すっかり変わってしまった。 ケルン市長へ こうした苦難のなか、アデナウアーはケルン市長となる。すでに一九一六年にアデナウア ーは、ケルン近郊のアーヘンの市長も視野に入れていたが、ケルン市長ヴァルラフの後を継 ごうと考え、助役にとどまっていた。 一九一七年八月、ヴァルラフがベルリンの中央政府への参加を打診され、アデナウアーが 市長になるチャンスがめぐってきた。 このときアデナウアーは、シュヴァルツヴァルトで交通事故後の療養生活を送っていた。 若いアデナウアーがケルン市長たりうるかには異論もあったが、結局、フーゴ ー・メニヒや ゲンやベルンハルト・ファル ョ不ス・リンクスら中央党指導者たちの後援と、ルイ・ クら自由主義勢力の支持により、一九一七年九月一八日、ケルン市議会の満場一致 ( 賛成五 一「反対〇、棄権一 l) で、アデナウアーはケルン市長に選出された ( 就任は一一月二九日 ) 。任 期は一二年である。 こうしてアデナウアーは、四一歳の若さで、当時六五万人を抱えた、ベルリンに次ぐ。フロ イセン第二の都市の首長となったのである。彼はまた、当時のドイツ帝国の全市長のなかで
るが、独自の市議会を持ち、自治の余地は大きかった。市議会は、著しい制限選挙制度であ る三級選挙法で選出され ( 有権者は全男性市民の四分の一以下であり、さらに納税額に応じて三 で は階級に分けられ、票の格差をつけられた ) 、市議会が市長を選出した ( 形式的には。フロイセン王 体による任命 ) 。 ナ 一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてケルン市議会で有力だったのはカトリック中央党と ら 自由主義勢力だが、議会は市長の行政にあまり介入しなか 0 た。それゆえケルン市長は、か 二なり広範な権限と強い権力を手にしていた。ちなみにアデナウアーがケルン市助役に就任し 第 たときの市長ヴィルヘルム・べッカー ( 一八三五—一九二四 ) は、一八八六年から一九〇七 で年までの二〇年以上にわたって強権を振るっていた。 以上のようにケルンは、カトリックの古都であると同時に、。フロイセンの一大工業都市で の あり、西欧における交通・金融の要衝であり、自治の伝統を誇っていた。ケルンが持ち合わ 時せたこれらの要素が、アデナウアーの性格や人脈、そして政治手法も規定していくことにな 破 章 第 学生時代 さて、一八八五年四月、九歳になったアデナウアーは、兄二人と同様に、ケルンの使徒ギ
奉職する。 アデナウアーは、試験の失敗を引きずり、検察庁の仕事にもすぐ飽きた。また、法曹界の なかでは彼の出自は低く、劣等感を抱いて過ごしていたという。さらにこの頃、「唯一人の 親友」だったシ = リ = ーターが急死する。アデナウアーにとって世紀の変わり目は暗いもの ヾこっこ。 アデナウアーの人生がようやく上向き始めるのは、一九〇三年にケルンの弁護士ヘルマ ン・カウゼンの事務所に就職できたときからである。カウゼンは有能な弁護士であると同時 に、ケルン市議会の中央党議員団長だった。 一九〇四年一月、二八歳のアデナウアーはテニス・サークル「。フーデルナス、で知り合っ たエマ・ヴァイアー ( 一八八〇—一九一六 ) と結婚する。この結婚は、アデナウア ] の政治 的キャリアにとって決定的な意味を持っていた。エマは、由緒も力もあるケルンの名門一族 だったからである。エマの父方の祖父は有名な建築家・鉄道業者であり、デ = ーラーやレン ブラント、ルーベンスを所蔵する美術館を開くほどだった。母方も裕福な法律家の家系で、 のちにケルン市長となるマックス・ヴァルラフ ( 一八五九—一九四一 ) はエマの母方の叔父
顧録では、アメリカ軍との関係が温かく描かれているのとは対照的に、イギリス軍に関する さいぎ 記述は猜疑に満ちている。このときのイギリスに対する反感が、のちのアデナウアー外交に も影を落としていると指摘する研究者は多い。 一九四五年一〇月六日、アデナウアーは、再建のための「義務を果たさなかった」として、 イギリス軍により市長を罷免されたうえ、ケルン市からの追放および政治活動の禁止を言い 渡される。この政治活動禁止措置は一一日には緩和され、ケルン市外での活動は許可された が、処分が全面的に解かれるのは一二月一三日であった。 アデナウアーは失望した。ナチスではなく、「解放者」に罷免されたからである。しかし、 結果的にこの市長罷免が、のちのアデナウアーのキャリアには。フラスに働くことになる。も しこのときケルン市長にとどまっていたら、この大都市の復興事業に追われるまま占領期を 過ごしたと予想されるからである。 イギリス軍による市長罷免は、そうした膨大な業務からアデナウアーを解放し、「政党政 治家 , として再出発すること、すなわちキリスト教民主同盟 (02>) という宗派を超えた 政党の創設と、そこで自分の権力基盤をじっくりと築いていくことを可能にしたのである。
アデナウアーは、ドイツから独立したライン共和国は、フランスの影響につねにさらされ、 将来の火種になると考えていた。同時に、。フロイセンを中心としたドイツに対するフランス で はの恐怖感も理解していた。それゆえアデナウアーは、新しく連邦主義的に構成されたドイツ 体内で、プロイセンの解体と西ドイツ州の創設を考えたのである。 ナ こうしたアデナウアーのアイデアは、直接的には第二次世界大戦後のノルトラインⅡヴェ ら 政ストフア】レンという新州設立の際に活かされることとなる。また、ラインラント問題を通 二じて、アデナウアーが、いかにしてフランスの安全保障要求を満たしつつ、独仏和解を達成 第 するかという難題に早くから取り組んでいたことの意味は大きい。さらに、このときすでに で「占領軍との対話」という仕事を経験していたことも、のちに貴重な政治的財産となったの なである。 の 代 時 3 ケルンの君主ーーーヴァイマル共和国下の市長時代 の 局 破 ケルン大学の再建 章 ここでは、アデナウアーのケルン市長としての活動を見ていこう。彼は、この市長時代を 第 「人生で最も充実した時代ーと振り返っている。また、シュトレーゼマンはアデナウアーを
アデナウアーの強みだった。 米軍による市長任命と英軍による罷免 アメリカ軍がレ ] ンドルフに到着したのは一九四五年三月半ばだった。五月四日、すなわ ちドイツの無条件降伏の四日前、アメリカ軍はアデナウアーをケルン市長に任命した。とい うのも、アデナウアーは「アメリカ側のホワイト・リストのなかでもドイツ全体でナンバ コラボレーター 1 」だったからである。つまり、ナチスの反対者であり、同時にアメリカ占領の協力者に最 も適格な人物との判定を受けていたのである。このときアデナウアーと占領米軍との関係が 実に良好だったことは、回顧録からもうかがえる。 仕事は山積していた。市は瓦礫の山であゑ五万九〇〇〇あった建造物のうち、半数以上 が全壊。無傷で残ったのは三〇〇ほどに過ぎなかった。市民も飢餓状態である。食糧供給が 喫緊の課題となった。このときアデナウアーは馬車馬のように働いた。また、市のバスをブ ヘンヴァルト、ダッハウ、テレージェンシュタットといった強制収容所に派遣し、生き残 った者たちの帰還に努めた。これは自治体ではあまり類例のない英断であった。そして、再 びケルンを近代都市にするために、大規模な再建構想を練った。 しかし、このときの市長職は長くは続かなかった。一九四五年六月末、ケルンは、アメリ
アデナウア ー略年譜 出来事 、 - 西暦 1871 年 1876 年 1885 年 1894 年 1895 年 1897 年 1901 年 1903 年 1904 年 1906 年 1909 年 1910 年 1912 年 1914 年 1916 年 1917 年 1918 年 1919 年 年齢 ⑨ ( 19 ) 1 月 , ドイツ帝国 ( 第二帝政 ) 成立 1 月 5 日 , コンラート・アデナウアー , 控訴審裁判所書記 官である父ヨハン・コンラートと母ヘレーナの三男として ケルンに生まれる 4 月 , ケルンの使徒ギムナジウムに入学 ( 18 ) 3 月 , アビトゥーアに合格 . 4 月 , 家計の都合により大学 に進めず , ゼーリヒマン銀行に入社 . しかし , 二週間後に フライフ・ルク大学へ進学 . 一期をフライフ・ルクで学んだ後 , ミュン一、ン : 大子・一、 ポン大学へ ( 21 ) 5 月 22 日 , 第 1 次国家試験に合格 , 司法官試補見習に ( 25 ) 10 月 19 日 , 第 2 次国家試験に合格 , ケルン検察庁の司法 官試補に ( 27 ) ケルンの弁護士ヘルマン・カウゼンの事務所に就職 ( 28 ) 1 月 26 日 , エマ・ヴァイアーと結婚 , のち三子をもうけ る ( 30 ) 3 月 7 日 , ケルン市の助役 ( 税務担当 ) に就任 . 3 月 10 日 , 父コンラートが死去 . 9 月 21 日 , 長男 ( 第 1 子 ) コンラ ートが生まれる ( 33 ) 7 月 22 日 , ケルン市の首席助役および副市長に就任 ( 34 ) 9 月 21 日 , 次男 ( 第 2 子 ) マックスが生まれる ( 36 ) 10 月 3 日 , 長女 ( 第 3 子 ) リーアが生まれる ( 38 ) 第 1 次世界大戦始まる ( 40 ) 10 月 6 日 , 妻エマが死去 ( 41 ) 3 月 , 自動車事故に遭う . 9 月 18 日 , ケルン市議会の満場 一致によって市長に選出 . 11 月 29 日 , 12 年任期の市長に 任命される ( 42 ) 11 月 7 日 , ケルンで労兵評議会が権力掌握 . 11 月 9 日 , ドイツ , 共和国宣言 . 11 月 11 日 , ドイツ , 連合国との休 戦協定に調印 ( 第 1 次世界大戦終結 ) ( 4 引 6 月 28 日 , 連合国とドイツ , ヴェルサイユ条約調印 . 9 月 25 日 , ケルンの皮膚科医の娘 , アウグステ ( グッシー ) 240
思い知るだろう。 こうした一連の出来事を見て、アデナウアーの周囲の人々は、ナチスの報復を恐れ、次第 に彼から離れていく。 市長罷免 ライヒ 一九三三年三月五日の全国議会選挙で、ナチ党はケルンで最大の政党となった。続く三月 一二日、ナチ党とその同盟者たちはケルン市議会選挙で四六議席を獲得し、過半数を亜に 収めた ( 厳密に言えば、共産党の議席を停止することで過半数に到達した ) 。選挙戦時のナチス のスローガンは、「とっとと失せろ、アデナウアー ! (Fort mit Adenauer!) 」だった。報復は 容易に予想できた。市議会選挙当日の夜、自身の暗殺計画を耳にしたアデナウア ] は、長年 親しんだ市長室に別れを告げた。ちなみに、このときの市庁舎の鍵は、アデナウアーの死後、 自宅の書斎のデスクから見つかっている。 選挙の翌朝、アデナウアーは、友人の銀行家。フフェルトメンゲスの助けを得て、ナチスの 突撃隊の監視をくぐり抜けてケルンを脱出し、ベルリンへと向かった。。フロイセン内相であ るヘルマン・ゲーリングに会い、事態を改善させようとしたのである。しかし、三日も待た された挙句、ゲーリングとの会合はまったくの徒労に終わる。
イギリスによるケルン占領 で ま さて、連合国と停戦ののちライン川左岸は占領され、ケルンはイギリス占領下に入ること 制 体になった。一九一八年一二月三日までにドイツ軍は被占領地区から引き揚げねばならず、こ ナ の作業はアデナウアーにとっても一苦労であった。一二月六日にローソン将軍率いるイギリ ら ス占領軍がケルンに到着し、以後一九二六年一月までの七年間、ケルンはイギリスの「保障 二占領」下に置かれた。 第 占領にあたってイギリスは、ケルン市民にイギリス将校に会ったら敬礼することを義務づ でけたが、市長アデナウアーはこれに不満を伝え、すぐに撤回させた。また、夜間外出禁止令 ななども出されたが、次第に緩和されていった。 の 当初五万五〇〇〇人だった占領軍は、一九二〇年には半減、二五年には九〇〇〇人まで削 代 時減された。総じて、イギリス占領軍とケルン市民との関係は険悪ではなかった。そして、ア 局デナウアーとローソン将軍、またその後継のチャールズ・ファーガソン将軍との関係も良好 であった。 / 彼らは無秩序や共産主義に対する嫌悪では一致していたのである。 章 第
念頭において「当今のドイツの市長たちは、まさに現代の君主ではないか」と嘆いたが、事 実アデナウアーは、ケルンで君主のごとく強大な権力を振るっていた。 第一次世界大戦後、ラインラント問題とともにアデナウアーが着手したのは、ケルン大学 の再建だった。ケルン大学は、一四世紀に設立された伝統校だったが、一七九八年にライン 地方がフランス占領下に入ったとき、トリーア、ポン、マインツの大学とともに閉校されて いた ( ポン大学のみウィーン会議後に再建された ) 。以前からこの問題に興味を寄せていたアデ ナウアーは、一九一九年一月、。フロイセン政府にケルン大学再建を願い出る。このときアデ ナウアーが、外国占領下でドイツ文化を維持する必要性から大学再建を正当化しているのは 興味深い 他方でアデナウア 1 は、ケルン大学を、ヨーロッパ諸国民の協調の礎として位置づけた。 一九一九年六月のケルン大学開校式典で行った演説では、ドイツ文化と西欧民主主義諸国の 文化との衝突により、世界におけるヨーロッパの地位が没落したと述べ、「さまざまな文化 が衝突する地点」に位置するケルン大学は「特別な使命ーを帯びていると強調した。すなわ ち、あらゆるヨーロッパ文化を学んで育み、諸国民を文化的に接近させ、ヨーロッパ諸国民 の和解と共同性を促すという使命である。