による労働生産性の増加による。 いずれにせよ、「外生的要因」なのです。こうした要因が外から作用すれば成長が生 じる。労働人口の増加は、いま考慮の外におきましよう。そこで、企業家が新しい技術 や製品のイノベーションを起こす。その結果、労働生産性が上昇する。従来よりも効率 的に生産ができる。そのことによって成長が可能になる。いや、可能になる、というよ 、外生的に成長が生み出されてしまうのです。 こういう説明になる。だから、市場経済そのものは、経済成長とは何の関係もありま せん。市場経済のなかに成長を生み出す何かがあるわけではないのです。市場経済の側 からいえば、成長とは、ただただ、供給がそのつど増加しているだけのことで、価格メ カニズムが作用しさえすれば、市場はうまくゆく、というだけのことです。 だから、市場経済学のテキストブックには資本主義という概念はでてこない。資本主 義とは、まさに成長を第一義とするシステムだからです。「市場経済」と「資本主義」 とはまったく異なった概念なのです。 資本主義とは成長のシステムだといいました。ここで改めてそのことの意味をもう少 し考えておきましよう。資本主義とは何か。それはまずは「資本」の無限増殖の運動で 186
スの個人的な経験と妄想の産物に過ぎない。 ではアメリカの自由市場体制はどうか。これは「理論的」に正しいことが論証できる。 これを支える市場理論は「科学ーであって、イデオロギーではない。したがって、西側 の自由市場体制は「正しい」のであって、社会主義は「誤り」である。これが当時のア メリカの主張だったのです。 では、市場経済理論が「科学」である、という確証を与えるものは何か。それはすべ てを数学で表現することだったのです。もちろん、統計数字によって検証する、といっ たこともあります。しかし、「理論的」に正しい、というもっとも日白な証拠は数学で ということだった。 表現されて 論理の奴隷になってゆく 確かに数学は中立的で論理的です。スシの好きな人にもステーキの好きな人にも同じ ように作用します。左に頭がねじれた人も右にねじれた人も受け人れるほかありません。 かくて、「市場競争経済はうまくゆく」ことを数学的に論証すれば、これは誰もが受け 人れるほかない。
もちろん、「市場経済はうまくいかないーと考えている人もいます。しかしこうなる と、彼らも、そのことを数学的に証明しなければならなくなってしまったのです。一般 的にいえば、「市場はうまくゆく」という方が数学化しやすい。どうしてかというと、 「市場はうまくゆく」というのは、人々の合理的行動の結果、市場が「均衡」する、と いうことです。一方、「うまくゆかない」というのは「不均衡」だということです。そ して、数学のロジックは、どうしても「均衡ーの方を扱いやすいからです。「不均衡」 のときに何が生じるのかをロジカルに記述するのは難しいのです。 しかし、それでも当時「不均衡理論」と呼ばれるような理論がでてきました。私も院 傲生のときにまず関心をもったのは、この「不均衡の数理経済学」でした。 学しかし、こうなると問題は、もう、均衡か不均衡か、などということではないのです。 経どうやってうまく数学で表現するかという、その技法になってくるのです。その技法を 学ぶために多大の時間を数学の学習に費やすことになるのです。 ア しかも、ほんの少しの仮定を変えただけで、市場はうまくいったり、おかしくなった 八りする。数学的に重要だとしても、ほとんど経済学的にどうでもよいような仮定をどう おくかで、結果が大きく左右される。それどころか、経済学の上からすれば、ほとんど
しかも戦後の年ほどは、福祉政策やケインズ主義によって政府による市場への介人 政策が行われた時期であり、年代以降は、政府の介人を排して市場競争中心の政策が とられた時期になります。 こうなると、今印・の・格差拡大は、市場中心的政策の結果おど・い知・タでし引。先進 む国がケインズ主義や福祉政策をつし・て・い・る間・、・ー格差ばーー、ーー」 縮小し、新自由主義的な市場中 読 うなると を、い的 ~ と がるほど拡大するため、今後、介入政策をとらなければ ) ・格差はまず之・す拡大す引で 紀あろう、という。だから、逆説的なことに、個人の自由や能力を最大限に発揮させ 世 ようという今日の新自由主義的な政策が、かって、社会を四世紀風の階 へと逆 戻りさせている、というわけです。 テ 少し丁寧に ( といってもなんせ大部の本ですから、ほんの骨格だけですが ) 紹介をし ましたが、確かにこの書物は、今日の大きな潮流である市場中しの経済論に対尹を測 マ ・」」ー判に・な・・ 0 ・・、で内を 9 ポイントは、繰り返すと、資本 ( 資産 ) の格差が、われわれをもう 七一度、四世紀から世紀初頭の階級社会型の格差社会へ連れ戻そうとしている、という 3 のです。これは確かに大胆な主張でしよう。歴史は決して一方向へ進歩せず逆戻りしつ
これらの価値観へと誘導されているのです。 そして、これらをすべて合わせれば、日本型経営をやめ、労働市場を流動化し、金融 市場を自由化し、能力主義を採用し、公共部門を縮小し、 . 規制を撤廃し、ということに なる。そうすれば市場競争はもっとも高い効率性を実現し、日本経済は成長できる、と いうことになる。 こうなると、もはや、誘導などというものではありません。いつのまにか、われわれ は、効率性の達成や経済成長の追求という価値を至上のものとしたシステムに、閉じ込 められてしまうのです。市場競争システムに縛りつけられてしまうのです。誰もが意図 傲してそれを選択したわけでもないのに。 学何とも奇妙なことといわねばなりません。誰も、特定の価値判断をしたわけではない のです。成長路線でゆくのか脱成長か、あるいは、効率性追求か社会的安定か、短期的 な生産性向上か、それとも長期的な持続か、といった価値選択など決してしてはいない ア のです。議論さえしていません。にもかかわらず、自動的にひとつの価値観へとくくり 八つけられてしまうのです。 それもこれももとを正せば、「科学としての経済学」から始まっている。果たしてこ 775
ほど、人々はますます自由を求める。すると、その自由は相互に対立し衝突するでしょ う。それを調停するものは最終的には「カ」になる。民主主義は問題を解決しません。 民主主義そのものが、タという「カ」の原理ですし、たとえば、イスラム教のように 人民主権ではなく「神権政治」・・・を訴えな・宗教がでてくれば、それに対して民主主義は有 効性を失うでしよう。 また人々が豊かさを求めて市場競争をすればするほど、利害は衝突する。資源や資本 は有限で、それほど急激には増大しませんから、いずれ資源や資本をめぐる激しい競争 になり、その競争を市場メカニズムで調停できるとは思えないからです。 かくてグロ ーバルな市場競争は、現にそうであるように、徐々に帝国主義的な様相を 示してゆくのです。市場メカニズムがうまく作動しなければ、事態を動かすものは政治 力や軍事力やあるいは資本力といった「カ」しかない。ここでもまた「カ」がでてくる のです。 かっては環境主義やエコロジーは、サヨク運動の専売品のようにいわれました。特に、 社会主義の崩壊以後、サヨクは、女性やマイノリティの社会的差別と環境をウリにして いる、といわれたものでした。しかし、別にエコロジーなどといわなくとも、今日の世
したがって、もしも仮に経済学者に、今日の日本経済について論評を依頼したとしま しよう。ある経済学者はいうでしよう。「今日の日本では、まだ非合理な日本型経営慣 行が支配しており、人々が能力に応じた報酬をもらっていない。日本型の経営はもうや めるべきだ」。また別の経済学者はいう。「政府が無駄な資金を公共部門で使用していて、 必要なところへ資本がまわっていない。公共投資はやめるべきだ」。 また労働経済の専門家はいう。「労働の生産性を高めるには労働市場を流動化して、 賃金を競争的にすべきだ」。また金融の専門家はいう。「資金を必要なところにまわせば、 日本経済の生産性はもっと高まる。そのためには金融市場を自由化すべきだ」と。 これらはすべて専門家の「科学的」なアドバイスです。それぞれの専門の立場から、 市場を自由化し、規制を廃止すれば、日本経済はいっそう効率化して成長可能となるだ ろうといっているだけです。 それは先の市場経済学の基本的な命題にほかならない。「科学的な命題」です。いっ てみれば「教科書化」された命題です。だから、「正しい」はずです。 しかし、ここには事実上、価値判断が持ち込まれている。効率性の達成、生産性の向 上、経済成長の追求という価値観が持ち込まれている。われわれの気がっかないうちに、 174
にいえば、ゼロ成長でも生産性は増加しているわけで、いってみれば暮らしは確実によ くなっているのです。 しかも、町生産距出・と・鈊いて決ま 6 かといえば、主たをもの舸たな産、 ー剽岡で十 % ゼロ成長でも技術革新がなくなるわけではなく、新たな製品は当然 開発され、新たな市場は創出される。古いものは壊され、捨てられ、新しいものへと置 き換えられるのです。決して停滞した社会などではありません。 ではゼロ成長などといわずに、新たな成長戦略で医療や生命科学や—e やロポットや らに大規模投資して新技術を開発すればいくらでも成長できるではないか、という話に もなるかもしれません。 しかしそれは無理です。なぜなら、労働生産性とは、実は、を労働人口で割っ たものなのです。そしてはただ総生産だけではなく、総需要によっても決まる。 つまり、どれだけ新しい製品を開発して市場に供給しても、十分な需要がなければ生産 性は上昇しないのです。いくら新しい技術を開発し、新しい製品を市場へ供給しても、 人々が飛びつかなければどうにもならな 当たり前のことですが、これが案外と大事なことで、かっての高度成長時代のように、 770
衝動が支配する社会と「自己実現」の市場 ところで、社会評論の分野で、めずらしく ( ? ) 面白い本を読みました。ポール・ロ バーツというアメリカのジャーナリストが書いた『「衝動」に支配される世界』 ( 邦訳、 ダイヤモンド社 ) です。原題は『ザ・インパルス・ソサエテイ』。邦訳の副題に「我慢 破しない消費者が社会を食いつくす」とあるのですが、まさにその通りで、「がまんしな 間い消費者」と「がまんできない企業」、そして、「がまんしない風潮」を育て上げる現代 の市場経済こそが、「社会」を崩壊させている、というのです。 会 本書はかなり多岐にわたる包括的な現代文明批評なので、簡略化して要約することは な 難しいのですが、おおよそ次のような主張で貫かれています。 で われわれは、今日、瞬時にほしいものを手に人れようとする。しかも、性修の 縁競争的市場と株価中心の企業経営と、資産をすべて金融化してしまう一心経済、そ して—e 革命によってもたらされた情報技術が、まさにそれを可能にしてしまった。そ 、果、現代社会を動かすものは、衝動的で、短期的で、自己中心的な欲望充足になっ しまった。
でしよう。特に、 8 年代のアメリカで生じたことは、—e と金融を組み合わせて金融市 場で膨大な利潤を生み出す仕組みを作ることでした。そこに、ストック・オプションが 導人されれば、株価をあげることで経営者に巨額の報酬を与えるような企業経営がなさ れます。 さらには、年金や保険の巨額な資金が投人され、巨大な金融市場が形成された。この 金融市場でいわゆるヘッジファンドのような投資家にカネを預けると、年に川 % 以上の 利益を生み出すのです。 こうなると、確かに利潤率は高くなる。そこから所得も発生する。しかし、この所得 のかなりの部分は消費には回らず、再び金融市場に・投資ざね・タっ・い幻う。カくて金融市 成には旧 場でカネがグルグルと回っているだけ。 こうしたことは一応の説明です。高い利潤率が高い経済成長に結びつかない理由には なるでしよう。事実、そういうことが生じていると思われます。しかし、それでは、今 日の資本主義の陥 0 ているある重要な状況は見えてきません。・一本質コ¯Aj 田い引凵 のところにあると思うのです。 184