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検索対象: アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家
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1. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

連合国軍のドイツ駐留、ベルリンの地位、再統一については、米英仏に権限が留保された。 また、条約はドイツに対して差別的なものであった。たとえば、参謀本部設立の禁止、 核・生物・化学兵器兵器 ) 生産の禁止、への当面の加入禁止、これらの条 索件がドイツに課せられたのである。 の フランスの希望から、このドイツ条約と条約は不可分のものとされた。しかし、ア トイツ条約のみの発効を協 結デナウアーの要求により、条約の発効が遅れた場合には、。 西議することは約束された。 「スターリン・ノート」 東側の揺さぶり 展 の このようにという枠内で西ドイツ再軍備への道が開かれようとしていたとき、それ 交 一を阻止すべくソ連が切り札を出す。条約交渉中の一九五二年三月一〇日、ソ連政府は、 ウ全ドイツ政府との平和条約締結を提案する覚書 ( および平和条約草案 ) を米英仏に送付した。 デドイツの再統一と中立化を申し入れた、いわゆる「スターリン・ノート、である。 ア ソ連が中立を条件にドイツ統一を持ち掛けたのは、これが初めてではない。すでにスター Ⅲリン・ノート以前にも、「ドイツ再統一、をめぐって東西間の激しい外交的駆け引きが行わ れていた。一九五〇年以来、西側は自由かっ民主的な全ドイツ選挙という方式の統一構想を、 121

2. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

終章アデナウア】政治の遺産 一九九〇年の東西ドイツ統一とアデナウアー アデナウアーが死去してから二〇年余りのちの一九九〇年一〇月三日、ついに東西ドイツ が統一された。このとき人々はこう問うた。果たして、アデナウアーの「西側結合」あるい 産 遺は「カの政策」は、ドイツ統一にどれほど貢献したのだろうか、と。 斑ある者は、生粋のライン分離主義者だったアデナウアーは、プロテスタントが多い東部ド アイツを切り捨て、ドイツ統一をここまで遅らせたのだと論難した。またある者は、一九九〇 ナ年の平和と自由のなかの統一こそ、アデナウアーの最終的な勝利なのだと主張した。つまり、 アようやく「カの政策、の正しさが証明されたというのである。 章本書は、この問いに答えるものではない。。 トイツ国内でこの問いがきわめて重要な政治的 意味を持っことは重々承知しているが、そもそもこれらの論争は党派的な磁場が強過ぎる。 207

3. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

代のユダヤ人迫害という過去を否応にも意識させるものであり、デリケートな存在であった。 他方で、西ドイツが「ドイツ人を正統に代表する唯一の国家、として国際社会に復帰するた めには、自己の「過去」を清算していく必要があった。 索 こうしたなかアデナウアーは、寸 文イスラエル政策に着手し、一九五二年九月一〇日に調印 模 の された、 / 後述する「ルクセンブルク補償協定」によって、イスラエルおよびユダヤ人団体へ 合 結の補償を取り決め、 西以後もアデナウアーは、基本的に親イスラエル的な立場を維持し、その後のドイツⅡイス ラエル関係の礎を築くそこには、西ドイツの国際的な信用を回復しようという意図があっ 展たが、アデナウアーなりの道義的な責任意識も働いていた。本節では、アデナウアーのイ = 交シアティブが重要な役割を果たした対イスラエル外交について見ていこう。 外 アデナウアーがイスラエル国家との接近を試みたのは、首相就任後すぐである。すでに一 月には『在独ユダヤ人一般週刊新聞』のインタビューで、「ドイツ民族、は ウ九四九 デ「犯罪的な体制により自分たちの名においてユダヤ人に加えられた不法を補償する用意があ ア る、と述べ、「イスラエル国家建設のために一〇〇〇万マルク分の物品を供与する , ことを Ⅲ提案していた。 アデナウアーは、、 トイツ人の習」ーむしろドイツ人をナチ体制の被害 との 、つとナ 149

4. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

という個性であったことを示していきたい。 重要なのは、アデナウアー時代の西ドイツが選択した国是、すなわち内政における基本法 体制と、外交における西側路線は、一九九〇年以降の統一ドイツにも引き継がれたことであ る。そもそも西ドイツの憲法典が「憲法 (Verfassung)_ ではなく「基本法 (Grundgesetz)_ と名付けられたのは、トイツ統一後にあらためて憲法を制定することを企図していたからで ある。 だが、周知のように東西ドイツの統一は、基本法の二三条に基づき、東ドイツを「新五 州ーに再編して西ドイツに加入させるという形式をとった。結局、基本法体制は存続したの である。また、 ミハイル・ゴルバチョフが最後まで渋ったものの、統一後のドイツは Z e 0 に帰属することが統一に先立って定められた。「西側結合」は基本的に保持されたまま、 現在にまでいたっているのである。 なお、この序章ではアデナウア ] から現代ドイツにいたる連続面を強調したが、むろん断 絶面も重要である。たとえば、多くの先進諸国同様、西ドイツも一九六〇年代に政治文化の 変容を経験した。そして、一九六〇年代に清算すべぎ対象とされたのは、何よりもアデナウ アー時代の政治文化だったからである。では、アデナウアー政治の何が問題とされ、清算の 対象となったのか。この点については終章であらためて論じたい。

5. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ミートは、「交渉は首 委員長として代表団に参加していた野党社会民主党のシュ 」概窈独であら、だ」と証一 = 〔している。 このときのアデナウア ] の交渉は、かなり率直かっ強硬なものであった。ソ連側の公式見 解は「戦争犯罪者ー以外の抑留者は存在すらしないというものだったが、アデナウアーは、 国交樹立の成否を盾に、抑留者全員の解放を迫った。また、ドイツ人の集団的罪責を主張す るソ連指導部に対アデナウア ] は「ヒトラーやその支持者たちとドイツ人を一緒にはで きない」と主張し、ソ連がナチスと不可侵条約を結んだこと、ソ連軍がドイツで蛮行を働い たことを指摘した。 議論が平行線をたどるなか、アデナウアー 日オに出る九月一二日、これ以上の交 渉は無意味であるとして、予定よりも早く帰国用の飛行機を手配したのである。この行動に、 ソ連の態度は変化を見せた。その夜のレセ。フションの席上、ニコライ・ブルガ ] ニン首相は、 ポンとモスクワの外交関係樹立と引き換えに、「すべての」戦時捕虜の解放を約束したので ある。九月一四日、アデナウアーはモスクワでの記者会見で「きわめて重要かっ喜ばしい成 果」を得ることができたと誇った。 一九五五年一〇月七日の最初の帰還便を皮切りに、計九六〇〇人の戦時捕虜、約二 万人の民間の抑留者が帰国した。、 トイツ世論は、これをアデナウアーの偉業と見なした。抑 138

6. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

はじめに の初代首相にまで登りつめ、以後その座を一九六三年 ( 八七歳 ! ) まで守り続けた人物であ る。 このように、経歴からしてドイツ現代史におけるアデナウアーの重要性は明らかだが、い まやその名は日本では忘れ去られてしまった感がある。では現代ドイツではどうだろうか。 一九九〇年の東西ドイツ統一から二〇年余りを経て、ドイツでも自国の歴史への関心が薄 れているのは否めない。だがそれでも、いまだ「アデナウアー」という名前には重みがある。 アレンスパッハ研究所という有名なドイツの世論調査機関が、一九五〇年から九三年まで 「最もドイツに貢献した偉大なドイツ人は誰だと思うか ? というアンケートをとっていた。 そこでアデナウアーは、首相在任一〇年目にあたる一 九五八年以来、一貫して一位だった ( それ以前の一位 ~ はビスマルクだった ) 。ベルリンの壁が崩れる一九八九 年には、二位のビスマルクの八 % を大きく引き離して、 三分の一の人がアデナウアーの名前を挙げている。こ ア ナのようにアデナウアーは、首相在任中からすっと「最 デ アもドイツに貢献した偉大なドイツ人」であると西ドイ ツ国民に見なされていた。 111

7. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ワルシャワ条約機構の成立と西ドイツの「単独代表要求 西ドイツが z 0 に加盟すると、 ' 刀・連・は - ・一・・・ - 九・五・五年五川・『・・当印・、・・・東日・みをむ刺¯< カ国とワルシャワ条約機構 (o) 立させた。これは、ソ連が事実上、・東・ド第引、を 索権国家として承認したことを意味した。この頃にはソ連の指導者ニキータ・フルシチョフ の ( 一八九四—一九七一 ) は、ドイツ統一とその中立化を求めるというスターリンの戦略を放棄。 合 ドイツ分断の固定化と、東ドイツの政治的安定化を目指し、「二つのドイツ」を国際社会に 結 西容認するよう求めるようになっていた。これに対しアデナウアーは、ドイツを正統に代表す るのはドイツ連邦共和国、つまり西ドイツだけであるという「単独代表権」を国際社会で主 雖張する。 知西ドイツが単独代表権を持っという主張、すなわち、民主的な手続きを経て成立した西ド 一ィッこそが、ドイツ民族の正統な国家であり、ドイツ民族を代表する唯一の国家であるとい ウう主張は、建国以来のアデナウアーの、そして西ドイツの原則であった。そのため西ドイツ デ政府は、ドイツ統一に関して全ドイツでの自由選挙という条件を掲げ続けていたのである。 ア なお、後述するように、一九五〇年代を通して、西ドイツは「奇跡、と呼ばれる経済復興 Ⅲを果たしていく。 一九五一年と五五年の経済成長率は一〇 % の大台を超え、五〇年代全体で も年平均で約八 % となった。また、失業率も一九五〇年代を通して一〇 % 台から一 % 台にま リ 5

8. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

味でドイツの「過去の克服の出発点に位置する人物であるとした。この部分は、ドイツの 「過去の克服に関心が高い日本の読者を意識して書いたものである。結果として、アデナ ウア ] の九一年の生涯を二〇〇ペ 1 ジ程度にまとめるにあたり、二〇ページ弱を対イスラエ ル「和解」に費やすことになった。 本文でも述べたように、アデナウア】時代は「過去の克服」については基本的に不作為の 時代であり、アデナウアーはむしろ「過去の忘却」を推し進めた政治家として批判の対象で あった。しばしばドイツの「過去の克服」は日本にとってのモデルと見なされるが、その際 の「モデル・ドイツ」は、ブラント政権以降のドイツ連邦共和国である。 しかし、ドイツの「過去の克服は、ドイツの戦後史全体を通じて、複雑な国際・国内政 治が絡み合いつつ、道義と権力政治がせめぎ合うなかで、一進一退しながら積み重ねられて きたものである。ブラント政権以降の「過去の克服」も、アデナウアーによる補償レジーム の基盤整備と「西側結合」があって初めて成し遂げられたものである点を、あえて指摘して おきたい ( 西ドイツとイスラエルの「和解」についてより詳しく論じたものとして、松尾秀哉・日 き井陽一郎編『紛争と和解の政治学』〈ナカニシャ出版、二〇一三年〉所収の拙稿「ドイツとイスラ とエルの『接近と和解』 ルクセンブルク補償協定への道、一九四九—一九五三」を参照いただけ れば幸いである ) 。 2 21

9. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

統一への「好機を逸した」か 一九五二年三月二五日、西側連合国は、スターリン・ノートに対して以下のようなかたち で返答する。それは、ドイツの中立化を拒否し、国連管理下の自由選挙による全ドイツ政府 索の樹立を要求するとともに、全ドイツ政府が同盟に加入する自由を容認せよというものだっ の た。つまり、統一の前であれ後であれドイツの加盟を予定通り進めることを意味した 合 結ものである。 側 これを受けてソ連は、四月九日に、国連ではなく四大国の管理下での自由選挙なら応じる 西 一可能性を示唆した「第二ノート、を公表する。その後、西側内部および東西間で妥協点を探 開るやり取りが見られたものの、前述のように五月二六日にドイツ条約、二七日に条約 交が予定通り調印されると、もはや東西間のドイツ再統一をめぐる主張は平行線をたどるよう 外 になった。こうしてスターリン・ノートを機に沸騰したドイツ再統一をめぐる議論は、その ウ後もソ連が幾度か統一への攻勢を見せるものの、ひとまず落ち着いた。 デ以上のスターリン・ノートへのアデナウアーの対応をめぐって、「逸した好機」をキーワ ア ードに激しい議論が闘わされてきた。たとえばある研究者は、アデナウアーは、大の。フロイ Ⅲセン嫌いで、。フロテスタントが多い東部ドイツにまったく関心がない「ラインの分離主義 者 , であり、再統一をないがしろにしたと非難している。 127

10. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

のは、きわめて現在的な視座からの評価と言えよう。ここでは、やや蛇足ではあるが、特に 本書における二点の「偏りについて釈明しておきたい。 第一に、本書はアデナウアー政治のなかでも外交に多くを割き、とりわけ「西側結合」と いう側面に力点を置いた。第一次世界大戦後のラインラント分離問題に一節を設け、第二次 世界大戦後のキリスト教民主主義者の国際ネットワークに触れたのも、この文脈である。前 者は比較的有名な話だが、日本で詳述されたことはないし、後者についてはドイツの伝記で も言及されることは稀であり、本書の特色と言えるだろう。 その反面、「西側結合」と密接に関連するはすの、ドイツ統一をめぐるアデナウアーの 「カの政策については、後景に退いてしまった。概して本書は、ドイツ統一問題について あまりにドライに綴り過ぎたかもしれない。 これは、私が統一問題ではなく、現在のに深く埋め込まれたドイツを消尽点にして本 書を書いたからである。いつの日か東西ドイツ統一についても研究したいという野心は抱い ているが、そのとき、アデナウアー外交はまた違った形で見えてくるのかもしれない ( なお、 第二次世界大戦後から現在までのドイツとヨーロッパ統合の関係を素描したものとして、近刊の西 田慎・近藤正基編『ドイツ政治』〈ミネルヴァ書房〉所収の拙稿「とドイツ」を参照されたい ) 。 第二に、本書はアデナウアーを、ドイツの戦後補償レジームを整えた人物であり、その意 220