アデナウアーの首相在任期間は、同し一四年間である。周知の通り、当時世界で最も先進的 な民主憲法を備えていたヴァイマル共和国は、世界恐慌のなか左右の反体制勢力の挟撃に合 い崩壊した。第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国の憲法にあたる基本法は、このヴァイマ ル共和国の反省、特にその人民投票的民主主義や価値相対主義に対する反省から成り立って つまり基本法は、代表制を徹底した民主主義を採用するとともに、「民主主義の敵、に対 しては「寛容」を適用せすに「闘うものとなったのである。アデナウアーは、この基本法 を制定した議会評議会の議長を務めるとともに、「宰相民主主義」と呼ばれた一四年間の強 権的な統治を通じて「基本法体制」の定着に成功した。逆説的だが、アデナウアーは、長く 強大な権力を保持し、政敵を抑えつけることによって、結果的にドイツにおける自由民主主 義体制の定着に寄与したのである。 第二は、外交における「西側選択」である。 この領域は、よりアデナウアー個人のイニシアティブが発揮された。東西冷戦のなか、ア デナウアーは西ドイツを西側世界に徹底的に結びつけることを決断し、結果的に西ドイツは 防衛領域を北大西洋条約機構 (Z<+O) に、経済領域をヨーロッパ共同体に統合すること になった。こうしたアデナウアー外交は「西側結合 (westbindung) 」あるいは「西側統合
序章ドイツとアデナウア】 者 進 推 の 僵アデナウアーの首相在任期間をドイツ史学では「アデナウアー時代」と言う。このアデナ 西ウアー時代は近現代ドイツ史における大きな転換点をなしており、その遺産は現在の統一ド ( 一九二八—二〇〇五 ) によれば、 ィッをも規定している。政治学者クルト・ゾントハイマー 「こんにちの連邦共和国の政治的・経済的・文化的基盤が創り出された」時代だという。 ア ウ この転換や基盤創出の意味内容を一言で表すならば、それはドイツの「西欧化 ナ ア (weste 「 nization 、 weste 「 nisie 「 ung) 」である。この場合の「西欧」とは、イギリスやフランス ツのような現実のある特定の国を指すのではなく、一つの価値共同体としての「西欧、である。 そして、この「西欧化は次の二点によって規定される。 章第一は、内政における自由民主主義体制の定着である。 興味深いことに、ドイツ史上初の民主主義体制であったヴァイマル共和国の存続期間と、 「西欧化」の推進者
うになる。 西ドイツ建国を控えた一九四九年の夏以来、アデナウアーはもはや直接ジュネーブ・サー クルに顔を出すことはなくなったが、外交顧問のヘルベルト・ブランケンホルン ( 一九〇四 —九一 ) や首相府次官オットー ・レンツ ( 一九〇三 5 五七 ) を派遣し、サークルを積極的に活 用し続けた。ヨーロッパ統合やドイツ再軍備、そしてドイツ再統一問題について重要な案件 年 四が持ちあがるたびに、ジュネーブ・サークルを通じて、西欧とりわけフランスの政治家たち 後と連絡を取り合い、自己の「西側結合」政策を貫徹していくのである。 大以上のようにアデナウアーは、 z —やジ = ネーブ・サークルを通じて、占領期から自己 世の国際的立場を強めるとともに、積極的な外交活動を展開していたのである。 第 4 基本法の制定ーーヴァイマル共和国の教訓 断 分 領分断への道 占 ドイツ連邦共和国 ( 西ドイツ ) の成立、すなわちドイツの東西分断は、冷戦の進展と切り Ⅱ離すことができない。すでに一九四七年三月のトルーマン・ドクトリンの発表により、アメ リカのハリー ・ ()n ・トルーマン政権は、共産主義の「封じ込めに乗り出した。また、六月
勢力に屈し、は社会民主党 (crw=) との「大連立」を組む。結果、アーノルトが州 首相となり、大連立政権は「社会化路線を進めようとし、これに危機を感じたアデナウア ーは、社会民主党を権力から排除した政治を、以前にも増して追求することとなったからで ある。 英米占領地区の経済評議会 一九四七年六月、英米は両占領地区の経済的統合を決定し、統合された経済領域における 立法府・行政府として経済評議会をフランクフルトに据えた。アデナウアーは評議会の構成 員ではなかったが、 o 議員団長のフリードリヒ・ホルツア。フフェル ( 一九〇〇—六九 ) を通して、影響力を行使する。 この経済評議会における政党政治は、二つの点で、のちの連邦共和国政治につながるもの として重要である。 第一に、 0 とキリスト教社会同盟 (o >) の共同の議員団が結成されたことである。 は、アメリカ占領地区のバイエルン州を地盤とした、よりも保守的な地域政党 である。このとの共同議員団 ( 共通院内会派 ) は、西ドイツの連邦議会にも引 き継がれる。
外交政策の領域については、わたしたちの路線は確定しています。それは何よりも、 西側世界の近隣諸国との密接な関係を築くこと、そしてとりわけアメリカ合衆国との密 接な関係を築くことです。われわれが全精力をかけて追求するのは、ドイツが可及的速 ーとしてョ】ロッパ連邦に受け入れられること やかに同権かっ同等の義務を担うメンバ 一九四九年九月二〇日、連邦議会における初演説で、アデナウアーは「来歴や心情からし て、われわれが西欧世界に属するのは自明のことです」と述べ、「〔西側〕連合国とどこまで も共に道を進む」と宣言する。アデナウアーは、本格的に「西側結合」政策に乗り出してい くのである。 私生活の消減 これまで述べてきた激動の歴史の裏で、アデナウアーの私生活にも転機が訪れていた。 きかった。かってのヴァイマル共和国首相ハインリヒ・ブリュ ーニングは、当時アデナウアーを訪問したときの印象をこう述べている。「彼は孤独な男」 102
同様にロシアは、言葉ではなく力を尊重します。それゆえ、攻撃した場合に自ら招く危 険をロシア人に認識させるには、西欧に強大な力を築くことが必要です。〔 : ・〕こうし た攻撃力の構築のみが、平和を維持することができるのだとわたしは強く確信しており ます。 さらに、このときアデナウアーは「ポッダム」の再来にも警戒していた。一九四五年のポ ツダム会談のときのように、ドイツ抜きの大国間だけでドイツ問題が取り決められてしまう ことを恐れたのである。 アデナウアーは、一九五三年六月のインタビューでこう語っている。「ビスマルクは、対 独連合という悪夢について語っている。わたしにも悪夢がある。それはポッダムである。ド ィッを儀牲にした大国間の共同政策という脅威は、一九四五年以来、そして連邦共和国建国 後も存在している。連邦政府の外交政策はこの危険地帯からの脱出を初発から目指してい る つまり、「ポッダムの悪夢」とは、超大国がドイツの頭越しにドイツ統一とその中立化を 決定してしまうのではないかという恐れである。 126
されることとなる。 また、基本法の条項ではないのだが、いわゆる「五 % 条項」の導入も重要である。これは、 極端な小党分立を避けるた、全国で五 % 以上得票した政党だけに、議会の議席を与える制 度である。この五 % 条項は、一九五三年の第二回連邦議会選挙から全国レベルで導入された。 以上のように、ドイツ連邦共和国は、総じて政治体制の安定をきわめて強く求めた憲法秩 序になった。首都の名から「ポン共和国、と呼ばれる西ドイツは、ヴァイマル共和国の歴史 を繰り返さないことが国是となった。 連邦共和国初代首相への就任 第一回連邦議会選挙 基本法の布告とともに、最初の連邦議会選挙を目指した選挙運動が始まった。一九四九年 夏の選挙戦は、主として・ギ・男・ス , ド・教民主 ' ・・・、、、・・・ー・・ーーー 同盟 ( o ) と社会民主党 ( ) との戦いと なる。最も重要な争点は、経済政策であった。 が言画経済と主要産業の国有化を唱える一方、は「社会的市場経済 , を掲げ て選挙戦を戦った。「社会的市場経済」は、アーレン綱領に見られた「経済民主主義」を表
たち、もちろんそこにはナチス時代の外交官も含まれていたが、 , 彼らに対してドイツ外交に 必要なのは「高潔な自制」であることを強調した。 それから半年後の一九五一年九月二四日から、アデナウアーと高等弁務官府の間で占領規 約撤廃に関する交渉が開始された。ここでも、アデナウアー政治の成功の秘訣、つまり会議 で「最後まで座っていられること」が実践される。アメリカの高等弁務官マックロイはこう 回顧している。「〔ペータースペルクでの会議の多くは〕夜までかかった。時には再び朝日を拝 むこともあった。そういったとき、われわれは疲れて眠くなっているにもかかわらず、アデ ナウアーの頭はまだ冴えているのだ」。 ドイツ条約と L.uao 条約の調印 一九五一年一一月下旬から、欧州防衛共同体 (e=o) 条約と、西ドイツが主権を回復す るための条約についての交渉がパリで行われた。早期に決着をつけたかったアメリカの圧力 もあり、一九五二年五月には条約交渉が終了し、五月二六日にポンでドイツ条約 ( 正式には 「ドイツ連邦共和国と西側三国の関係に関する条約」。「一般条約」とも言う ) が調印され、翌二七 日にパリで条約が調印された。 ドイツ条約は西ドイツが主権を回復するための条約だったが、三つの重要事項、すなわち 120
ととなった。なぜなら、基本法は、ヴァイマル共和国の経験を強く意識していたからである。 制定当時、「世界で最も民主的」と言われた憲法を有したヴァイマル共和国が短命に終わり その次にナチ体制という未曽有の全体主義体制が成立したという事実は、基本法制定に関わ る人たちの脳裏から離れることはなかった。 議会評議会に集まった人々は、ヴァイマル共和国時代の政治を次のように理解していた。 年 四第一に、比例代表制により小党が乱立し、安定した多数派形成が困難だった。第二に、議会 後制そのものを否定する勢力が議会で活動することを許し、ナチ党や共産党など、反議会主義 大勢力が議会の過半数を占めるにいたった。第三に、議会が機能麻痺に陥ると、人民投票に基 世づく強大な大統領権力に依拠して政権運営を行わざるをえなくなった。 こうしたヴァイマル共和国時代の反省から、基本法は次のようなものになった。第一に、 第 「建設的不信任。制度が導入された。簡明に一一一口えば、不信任案を提出する際には、必す後任 分の用意を求めたものである。第一一は、・幻綣国窈名誉、ーー イてある。大統領は、ほとんど儀礼的 領な存在とされ、さらに国民ではな , 、、、測 ~ 「ロ ' もプ・で・通・聞・れるものとされた。第三は、 」白イニシアティブプレビシット 国民発案や国民票決といったヴァイマル憲法が規定していた時も主義制度グ旧である Ⅱ第四は、自由民主主義を盟ナ引引的を・描づ・窈測司」いう「憲法敵対的、政 党の禁止であゑこれは、「闘う民主主義」と呼ばれ、実際に共産党やネオナチ政党が禁止
から対外債務に優先するという決議を一九五二年五月一〇日に採択した。同日に党首 シューマッハーは、ロンドンの対外債務交渉と対イスラエル補償を切り離すべきであるとア デナウアーに書簡を送っている。 その前日にはゴルトマンも、交渉の道義的意義を強調し、速やかな交渉再開をアデナウア ーに求めていた。警告のためゴルトマンは書簡の写しをマックロイ米高等弁務官にも送付し ている。 アデナウアーは、「世界から連邦共和国が反ユダヤ主義的であるという評判を立てられる 危険は近い」と認識し、以後対イスラエル交渉を最優先するようになる。 ます、アデナウアーは、交渉代表団長だったべームに辞任を撤回して、解決案を提示する よう促した。。 ヘームはこれに応じ、三〇億マルクの物資を八年から一二年年賦で支払うこと を提案する。ゴルトマンはこの案に同意するとともに、請求会議への補償額を当初の請求の 四分の一以下の五億マルクに減額し、さらにイスラエルと請求会議への補償を共同で扱うよ う提案した。そのうえで、補償交渉がロンドン債務会議の経緯に左右されないことを確認し 一九五二年六月一七日の閣議でアデナウアーがこの案を議決しようとしたとき、再び財務 相シェファーの強い抵抗にあった。しかし、アデナウアーの決意は固かった。このままでは 巧 6