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検索対象: アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家
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1. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

後世から見ると、連邦共和国におけるブルジョワ連合の形成、社会的市場経済の選択は、 当然の結果のように思えるかもしれない。しかし、この時点での当該路線選撼〉・・ - アー抜きではありえなかった。後年に側近を務め、いぐ・づ、が・の、ア・デガヴ・ア論も著しだガ るも : 来に影を及ぼした政 月、 尋ねられたときを排し てブルジョワ連合の たことたと答えている。 首相へ 一 ' ' ・九用九川危百都どな・づ、た・ , ・に・連邦議、 会および選参ス各州政府の代 表によって構成 ) が招集され、一二日の大統領選出のための連邦議会と各州議会代表の合同 会議である連邦会議で、予定通りのホイスが初代連邦大統領に選出された。そして三ーい 2 日後の九月一五日、、・ガ・デ、ガ・・幻・「・Ⅱ・・が・首相・に・推薦ざ・れ 、連邦議会で選挙が行われゑ基本法第 へし 六三条第一一項に基づき、連邦議会議員の当数・ 0 票を得れ間棚でが・が。 このとき連邦議会の議席数は四〇二。アデナウアーへの賛成票はぎりぎりの二〇二票反 対票は一四二、棄権は四四 ) だった。実に、アデナウアーは、自分が投じた一票で、ドイツ連

2. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ン州の小都市ゴスラーで開催された第一回全国党大会で、はようやく連邦レベルの党 組織を整備するとともに、アデナウアーを党首に選出した。以後アデナウアーは一六年間党 のときてあた。 ぜいじゃく 発足当時のは党組織が脆弱で、さまざまな利害関係を持つ人・集団の雑多な集ま りだった。象徴的なのは、連邦レベルで党を組織化したとき、独自の党綱領は作成されず、 代わりに、選挙の際に「選挙綱領」を打ち出すことによって、その都度の有権者の要望に応 えようとしたことである。 こうした党支持基盤の錯綜した利害関係を調整する必要性、党内の統一性を保つ必要性が、 「調停者や「シンポルとしてのアデナウアーの権威を高めた。 0 の脆弱性は、アデ ナウアーの党内における権力の源泉だったのである。 たとえばアデナウアーは、党内の宗派バランスに配慮し、調停者り徙を測・し・て・い・な。いか に宗派を超えた国民政党を目指していたとはいえ、一九五〇年代前半のは、なにより もカトリックの政党であった。一九四九年の連邦議会選挙やそれ以降の州議会選挙の結果は、 O が。フロテスタント層にあまり支持されていないことを明らかにしていた。北部ドイツ にはまだドイツ党など競合する保守政党がいたし、アデナウアーの「西側繙当。、、・ー。「 , ロテスタントが多数を占める東部ドイツを犠牲にするものと見なされていた。 170

3. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

るが、独自の市議会を持ち、自治の余地は大きかった。市議会は、著しい制限選挙制度であ る三級選挙法で選出され ( 有権者は全男性市民の四分の一以下であり、さらに納税額に応じて三 で は階級に分けられ、票の格差をつけられた ) 、市議会が市長を選出した ( 形式的には。フロイセン王 体による任命 ) 。 ナ 一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてケルン市議会で有力だったのはカトリック中央党と ら 自由主義勢力だが、議会は市長の行政にあまり介入しなか 0 た。それゆえケルン市長は、か 二なり広範な権限と強い権力を手にしていた。ちなみにアデナウアーがケルン市助役に就任し 第 たときの市長ヴィルヘルム・べッカー ( 一八三五—一九二四 ) は、一八八六年から一九〇七 で年までの二〇年以上にわたって強権を振るっていた。 以上のようにケルンは、カトリックの古都であると同時に、。フロイセンの一大工業都市で の あり、西欧における交通・金融の要衝であり、自治の伝統を誇っていた。ケルンが持ち合わ 時せたこれらの要素が、アデナウアーの性格や人脈、そして政治手法も規定していくことにな 破 章 第 学生時代 さて、一八八五年四月、九歳になったアデナウアーは、兄二人と同様に、ケルンの使徒ギ

4. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

マルクスは、ライン共和国はフランスの影響にさらされ、自律を保てないと考えていた。 アデナウアーの対応 ケルン市長であり、かつ中央党の一員でもあるアデナウアーは難しい立場にあった。他党 ではあるが、彼の友人で社会民主党の指導者ヴィルヘルム・ゾルマンや、民主党の指導者べ ルンハルト・ファルクは「分離主義者 , や「連邦主義者 , へのいかなる譲歩にも反対してい た。他方、中央党の人々は「分離。か「自律」のどちらかに傾いていたからである。 一九一八年一一月二二日、ケルンの主要三党である中央党、社会民主党、民主党から各三 名の代表が集まり、アデナウア ] を議長とする超党派の委員会が結成された。この委員会は、 アデナウアーのイニシアティブのもと、ラインラントのドイツからの分離独立ではなく、ド ライヒ ィッ国家内で「西ドイツ共和国ーを成立させるという構想を打ち出していく。 アデナウアーの考えは、一九一九年二月一日に比較的まとまったかたちで表明された。こ の日、アデナウアーの要請により、一月一九日の選挙でライン左岸から選出されていた憲法 制定国民議会 (NationaIversammlung) の議員、一月二六日の選挙でライン左岸から選出され ていたプロイセン州議会 (LandesversammIung) 議員、そして占領下のライン地方の諸都市 の市長たち総勢約七〇人が、ケルン市庁舎の「ハンザ・ホール」に集められた。アデナウア

5. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

ベルリンでこうした悲劇が起きているとき、西ドイツは第四回連邦議会選挙の選挙戦のさ なかであった。アデナウアーは、ベルリンの壁が構築され、側近たちがベルリン行きを勧め たにもかかわらす、通例の選挙運動を続けた。 さらに壁の建設が始まって一日後の八月一四日の選挙演説では、西ベルリン市長であり おとし ・ブラント ( 一九一三—九一 l) を貶めようとし、「ブラント、 の首相候補だったヴィリー フラントは非嫡出子であり、彼の本名であるフラームと呼ぶこと 別名フラーム」と呼んだ。。 は、つまりプラントの出自を侮辱することにつながる。 多くの国民はアデナウアーに失望した。ブラントが西ベルリン市長として壁建設への対処 に奮闘するなか、アデナウアーは、ベルリンにも行かす、いつも通りの、しかも下劣な権力 闘争を繰り広げていたからである。ようやくアデナウアーがベルリンに入ったのは、八月二 二日のことだった。世論は正直に反応し、与党への支持率は四九 % から一気に三五 % に急落 一九六一年第四回連邦議会選挙 政権基盤の弱体化ーーー 一九六一年九月一七日、第四回連邦議会選挙が行われた。結果は得票率が / (-)TD 四五・三 % 、 co 三六・二 % 、一二・八 % 。 0 は比較第一党ではあっ 192

6. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

されることとなる。 また、基本法の条項ではないのだが、いわゆる「五 % 条項」の導入も重要である。これは、 極端な小党分立を避けるた、全国で五 % 以上得票した政党だけに、議会の議席を与える制 度である。この五 % 条項は、一九五三年の第二回連邦議会選挙から全国レベルで導入された。 以上のように、ドイツ連邦共和国は、総じて政治体制の安定をきわめて強く求めた憲法秩 序になった。首都の名から「ポン共和国、と呼ばれる西ドイツは、ヴァイマル共和国の歴史 を繰り返さないことが国是となった。 連邦共和国初代首相への就任 第一回連邦議会選挙 基本法の布告とともに、最初の連邦議会選挙を目指した選挙運動が始まった。一九四九年 夏の選挙戦は、主として・ギ・男・ス , ド・教民主 ' ・・・、、、・・・ー・・ーーー 同盟 ( o ) と社会民主党 ( ) との戦いと なる。最も重要な争点は、経済政策であった。 が言画経済と主要産業の国有化を唱える一方、は「社会的市場経済 , を掲げ て選挙戦を戦った。「社会的市場経済」は、アーレン綱領に見られた「経済民主主義」を表

7. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

思い知るだろう。 こうした一連の出来事を見て、アデナウアーの周囲の人々は、ナチスの報復を恐れ、次第 に彼から離れていく。 市長罷免 ライヒ 一九三三年三月五日の全国議会選挙で、ナチ党はケルンで最大の政党となった。続く三月 一二日、ナチ党とその同盟者たちはケルン市議会選挙で四六議席を獲得し、過半数を亜に 収めた ( 厳密に言えば、共産党の議席を停止することで過半数に到達した ) 。選挙戦時のナチス のスローガンは、「とっとと失せろ、アデナウアー ! (Fort mit Adenauer!) 」だった。報復は 容易に予想できた。市議会選挙当日の夜、自身の暗殺計画を耳にしたアデナウア ] は、長年 親しんだ市長室に別れを告げた。ちなみに、このときの市庁舎の鍵は、アデナウアーの死後、 自宅の書斎のデスクから見つかっている。 選挙の翌朝、アデナウアーは、友人の銀行家。フフェルトメンゲスの助けを得て、ナチスの 突撃隊の監視をくぐり抜けてケルンを脱出し、ベルリンへと向かった。。フロイセン内相であ るヘルマン・ゲーリングに会い、事態を改善させようとしたのである。しかし、三日も待た された挙句、ゲーリングとの会合はまったくの徒労に終わる。

8. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

えば故郷被追放者・権利被剥奪者連盟〈〉やドイツ党など ) の吸収に努める。ここでもイ ニシアティブを発揮したのはアデナウアーだった。アデナウアーは、ポストや選挙協力を提 示して右派諸政党を取り込む一方で、その多くが。フロテスタント系だったため協調を嫌がっ た 0 内カトリックを抑えこむ。 一九五〇年代末には、戦後新たに設立された小政党・地域政党・利益政党の大部分が に吸収・統合された。これはの力を大きく強める。の取り込みは被追放者の 票をもたらし、ドイツ党の吸収は、。フロテスタントが多く、もともと O が弱かったニー ダ ] ザクセン州における 0 の優位を確保したからである。 一九六一年の連邦議会選挙以来、西ドイツの連邦議会の議席は、八三年に緑の党が進出す るまで、 O co 、 g-v 、の三勢力のみによって占められるようになる。こ の三党体制の成立の要因は、五 % 条項の存在などが挙げられるが、による小政党の統 合も大きかった。 第二に、は、きわめて現代的な選挙戦略を展開した。たとえば、メディアを通じた ワンフレーズ・ポリティクスやイメージ操作である。選挙にあたって 0 は、「実験は要 らないー ・ (Keine Experimente!) 、や「 ( 共産主義から ) 西洋を救え ! 」といった効果的なスロ ーガンを用いた。また、一九五三年の連邦議会選挙では、党名ではなく「アデナウアーーを 172

9. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

「小連立」へ レーンドルフ会合 一九四九年八月二一日、選挙結果をふまえて、レーンドルフのアデナウアー邸で 0 と の代表者による会合が行われた。 / がと組んで大連立を作るのか、 それともや他の小政党と「ブルジョワ連合」 ( 「小連立しを組むのか、連立問題に答 えを出すためである。 繰り返しになるが、このときにはまだ三占領地区を統合する中央組織は存在せず、 それゆえこの段階で / 全議員を拘束できるような公的な意思統一機関は存在し なかった。そこで、三占領地区のなかで最も影響力の大きかったイギリス占領地区 0 の 党首であるアデナウアーの私邸で会合がもたれたのである。 このときはまだ、ドイツ再建という大事業のためには二大政党が手を組むべきであるとい う意見が、 0 のなかでは根強かった。また、この時点で西ベルリンを含む一三 州のうち九つの州がとの大連立政権であり、州首相たちも大連立を支持してい た。おそらく占領軍も、とりわけイギリス占領軍を中心に、大連立を望んでいただろう。さ らには、経済相のポストが獲得できるなら、大連立に乗り気であることを匂わせてい しかしアデナウアーは、有権者は社会的市場経済を選択したのだと捉えた。すなわち、す

10. アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家

の支持を得るために、アデナウアーが利権をばらまいたことはよく知られている。さらに、 旧ナチス関係者に関わる恩赦委員会を設置することによって、保守層の支持を得ることも行 っている。 こうしたアデナウアーの選挙戦略に共通しているのは、が強くなければ、一方で共 産主義・社会主義勢力が拡大し、他方ではナチスのような強力な右翼政党が台頭するという レトリックである。それはレトリックにとどまらす、アデナウアーの信念に近いものでもあ むろんアデナウアーは、首相在任中の全期にわたって強大な権力を維持できたわけではな 。アデナウアーの「宰相民主主義。の絶頂は、一九五三年の第二回連邦議会選挙から五七 年の第三回連邦議会選挙あたりまでである。その後、彼の権力は弱まっていくのだが、その 過程をたどる前に、アデナウアー政権の内政における成果を確認しておこう。 2 国内秩序の安定ーー社会政策による統合 初期の政策ー、、ー敗戦後の苦境からの脱却 敗戦直後のドイツで国民生活が荒廃・混乱するなか、米英仏の西側占領軍は統一的な社会 174