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検索対象: アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家
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1. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

東側は全ドイツ政府 ( 東西ドイツから同数の代表により構成 ) 樹立後の中立ドイツ建国という 統一構想を、それそれ互いに提示し、牽制し合ってきた。 その都度アデナウアーは、西側連合国にソ連の申し出を突っぱねるよう釘を刺していた。 しかし、アデナウアーもまた再統一を放棄したわけではない。折に触れて西側連合国にドイ ッ統一への支持を取り付け、彼が進める「西側結合」も、決してドイツ分断の永続化を意味 するものではないことを約束させていた。 ただ、アデナウアーが何よりも恐れていたのが、ドイツの中立化であった。それは米軍の ヨーロッパからの撤退につながり、大陸ヨーロッパは強大なソ連の軍事力に従属させられる と考えたからである。さらにアデナウアーには、西側から解き放たれたときのドイツ自身に 対する不信もあった。 結局アデナウアーは、「西側結合」を放棄した再統一は望んでいなかったのである。また、 アデナウア】は、統一にあたって自由・平等・秘密選挙による全ドイツ憲法制定議会の構成 を求めてきたが、そもそも彼は、ソ連がこうした自由選挙に応じるなどとは思っていなかっ スターリン・ノートの反響 12 2

2. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

アデナウアーの態度ーー「カの政策」と「ポッダムの悪夢」 アデナウアーは、西側世界のなかでの統一を断じて譲らなかった。アデナウアーの統一戦 略は「カの政策 (politik der stärke)_ と呼ばれる。それは、ドイツを経済的にも政治的にも 索軍事的にもしつかりと西側に結びつけ、それによって得られた繁栄と安定と力を東側に見せ の つけ、いずれ東ドイツをも吸収して統一を達成するというものである。 合 結「西側結合」とドイツ再統一は、アデナウアーのなかでは矛盾するものではなく、目標とし ては不可分のものだった。ただ、再統一を棚上げした「西側結合」は了承できても、「西側 一結合」なき再統一は絶対に許せなか 0 たのである。 開 また、こうした戦略は、ソ連とは交渉がそもそも不可能であるという、徹底した反共主義 展 の にも支えられている。一九五一年五月九日にある聖職者に宛てた書簡が、アデナウアーの考 交 一えを端的に示している。 ア ウ ナ ドイツと西欧への攻撃はロシア自身にとっても非常に大きな危険を意味するというこ ア とをソ連に確信させなければ、われわれ、すなわちドイツと全西欧は、ソ連によって混 章 Ⅲ 乱と隷属を強いられ、キリスト教は根絶やしにされるだろうとわたしは考えます。そし 第 て、言葉によってロシアにそう確信させることは不可能です。あらゆる全体主義国家と 125

3. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

機的な計算を厳に慎まねばならなかった。ドイツ外交の方法は、絶対に誠実かっ率直で なければならなかった。われわれが努めねばならなかったのは、ゆっくりと一歩一歩前 進し、政治において最も重要な原動力たる忍耐を決して失わないことだった。 索 模 の ドイツの防衛貢献 合 ペータースペルク協定は、アデナウアーの「西側結合」政策の第一歩であった。そして協 結 西定締結直後の一九四九年末、フランスやアメリカの新聞社とのインタビ = ーで、アデナウア ーはさらに一歩踏み込む。インタビ = ーとはいえ、西ドイツが西側防衛に貢献する可能性を 開口にしたのである。これには、東側はもちろん、西側諸国、何よりドイツ人が驚いた。 の ここにはアデナウアーなりの危機感があった。西ドイツは西側諸国による安全保障を求め 交 一ていた。だが、ドイツ人自身が防衛に貢献することなく、西側、特にアメリカが自国の兵士 ウを西ドイツのために犠牲にすることは考えられなかった。ドイツ人自身が防衛力を供出して デこそ、西ドイツの安全は保障されるのである。遅かれ早かれ西ドイツの再軍備は避けられな ア いだろう。それゆえ、早々に観測気球を上げたのである。 章 Ⅲ この時点では、内外ともにアデナウアーに非難の声を上げた。特に、西ドイツ国内の反対 第 には激しいものがあった。しかし、この空気を一変させるのが、翌一九五〇年六月に勃発し

4. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

' 心、 0 ・為窈 ' ・ T 新しい・伝統・・・・・・・どリで心和し・グでを一九七〇年の時点でこう論じたべッソン は、このアデナウアーの「西側結合」という新しい伝統と、中欧路線という「古典的伝統」 ・、、フラント首相 ( 在任一九六九—七四 ) の総合を提唱し、当時進行中だったのヴィリー ノイエ・オストボリティーク による、東側との関係正常化を目指した「新東方政策」をそうした試みへの第一歩と捉 えた。 たしかに、「接近による変化を掲げたブラントの「新東方政策、は、それまでの硬直し た政策を刷新する、西ドイツ外交の大転換であった。しかし、ここで注意したいのは、最新 の東方政策研究を著した妹尾哲志が指摘するように、ブラントもつねに西側に配慮しながら 東方政策を進めたことである。すでにブラント時代には、政党レベルでも、社会レベルでも、 産 ドイツの「西側結合」路線に異議を唱える者はほとんどいなくなっていた。建国六〇年を機 の 政に大部のドイツ連鄧共和国史を著した国際関史家ェッカルト・コンツ = の表を日りれば、 ア西ドイツにと 0 て「西側結合」は、個別利害や単なる「国益」を超えた国家 0 企既ぞ・ 0 ・・ ナものに関わる行動準則すなわち「国家理性 ' ( どなったのである。 ア こうして「西側結合」は、東西ドイツ統一後においても、当時危惧されたドイツの「中欧 章回帰」を許さぬほど、ドイツ連邦共和国を縛ることになった。つまり、再統一されたドイツ にも、アデナウアー政治は強く刻印されていたのである。 ジンテーゼ 21 1

5. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

で減少した。さらにこの間、労働者の手取りの賃金および給料は二倍となった。こうした経 済成長が、アデナウアー外交を支え、また東側に対する「カの政策」の論拠を与えていたの である。 ジュネーブ首脳会談 一九五五年七月、ジュネーブで米英仏ソの四大国首脳会談が行われることとなった。これ は、ポッダム会談以来一〇年ぶりに開催された東西間の首脳会談だった。 このジュネーブ首脳会談の準備過程で、アデナウアーは、緊張緩和の進展がドイツ統一を 犠牲にすることがないよう、西側三国に再三働きかけた。東西ドイツ間の境界線が、軍備管 理の境界線として四大国で合意され、固定化されることを恐れたのである。 たとえばアデナウアーは、一九五五年六月にアイゼンハワーおよびダレスと会談し、ドイ ッ統一への見通しが開けない限り、東西間の軍備管理を進めないことを確認させた。 その結果、ジュネープ会談では、自由選挙に基づき、西側との同盟を維持したままの統一 ドイツを西側が主張し ( 「イーデン・。フランし、ソ連はそれを受け入れないという構図が繰り 返された。このときソ連のスタンスは、ドイツ再統一を否定したうえで中欧を非武装化する というものであった。つまり、現段階ではドイツ統一問題について四大国は合意できないこ 136

6. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

とにある程度成功する一方で、西ドイツの対東側政策を硬直的なものにしていく。 3 ヨーロッパ統合の深化 模 の ザールラントの住民投票 合 一九五五年に「西側結合」による主権回復を達成したとはいえ、アデナウアーのヨーロッ 結 西パ政策はそこにとどまらなかった。 ます欧州防衛共同体の挫折によって、ザールラント地方などの問題を抱えたまま、独仏関 開係は一時的に冷え込んでおり、それを解決する必要があった。また、西ドイツをさらに強固 交に西側に埋め込むとともに、そのなかで行動半径を広げていくことも狙っていた。さらに、 一西ドイツ経済が輸出主導型で高度成長を遂げていくなか、市場をいかにして求めるかという ウ問題も、ヨーロッパ統合と密接に関わっていた。 ナ 合衆国」は挫折したものの、一九五 一方、防衛共同体・政治共同体としての「ヨーロッパ スープラナショナル ア 二年から始動した欧州石炭鉄鋼共同体 (QOCO) は、すでに超国家的な「ヨーロッパを Ⅲ部分的にではあるが具体化していた。 の統 こうしたなか、アデナウアーは、欧州石炭鉄鋼共同体六カ国による「小ヨーロッパ 141

7. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

こうした分断と相違を乗り越えるため、全国レベルの党協議の場として暫定的に設置され たのが、「作業協同体 , であった。 ここを主たる舞台に、 0 の路線と主導権をめぐってアデナウアーと争ったのが、ソ連 占領地区議長ャーコ。フ・カイザ ] である。カイザーは、元中央党員でキリスト教労組 間派の大物であり、やはり戦後に「キリスト教社会主義を掲げていた。 四社会経済体制をめぐるヴィジョンの違いもさることながら、アデナウアーとカイザーの違 後 いが顕著だったのが、外交である。すでに述べたように、アデナウアーが当初から断固たる 戦 大「西側結合」路線を選択していたのに対し、カイザーは、ドイツを「東西間の架け橋」にし 世 ようと考えていた。カイザーは、西の資本主義でもなく、東の共産主義でもない、「第三の 次 第道、を内政的にも外交的にも歩もうとしたのである。冷戦の進行を睨みつつ、ドイツの未来 一は西側にしかないと考えていたアデナウア ] は、カイザーの構想に断固として反対し、 分におけるカイザーの影響力を極力排することに努める。 領結局、この両者の路線闘争については、時代がアデナウアーに味方する。米ソ間の関係が 占 悪化するにしたがって、ソ連軍政府の庇護のもとドイツ社会主義統一党 (n ソ連占領 Ⅱ地区で共産党と社会民主党が合併したもの ) が他党への圧力を強め、東側に敵対的姿勢を鮮明 にしたカイザーが、一九四七年一二月二〇日に、ソ連軍政府の圧力により議長の座を

8. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

アデナウアーの「西側結合」 アデナウアー時代の「西側結合」政策が、アデナウアーという政治家の個性によるところ が大きいことは、あらためてここで論じ直す必要はないだろう。アデナウアーが、すでに戦 間期からラインラント問題を通じて独仏和解を模索し、占領期にいち早く「西側結合」を決 断した人物であり、西ドイツ建国以来の激しい外交論争のなか奪印己 0 路線を贒徹しようど」 努めたのは、本書で見てきた通り 冷戦の進展を前にして、どのような人物でも、一九四九年に首相に就任したならば、結局 は再統一よりも西側との同盟関係を選択した可能性は高い。とはいえ、断固たる反共主義に 基づく外交政策、「西側結合」なき再統一の拒絶、そして何よりも独仏和解の進展は、アデ ナウアーならではのものであった。さらに一一 = ロえば、一九五〇年代末以降の西ドイツ外交の硬 直性は、何よりも首相アデナウアーに起因するのである。 こうしたアデナウアーの「西側結合」路線はドイツ外交史における革命であった。外交史 家ヴァルデマール・べッソンによると、アデナウアーは、「西側結合」を選択することによ って、それ以前のビスマルクやシュトレーゼマンに代表されるドイツ外交の「中欧志向的伝 統。からの断絶を果たした。そしてこの「西側結合」政策は、建国後二〇年余りを経て、西 210

9. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

第Ⅲ章アデナウア】外交の展開ーー「西側結合」の模索 の 合 結 西 再軍備と主権回復ーー朝鮮戦争の追い風 展 の 交 外 アデナウアー外交の目標 ウ首相アデナウアーの目標は、秩序の安定と経済の再建、そして主権の回復と西側世界との デ結びつきの構築であった。本章では、「西側結合」という名で呼ばれるアデナウアー外交を ア たどっていく。 章 Ⅲ アデナウアーは、しばしば「すべては外交に従属する」と周囲に語っていた。西ドイツの 第 ような冷戦の中心にある分断国家、しかも建国時には主権を持たす、連合国が多くの権限を 105

10. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

もちろんアデナウアーの「カの政策」は、ある程度ドイツ統一に寄与したのであろう。しか し、ドイツ統一の契機となった東ドイツの崩壊は、ゴルバチョフがソ連指導者として登場す るなど、東側の政治力学が決定的に重要だったのである。ことドイツ統一に関しては、アデ ナウア ] の貢献がどうであったかを主張するよりも、長期的要因と短期的要因を組み合わせ た、より精緻な実証研究が要求されるという当たり前のことを記しておきたい。 時勢と個性 本書が強調したいのは、アデナウア ] 政治の歴史的および長期的な意義である。東西ドイ ッ統一によって、首都の名から「ポン共和国、と呼ばれた西ドイツの歴史は閉じられた。完 結したポン共和国の歴史は、ドイツ統一という大団円に向かうサクセス・ストーリーとして 描かれることが多い。しかし、統一からすでに四半世紀が過ぎようとしている現在、サクセ ス・ストーリーから距離をとり、あらためて西ドイツの歴史的位置を見定めていく必要があ ろう。たとえば、アデナウアーの「西側結合」についても、ドイツ統一との関連だけでなく、 その長期的な意義が問われなければならない。 すでに序章で論したように、本書はアデナウアーを、ドイツの「西欧化」への推進者とし て位置づけるものである。彼の首相在任期の「アデナウアー時代ー ( 一九四九—六三年 ) にお 208