当時この決議はそれほど注目されていなかったが、ヨーロッパ統合の流れが、部門別統合 から全般的統合へと大きく広がった瞬間であった。 このメッシーナ決議を受け、スパークを長とする委員会が長大な報告書を作成し、それが のちのローマ条約 ( 欧州経済共同体設立条約および欧州原子力共同体設立条約 ) の叩き台となっ ていく。スパ ークらの狙いの一つは、「共同市場」によって、経済大国となりつつある西ド ィッをつなぎとめておくことであった。 ューラトム構想ーーー西ドイツの核封じ込め 一方、一九五五年六月に欧州石炭鉄鋼共同体 (eocoo) 高等機関委員長を辞したジャ ン・モネは、一〇月に「ヨーロッパ合衆国行動委員会」を設立し、メッシーナ決議を背景に、 スパークとも連絡を取り合いながら、新たな超国家統合を目指していた。その具体像が、欧 州原子力共同体 ( ューラトム ) である。 一九五六年一月一九日、モネ率いる行動委員会は、「欧州共同体は、原子力エネルギーを、 厳格に平和のためにのみ開発せねばならない」と訴え、この目的のために必要な権限を「ヨ ーロッパの機構へと委譲する」ことを説いた共同声明を発表した。つまり、石炭鉄鋼に次ぐ 原子力エネルギーという部門の統合によって、新たな超国家的ヨーロッパをモネは目指した
その一方でイギリス占領地区 o は、党員を順調に増やしつつ、組織化を進めていった。 ゴーデスペルクの全国集会ののち、イギリス占領地区から八人の代表を集め、 0 イギリ ス占領地区委員会が構成された。占領地区単位で組織化されたのはではイギリス占領 地区だけであり、このことが全体におけるイギリス占領地区の党の重要性を高めてい 年 四 一九四六年一月一三 —二三日、ヘアフォルトで最初のイギリス占領地区委員会の会議が開 の 後かれた。ラインラント州代表として参加したアデナウアーは、自分が一番年長だからという 大ことで、当然のように議長を務め、終始議論をリードして、首尾よくイギリス占領地区委員 世会の暫定議長に選出された。周囲があっけにとられるほど巧妙な議事進行だった。 第アデナウアーが正式に地区委員会議長に選出されたのは、一カ月後のネーハイムⅡヒ = ス テン会議 ( 一九四六年二月二六日—三月一日 ) である。この会議ではイギリス占領地区党綱領、 分いわゆる「ネーハイムⅡヒュステン綱領」が採択されるのだが、これは、戦後ドイツの政治 領経済秩序構想を研究した野田昌吾によると、「本質的にアデナウアーの作品だと言ってもよ 占 い」もので、・前述のケルン原則とはまったく異なるものとなった。ケルン原則にあったキリ Ⅱスト教社会主義的な要素は後景に退き、自由民主主義的な要素が強調されたからである。す なわち、ケルン原則では、共通善や公共の福祉の観点から私的所有の制限が主張されていた
マルクスは、ライン共和国はフランスの影響にさらされ、自律を保てないと考えていた。 アデナウアーの対応 ケルン市長であり、かつ中央党の一員でもあるアデナウアーは難しい立場にあった。他党 ではあるが、彼の友人で社会民主党の指導者ヴィルヘルム・ゾルマンや、民主党の指導者べ ルンハルト・ファルクは「分離主義者 , や「連邦主義者 , へのいかなる譲歩にも反対してい た。他方、中央党の人々は「分離。か「自律」のどちらかに傾いていたからである。 一九一八年一一月二二日、ケルンの主要三党である中央党、社会民主党、民主党から各三 名の代表が集まり、アデナウア ] を議長とする超党派の委員会が結成された。この委員会は、 アデナウアーのイニシアティブのもと、ラインラントのドイツからの分離独立ではなく、ド ライヒ ィッ国家内で「西ドイツ共和国ーを成立させるという構想を打ち出していく。 アデナウアーの考えは、一九一九年二月一日に比較的まとまったかたちで表明された。こ の日、アデナウアーの要請により、一月一九日の選挙でライン左岸から選出されていた憲法 制定国民議会 (NationaIversammlung) の議員、一月二六日の選挙でライン左岸から選出され ていたプロイセン州議会 (LandesversammIung) 議員、そして占領下のライン地方の諸都市 の市長たち総勢約七〇人が、ケルン市庁舎の「ハンザ・ホール」に集められた。アデナウア
ケルンでも一一月七日に労兵評議会が権力を掌握した。若き市長アデナウアーは、こうした 激変への対応を迫られる。 革命当初、アデナウアーは「反乱者たちを逮捕しようとしたが、ケルンの駐屯兵の多く が革命側に味方することがわかると、一転して彼らの要求に応し、一五人から成る労兵評議 会の設置に同意した。そしてアデナウアーは、実際の行政の領域で、労兵評議会よりも迅速 かつ効果的に行動することで、存在感を示していく。 ますアデナウアーは、食糧の支給などに奔走した。さらに政党や労組の指導者から成る福 祉委員会を設置し、部隊の動員解除や、治安維持のための特別警備隊の組織、そして食糧供 給の組織化にあたらせる。 それまでも有能な行政官とみられていたアデナウアーだが、この一一月革命期に発揮した 指導力によって、危機の時代に決断できる指導者と評価されるようになっていく。毎日一六 冫かっ主導権を彼らに奪われないよ —一八時間黙々と働き、革命家たちと対立しないようこ、 うに、次々と決断を下していった。ケルンの労兵評議会議長ハインリヒ・シェファーは、 「労兵評議会と協調して法と秩序の回復に尽力してくれた」として、一一月二一日に市長に 感謝さえ述べている。こうしてアデナウアーは、革命をうまく統御し、市行政の機能を迅速 に回復させたのである。
キームゼーで専門家会議が招集され、憲法の素案が作成された。この素案が、次に述べる議 会評議会に提出されることになる。 議会評議会の議長に 一九四八年九月一日、一一の州議会からそれそれ選出された六五名の代表から成る議会評 議会 (parlamentarischer Ra ( / 意訳すると「憲法制定会議」 ) がポンに招集された。政党構成は、 キリスト教民主・社会同盟から二七名、社会民主党から二七名、 自由民主党から五名、ドイツ党、中央党、共産党から各二名だった。また、ベル 彼らは発言権はあるが議決権はもたなかった。 リンからも五名の代表が参加したが、 , 初日にアテナウアーは、議会評議会の議長に、共産党は棄権したものの、満場一致で選出 された表向きの理由は、。フロイセン国家評議会で議長を長年務めた経験からだったが、実 は当初、この議長職は名誉職に過ぎないものと思われており、と同議席の が名を捨てて実を取ろうとしたのである。は、代わりに自党のカルロ・シュ、、 ト ( 一八九六—一九七九 ) を中央委員会委員長に据えることによって、議論の主導権を握ろ うとしていた。また、 O 0 のなかにも、これがアデナウア ] の「最後の花道と 考えていた人々も少なくなかった。
ミートは、「交渉は首 委員長として代表団に参加していた野党社会民主党のシュ 」概窈独であら、だ」と証一 = 〔している。 このときのアデナウア ] の交渉は、かなり率直かっ強硬なものであった。ソ連側の公式見 解は「戦争犯罪者ー以外の抑留者は存在すらしないというものだったが、アデナウアーは、 国交樹立の成否を盾に、抑留者全員の解放を迫った。また、ドイツ人の集団的罪責を主張す るソ連指導部に対アデナウア ] は「ヒトラーやその支持者たちとドイツ人を一緒にはで きない」と主張し、ソ連がナチスと不可侵条約を結んだこと、ソ連軍がドイツで蛮行を働い たことを指摘した。 議論が平行線をたどるなか、アデナウアー 日オに出る九月一二日、これ以上の交 渉は無意味であるとして、予定よりも早く帰国用の飛行機を手配したのである。この行動に、 ソ連の態度は変化を見せた。その夜のレセ。フションの席上、ニコライ・ブルガ ] ニン首相は、 ポンとモスクワの外交関係樹立と引き換えに、「すべての」戦時捕虜の解放を約束したので ある。九月一四日、アデナウアーはモスクワでの記者会見で「きわめて重要かっ喜ばしい成 果」を得ることができたと誇った。 一九五五年一〇月七日の最初の帰還便を皮切りに、計九六〇〇人の戦時捕虜、約二 万人の民間の抑留者が帰国した。、 トイツ世論は、これをアデナウアーの偉業と見なした。抑 138
交渉中断のあいだ、西ドイツ政府内は紛糾した。財務相フリツツ・シェファーは、あくま で対外債務支払と再軍備の優先を主張した。また司法相トマス・デーラーは、ユダヤ人を優 先する補償のやり方は、国内の反ユダヤ感情を刺激するとして反対した。こうした閣内の反 索応は、当時の西ドイツ国民の意識を反映したものでもあった。 の アレンスパッ、 ノ研究所の世論調査によると、「ドイツ・ユダヤ人生存者に対する補償」を 合 結支持する国民は五割以上いたものの、「三〇億マルク分の物資という形でのイスラエルへの いに対しては、支持は一一 % に過ぎす、四四 % の国民が 西補償は必要だと思うか」という 一「不要」と答え、二四 % が「支持はするが高額過ぎる」と答えていた。 一九五二年五月、西ドイツ側の交渉代表団長を務めていたフランツ・べームが、財務相と 展 交の摩擦から辞任する。このことが公になると、連邦政府に対する激しい批判が国内外から浴 一びせられた。この頃アデナウアーは、ドイツ条約および欧州防衛共同体交渉に時間を奪われ ウていたため、対イスラエル交渉は疎かになっていた。しかし、国際世論と野党の圧力から、 デアデナウアーも積極的に動かざるをえない状況になっていく。 ア 外国紙は、西ドイツの補償政策を厳しく非難していた。あるオランダの新聞は、交渉団長 Ⅲの辞任について「ドイツの恥」という見出しで報じた。また、のカルロ・シュ、、 を委員長とする連邦議会の外務委員会が、イスラエルとユダヤ人の補償請求は道義的な理由 155
った。ケルン中央党やラインラント中央党のリ ] ダ ] でもなければ、。フロイセン中央党やラ イヒ ( 全国 ) 中央党で重要な党職についていたわけでもない。 もちろん、ライン州議会や州 委員会などには中央党代表という肩書きで参加していたわけだが、そこで党の利害を追求す ることはなかった。 ニ度の首相打診 ケルン市長としてアデナウアーは、。フロイセンの第二院である国家評議会 (Staatsrat) に 議席を有していた。一九二一年五月以来、ナチスが政権を握る三三年まで、この評議会の一 長を務めている反。フロイセンのイメージが強いアデナウアーだが、一方で。フロイセン政治 の要職にもあった。これは、ベルリンにも拠点を有していたことを意味し、国政は決して縁 遠いものではなかった。 事実アデナウアーは、ヴァイマル共和国期に二度「首相就任を打謬ざれてい、ゑ最初の打 診は一九二一年、賠償問題で組閣すら困難に陥っていたときに、中央党の議会議員団によっ て、首相候補に挙げられた。しかしアデナウア】が、首相就任の条件として政党政治に左右 されない組閣を要求したため流れている。 二度目は一九二六年の春である。当時の国政では、国旗政令問題と王侯財産権問題という
の支持を得るために、アデナウアーが利権をばらまいたことはよく知られている。さらに、 旧ナチス関係者に関わる恩赦委員会を設置することによって、保守層の支持を得ることも行 っている。 こうしたアデナウアーの選挙戦略に共通しているのは、が強くなければ、一方で共 産主義・社会主義勢力が拡大し、他方ではナチスのような強力な右翼政党が台頭するという レトリックである。それはレトリックにとどまらす、アデナウアーの信念に近いものでもあ むろんアデナウアーは、首相在任中の全期にわたって強大な権力を維持できたわけではな 。アデナウアーの「宰相民主主義。の絶頂は、一九五三年の第二回連邦議会選挙から五七 年の第三回連邦議会選挙あたりまでである。その後、彼の権力は弱まっていくのだが、その 過程をたどる前に、アデナウアー政権の内政における成果を確認しておこう。 2 国内秩序の安定ーー社会政策による統合 初期の政策ー、、ー敗戦後の苦境からの脱却 敗戦直後のドイツで国民生活が荒廃・混乱するなか、米英仏の西側占領軍は統一的な社会 174
ヴェルサイユの裁定 一九一九年一月から始まったパリ講和会議では、アメリカとイギリスの代表が、フランス によるラインラントの併合にも、ラインラントに緩衝国家を設立することにも反対した。ヴ エルサイユ条約調印前の一九一九年五月半ば、ドイツ代表は、ラインラントはドイツにとど まること、しかし占領されたライン川左岸・右岸は、一五年間、連合軍の統制下に置かれ、 その後も非武装を維持することを告げられた。 この条件を憂えたアデナウア ] は、一九一九年二月の会議で選出された「西ドイツ政治委 員会」を五月三〇日に招集し、一五年間の占領は、実質的にラインラントのドイツからの政 治的・経済的分離に導くという彼の危惧を伝えた。これを受け委員会は、ヴェルサイユ会議 のドイツ代表ウルリヒ・フォン・プロックドルフⅡランツアウ外相 ( 一八六九—一九二八 ) に特使を派遣し、。フロイセンを解体して新たな連邦ドイツ内でラインラント州を設立したほ うが長期的にはドイツにとってよいと説得を試みる。 アデナウアーは、これがフランスの安全保障要求を満たし、ラインラントの長期占領も防 ぐと論じている。しかしプロックドルフⅡランツアウは、。フロイセン解体を拒否し、この提 案を退けた。