合を深化させる方向へ舵を切っていく。 独仏間の懸案だったザールラント問題については、欧州審議会のなかで、ザールラントの 地位を「ヨーロッパ化」させるという解決案が浮上していた。この案は独仏間で協議されて きたが、ようやく一九五四年一〇月二三日の前述したパリ協定によって、ザールラントの 「ヨーロッパ化が記され、将来の帰属は住民投票に委ねることが合意された。 住民投票はパリ協定を締結した翌年同月に行われ、ザールラントの西ドイツ「復帰を求 める票、つまり独立に反対する票が三分の二となった。この結果を受け、フランスはザ 1 ル ラントのフランス編入および分離独立を放棄する。 一九五六年一〇月二七日、ルクセンブルクで独仏はザールラントに関する条約に調印し、 翌五七年一月一日、ザールラントは一つの州としてドイツ連邦共和国に編入された。このザ ールラント問題の解決によって、独仏和解への大きな障害物が取り除かれた。 ( 一八九七—一九六七 ) 党首率いる自 なお、この間の一九五六年二月、トマス・デーラー 由民主党が連立与党からの離脱を宣言している。この原因は複合的だが、一つに は、ザ】ルラントやヨーロッパ政策をめぐる、アデナウアーとデーラーの考え方の違いがあ デーラーは、より柔軟な東方政策を提唱し、ドイツ再統一のためには Z < 0 離脱の 可能性まで考えていたのである。結局、連邦内閣の閣僚を中心とする一六名の議員が 142
やり方でこれらの異論を封し、ヨーロッパ統合への西ドイツの積極的で明確な態度を対外的 に示したのである。 長い交渉を経て、一九五七年三月二五日にローマ条約、すなわち欧州経済共同体設立条約 およびューラトム設立条約が調印された ( 翌年一月一日発効 ) 。ここでアデナウアーの「西側 結合」政策は一つの確固としたかたちを得る。つまり西ドイツが、軍事・安全保障面では大 西洋共同体に結びつけられ、経済・社会面では西欧の共同体に埋め込まれるようになったの である。 ヨーロッパの政治的な統合をも目標としていたアデナウアーにとって、たしかに経済共同 体は物足りないものではあったが、それでもやはりこれは大きな一里塚であった。アデナウ アーは言う。「まだすべてが流動的で、歴史的な評価を下すのはきわめて困難だ。けれども、 おそらくこの統合は、戦後最も重要な出来事と言えるだろう。 4 イスラエルとの「和解十ーー道義と権力政治の狭間で 首相就任直後からの接近 一九四八年に独立を宣言した「ユダヤ人国家イスラエルは、ドイツ人にとってナチス時 148
るようになっていた。 アメリカとの疎隔 ベルリン問題をめぐって西側内では、対ソ交渉の推進を望む米英と、それに反対する独仏 という意見の相違があった。しかしアデナウアーは、連邦議会選挙の敗北あたりから、西側 とソ連との交渉は不可避と観念していた。 一九六一年一一月二〇日、アデナウアーは、アメリカの対ソ交渉余地を限定するため、ブ レンターノの後任のゲルハルト・シュレーダー外相とフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国 防相とともに、ワシントンを訪問する。 アデナウアーはケネディ米大統領に、東ドイツによる東西ベルリン間の通行管理の容認な ど、ベルリン問題についてはいくつかの譲歩の可能性を示唆するとともに、オーデル・ナイ セ線や西ドイツの核保有に関してソ連に譲歩しないよう釘を刺した。ケネデイもこれに同意 した。しかしこの路線は、一方では一切の対ソ譲歩を拒むド・ゴール、他方ではベルリン問 題以上の譲歩、つまり東ドイツ承認やオーデル・ナイセ線、そしてヨーロッパ安全保障措置 を目指すソ連によって頓挫し、西ドイツの態度も硬化していく。 ここでケネデイ政権は、ソ連との二国間の合意を目指すようになる。冷戦史家の青野利彦 194
当時この決議はそれほど注目されていなかったが、ヨーロッパ統合の流れが、部門別統合 から全般的統合へと大きく広がった瞬間であった。 このメッシーナ決議を受け、スパークを長とする委員会が長大な報告書を作成し、それが のちのローマ条約 ( 欧州経済共同体設立条約および欧州原子力共同体設立条約 ) の叩き台となっ ていく。スパ ークらの狙いの一つは、「共同市場」によって、経済大国となりつつある西ド ィッをつなぎとめておくことであった。 ューラトム構想ーーー西ドイツの核封じ込め 一方、一九五五年六月に欧州石炭鉄鋼共同体 (eocoo) 高等機関委員長を辞したジャ ン・モネは、一〇月に「ヨーロッパ合衆国行動委員会」を設立し、メッシーナ決議を背景に、 スパークとも連絡を取り合いながら、新たな超国家統合を目指していた。その具体像が、欧 州原子力共同体 ( ューラトム ) である。 一九五六年一月一九日、モネ率いる行動委員会は、「欧州共同体は、原子力エネルギーを、 厳格に平和のためにのみ開発せねばならない」と訴え、この目的のために必要な権限を「ヨ ーロッパの機構へと委譲する」ことを説いた共同声明を発表した。つまり、石炭鉄鋼に次ぐ 原子力エネルギーという部門の統合によって、新たな超国家的ヨーロッパをモネは目指した
しかし、の思惑は裏目に出る。アデナウアーは開会式の議長就任演説で、議会評議 会が四六〇〇万人のドイツ人を代表していると述べた。これは西側地区と西ベルリンを合わ せた人口であり、アデナウアーは、開会時にいきなり東側を切り捨てる宣言をしたのである。 この大胆で論争的な就任演説からも、この議長が名誉職に甘んじる気がないことは明らかだ 間っこ 0 年 四 の 後「特権的対話者」アデナウアー 大とはいえ、議会評議会でアデナウアーが具体的な条文を作成することはなく、細かい注文 世 もつけなかった。議会評議会に参加し、のちに西ドイツ連邦大統領となるテオドール・ホイ 次 第ス ( 一八八四 5 一九六三 ) は、一〇年後に当時を振り返って、基本法について「アデナウア ーは読点一つも関与していない」と述べている。しかしアデナウアーは、個々の条文には関 分与していないが、より大きなかたちで基本法制定に貢献したといえる。 領第一に、最終的に基本法を認可する立場にある占領軍との窓口の役割をアデナウアーは 占 たした。よく知ら るように、西ドイツの思鬧 における占領権力の介入はきわ Ⅱめて小さなものであったが、それ てした。たとえば一九四八 年一一月二二日に、八項目にわたって基本法の原則を確認した「基本法に関する覚書 , が手
た私にとって、アデナウアーの「西側結合」路線というのは、かなり特異なものに思えたの である。セバスチャン・ハ フナーは、『ヒトラーとは何か』のなかで、「ヒトラーのような人 物はドイツの伝統にはまったくみられない と述べ、ヒトラーを「突然外から舞い込んでき た」「ドイツ史の例外」と論じている。しかし当時の私は、誰よりもアデナウアーという人 物に「ドイツ史の例外」を見たのである。私にとってアデナウアーへの関心は、「中欧に こだわり続けた近代ドイツへの関心と表裏一体だった。 こうして大学院生の頃から、暇になるとアデナウアーの回顧録や演説集を読み齧ってはい た。しかし二〇〇七年末に博士論文をまとめた後でも、なかなかアデナウア ] 自体を研究す る気は起きなかった。ドイツにおける先行研究の分厚さにたじろいだからである。とても私 では独創的な研究ができそうにない。さらに、ドイツのアデナウアー研究に漂う「敷居の高 さ , も私を気後れさせた。それでも、他の研究を進めつつ、アデナウアー関連の資料を少し ずつ収集し、ノートをとる作業は続けていた。また、アデナウアー自体を直接の対象とはし ないものの、「アデナウアー時代に関する論文をいくつか著すようになった。 きそうしたなか、アデナウアーと正面から向き合うきっかけを与えてくださったのは、君塚 と直隆先生である。二〇一一年一月のある会合で、評伝の名手である君塚先生から「板橋さん が伝記を書くとしたら、誰について書きますか , と尋ねられたとき、私は迷わすアデナウア 223
こうした評価は、東西統一後も揺らいでいない。二一世紀を迎えた後、ドイツ第二テレビ ( N の「わたしたちのベスト (Unsere Besten) 」という視聴者参加型ランキング番組の 第一回放送三〇〇三年一一月二八日 ) で、「最も偉大なドイツ人。の順位を決めようとした ことがあった。これは、放送の約三カ月前から郵便やインターネットなどで約一八二万人に アンケートをとった大掛かりな催しである。 結果、マルティン・ルターやカール・マルクスを退け、一位はアデナウアーであった。政 治家では他に、東方政策を推進した西独首相ヴィリー ・ブラント ( 一九一三—九一「在任一九 六九—七四 ) が五位、ビスマルクが九位につけている。 さらに、ベルリンの壁が崩壊して二〇年が経った二〇〇九年、「これまでで最も重要だっ た連邦首相は誰だと思うか ? 」というあらためてアレンスパッ、 ノ研究所が行った調査でも、 旧東ドイツ地域ではブラントや統一時の首相へルムート・コール ( 一九三〇—、在任一九八二 —九八 ) が上回ったものの、全体としてはアデナウアーが最も多かった。 では、アデナウアーの何が評価されているのだろうか。先の三種の世論調査からはその理 由まではわからないが、前述のように、アデナウアーという名前が「建国」や「復興」「繁 栄ーというイメージに結びついているからだろう。当初は敗戦国として主権も奪われていた 西ドイツは、アデナウアーの首相在任中に、「経済の奇跡を起こし、「繁栄」を享受するま
マルクスは、ライン共和国はフランスの影響にさらされ、自律を保てないと考えていた。 アデナウアーの対応 ケルン市長であり、かつ中央党の一員でもあるアデナウアーは難しい立場にあった。他党 ではあるが、彼の友人で社会民主党の指導者ヴィルヘルム・ゾルマンや、民主党の指導者べ ルンハルト・ファルクは「分離主義者 , や「連邦主義者 , へのいかなる譲歩にも反対してい た。他方、中央党の人々は「分離。か「自律」のどちらかに傾いていたからである。 一九一八年一一月二二日、ケルンの主要三党である中央党、社会民主党、民主党から各三 名の代表が集まり、アデナウア ] を議長とする超党派の委員会が結成された。この委員会は、 アデナウアーのイニシアティブのもと、ラインラントのドイツからの分離独立ではなく、ド ライヒ ィッ国家内で「西ドイツ共和国ーを成立させるという構想を打ち出していく。 アデナウアーの考えは、一九一九年二月一日に比較的まとまったかたちで表明された。こ の日、アデナウアーの要請により、一月一九日の選挙でライン左岸から選出されていた憲法 制定国民議会 (NationaIversammlung) の議員、一月二六日の選挙でライン左岸から選出され ていたプロイセン州議会 (LandesversammIung) 議員、そして占領下のライン地方の諸都市 の市長たち総勢約七〇人が、ケルン市庁舎の「ハンザ・ホール」に集められた。アデナウア
ケルンでも一一月七日に労兵評議会が権力を掌握した。若き市長アデナウアーは、こうした 激変への対応を迫られる。 革命当初、アデナウアーは「反乱者たちを逮捕しようとしたが、ケルンの駐屯兵の多く が革命側に味方することがわかると、一転して彼らの要求に応し、一五人から成る労兵評議 会の設置に同意した。そしてアデナウアーは、実際の行政の領域で、労兵評議会よりも迅速 かつ効果的に行動することで、存在感を示していく。 ますアデナウアーは、食糧の支給などに奔走した。さらに政党や労組の指導者から成る福 祉委員会を設置し、部隊の動員解除や、治安維持のための特別警備隊の組織、そして食糧供 給の組織化にあたらせる。 それまでも有能な行政官とみられていたアデナウアーだが、この一一月革命期に発揮した 指導力によって、危機の時代に決断できる指導者と評価されるようになっていく。毎日一六 冫かっ主導権を彼らに奪われないよ —一八時間黙々と働き、革命家たちと対立しないようこ、 うに、次々と決断を下していった。ケルンの労兵評議会議長ハインリヒ・シェファーは、 「労兵評議会と協調して法と秩序の回復に尽力してくれた」として、一一月二一日に市長に 感謝さえ述べている。こうしてアデナウアーは、革命をうまく統御し、市行政の機能を迅速 に回復させたのである。
第Ⅳ章「宰相民主主義」の時代 - ー一一九四九 ~ 六三年 アデナウアー時代の連邦議会選挙結果 第 1 回 第 2 回 第 3 回 年月日 1949. 8. 14 1953. 9. 6 1957.9 , 15 1 1 . 9. 17 投票率 78.5 86.0 87.8 87.7 議席数 402 487 497 499 得票率議席得票率議席得票率議席得票率議席 CDU/CSU 31.0 139 45.2 243 50.2 270 45.3 242 SPD 29.2 131 28.8 151 31.8 169 36.2 190 FDP 11.9 52 7.7 41 12.8 67 その他 27.9 80 10.3 17 第 4 回 16.5 たが、前回選挙で獲得していた過半数を失うという敗北であっ ・た「・・・一〈 , ・レ . ゅ . ツ」対するアデナウアーの、じが明らかに敗因の 一つであった。 大きく得票を伸ばしたとの連立によって政権維持は可 リヒ・メンデ ( 一九一六 5 九 能だったものの、 g-«党首エー 八 ) は、ここそとばかりアデナウアーを攻撃し、自党の要求を 貫徹しようとした。五八日にわたる連立交渉のあいだ、アデナ ウアーは、首相としての資質や、「西側結合」政策の妥当性を 問われる。結局、アデナウアー路線に忠実だったフォン・、、フレ ンターノ外相は更迭され、アデナウアー自身も任期内の「適切 な時期に首相の座の禅譲を約束させられてしまう。 なお、は、すでに一九五九年一一月の党大会で「バ ト・ゴーデスペルク綱領を採択し、マルクス主義に基づく階 級政党から国民政党へと脱皮を遂げつつあった。また、翌年に は外交・安全保障政策面でもおよび連邦軍を承認し、 と同し土俵に乗ったうえで、その硬直的な外交を批判す 193