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検索対象: アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家
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1. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

という個性であったことを示していきたい。 重要なのは、アデナウアー時代の西ドイツが選択した国是、すなわち内政における基本法 体制と、外交における西側路線は、一九九〇年以降の統一ドイツにも引き継がれたことであ る。そもそも西ドイツの憲法典が「憲法 (Verfassung)_ ではなく「基本法 (Grundgesetz)_ と名付けられたのは、トイツ統一後にあらためて憲法を制定することを企図していたからで ある。 だが、周知のように東西ドイツの統一は、基本法の二三条に基づき、東ドイツを「新五 州ーに再編して西ドイツに加入させるという形式をとった。結局、基本法体制は存続したの である。また、 ミハイル・ゴルバチョフが最後まで渋ったものの、統一後のドイツは Z e 0 に帰属することが統一に先立って定められた。「西側結合」は基本的に保持されたまま、 現在にまでいたっているのである。 なお、この序章ではアデナウア ] から現代ドイツにいたる連続面を強調したが、むろん断 絶面も重要である。たとえば、多くの先進諸国同様、西ドイツも一九六〇年代に政治文化の 変容を経験した。そして、一九六〇年代に清算すべぎ対象とされたのは、何よりもアデナウ アー時代の政治文化だったからである。では、アデナウアー政治の何が問題とされ、清算の 対象となったのか。この点については終章であらためて論じたい。

2. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

第ニ次ベルリン危機 東西ドイツ分断後も、東西ベルリン間の往来は自由であり、西ドイツ領域と西ベルリン間 の往来も米英仏の占領に伴う権利として保障されていた。そうしたなか、西ドイツの経済成 長により東西ドイツの間に大きな経済格差が生まれると、数多くの東ドイツ市民がベルリン を経由して西側に流出するようになる。特に東ドイツにとって深刻だったのは、若い人材や、 知識人、熟練労働者が西側に向かったことである。こうした事態は、東ドイツ国家の政治 ウルブリヒト ( 一八九 的・経済的安定を脅かすものであった。国家評議会議長ヴァルター・ 三九七三 ) は、ソ連書記長フルシチョフに状況の改善を要請し、ソ連はこの問題に対処 する必要に迫られる。 アデナウアーとド・ゴ】ルのクロイツナハ会合の翌日である一九五八年一一月二七日、フ ルシチョフは、西ベルリンの「非武装自由都市」化を提案し、それが認められなければ、ソ 連は東ドイツと単独で平和条約を締結し、四大国の権利であるべルリンへの通行管理を東ド ィッに移管するとした。第二次ベルリン危機の始まりである。 この間、アデナウアーがベルリン問題について手をこまぬいていたわけではない。すでに 一九五八年三月七日、極秘に駐西独ソ連大使アンドレイ・スミルノフと接触し、「オースト リア方式による東ドイツの中立化をもちかけていた。これは、一九五五年に米英仏ソの四 188

3. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ワルシャワ条約機構の成立と西ドイツの「単独代表要求 西ドイツが z 0 に加盟すると、 ' 刀・連・は - ・一・・・ - 九・五・五年五川・『・・当印・、・・・東日・みをむ刺¯< カ国とワルシャワ条約機構 (o) 立させた。これは、ソ連が事実上、・東・ド第引、を 索権国家として承認したことを意味した。この頃にはソ連の指導者ニキータ・フルシチョフ の ( 一八九四—一九七一 ) は、ドイツ統一とその中立化を求めるというスターリンの戦略を放棄。 合 ドイツ分断の固定化と、東ドイツの政治的安定化を目指し、「二つのドイツ」を国際社会に 結 西容認するよう求めるようになっていた。これに対しアデナウアーは、ドイツを正統に代表す るのはドイツ連邦共和国、つまり西ドイツだけであるという「単独代表権」を国際社会で主 雖張する。 知西ドイツが単独代表権を持っという主張、すなわち、民主的な手続きを経て成立した西ド 一ィッこそが、ドイツ民族の正統な国家であり、ドイツ民族を代表する唯一の国家であるとい ウう主張は、建国以来のアデナウアーの、そして西ドイツの原則であった。そのため西ドイツ デ政府は、ドイツ統一に関して全ドイツでの自由選挙という条件を掲げ続けていたのである。 ア なお、後述するように、一九五〇年代を通して、西ドイツは「奇跡、と呼ばれる経済復興 Ⅲを果たしていく。 一九五一年と五五年の経済成長率は一〇 % の大台を超え、五〇年代全体で も年平均で約八 % となった。また、失業率も一九五〇年代を通して一〇 % 台から一 % 台にま リ 5

4. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

もちろんアデナウアーの「カの政策」は、ある程度ドイツ統一に寄与したのであろう。しか し、ドイツ統一の契機となった東ドイツの崩壊は、ゴルバチョフがソ連指導者として登場す るなど、東側の政治力学が決定的に重要だったのである。ことドイツ統一に関しては、アデ ナウア ] の貢献がどうであったかを主張するよりも、長期的要因と短期的要因を組み合わせ た、より精緻な実証研究が要求されるという当たり前のことを記しておきたい。 時勢と個性 本書が強調したいのは、アデナウア ] 政治の歴史的および長期的な意義である。東西ドイ ッ統一によって、首都の名から「ポン共和国、と呼ばれた西ドイツの歴史は閉じられた。完 結したポン共和国の歴史は、ドイツ統一という大団円に向かうサクセス・ストーリーとして 描かれることが多い。しかし、統一からすでに四半世紀が過ぎようとしている現在、サクセ ス・ストーリーから距離をとり、あらためて西ドイツの歴史的位置を見定めていく必要があ ろう。たとえば、アデナウアーの「西側結合」についても、ドイツ統一との関連だけでなく、 その長期的な意義が問われなければならない。 すでに序章で論したように、本書はアデナウアーを、ドイツの「西欧化」への推進者とし て位置づけるものである。彼の首相在任期の「アデナウアー時代ー ( 一九四九—六三年 ) にお 208

5. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

のメディアの反応をうかがい、さらに米高等弁務官マックロイに促されて対イスラエル交渉 にあたった。加えて、ユダヤ人の補償に関しては野党の圧力がきわめて重要であった。 結局ルクセンブルク協定に関しては、批准までのすべての段階で、アデナウアーはの 力を借りるかたちとなった。 一九五三年二月にロンドン債務協定の調印も済ませた西ドイツは、ナチス第三帝国の継承 者として、その後「過去の克服」に取り組んでいくことになる。 アデナウア】時代は「過去の克服」の不十分さばかりが指摘されがちだが、イスラエルと の「和解、に着手し、ナチス迫害犠牲者に対するその後の補償への道を拓いたのはこの時代 であったのである。 ドイツⅡイスラエル関係の難しさ さて、アデナウアーの次の課題となったのは、イスラエルとの国交樹立である。 これは「ハルシュタイン・ドクトリン , を危険にさらすものだった。なぜなら、アラブ諸 国は、西ドイツがイスラエルと国交を樹立すれば、東ドイツを承認すると脅すことができた からである。 さらに、アラブ諸国はドイツ製品のポイコットも予告していた。米英仏の西側三国はアラ 160

6. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

「世界史の羽ばたき」ーー補償交渉への決断 一方、その半年前の一九五一年三月一二日、財政的に困窮状態にあったイスラエル政府は、 米英仏ソの戦勝四カ国に対して、東西両ドイツによる計一五億ドルの補償 ( 西ドイツ一〇億 ドル、東ドイツ五億ドル ) を請求する覚書を提示していた。額の算出根拠は、イスラエルに 統合しこ移民が五〇万人で、移住者一人につぎ三〇〇〇ドルの補償が要るというものだった。 これにしてアメリカは、西ドイツ政府と直接交渉するようイスラエルに要請する。このと ぎ西仰一一国は、イスラエルよりも西ドイツの経済再建や再軍備を優先していたのである。イ スラエルは、彼らにとって「殺人者の国」であるドイツとの直接交渉にやむなく踏み出す。 イスラエル政府と西ドイツ政府の仲介役となったのは、世界ユダヤ人会議の議長ナフム・ ゴルトマンだった。ゴルトマンは、イスラエル首相ダヴィド・べン・グリオンと協調する一 方、一九五一年一〇月二六日にニ = ーヨークで世界ユダヤ人会議をはじめ計一三のユダヤ組 織をもとに設立された「ユダヤ人対ドイツ物的請求会議」 ( 以下「請求会議」 ) の議長として、 西ドイツとの対話にあたった。 補償交渉の開始を決定したのは、一九五一年一一一月六日に 0 ンドンの・グラ。当ッジ、【、、一歹い で行われたアデナウアーとゴルトマンの極秘会談であった。アデナウア ] は閣議に諮らずこ れを実施し、ゴルトマンはホテルの裏階段からアデナウアーの部屋を訪ねた。べン・グリオ 152

7. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

しかし近年の一連の研究によって、アデナウアーの硬直した対ソ政策がドイツ再統一の好 機を犠牲にしたという考えは一掃されつつある。以前は、ソ連が、西側同盟内で再軍備した 西ドイツよりは、東ドイツを犠牲にしてでも、再軍備した中立・統一ドイツを好んだのだと 主張されることもあった。しかし、ソ連や東独の史料を用いたゲルハルト・ヴェテイヒらの 最近の研究は、スターリンが再統一などまったく望んでいなかったことを証明している。っ まり、スターリン・ノートは、西側同盟内での西ドイツの再軍備を妨害する以上のものでは なかったのである。 ただし、だからといってアデナウアーが「正しかった」、あるいは「スターリンの意図を 見抜いていた」ということにはならない。アデナウアーは、ひたすら自分の「西側結合」政 策を邪魔されたくなかっただけなのである。 初の訪米 一九五三年一月、アメリカでは、それまでの民主党のトル ] マン政権に代わり、共和党の ドワイト・・アイゼンハワー政権が始動した。さっそく国務長官・・ダレスが、二月 三日にポンを訪れた。前国務長官のアチソンにさまざまな局面で支えられたアデナウアーは、 新しい国務長官と相性が合うか心配であった。しかし、ダレスも反共の闘士であり、アデナ 128

8. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

とのつながりが強い。フロテスタント系議員と、アデナウアーらカトリック系議員との間には 温度差があった。 さらに、右翼や共産党はもちろん、中立反対の立場だった野党や、。フロテスタント 系のドイツ福音教会、『シュピーゲル』や『フランクフルター・アルゲマイネ』をはじめと する主要メディアも、アデナウアーの頑迷な対ソ政策を批判した。 これら反対運動に対してアデナウアーは、繰り返し中立の危険性を説いた。また、ソ連提 案の中立・統一ドイツに応じることは、東部ドイツ、すなわちオーデル・ナイセ以東の旧ド ィッ帝国領域の放棄につながるという、「失地回復」欲求にも訴えかけた。一九五〇年六月 六日に東ドイツ政府は、オーデル・ナイセ線をドイツⅡポーランド間の国境と認めるゲルリ ツツ条約をポーランドと締結していたが、これは旧ドイツ帝国の正統な法的継承国家を自認 する西ドイツにとって認めがたいことであったからである。 さらに、キリスト教に支えられたヨーロッパ統合か無神論のソ連支配かという二者択一の 議論で、党内や国民のキリスト教感情に訴えかけた。こうしたアデナウアーの論法は功を奏 し始め、一九五二年四月には、カイザーやフォン・ブレンターノら党内有力者の説得に成功 する。 124

9. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

うと一歩踏み出した瞬間、自分も 、 - 、・、・、・・ ' ・・、歩・み寄、づ、・で・衂毯・ 0 ・上・ロ・乘・つ・、川 6 ・つ・・司。これはアデナウア ーらしいエ。ヒソードとして語り継がれている。 しかし、実際に連合国と同等の立場となるには、絨毯に乗るように簡単にはいかなかっこ。 これから、他国との「平等権。へ向けたアデナウアーの闘いが始まるのである。 間 なお、ドイツ連邦共和国の成立に呼応して、一九四九年一〇月七日には、ドイツ民主共和 年 四国 ( 東ドイツ ) が成立している。大統領にはヴィルヘルム・ピーク ( 一八七六—一九六〇 ) 、 後首相にはオットー・グローテヴォ ] ル ( 一八九四—一九六四 ) が就任した。 大 界 世政府の課題と「西側結合」 課題は山積みであった。ますは こうして西ドイツの舵取りはアデナウアーに委ねられた。 ; 第 秩序の回復と経済の再建が喫緊の問題である。もちろん、早く占領状態を脱し、主権を取り 分戻さねばならない。そしてアデナウアーにとって重要だったのは、主権回復を含むすべての 領政策において、ドイツ連邦共和国が「西ーを向くことであった。 占 首相就任を前にした一九四九年八月二七日、中央党の副党首ヘレーネ・ヴェッセルへ宛て Ⅱた手紙でアデナウアーはこう言い切っている。 101

10. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

東ドイツの民衆蜂起 一九五三年六月一七日、東ベルリンを中心に、東独で大規模な民衆蜂起が起きた。これは、 前日の一六日に東独の労働政策に不満を抱いた東ベルリンの労働者ストライキが瞬く間に膨 れ上がったものであり、東ベルリンだけでも数万人規模のデモとなった。これに対して、東 ベルリンのソ連軍司令官は戒厳令を敷き、戦車を発動させ、武力鎮圧で応じた。 この出来事は西ドイツ国民に大ぎな衝撃をもたらす。多くの人は、東独にいる親戚や友人 の境遇を想った。こうして西ドイツ国内の反ソ感情が高まるとともに、あらためて西ドイツ で保障されている「政治的・経済的自由が評価されることになる。 この事件は、悲劇であったが、アデナウアー政権にとっては幸運であった。東側に対して 強硬なアデナウアーの政治姿勢が評価され、統一の棚上げも容認されたからである。 第ニ回連邦議会選挙 一九五三年三月一九日、ドイツ条約と条約が連邦議会で批准され、五月一五日には 連邦参議院も通過した。こうしたアデナウアー路線が国民の支持を得たことは、一九五三年 九月六日の第二回連邦議会選挙における / の圧倒的勝利で示された。 投票率は八六 % 。は四五・二 % を獲得する一方、は二八・八 % にと リ 0