点のロンドンにある 絵が第一一作ということです」 第一一作はレオナルドの指揮のもと、主 にプレディスが制作したコピー作品とさ れるのだが、では、絵はなぜ 2 点つくら れ、そして両者はどこが違うのだろうか

9. 西洋名画を読み解く

修復で浮かび 上がってきた絵柄 過去の加筆を除去する修復により、人物の表情や卓上の 品々が生き生きと甦った。テーカレクロスの模様まで精 織に描かれていたことやこ壁画上部の紋章入り装飾もレ オナルド作だったことカ痒怛月するなど、新発見も多い。 大な瞬間の緊張が、観る者に生き生きと 《最後の晩餐》は、すでにレオナルド の生前から損傷が始まっていた。通常の 伝わってきます」 ( 裾分先生 ) この絵についてはまた、レオナルドの壁画は、フレスコ画手法を用い、塗らし 制作ぶりを知ることのできる重要な証言 た漆喰の上に絵を描き、漆喰の乾燥とと もに絵の具を定着させる。だが短時間で があるそれによれば、彼は夜明けから 日没まで一度も絵筆を置くことなく、寝仕上げる必要があり、定着後は修正でき ないこの手法を嫌った彼は、自身の科学 食を忘れて打ち込む日があったかと思え ば、何日もまったく絵筆をとらずに作品 的な研究に基づき、油性テンペラという の前で何時間も考えていることもあり、 技法を用いた。その結果、充分に固着し また突然の衝動に駆られたように修道院なかった絵の具が剥落を招き、その後の にやってきて、画面に一筆か一一筆入れる度重なる修復・加筆と第一一次大戦の影響 と、また去っていくこともあったという などもあって、絵のオリジナル部分をほ レオナルドは寡作で知られる画家だが、 とんど見えなくさせてしまったのだ。だ また遅筆でもあった。構想にも時間をか が、世紀末の跚年に及ぶ修復によって、 けたが、制作にも熟考を重ね、一筆一筆加筆部分が除去され、レオナルドの制作 絵の具を丹念に塗り重ねて、独自の濃密時の状態にかなり戻ったと言われてい な画面を生み出した。そんな制作態度が る。幻世紀の私たちは、甦ったイエスや うかがえる興味深い証言だが、この壁画弟子たちの表情や、テープルの上に配さ に関しては、その手法が作品保存の問題れたパンや葡萄酒の描写の美しさなどを 目にすることが可能となったのである を生じさせたのも事実のようだ。 食卓の料理は 魚の切り身 魚は、晩餐図ではイエス の受難を象徴する。レオ ナルドは、その魚を切り 身に料理し、風味づけに - レモンかオレンジまで添 , キえていた。 壁のタベストリー は花柄たった フックの絵があったこと から、タベストリーと判 明。表面は別の絵柄で塗 り込められていたが、そ ーの一枚から色とりどりの 花幸羨が発見された。 習作から、構図を 試行錯誤したあとがうかがえる イタリアの伝勺構図は、弟子を一列に並べながらも、裏切り 者のユダだけはテーカレの反文報に置くものだ。習作から、当 初はその構図か踏襲されていたことがわかる。イ走の名前が書 き込まれており、本画の使徒名半断の参考となった。 《最後の晩餐》の習作 1495 ~ 97 年 紙、赤チョーク 26X39Cm ヴェネッィア、アカデミア美術館 イユ 工ダ スの / ーれネ か イエスのこめかみを 中心点にした構図 厳格な線遠遍去で描かれた画面。 中央で正三角形をつくるイエス の姿は、聖三位一体を表わすと , を ' ッこ もいう。修復の結果、イエスの こめかみに釘跡がみつかり、 こから紐を伸ばして作図が行わ れていたことカ痒用した。 ヨ / 、ネ Oa れ 0Ph60 S25 ) 8

10. 西洋名画を読み解く

ミ上コ宀二一“お ~ C 0 N T E N T S タ・ヴィンチ、キリスト教絵画、ギリシア神話・裸婦像の見方が分かるー 西洋名画を読み解く 6 レオナルド・ダ・ヴィンチ 全作品に隠された暗号を解く 優れた素描力と緻密な描写カ 若き巨匠の清新なデビュー作 受胎告知 注文主の謎かいまた残る レオナルド最初期の肖像画 ジネヴラ・デ・べンチの肖像 聖人の魂の叫ひが胸を打っ 数奇な運命をたどった未完の絵画 聖ヒェロニムス 東方三博士のネ拝なに残した未完の大作 同じ絵柄の 2 枚の絵が謎を呼ぶ 聖なる空間の神秘なる聖母子像 岩窟の聖母 加世紀末の大修復により甦った レオナルドの探究と構想の集大成 最後の晩餐 神秘の微笑みを浮かべる謎の女性の モナ・リサ ( ラ・ジョコンド ) 世界中で最も有名な肖像画 十数年の歳月をかけて構想した 大胆かっ不思議な構図の聖母子像 聖アンナと聖母子 先礼者ヨハ、イレオナルド最後の作品 万物を研究するダ・ヴィンチの 」もうひとつの遺産「手稿」 ・解剖学・人体比例研究 ・建築学・都市計画 ・航空力学・天文学 ・軍事技術・水力学と流体力学