一月 - みる会図書館


検索対象: アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家
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1. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

どまったは九・五 % ) 。アデナウアーの予想も上回る勝利であった。このとき、 のあるヨーロッパ統合主義者は「ドイツ国民は、 O 党首としてではなく、ヨーロッパ の外相としてアデナウアーを選んだのだ」と述べ、自党の外交路線修正を求めている。 索 一九五三年一〇月七日、アデナウアーは首相に再選された ( 賛成票は三〇四、反対票は一四 模 の八、棄権は一四 ) 。再選直後、彼は次のように演説している。「わたしたちは、わたしたちが 合 結正しいと指し示した道を進み続けるでしよう。わたしたちは、平和を望み、ドイツの再統一 西を望み、ヨ】ロッパを望み、自由世界のなかでの平等権を望みます」。 アデナウアーは、とに加え、故郷被追放者・権利被剥奪者連盟 (n も連 雖立政権に引き入れ、連邦議会の四八七議席中三三 = 一議席、つまり議席の三分の二以上を手中 に収めた。一九五三年一一月には、連邦参議院でも議席の三分の二を得ることに成功する。 一基本法改正の要件 ( 第七九条 ) である両院の三分の二を手にしたのである。アデナウアーは、 ウただちに基本法の見直しに着手する。 ナ もともと基本法は、西ドイツが自衛力を持っことを明示的に認めてはいなかった。しかし ア 他方で、自衛戦争や兵役を前提とするような規定が基本法には含まれていた。これまでアデ Ⅲナウアー政権は、後者の点に基づいて基本法は国防を認めていると主張してきたのだが、両 院の三分の二を得た時点でアデナウアーは、明示的に兵役と国防を基本法に書き込むことを 131

2. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

こ向けて二通の覚書を作 そして八月二九日、翌月にニ = ーヨークで開かれる米英仏外相会談冫 成し、自らの考えを西側三カ国に示した。 一つには、国際的な西欧軍が創設されるならば西ドイツは兵力を拠出する用意があると記 索されていた。もう一つでは、直接的に表現されているわけではないが、西ドイツが防衛に貢 の 献する代償に、他の西欧諸国との平等権を求めていた。ここでアデナウアーは、再軍備と主 駘権回復を結びつける道を選択したのである。 一方、アメリカも西ドイツの再軍備支持へと舵を切る。一九五〇年九月一二日の米英仏三 西 国外相会談で、ディーン・アチソン国務長官が、西ドイツの再軍備および北大西洋条約機構 開 (z«eo) 編入を強く求めたのである。 交すでに一九四九年四月に北米とヨーロッパの一二カ国が北大西洋条約に調印していたが、 一それはアメリカの大規模なヨーロッパ派兵を約束するものではなかった。ここでアメリカは、 ウョ ] ロッパ駐留兵力増強の条件として、ドイツ再軍備を要求したのである。これは「パッケ ナ ージ・ディールと呼ばれるが、英仏にとってこのアメリカの提案は唐突であり、特にフラ ア ンスにとっては「爆弾にも等しいものだった。 章 Ⅲ 第 1 巧

3. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

第 I 章「破局の時代」のなかで一一第二帝政からナチ体制まで である。 こうしてアデナウアーは、当時「ケルン派閥 (KölnerKlüngel) 」と揶揄されていた、ケルン 市を牛耳る階層に加わる足がかりを得たのであ る。この頃から、アデナウアーの上昇志向が俄 然強まっていく。 出世 一九〇六年、一二人いるケルン市助役の席の 時一つが空いた。ここでアデナウアーは、上司で 婚あり、中央党の市議会議員団長だったカウゼン とに、自分を助役につけるよう猛烈にアピールす る。こうしてアデナウアーは、中央党の支持を 工受け、市議会で三七票中三五票を得てケルン市 のの助役 ( 税務担当 ) に選出され、三月七日に就 最任した。助役のなかでアデナウアーは最年少だ

4. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

第Ⅳ章「宰相民主主義」の時代 - ー一一九四九 ~ 六三年 し一九五〇年代末以降の西側同盟内の利害の分岐 により、その調和は不可能になってきた。ここか ら西ドイツ内では、「ゴーリスト ( ド・ゴール主義 者 ) 」路線と「アトランティカー ( 大西洋主義者 ) 、 路線との対立が生じることとなる。表面的な争点 2 は西ドイツの核アクセスの方途だが、それを超え て将来のヨーロッパ像と、アメリカに対する自立 ア性が問われていた。 ウ ナ この時点でアデナウアーが選択したのは、「ゴ ア ーリスト路線である。ド・ゴールとアデナウア と ーの将来のヨーロッパ像は根本的に異なっていた 右 頁が、アデナウアーは、このとき独仏関係の強化を ム下 大優先させたのである。 仏 ミートとの対話のなかで、アデナ ゴウアーは、ド・ゴール的なヨーロッパは一つの段 スープラナショナル 階であり、そのあとに真の超国家的なヨーロッパ 197

5. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

兄妹すべてが都市ケルンのエリート層となる。 しかし、コンラートが生まれた当時のアデナウアー家は決して裕福ではなかった。一家は ケルンのバルドウイン通り六番に居を構えていたが、父ヨハン・コンラートの書記官として の給与は多いとは言えず、家の三階すべてと二階の半分を賃貸に出していた。さらに、子ど もたちの学費が嵩んでくると、アデナウアー家は持ち家を手放さざるをえなくなった。引越 し先のシャーフェン通りの家は、前居よりさらに手狭になり、コンラートは一七歳まで兄と 一つのべッドを分け合って寝なければならなかったという。 なお、こうした子ども時代の苦労話には、最近の研究が指摘するように、アデナウアーに よる誇張も含まれているだろう。しかし、伝聞をすべて退けたとしても、決して裕福とは言 えなかったことは確かである。 アデナウアー家の日常は、カトリック信仰に強く刻印されていた。朝晩の祈りや日曜ミサ を欠かしたことはなかった。さらに彼の故郷ケルンは、ライン地方のカトリックの中心都市 である。アデナウアーは、濃厚なカトリック的環境のなかで育ったのである。 ここで着目すべきは、ケルンのカトリックの特色である。歴史家アンセルム・デーリング かさ

6. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

序章ドイツとアデナウア】 者 進 推 の 僵アデナウアーの首相在任期間をドイツ史学では「アデナウアー時代」と言う。このアデナ 西ウアー時代は近現代ドイツ史における大きな転換点をなしており、その遺産は現在の統一ド ( 一九二八—二〇〇五 ) によれば、 ィッをも規定している。政治学者クルト・ゾントハイマー 「こんにちの連邦共和国の政治的・経済的・文化的基盤が創り出された」時代だという。 ア ウ この転換や基盤創出の意味内容を一言で表すならば、それはドイツの「西欧化 ナ ア (weste 「 nization 、 weste 「 nisie 「 ung) 」である。この場合の「西欧」とは、イギリスやフランス ツのような現実のある特定の国を指すのではなく、一つの価値共同体としての「西欧、である。 そして、この「西欧化は次の二点によって規定される。 章第一は、内政における自由民主主義体制の定着である。 興味深いことに、ドイツ史上初の民主主義体制であったヴァイマル共和国の存続期間と、 「西欧化」の推進者

7. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ノカ誕生する」からである。 すでに一九四六年三月、アデナウアーはラジオ放送で「そう遠くない将来、ドイツも属す るヨーロツ。、 ノ合衆国が創り出されることをわたしは望んでいます , と述べた。チャーチル前 英首相がチューリヒで有名な「ヨーロツ。、 ノ合衆国ー演説をするのは、この六カ月後のことで 間ある。 四 の 後キリスト教民主主義へ 大以上の信条の実践が、アデナウアーにとっての「キリスト教民主主義」である。 世キリスト教民主主義は、個人の尊厳と自由を実現する民主主義であると同時に、ヨーロッ 第パ統合をも実現に導くものである。彼は言う。「なぜわれわれはキリスト教民主主義と名乗 るのでしようか。〔・ : 〕それは、キリスト教的・西洋的な世界観とキリスト教的な自然法、 フォルク 分そしてキリスト教倫理の諸原則に根差した民主主義のみが、ドイツ人民に課された巨大な教 領育的責務を果たし、再興を可能にすると、深く確信しているからです」。 占 こうした理念の担い手とされたのが、 ~ 「月・・日お可盟・・・ ( 望の ) ーレ」いう「国民政党、 Ⅱであった。

8. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

」が、この 物主義的 加えてアデナウア 1 は、マルクス ' " 胤をがげだど主彊ず・る。アデナウアーにと 0 て、階級闘争原理に基づくマルクス主義は、 国家あるいは一つの階級に政治的・経済的権力を集中させようとする、個人の自由の敵だっ た。マルクス主義が必然的に「独裁への道 . につながるということは、それを奉じる国、す なわちソ連の歴史が示しているとする。 年 四 アデナウアーは、物質主義と権力崇拝の蔓延が行きつく果てとして、ナチズムとスターリ の はんちゅう 後ニズムを同一の範疇に位置づけたのである。 大 界 世個人の自由、キリスト教倫理、民主主義 こうした敵に対し、アデナウアーが守ろうとするのが、個人の尊厳と自由である。「個人 第 の人格は、実存および序列において国家に先行する、。国家とは、民族などにではなく、個 分人に奉仕すべきものなのである。 領アデナウアーにとって、こうした個人主義 ( 人格主義のほうが適切かもしれない ) を基礎づ 占 けるのが、「キリスト教的自然法」であり、キリスト教倫理である。しかし、ここで重要な 章 Ⅱ , アデナウアーが個人の自由のために、そしてドイツ再建のために最も必要な、のとし 第

9. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

アデナウアーは、「民主主義とは、議会主義的な統治形態に尽きるものではない。それは、 一つの世界観であり、個人の尊厳や価値、そして譲渡不能の権利についての理解に根ざすも のなのであると言う。民主主義によって、個人の尊厳や価値は、政治・経済・文化の各領 域で尊重され、開花するのである。 国際情勢認識 次に、第二次世界大戦直後のアデナウアーの国際情勢認識を見てみよう。アデナウアーは、 ごく初期から冷戦の帰結としてヨーロ。パ 0 分断を予測し、西欧の統合を啀え、ていた。それ は、一九四五年一〇月三一日にデュイスプルク市長ハインリヒ・ヴァイツに宛てた手紙が示 している。少し長くなるが、きわめて重要かっ有名な史料であり、引用してみよう。 。、バルカン、そしておそらくはハン ロシア〔ソ連〕は、ドイツの東半分、ポーラント カリー それにオーストリアの一部を掌握している。 ロシアはますます他の大国との協調から手を引き、自分の支配地域で完全に自己の裁 量に基づいて采配を振っている。彼らに支配された諸国では、いまやすでにヨーロッパ の他の部分とはまったく異なる経済的・政治的原則が支配している。

10. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

者と位置づけたとして、後世に批判されがちである。しかし、この時点でドイツ人の責任を 認め、ユダヤ人 に日み出そうとした点は評価されてもよし しかしこうしたアデナウアーの動きは、米高等弁務官マックロイによって促されたもので もあった。すでにマックロイは、一九四九年七月に「世界は新生西ドイツ国家を注意深く監 視するつもりであり、その試金石の一つが、ユダヤ人に対する態度となるだろう」と語って いた。また、社会民主党 (c =) 党首シューマッハ ] は、アデナウアーが連邦議会におけ る初演説でユダヤ人問題に言及しなかったことを批判しており、これがアデナウアーのイス ラエルへの接近を早めたと考えることもできる。 「接近と和解のためのニつの条件 アデナウア】の申し出に、イスラエル政府は直接回答しなかった。だが、世界ユダヤ人会 議の欧州局長ノア・ 、ロウが、ロンドンのドイツ系ユダヤ人実業家ゲルハルト・レヴィを通 じて、アデナウアーの外交顧問ブランケンホルンに意向を伝えた。 それは、ユダヤ人とドイツ人の「接近と和解」のためには二つの条件があるとするものだ った。第一は、西ドイツ政府が議会で「ナチ体制下でユダヤ人に加えられた犯罪ーを認め、 補償を約束する声明を出すこと、その声明が野党も含む圧倒的多数で承認されること、第二 150