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検索対象: アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家
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1. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

後世から見ると、連邦共和国におけるブルジョワ連合の形成、社会的市場経済の選択は、 当然の結果のように思えるかもしれない。しかし、この時点での当該路線選撼〉・・ - アー抜きではありえなかった。後年に側近を務め、いぐ・づ、が・の、ア・デガヴ・ア論も著しだガ るも : 来に影を及ぼした政 月、 尋ねられたときを排し てブルジョワ連合の たことたと答えている。 首相へ 一 ' ' ・九用九川危百都どな・づ、た・ , ・に・連邦議、 会および選参ス各州政府の代 表によって構成 ) が招集され、一二日の大統領選出のための連邦議会と各州議会代表の合同 会議である連邦会議で、予定通りのホイスが初代連邦大統領に選出された。そして三ーい 2 日後の九月一五日、、・ガ・デ、ガ・・幻・「・Ⅱ・・が・首相・に・推薦ざ・れ 、連邦議会で選挙が行われゑ基本法第 へし 六三条第一一項に基づき、連邦議会議員の当数・ 0 票を得れ間棚でが・が。 このとき連邦議会の議席数は四〇二。アデナウアーへの賛成票はぎりぎりの二〇二票反 対票は一四二、棄権は四四 ) だった。実に、アデナウアーは、自分が投じた一票で、ドイツ連

2. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

月 4 日 , アメリカ軍によりケルン市長に任命される . 5 月 8 日 , ドイツ , 無条件降伏 . 7 月 17 日 ~ 8 月 2 日 , ポッダ ム会談 . 9 月 2 日 , ラインラント州キリスト教民主党の議 長団に選出 . 10 月 6 日 , 英占領当局によりケルン市長を 罷免 1946 年 ( 70 ) 1 月 22 日 , ヘアフォルトでの CDU 英占領地区委員会で暫 定議長に選出 . 3 月 1 日 , 英占領地区 CDU の議長に選出 , ネーハイムニヒュステン綱領採択 . 3 月 5 日 , チャーチル , 「鉄のカーテン」演説 . 7 月 18 日 , ノルトライン = ヴェス トファーレン州創設が布告 . 9 月 19 日 , チャーチル , チ ーリヒで「ヨーロッパ合衆国」演説 . 10 月 2 日 , ノル トライン = ヴェストファーレン州議会の CDU 議員団長に 選出 1947 年 (71) 2 月 3 日 , 英占領地区 CDU , アーレン綱領採択 . 2 月 5 ~ 6 日 , CDU / CSU 作業協同体設立会議に参加 , 暫定幹部会 メンバーに選出 . 3 月 12 日 , トルーマン・ドクトリン発表 . 6 月 5 日 , マーシャル・フ。ラン発表 . 6 月 , 英米が両占領 地区の経済的統合を決定 , フランクフルトに経済評議会設 置 . 8 月 14 ~ 15 日 , 英占領地区 CDU 第 1 回党大会で党 首に再選 1948 年 ( 72 ) 2 月 23 日 , 米英仏とベネルクス 3 国 , ロンドン会議を開始 . 2 月 25 日 , チェコスロヴァキア政変 . 3 月 3 日 , 妻グッシ ーが死去 . 3 月 6 日 , ロンドン会議がドイツ西側占領地区 の統合を決定 . 6 月 20 日 , 西側地区で通貨改革 . 6 月 24 ベルリン封鎖開始 . 7 月 1 日 , 西側連合国 , フランク 日 , フルト文書を州首相会議に手交 . 8 月 10 ~ 23 日 , ヘレン キームゼー会議 , 憲法素案提出 . 9 月 1 日 , ポンで議会評 議会招集 , 議長に就任 1949 年 ( 73 ) 4 月 4 日 , 北大西洋条約調印 . 5 月 5 日 , 欧州審議会規約 採択 . 5 月 8 日 , 議会評議会 , 基本法採択 . 5 月 12 日 , べ ルリン封鎖終了 . 5 月 23 日 , 基本法布告 . 7 月 , 英占領地 区 CDU 第 2 回党大会 , 「デュッセルドルフ原則」採択 . 8 月 14 日 , 第 1 回ドイツ連邦議会選挙 . 8 月 21 日 , 連立問 題に関してレーンドルフのアデナウアー邸で会談 . 9 月 7 日 , 連邦議会および連邦参議院招集 . 9 月 12 日 , ホイス が連邦大統領に選出 . 9 月 15 日 , ドイツ連邦共和国初代 首相にアデナウアーが選出 . 9 月 20 日 , 第 1 次アデナウ 238

3. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

明しながらも、競争的・自由主義的な市場経済秩序を断固として擁護するものであゑ一九 四九年七月、イギリス占領地区の第二回党大会上で、連邦議会選挙のための綱領とし て採択された「デ = ッセルドルフ原則。のなかで定式化され、以後党の経済政策の看板とな る。 間 また、経済政策の影に隠れたが、外交路線も対立した。反共という点では一致していたが、 年 四 o は「西側結合」路線、は再統一優先を唱えた。さらに、 o が「キリスト 後教」を看板にしていることもあり、キリスト教的な価値も争点化する。党首シ = ーマ 大ッ ( ーは、教会を「第五の占領権力、と挑発的に呼び、結果的に敬虔なキリスト者の支持を 世自ら手放してしまった。 一九四九年八月一四日、第一回連邦議会選挙が行われた。当初は一九世紀後半以来の長い 第 歴史を誇るの勝利が予想されていたが、蓋を開けてみれば、とが得票率 分三一 % ( 七三六万票 ) で第一党 ( 一三九議席 ) 、が二九 % ( 六九三万票 ) で第二党 ( 一三 領一議席 ) だった。続いて自由民主党 (= æ) が一二 % で五二議席、ドイツ党 (= が四 % 占 で一七議席、残りは共産党など小政党だった。 章 Ⅱ 第

4. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ン州の小都市ゴスラーで開催された第一回全国党大会で、はようやく連邦レベルの党 組織を整備するとともに、アデナウアーを党首に選出した。以後アデナウアーは一六年間党 のときてあた。 ぜいじゃく 発足当時のは党組織が脆弱で、さまざまな利害関係を持つ人・集団の雑多な集ま りだった。象徴的なのは、連邦レベルで党を組織化したとき、独自の党綱領は作成されず、 代わりに、選挙の際に「選挙綱領」を打ち出すことによって、その都度の有権者の要望に応 えようとしたことである。 こうした党支持基盤の錯綜した利害関係を調整する必要性、党内の統一性を保つ必要性が、 「調停者や「シンポルとしてのアデナウアーの権威を高めた。 0 の脆弱性は、アデ ナウアーの党内における権力の源泉だったのである。 たとえばアデナウアーは、党内の宗派バランスに配慮し、調停者り徙を測・し・て・い・な。いか に宗派を超えた国民政党を目指していたとはいえ、一九五〇年代前半のは、なにより もカトリックの政党であった。一九四九年の連邦議会選挙やそれ以降の州議会選挙の結果は、 O が。フロテスタント層にあまり支持されていないことを明らかにしていた。北部ドイツ にはまだドイツ党など競合する保守政党がいたし、アデナウアーの「西側繙当。、、・ー。「 , ロテスタントが多数を占める東部ドイツを犠牲にするものと見なされていた。 170

5. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

アデナウアー略年譜 アー内閣 (CDU/CSU, FDP, (P) 発足 . 9 月 21 日 , 占領 規約発効 , 高等弁務官府発足 . 10 月 7 日 , ドイツ民主共 和国 ( 東ドイツ ) 成立 . 10 月 10 ~ 14 日 , ドイツ労働総同 盟 (DGB) の創設大会 . 11 月 22 日 , べータースペルク協 定締結 1950 年 ( 74 ) 5 月 9 日 , シューマン・フ。ラン発表 . 6 月 25 日 , 朝鮮戦争 勃発 . 8 月 7 日 , 西ドイツ , 欧州審議会に加盟 . 8 月 29 日 , 西独の防衛貢献に関する二通の覚書を米英仏に送付 . 9 月 ニューヨーク米英仏三国外相会談 , 米国務長官ア 12 日 , チソンが西独の再軍備を要求 . 10 月 9 日 , 内相ハイネマン , 辞任 . 10 月 20 ~ 22 日 , ゴスラーで CDU 第 1 回全国党大 会 , 21 日にアデナウアーを党首に選出 . 10 月 24 日 , フ。レ ヴァン・フ。ラン発表 . 10 月 26 日 , フ・ランク機関発足 . 12 月 18 日 , NATO 理事会 , スポフォード妥協案 , 北大西洋 条約の軍事機構化へ 1951 年 ( 75 ) 2 月 15 日 , フ。レヴァン・プラン交渉開始 . 3 月 6 日 , 占領 規約改正 , 西ドイツ , 外交権回復 . 3 月 15 日 , ドイツ外 務省再建 , 外相に就任 . 4 月 18 日 , 欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC) 条約に調印 . 9 月 24 日 , 高等弁務官府と占領規 約撤廃に関する交渉開始 . 12 月 3 ~ 8 日 , 最初の訪英 1952 年 ( 76 ) 3 月 10 日 , スターリン・ノート . 5 月 26 日 , ポンでドイ ツ条約に調印 . 5 月 27 日 , パリで欧州防衛共同体 (EDC) 条約に調印 . 7 月 23 日 , 欧州石炭鉄鋼共同体発足 . 8 月 20 日 , SPD 党首シューマッハー死去 . 9 月 10 日 , イスラ 工ルおよびユダヤ人団体とルクセンブルク補償協定に調印 . 9 月 24 ~ 28 日 , ドルトムントで SPD 党大会 , 党首にオレ ンハウアーを選出 . 10 月 23 日 , 連邦憲法裁判所 , 社会主 義帝国党を禁止 1953 年 ( 77 ) 2 月 27 日 , ロンドン債務協定調印 . 3 月 5 日 , スターリン が死去 . 4 月 6 ~ 18 日 , アメリカ , カナダに初訪問 . 6 月 17 日 , 東ドイツで民衆蜂起 . 9 月 6 日 , 第 2 回ドイツ連邦 議会選挙 . 10 月 7 日 , 連邦首相に再選 . 10 月 20 日 , 第 2 次アデナウアー内閣発足 (CDU/CSU, FDP, DP, BHE) 1954 年 ( 78 ) 8 月 30 日 , フランス国民議会 , EDC 条約批准拒否 . 9 月 28 日 ~ 10 月 3 日 , ロンドン 9 カ国会議 . 10 月 23 日 , パ リ協定調印 1955 年 ( 79 ) 2 月 27 日 , 連邦議会 , パリ協定を批准 . 5 月 5 日 , パリ協 237

6. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

されることとなる。 また、基本法の条項ではないのだが、いわゆる「五 % 条項」の導入も重要である。これは、 極端な小党分立を避けるた、全国で五 % 以上得票した政党だけに、議会の議席を与える制 度である。この五 % 条項は、一九五三年の第二回連邦議会選挙から全国レベルで導入された。 以上のように、ドイツ連邦共和国は、総じて政治体制の安定をきわめて強く求めた憲法秩 序になった。首都の名から「ポン共和国、と呼ばれる西ドイツは、ヴァイマル共和国の歴史 を繰り返さないことが国是となった。 連邦共和国初代首相への就任 第一回連邦議会選挙 基本法の布告とともに、最初の連邦議会選挙を目指した選挙運動が始まった。一九四九年 夏の選挙戦は、主として・ギ・男・ス , ド・教民主 ' ・・・、、、・・・ー・・ーーー 同盟 ( o ) と社会民主党 ( ) との戦いと なる。最も重要な争点は、経済政策であった。 が言画経済と主要産業の国有化を唱える一方、は「社会的市場経済 , を掲げ て選挙戦を戦った。「社会的市場経済」は、アーレン綱領に見られた「経済民主主義」を表

7. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

外交政策の領域については、わたしたちの路線は確定しています。それは何よりも、 西側世界の近隣諸国との密接な関係を築くこと、そしてとりわけアメリカ合衆国との密 接な関係を築くことです。われわれが全精力をかけて追求するのは、ドイツが可及的速 ーとしてョ】ロッパ連邦に受け入れられること やかに同権かっ同等の義務を担うメンバ 一九四九年九月二〇日、連邦議会における初演説で、アデナウアーは「来歴や心情からし て、われわれが西欧世界に属するのは自明のことです」と述べ、「〔西側〕連合国とどこまで も共に道を進む」と宣言する。アデナウアーは、本格的に「西側結合」政策に乗り出してい くのである。 私生活の消減 これまで述べてきた激動の歴史の裏で、アデナウアーの私生活にも転機が訪れていた。 きかった。かってのヴァイマル共和国首相ハインリヒ・ブリュ ーニングは、当時アデナウアーを訪問したときの印象をこう述べている。「彼は孤独な男」 102

8. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

東ドイツの民衆蜂起 一九五三年六月一七日、東ベルリンを中心に、東独で大規模な民衆蜂起が起きた。これは、 前日の一六日に東独の労働政策に不満を抱いた東ベルリンの労働者ストライキが瞬く間に膨 れ上がったものであり、東ベルリンだけでも数万人規模のデモとなった。これに対して、東 ベルリンのソ連軍司令官は戒厳令を敷き、戦車を発動させ、武力鎮圧で応じた。 この出来事は西ドイツ国民に大ぎな衝撃をもたらす。多くの人は、東独にいる親戚や友人 の境遇を想った。こうして西ドイツ国内の反ソ感情が高まるとともに、あらためて西ドイツ で保障されている「政治的・経済的自由が評価されることになる。 この事件は、悲劇であったが、アデナウアー政権にとっては幸運であった。東側に対して 強硬なアデナウアーの政治姿勢が評価され、統一の棚上げも容認されたからである。 第ニ回連邦議会選挙 一九五三年三月一九日、ドイツ条約と条約が連邦議会で批准され、五月一五日には 連邦参議院も通過した。こうしたアデナウアー路線が国民の支持を得たことは、一九五三年 九月六日の第二回連邦議会選挙における / の圧倒的勝利で示された。 投票率は八六 % 。は四五・二 % を獲得する一方、は二八・八 % にと リ 0

9. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ベルリンでこうした悲劇が起きているとき、西ドイツは第四回連邦議会選挙の選挙戦のさ なかであった。アデナウアーは、ベルリンの壁が構築され、側近たちがベルリン行きを勧め たにもかかわらす、通例の選挙運動を続けた。 さらに壁の建設が始まって一日後の八月一四日の選挙演説では、西ベルリン市長であり おとし ・ブラント ( 一九一三—九一 l) を貶めようとし、「ブラント、 の首相候補だったヴィリー フラントは非嫡出子であり、彼の本名であるフラームと呼ぶこと 別名フラーム」と呼んだ。。 は、つまりプラントの出自を侮辱することにつながる。 多くの国民はアデナウアーに失望した。ブラントが西ベルリン市長として壁建設への対処 に奮闘するなか、アデナウアーは、ベルリンにも行かす、いつも通りの、しかも下劣な権力 闘争を繰り広げていたからである。ようやくアデナウアーがベルリンに入ったのは、八月二 二日のことだった。世論は正直に反応し、与党への支持率は四九 % から一気に三五 % に急落 一九六一年第四回連邦議会選挙 政権基盤の弱体化ーーー 一九六一年九月一七日、第四回連邦議会選挙が行われた。結果は得票率が / (-)TD 四五・三 % 、 co 三六・二 % 、一二・八 % 。 0 は比較第一党ではあっ 192

10. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

えば故郷被追放者・権利被剥奪者連盟〈〉やドイツ党など ) の吸収に努める。ここでもイ ニシアティブを発揮したのはアデナウアーだった。アデナウアーは、ポストや選挙協力を提 示して右派諸政党を取り込む一方で、その多くが。フロテスタント系だったため協調を嫌がっ た 0 内カトリックを抑えこむ。 一九五〇年代末には、戦後新たに設立された小政党・地域政党・利益政党の大部分が に吸収・統合された。これはの力を大きく強める。の取り込みは被追放者の 票をもたらし、ドイツ党の吸収は、。フロテスタントが多く、もともと O が弱かったニー ダ ] ザクセン州における 0 の優位を確保したからである。 一九六一年の連邦議会選挙以来、西ドイツの連邦議会の議席は、八三年に緑の党が進出す るまで、 O co 、 g-v 、の三勢力のみによって占められるようになる。こ の三党体制の成立の要因は、五 % 条項の存在などが挙げられるが、による小政党の統 合も大きかった。 第二に、は、きわめて現代的な選挙戦略を展開した。たとえば、メディアを通じた ワンフレーズ・ポリティクスやイメージ操作である。選挙にあたって 0 は、「実験は要 らないー ・ (Keine Experimente!) 、や「 ( 共産主義から ) 西洋を救え ! 」といった効果的なスロ ーガンを用いた。また、一九五三年の連邦議会選挙では、党名ではなく「アデナウアーーを 172