結局、の要求が容れられ、アデナウアーは「一九六三年秋 , に退ることが決ま り、シュトラウス国防相は辞任する。こうしてが再び連立与党に加わり、一九六二年 一二月に第五次アデナウアー内閣、つまり最後のアデナウアー内閣が発足した。 アデナウアーに残された時間はあとわすかとなった。新内閣発足時、アデナウアーは自分 年 の最後の仕事として独仏和解を挙げたが、それがうまくいくかは不透明であ 0 た。 九 四 エリゼ条約とその帰結 九 すでに一九六二年九月の首脳会談後、独仏提携に関する両国の交渉が進められていた。交 代渉の最終段階になるとアデナウアーは、当初の予定を覆し、独仏提携を「国際条約ーとする のことを決定する。条約にすることで、自分の引退後も独仏関係を制度的に維持しようとした 義からだが、これにより議会の批准も必要となった。 主 一九六三年一月二二日、 リのエリゼ宮で独仏友好協力条約が署名された。いまや独仏和 民 相解の歴史的シンポルとなった「エリゼ条約」である。 この独仏枢軸形成の動きは、に対する、そしてアメリカの構想に対する挑戦を意 Ⅳ味していた。すでにエリゼ条約調印の一週間前の一月一四日、ド・ゴールは、前年一二月に アメリカと「ナッソー協定」 ( アメリカが潜水艦搭載ミサイル・ボラリスのイギリスへの提供を 199
軍隊が合同でパレードし、独仏の首脳が、かってフランス王が戴冠する場でもあったランス のカら の大 ノカ西ドイ という独仏和解の演出がなされたのである。続いて一九六二年九月にはド・ゴーレス ツを訪問し、叫ドイヅ試民を前に・し・で 1 独広の友情をドイツ語で情熱的にアピールした。 この独仏接近は、独米関係をさらに緊張させた。西ドイツはの多角的核戦力 (ä ) 交渉にも参加していたが、アデナウアーは、の軍事的有用性には懐疑的であり、 核保有国であるフランスと緊密な関係を結ぶことによって、対米依存を脱することを狙って ド・ゴールは一九六〇年から、欧州経済共同体 ( 0 ) 六カ国による政治・外 交・防衛分野の政府間協力的な同盟構想 ( 「フーシェ・。フランしを打ち上げていたが、 スープラナショナル 0 の超国家的な統合からの後退を嫌ったベネルクス諸国の反対にあい、六二年にはそれも 行き詰っていた。ド・ゴ】ルは、独仏の二国間関係に彼のヨーロッパ構想を託し、独仏二国 だけの政治同盟を形成しようとしたのである。 このとき西ドイツに突きつけられていたのは、ド・ゴールのフランスに与する「ヨーロッ を構築していくか、アメリカと結びついて大西洋同盟を守っていくかという選択であっ た。これまで見てきたように、従来アデナウアーはこの両者を巧みに調和させてきた。しか 196
こうした独仏間の状況にもかかわらす、アデナウアーは独仏協調、さらには独仏の政治的 な同盟を説き続けた。そして、突破口がフランスからもたらされた。一九五〇年五月九日、 史上名高いシューマン・。フランが発表されたのである。 索 フランス計画庁長官ジャン・モネ ( 一八八八—一九七九 ) が立案し、仏外相ロべール・シ 模 の = ーマン ( 一八八六—一九六一一 l) が発表したこの。フランは、「他のヨーロッパ諸国にも開かれ 合 結た一つの組織の枠組みのなかで、フランスとドイツの石炭および鉄鋼の生産をすべて共、 川 6 叫下・ロ置ぐ・一〕どを把突する・・ものだ 0 た。これは、独仏の戦争を「物理的に不 一可能にするものであると同時に、雪ー 0 , パの連邦化〈の最初の一歩、と位置づけられ 交事前に概要を知らされていたアデナウアーは、シ = ーマン・プランに即座に賛意を示した。 一彼はシ = ーマンに手紙でこう書いている。「このフランス政府のプランは、不信で凝り固ま ウっていた隣国関係を、新しい建設的な協働関係へと導くでしよう」。アデナウアーにとって、 デシ = ーマン・。フランはあくまで「政治」の問題だった。この。フランにより、ザールラント問 ア 題の解決、西側結合、西ドイツ国家の平等権獲得を期待したのである。 章 Ⅲ リで欧州石炭鉄鋼共同体設立条約の作成交渉が始 一九五〇年六月二〇日、 第 まった。交渉参加国は独仏とイタリア、ベネルクス三国である。交渉参加にあたってシュー
合を深化させる方向へ舵を切っていく。 独仏間の懸案だったザールラント問題については、欧州審議会のなかで、ザールラントの 地位を「ヨーロッパ化」させるという解決案が浮上していた。この案は独仏間で協議されて きたが、ようやく一九五四年一〇月二三日の前述したパリ協定によって、ザールラントの 「ヨーロッパ化が記され、将来の帰属は住民投票に委ねることが合意された。 住民投票はパリ協定を締結した翌年同月に行われ、ザールラントの西ドイツ「復帰を求 める票、つまり独立に反対する票が三分の二となった。この結果を受け、フランスはザ 1 ル ラントのフランス編入および分離独立を放棄する。 一九五六年一〇月二七日、ルクセンブルクで独仏はザールラントに関する条約に調印し、 翌五七年一月一日、ザールラントは一つの州としてドイツ連邦共和国に編入された。このザ ールラント問題の解決によって、独仏和解への大きな障害物が取り除かれた。 ( 一八九七—一九六七 ) 党首率いる自 なお、この間の一九五六年二月、トマス・デーラー 由民主党が連立与党からの離脱を宣言している。この原因は複合的だが、一つに は、ザ】ルラントやヨーロッパ政策をめぐる、アデナウアーとデーラーの考え方の違いがあ デーラーは、より柔軟な東方政策を提唱し、ドイツ再統一のためには Z < 0 離脱の 可能性まで考えていたのである。結局、連邦内閣の閣僚を中心とする一六名の議員が 142
九六四年一一月に、東方外交を展開しようとするフランスのド・ゴール大統領に対して、 「結局のところソ連は、ツアーの帝国とまったく一緒で、世界で最も攻撃的な国なのだよ」 と警告している。 間 ヨーロッパ統△ロというプロジェクト 四重要なことは、こうした反共主義の文脈でヨーロッパの統合が唱えられることである。も 後ちろん、アデナウア 1 は戦間期から独仏協調を軸としたヨーロッパ統一の夢を語っていた。 大独仏協調という課題の重要性は第二次世界大戦後にいっそう増し、アデナウアーは独仏関係 世を重視したヨーロッパ統合に邁進することになる。 ここで注意したいのは、ヨ】ロッパ統合が、反共主義との関わりで、「キリスト教的Ⅱ西 第 一洋的な文化」の救済という文明史的な課題を割り当てられている点である。 分少し後の時代のものだが、一九五一年の演説でそれを確認しておこう。 A 」 領 占 〔ソヴィエト・ロシアは〕わたしたちのキリスト教的な世界観とは真っ向から対立する 章 Ⅱ 世界観に基づいた政治を追求し、そうした政治的見解と手法を広めようとするがゆえに、 第 致命的な脅威なのです。わたしたちは国家や暴力が万物の最高の尺度であるとは考えま まいしん
また、アデナウア】外交の始動として見逃せないのが、西欧の指導的なキリスト教民主主 義政治家が集う定期的な秘密会合「ジ = ネーブ・サークル、のである。 ジュネー、、フ・サークルは、ヨーロッパ分断が進みつつあった一九四七年九月に、スイスに ( 一九〇五—七八 ) と、フラ 亡命していたドイツ人ヨハン・ヤーコ。フ・キントⅡキーファー 間ンス人外交官・ジャーナリストのヴィクトール・クツィーネ ( 一九一〇—九一 ) が、 0 ーノ・デルピングハウス ( 一九〇三—九五 ) に、独仏の 四 / 作業協同体の事務局長ブル 後政治指導者が意見交換するクローズドのサ】クルの形成を提案したことに始まる 1 中立風・内」 大 イスは、特にドイツ人政治家にとって、占領軍当局の目が届かない、秘密会合に適した地で 世 ' ・・つ・だ 6 このサークルは、独仏のほかにオーストリア、ベルギー、イタリア、オランダ、ス 第イスの西欧五カ国の指導者を加え、い可舅・・〔へ統合や独仏関係に関する自由かっ率直な意見 一交換の場として、一九五五年まで機能する。 断 一九四八年三月の第二回会合にドイツ代表として参加したアデナウアーは、ジ = ネーブ・ 分 領サークルの重要性を認識する。アデナウアーにとってこのサークルは、ドイツ再軍備のよう 占 なきわめてデリケートなテーマについて率直に話し合うことができる理想のフォーラムだっ Ⅱたからだ。 早くも一九四八年一二月、つまり西ドイツ建国前から、アデナウアーはこのサークルで、
ガウライタ その間の三月一四日、ナチ党のケルン・アーヘン大管区指導者ョ 1 ゼフ・グローエは、ケ ルン市庁舎を占拠し、アデナウア ] の罷免を宣言した。ナチスによる轟々たるアデナウアー で ーゼンは、事態の改善を求めるア は攻撃も始まる。ケルンの委任市長に就いたギュンター・丿 体デナウアーの手紙に対し、アデナウア】が「犯罪者であることを口汚く書き連ねた返答を ナ ーゼンは、厚顔にも、戦後アデナウアーに非ナチ潔白証明書 する始末であった。ちなみにリ ら 政 (persilschein) を請うている。 帝 一九三三年四月四日、アデナウアーの停職が中央政府によって正式に追認された。ケルン 第 市は、アデナウアーのケルンの住居を差し押さえ、俸給を停止し、銀行口座も封鎖する。こ ハイネマン ( 一八七二—一九 での窮地を救ったのは、ベルギーの工業家でユダヤ人のダニ ] ・ 、、こっこ。、 ノイネマンは、事態を聞いてアデナウアーのもとに駆けつけ、一万マルクも の の金を渡している。アデナウアーはこのときの恩を生涯忘れなかった。 時アデナウアーは、未払いの俸給と年金受給権をめぐってケルン市と法廷で争うことになる。 局このときアデナウアーは、ナチ系の花形法学者フリ 1 ドリヒ・グリムに弁護を依頼した。グ リムは、ヴァイマル共和国期には独仏のナショナリスト陣営の協調を説いており、のちにナ 章 チスのフランス占領でも活躍した人物である。極右の独仏協調論者といったところだろう。 第 独仏協調と言ってもさまざまな方向性があることを伝える人物である。ともあれ、一九三七
せんが、ソヴィエト・ロシアでは、人間の人格に尊厳や権利が認められす、国家が、よ り正確に言えば国家を手中に収めた者たちが、人間の顔をしたすべてのものに対して無 制約かっ恣意的に支配権力を行使しています。この点について多くを申し上げる必要は ないかと思いますが、もう一度はっきりと強調させてください。キリスト教の最も致命 的で最も恐ろしい敵が、ソヴィエト・ロシアなのです。〔 : ・〕 ヨーロッパの政治統合は、単に仏独間の問題にとどまりません。たしかに、仏独間の 永続的な協調はヨーロッパ統合の一つの前提です。けれども、ヨーロッパの統合は、も っと偉大で広範なものです。フランスとドイツ以外にも、イタリア、ベネルクス諸国、 オーストリア、そして可能ならば北欧諸国やイギリスもそれに加わるべきです。そして、 もしわたしたちが西洋の文ヒとキリスト教的ヨーロッパを救おうとるよらば、ヨーロ ハを統合ねばなりません。ヨーロッパ 、合は、キリスト教的西洋を救済することが できる唯一の策なので この「西洋文化とキリスト教的ヨーロッパの救済」は、もちろんドイツ抜きではありえな 「ドイツはヨーロッパの中央に位置している。その地理的位置から、ドイツが経済的・ 政治的に健全な一員として完全に受け入れられた場合にのみ、健全で政治的生命力を持っョ
によれば、このアメリカの対ソ交渉方針は十分に西ドイツに配慮されたものであったが、一 九六二年四月、アメリカが承認するよう提示してきた対ソ交渉諸原則をアデナウアーは拒絶 した。 この諸原則が記された文書は、何者かによって西ドイツのメディアに漏洩され、報道され 年 る。文書には、核不拡散や東西不可侵協定など、西ドイツが公式に容認できない項目が入っ 九ていた。アメリカ側から見れば、アデナウアー政府が意図的に情報を流したことは明らかだ 九つた。ケネディは、ヴィルヘルム・グレーヴェ駐米大使の更迭を求める。この後、独米間で は非難の応酬がしばらく続き、両の仲は冷え込んだ。 ・ミサイル危機にしては、アデナウアーはケ 代また、一九六二年一〇月に生じたキュー のネデイ政権の対応を基本的に支持し続けたものの、危機の結果、アメリカが西ドイツの頭越 義しにソ連との緊張緩和へ向かうことを , た。米ソ接近に対するアデナウアーの不信は高ま 主るばかりだったのである。 相 宰 ド・ゴールか大西洋主義か 章 Ⅳ こうした対米離反は、アデナウアーをいっそうド・ゴールに接近させることとなる。一九 第 ーニュで独仏の 六二年七月二日からアデナウアーはフランスを訪問する。八日にはシャンパ ろうえい 195
ウア ] と理想や判断基準がよく似ていた。結局ダレスは、アデナウアーにとって最も信頼で きるパートナーの一人となる。 一九五三年三月五日、スターリンが死去する。スターリンの死は、西ドイツの民衆に若干 索の安堵をもたらすものであったが、東西関係が再び不確定状態に突入したことも意味した。 の とはいえ、クレムリンを誰が牛耳ろうと、基本的にアデナウアーの反ソ姿勢、そして「西側 合 結結合」は揺らぐことがなかった。 側 一九五三年四月、アデナウアーは初めてアメリカを訪問する。アメリカに滞在中、アデナ 西 ウアーは、一九四五年以来のアメリカのドイツに対する好意や助力に感謝の意を示すと同時 開に、独米関係のよりいっそうの緊密化を繰り返し訴えた。 交四月八日、アデナウアーは、アーリントン国立墓地の無名戦士の墓碑に献花した。独米両 一国の戦没将兵に捧げられたものであった。米軍旗手がドイツ国旗を掲げ、米軍軍楽隊がドイ ウッ国歌を演奏した。アデナウアー訪米のクライマックスである。ドイツ側の随員は涙した。 デアデナウアーも、「一九四五年の全面的な崩壊から五三年まで、遠く厳しい道のりであっ ア た」と感慨に耽った。 章 Ⅲ 第 129