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検索対象: さらば、資本主義
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1. さらば、資本主義

た日本人が世界へ向けて自己を表明するという意味がそれなりにあった。それは日本の オリンピックを首都の東京が執り行うという意味をもっていた。しかし、今回のオリン ピックはあくまで東京のもので、地方都市にはほとんど何の関係もない。東北のどこか で、あるいは地方都市が共催で行うならともかく、これほどまでに東京と地方の格差を 生み出しながら、さらに東京を活性化することにどれほどの意味があるのか、といった 趣旨のことでした。「わてら、関西人にはあんまり関係ありまへん」とシニカルに書い たのです。 すると、たちまち、見知らぬ人から苦情の手紙がきました。お前は、みなが祝福して いる国民的祭典を何と心得ているのか、この天邪鬼め、というのです。しかもそれが関 西在住の人なのです。 冷静かっ客観的にいえば、この人が正しいのかもしれません。「日本全体」を考えれ ば、東京であろうとどこであろうと日本でのオリンピック開催は慶賀すべきことかもし れません。しかし、まずオリンピックは都市開催です。ス。ヘインでも、この前バルセロ ナで開催されたことが面白くなかったマドリードがまた立候補したのです。 「地方性」というものはある意味で偏見です。「地方を大事にーというのは、もっと正

2. さらば、資本主義

「アルキメデスの点」を探す ところが、「原発」という世紀の現代技術は、そうした構造を突き崩してしまった のではないでしようか。「原発」にせよ、「原爆、にせよ、きわめて高度に抽象化された 物理学の理論と不可分のものなのです。現代物理学は、たとえば、この「世界」を構成 している究極的物質としての素粒子のレベルで理論を構成している。そして、それは、 われわれの極小的な日常の物体を構成するとともに、われわれを包んでいるこの太陽系 や銀河や、はては宇宙の生成という極大の原理にまでかかわっているわけで、こうなる 意と、もはや、人間は自然を支配し管理するなどといういい方そのものが意味を失ってし の 発まうでしよう。 脱そもそもこの場合、自然とは何なのでしようか。原子核や素粒子は「自然」なのでし ようか。宇宙は「自然」なのでしようか。太陽系は「自然」なのでしようか。それは、 今 そこにそのままある、という意味での自然では決してありません。さらに、「質量をエ 一ネルギーに変換できる」といったときに、われわれはいったいどのような意味で「自 然」に向き合っているのでしようか。「質量」は自然なのでしようか。「エネルギー」は

3. さらば、資本主義

るか。こうした社会的な相互期待と相互作用のなかでようやく、人は、自分は何ものか を知ることができるのです。一人だけの世界にいて「自己実現」などといっても意味は ありません。アイデンティティなどという確かなものが始めからあるわけでもないので す。 ところが、戦後のある時期から、われわれは、「私はかけがえのない私である」とか、 す 破「私は私らしくといった奇妙なアイデンティティの観念に囚われるようになりました。 間この「私は私」という空疎なアイデンティティの病に今日の市場経済は徹底してつけ込 んできたのです。「消費行動は自分探しのプロセスからますます切り離せなくなった」 会 社とロバーツはいう。われわれは、不安にかられて次々とモノを買い、あれこれためして な 自分を探すのです。かくてわれわれは「消費を通じて自分を発見しなさいと手招きされ で ている」ということになるのです。 ん ま もしも、こうした「空疎な個人主義」が消費をかきたてる動因になっているとすれば、 いったい、「消費者絶対主義」などというものに意味があるのでしようか。ひたすら、 + より安く、より早く、より便利に、消費者の欲望を満足させるという「即席の欲望充足 ( インスタント・グラティフイケーション ) 」に確かな意味などあるのでしようか。 277

4. さらば、資本主義

不等式「 => bD 」の意味 前章に続いてピケティの『幻世紀の資本』から話を始めたいと思います。この本のふ 先 れこみは、「画期的」な経済書だということだったのですが、その意味はどこにあるの 着 きでしようか 行 の もつばら注目されたのが格差問題でした。確かに、この書物の中心的な議論である格 義 差拡大に関しては、多くの者の抱いていた感覚を裏付けてくれた、というところでしょ 資 う。しかし、それではとても「画期的」とはいえません。しかも、なぜ格差が拡大する 九かに関する十分な理論的な説明も社会的な議論もないのです。 では何が画期的なのか。実は、そのことはほとんど論じられていないのです。 第九章資本主義の行き着く先 179

5. さらば、資本主義

場所なのです。その意味では、実は、「私」にとっては何にもないどころではない。か っての「私自身」があった場所なのです。薄暗い路地裏、近所の店の老夫婦、裏の小高 い山、坂道を登ったところにある学校、神社とその前を流れる小 , こうした情景と、 情景に溶け込んだ様々な思い。それこそはかっての「私自身」であり、「私」はそこか らでてきたのです。この記憶のなかにあるかっての「私自身」、それこそが「ふるさと」 というものでしよう。 したがって、「ふるさと」というものは、「私自身」と切り離してはありえません。そ れは、かっての「私自身」に対する愛憎半ばするような、感傷と嫌悪を共に含んだ情緒 とともにあるものなのです。だから、「私のふるさと」を人に誇ってもしかたない。観 光客に自慢してみても意味がないのです。「ふるさと」には、観光的観点からは何もな い。しかし、「私」にとっては、それはかけがえのない場所になりうるのです。 奇妙な安らぎの正体 このような「ふるさと」あるいは「故郷」は、日本独特の観念ではないかと思います。 ドイツ語でいう「ハイマ —ト」が少し近いかもしれません。「ハイマートロス」っまり

6. さらば、資本主義

学でいえば、基本的にマルクスに関心を持っていたのです。しかし、左翼運動の崩壊と ともに、特に運動系の学生の一部は、思想的なものにうんざりしていました。思想は常 に対立を生み出します。しかも、それは自分の生きる信条とかかわってくるので、この 対立は、へたをすれば相手の人格を否定するところまでいきかねない。かなり激しいも のになりかねないのです。 こういうことを経験した後、多くの者が、いっオ心想的なものかられたいと思っ ても不思議ではありません。どこまでいっても対立するほかない思想に嫌気がさしたも のが、経、学のなかで数学に没頭するのはある意味ではよくわカる心理なのです。何か 正解のあるものにホッとするのです。論理だけを追えばよいのです。 私の周辺にも、この「マルクス崩れ」や「全共闘運動崩れーといった院生たちが結構 いました。「崩れ」というのは別に悪い意味ではありません。そういうものにもう嫌気 がさした連中で、それは当然のことなのです。 私は、彼らとしよっちゅう議論をしていました。ともかく、色々なことをよく議論し ました。ということは、実は、われわれは、本心では決して「思想」の重要性を放棄し ていなか「たのです。「思想」がなければ、真剣な議論などできません。 ' 理経済学だー 760

7. さらば、資本主義

しかし、それこそがニヒリズムの特質で、ニーチェもいうように、ニヒリズムとは、 統一も、目的も、真理も失われた状態だからです。だから、この広い意味での専門主義 の時代はニヒリズムの時代にほかならず、専門家がやたら重宝される社会はニヒリズム 社会にほかならないのです。本当のことをいえば、市場主義者がいうように、市場競争 がよいという確たる理由はありません。成長主義者が想定しているように、成長すれば 幸せになる、という理由もありません。自由主義者がいうように、これまた自由の拡大 が無条件に善である、という理由もどこにもありません。人権主義者がいうように、人 世権を確保することがすべての人の幸福になるという理由もありません。平和主義者がい 込うように、平和を唱えれば世界が平和になる、というものでもありません。 落ではどうすればよいのか。このニヒリズムの時代には、残念ながら容易に答えなど見 払っけられるすべもないのです。ニーチェは、価値というものは、すべてある観点から見 たものにすぎない、といいました。確かな真理などというものはない。ただ、様々な 「ハースペクティヴ」があるだけだ、というのです。われわれは結局、特定のある「。ハ 章 四 ースペクティヴ」から見ているに過ぎない、というわけです。その意味では、誰もがあ 第 る特定の専門家もどきにならざるをえません。それはそうでしよう。そのことが悪いわ

8. さらば、資本主義

的に地方を疲弊させます。もしもかっての高度成長時代のように、全体の。ハイが大きく なってゆけば、東京も地方も活性化することは不可能ではなかったでしよう。しかし、 ほぼゼロ成長にあり、おまけに人口減少社会となれば、人とカネの東京への集中は、地 方での人とカネの喪失を意味しているわけです。 正しい偏見のもちかた こういう政策を年も続けてきたのです。そして、今でもまだ市場競争の強化や構造 て改革の継続ということがいわれている。一方で、地方を劣化させる政策をかくも長期に とわたって続けていながら、今頃になって、地方創生を唱えることのちぐはぐさをわれわ をれはもっと自覚すべきでしよう。その意味では、別に安倍首相の責任ではありませんが、 東京オリンピックの開催は、とりあえずはいっそうの東京集中を引き起こすもので、こ れ れもへたをすれば地方活性化と逆行しかねないのです。 わ 失 話が脱線しますが、東京オリンピックが決定したとき、メディアのあまりのはしゃぎ 三ぶりとお祭り演出を見ながら、私はある地方新聞に次のようなことを書いたことがあり ます。かって 1964 年の東京オリンピックは確かに敗戦から復活し、成長軌道へ乗っ

9. さらば、資本主義

変換にかかわる原子核物理学は、また素粒子論から宇宙物理学へと展開しつつ、宇宙ま で含めたすべての物質的過程を解き明かそうとする試みへとつながっているのです。か くて、太陽という宇宙的なエネルギーを、ある意味で人為的に作り出すことが可能とな ってしまったのです。 アレントは、この変化を「自然科学」から「宇宙科学」への変化といっていますが、 「自然科学」が自然の外にたって自然を支配することを可能としたのに対して、「宇宙科 学ーは、「宇宙」の原理が自然のなかにまではいってきて、自然を破壊し、さらには、 自然に対する人間の支配権まで破壊してしまう、という。 確かに、核というものは、もはや自然に対する人間の支配などとはいえません。素粒 子レベルの抽象科学が発見した「何ものか」が、ある意味で「太陽」を生み出してしま うのです。人工的なエネルギーを生み出してしまうのです。この「宇宙的」なエネルギ ーをわれわれは意のままに管理することなどできるのでしようか。「宇宙科学」が生み 出すものは、人間の管理能力をはるかに超えてしまうのではないでしようか。 もともとは、宇宙的なエネルギーによってこそ、われわれ人間が存在し、あらゆる生 物体も文字通りの自然も存在したのです。このもとで、われわれは、自然や世界の外に

10. さらば、資本主義

吉 一に戦後間年たっても日本は本当の意味での独立国にはなっていません。独立と ード面でいえば、日本は公圜国、 いう点からすれば、未だ・ロ半人前。 朝を・も・・つ、て・お・らず、。自国・の防衛を・ア・メ・リ・カ、に・依拠・・てい引。またノート面でいえば、 それどころか、アメ 国民全般に独立の気風もいい ( 測・「・ 0 ・い・引どば課幻叫ん。 田 ( リカの経済理論や政治理論を後生大事に受け人れ、日米は同じ価値観によって結ばれて いるという言説が世論の中心になっているのです。これではとても独立国とはいえない 明 文でしよう。 立 独 ハ〔第〔一〔〔一 g2140 年前に比べて、今日、はるかに「人間交際」は繁多になりました。繁 る多を通り過ぎて、忙殺の域に達しています。インターネットによる「つながり」は過剰 考に膨れ上がり、新幹線は通勤電車なみの本数で、日本中をつなぎます。政治討論は、ま かさに多事争論過ぎて、何を争っているのか分からなくなってしまっています。世論調査 淵は毎月のようにおこなわれ、これほど民意が政治に反映されている国はありません。 福 「人間交際」の活性化によって人間の精神の活動を繁多にする、という意味では明らか 六に文明の度合いは日々上がってゆきます。日本ほどの「文明国」はそれほどないのです。 ところが、われわれは、本当に文明化したのでしようか。自信をもってそうは言い切 731