ジェノヴァ - みる会図書館


検索対象: コンスタンティノープルの陥落
82件見つかりました。

1. コンスタンティノープルの陥落

ここならば、コンスタンティノープルの市中からも陸側の城壁を守る防衛兵からも、金角 湾に浮ぶ船からもガラタのジェノヴァ居留区からも、並んで大きく風をはらむ二つの大国旗 を見ることができる。もちろん、陸側の城壁前に布陣するにちかいないトルコ軍からは、い やでも眼に入る位置にあった。ともにかかしたし という皇帝の希望を、大使ミノットは央 諾したのである。コンスタンティノープルのヴェネッィア居留区は、これで、ビザンチン側 落について戦うという意志を、スルタンにも公然と宣告したことになった。 の プ ベガ工門近くの城壁の守りについていたウベルティーノは、昨夜は一晩中、眼を閉じるこ ほしょ・つ とができなかった。歩哨に駆りだされたからではない。休むように言われて、他の人々とと テ ンもに内城壁の塔のすみに横になってはみたのだが、どうしても眠ることができなかったのだ。 タ . はたち ス二十歳の若者には、これが、自ら参加する最初の戦闘だった。 コ四月四日の朝の光が、ほの白くあたりに流れはじめようという時刻だった。もう我漫でき なくなった彼は起きあがり、足音をひそめて外に出た。内城壁の上に登る。さらに、内城壁 の要所を押さえる、塔の一つにも登ってみた。地表からでは、二十五メートルを越える高さ そとさく なのだ。彼の眼の下には、外城壁が延々と連なり、その向うには、外柵がさらにめぐってい る。外城壁の塔の上には、昨夜からの寝ずの番の歩哨の姿がまだ見えた。 かなた その時だった。朝靄につつまれてほんやりとかすんでいたはるか彼方の地平線が、ゆらり 122

2. コンスタンティノープルの陥落

しかし、金角湾側からの攻略は、一にも二にも、金角湾の制覇に成功するか否かにかかっ ている。入口に渡された鉄鎖は、それをさせないためになされた策なのだ。金角湾の防衛が ヴェネッィア人にまかされた以上、この辺りの城壁の防衛も、彼らが主体になるのは当然だ った。船着場を中心にした一帯の城壁の防衛は、だから、ヴェネッィア人が担当する。 はんばっ この重要地域の防衛を「ラテン人」にだけまかした場合のギリシア人の反撥を心配した皇 落帝の配慮を示して、ビザンチン帝国では皇帝に次ぐ地位にある宰相ノタラスも、貴族たちを ひきいて、そこから皇宮にいたるまでの城壁を守ることになった。金角湾内のキリスト教艦 プ隊の総指揮は、ヴェネッィアの海将ガプリエレ・トレヴィザンに、すでに決まっている。 たれめ ノ しかし、誰の眼にも、残る一辺、ただ一つ陸に面した一辺が、攻撃の主力を浴びるであろ テ ンうことは明らかだった。トルコは、三十年前にも陸から攻めてきたのだ。皇宮周辺が一重で タ スあるのを除けば三重の城壁とはいえ、当然そこには、防衛陸軍の主力が配置されねばならな コ かった。 皇宮をめぐる、そこだけ一重の城壁を守るのは、大使ミノット指揮下のヴェネッィア人。 フィレンツェ共和国の市民ではあっても、これまでヴェネッィア商人たちと関係の深かった テダルディが志願したのも、この隊である。そこから南に、傭兵隊長ジュスティニアーニが ひきいる五百のジェノヴァ兵の守備地域がつづく。リュコス峡谷があるために一段と低くな る地点、メソティキオン城壁と呼ばれる一帯は、はじめは皇宮防衛のつもりだった皇帝が、 120 ようへい

3. コンスタンティノープルの陥落

ヴェネッィア船が、一隻につき五百人以上もの人間を乗せて逃亡したというのだ。何代もっ づいて根をおろしたジェノヴァ居留区とちがって、ヴェネッィア人が主な「ラテン区」の住 人には、妻子を同伴している者は少ない。現に残ったラテン区の住人の数からして、逃亡し た四千人の大半は、ビザンチン帝国のギリシア人で占められていたにちがいなかった。周辺 をトルコ領にかこまれ、陸の孤島と化したコンスタンティノープルから逃げだすには、海し 落か道は残されていなかったのである。沈没直前の船から逃げだすねずみは、ここでも例外で のはなかった。 しようへい プ有利な条件で招聘され、イタリアへ行ったままそこに落ちついてしまった聖職者を主とす る知識人階級の亡命は、すでに五十年も前からつづいている。それほど昔からでなくても、 冖ヴネッィアやローマへ、財産避難を目的に家族の誰かを避難させていないビザンチンの有 スカ者は、見つけるほうがむずかしいくらいだった。皇族であり宰相でもあるノタラスも、財 コ産を持たせた娘をすでにヴェネッィアに逃がしている。ビザンチン帝国の宮廷人の中で、こ のような策を講じなかったのは、皇帝コンスタンテイヌスと、皇帝を心から敬愛し彼に殉じ ようと決めていた、フランゼスだけであったかもしれない。 この現象が示すように、ビザンチン帝国は、挙国一致して防衛に立ちあがったわけではな かった。作戦会議に列席している人々の間でさえ、精神的統一など夢であったのだ。ギリシ ア人同士でも、西欧派のイシドロスと、教会合同に反対で署名さえ拒否した宰相ノタラスは、

4. コンスタンティノープルの陥落

れに見えてしかたがなかった。 皇帝があきらめもせずに各国へ送った援軍要請の使いは、一人として朗報を持って帰国し た者はいなかった。ジェノヴァもヴェネッィアも、資金と食糧は送ってきても、戦闘員を満 載した大艦隊派遣となると、イタリア国内での戦争状態で一国だけでは不可能という返事を くり返すばかりである。ローマの法王は、教会合同の同意と二百の兵を送りつけた後は、こ 落れで良心の呵責はないとでも思っているらしい。ナポリ王国も、態度を明確にしない点では せっしよう 同じだった。東欧では、最も信頼できると信じていたハンガリア王国の摂政フニヤディは、 ブマホメッド二世が早くも有利な条件をだしての同盟関係を結んでしまったので、動く意志な イ どないようである。ギリシアのペロポネソス半島を統治する皇帝の二人の弟も、マホメッド そとばり テ ンが軍を送ってたたき、動けない状態にしてしまっている。皇帝は、外堀が埋められたのを語 タ スるしかなかった。 ン かなた おも コ 今にもトルコの軍勢が地平線の彼方からあらわれるのを見る想いの中で、皇帝にやれたこ とは、できるかぎりの食糧の確保と城壁の補強だけである。マルモラ海側と金角湾側は、一 重にしても、海に守られているから心配ない。しかし、三重とはいえ、陸側の城壁の補強は 必要だった。トルコが、常に大軍を投入する陸軍国であるのは知られている。また、攻撃が だれ 陸側に集中するであろうことも、誰にでも予想できることだった。補強工事を、皇帝はフラ ンゼスに一任した。フランゼスにとって意外な喜びであったのは、工事に集められたギリシ かしやく

5. コンスタンティノープルの陥落

るとい、つことだった。 テダルディの乗ったヴェネッィアのガレ 1 商船よ、、 ーしよいよポスフォロス海峡に入った。 三本マストの大型ガレー船全体に張りつめた緊張感が、船橋の陰に立っテダルディにも感じ ひいろ られる。ヴェネッィアの船乗りの気概を示すように、中央の帆柱の上高く、緋色に金糸で聖 ししゅう マルコの獅子を刺繍したヴェネッィア共和国旗が風にひるがえる。三角帆は三つとも、北風 落を大きくはらんで動かないのは、舵の操作を練達の船乗りがしている証拠だ。漕ぎ手たちも、 風に恵まれた時の漕ぎ方で、大きくゆっくりと漕ぐ。彼らも緊張しているのであろう、櫂を プあやつるリズムを一定に保っために水夫長が吹く笛の音が風で消されてしまっているのに、 二百人を越える漕ぎ手の動きには、少しの狂いも見られなかった。 テ 海峡を三分の一ばかり来た地点に、山上高くジェノヴァの城塞がある。そこを通りすぎ、 ス大きくアジア側に曲がりまたも同距離をすぎた時、右手に、高くそびえる円型の塔が眼に入 コってきた。塔の上には、赤地に白の半月のトルコ国旗がひるがえっている。「ルメーリ サーリ」にちかいない。 近づくにつれて、塔から岸に向っておりている城壁も見えてくる。次いで、城壁のつきる 岸近くにそびえ立つ、もう一つの大塔も視界に入ってきた。要塞から空砲が鳴ったのは、そ の時だった。船を岸につけよという命令だ。もちろん、ヴェネッィア船は方角さえも変えな ぜんばう そのままで船が海峡にそって曲がったところで、「ルメーリ・ヒサーリ」の全貌がいや

6. コンスタンティノープルの陥落

れ、首都にもどることを許されなかった。盟友同士は、巧妙に引き離されたのである。そし ・バシャか首 て、その代わりということで、先のスルタンによって左遷されていたサガノス 都入りした。 しかし、ビザンチン帝国も西欧各国も、この一連の現象の持つ意味を深くは考えなかった。 新スルタンは、ビザンチン帝国をはじめとするオリエントの国々との間に、スルタン・ムラ ード時代に結ばれた友好と不可侵の条約を再新するのに、なんの難題も持ちださなかったか 公らである。ジェノヴァやヴェネッィアとの友好通商条約再新も、まったく問題はなかった。 主そして、若いスルタンは、セルビア王の妹でスルタンのハレムに献上されていた、子はいな 二かったが先のスルタンのもう一人の正妻であったマーラを、彼女がハレム入りの時に持って 章きた持参金を返しただけでなく、数々の贈物に仕度金まで与えて、故国に帰してやったので 第ある。マーラが、ハレムにいた間もキリスト教徒でありつづけたことは、西欧でさえも知ら れたことだったから、これは、新スルタンのキリスト教徒に対する態度の、穏健さの証拠と 見る者が多かった。ヨーロッパ諸国は、十九歳の新スルタンを、偉大な武人で義に富む男で あった父の後を継いで、その遺産を守るのだけに力いつばいの器、と評価したのである。 だが、そう単純に楽観できなかった少数の者がいた。その一人が、ビザンチン帝国皇帝コ ンスタンテイヌス十一世である。皇帝は、トルコとビザンチンの間の相互不可侵条約が再新 されたにかかわらず、マホメッド二世の即位のわずか一カ月後に、西欧に向けて、援軍派遣 うつわ

7. コンスタンティノープルの陥落

ツィアとジェノヴァという、たかだか二十万にも満たない人口しか持たない、イタリアの海 洋国家ににぎられていた。 六世紀から十世紀にかけてのビザンチン帝国の全盛時代、コンスタンティノープルの人口 は郊外もふくめて、百万と言われたものである。それが、十五世紀初めになると、十万ある かどうかと言われるほどに減少する。都市部の人口密度からすれば、ヴェネッィアやジェノ ヴァのほうが高いくらいだった。そして、冷徹で合理的な思考法をわがものとすることによ 公って、ルネサンス文明の創造者となった当時のイタリア人から見れば、十五世紀のビザンチ 主ン人は、精神上の問題である宗教と、地上の問題である政治を分離しようとしない、中世的 ュな非合理主義者の集まりであり、宗教談議にばかり熱中し、共同体を効率良く運営するに必 章要不可欠な積極性と協調の精神にまったく欠け、しかも迷信に動かされやすい、一言で言え 第ばまことにだらしのない民族としか映らなかったのである。 この、領土的にはトルコに囲まれ、軍事的には無も同然、経済的には西欧の商人国家に支 配されていた十五世紀のビザンチン帝国をひきいる皇帝が、偶然にも、創立者と同じ名のコ ンスタンテイヌス十一世であった。東ローマ帝国最後の皇帝となるこの皇帝は、しかし、滅 たっと びゆく優雅な文明を体現するかのように、名誉を尊びながらもおだやかな性質の、四十九歳 の洗練された紳士であった。二回の結婚も、いずれも妃に先立たれている。子はなかった。 このコンスタンテイヌス皇帝に、古代ギリシアとローマの文明から影響を受けながらもそ

8. コンスタンティノープルの陥落

すると雨ですべってころがり落ちる。そのたびに悲鳴が聴こえ、動かない人間は乱暴にわき に取りのぞかれ、再び設置作業が再開されるのである。人よりも牛、牛よりも大砲が大切に あっかわれるのは、ニコロにはやはり衝撃だった。 守備側とて、その日から三日にわたってつづけられたこの作業を、ただ傍観していたわけ ではない。大砲による攻撃に対する対策は考えられ、それはただちに実行された。外城壁の ーうさく 十メートル外をめぐっている、柵の補強である。木造の防柵の外側に、皮革と羊毛をつめ るた袋を並べる。砲弾が当った時の衝撃を、少しでも弱めるためだった。防柵の上には、土を つめた樽を並べる。これは、柵を少しでも高くするためだ。この作業には、戦闘員だけでな 防 、女たちまでが手を貸した。 攻 だが、陸側の防衛の補強にばかり、注意を払っていることは許されなかった。トルコ海軍、 第マルモラ海北上中、という情報がもたらされたからである。キリスト教側の海軍も、ただち に警戒体制に入った。 四月九日、金角湾の入口に張りわたされた鉄鎖の内側に、ジェノヴァの大型帆船五隻、ク レタ船三隻、アンコーナの一隻、ビザンチンの船一隻の、計十隻が守りにつく。他に、金角 湾内のコンスタンティノープル側の船着場には、遊軍として、ヴェネッィアのガレ 1 軍船二 隻、同じくヴェネッィアの商用大型ガレー船三隻、ビザンチンのガレー船五隻、他六隻の船 が待機する。この他に独立しては戦力にならない小型船も、湾内待機に加えられる。ガレー 131 たる せき

9. コンスタンティノープルの陥落

2 信じる喜びを押さえかねていた。彼の晴れやかな胸中を映すように、コンスタンティノープ ルの空も澄みきっている。船着場には、皇帝のおくった宮廷の重臣たちが、いずれもオリエ ント風の豪華な長衣をつらねて出迎えていた。枢機卿は、用意された馬に乗る。重臣たちも かっちゅう 馬で、城門を入るイシドロスの後につづいた。二百の兵も、甲冑姿も勇ましくつづく。 は、ゆるい坂道を、聖ソフィア大聖堂に向った。ラテン区を通った時は、道端に立つ人々か 落ら拍手が起ったが、そこを通り抜けてギリシア人の住む地帯に入るや、行列は、人々の沈黙 に迎えられただけだった。それでも、頭から足の先まで鋼鉄の甲冑で固めた兵の行列は、一一 プ百という数字以上の迫力を感じさせる。道端のギリシア人たちは、それには心が動かされた らしかった。 テ ン聖ソフィア大聖堂の前の広場には、一面に敷かれた緋色のじゅうたんの上に、絹張りの椅 ス子が二つ用意されていた。一つは高く、もう一つは少しばかり低い。到着したイシドロスは、 コ待っていた皇帝に迎えられた。そして、高い椅子には皇帝コンスタンテイヌス十一世、低い すわ 椅子には、法王代理の資格でイシドロスが坐る。短く歓迎の言葉を述べた皇帝の後で、枢機 卿が法王の名で、平和の到来を祈ることと、ローマ教会はピザンチン帝国の危機を救うため に、東西の教会の合同に同意し、援軍を派遣する決意をしたと述べたのである。東西教会の 合同を記念する儀式は、十二月の十二日に聖ソフィア大聖堂で行われるとも告げられた。 ヴェネッィアの大使やジェノヴァの代官、それにカタロニアの領事など西欧側の住民代表

10. コンスタンティノープルの陥落

先頭の大船一一隻は、ゆっくりと静かに進む。その後につづくガレー船二隻も、四十人の漕 ぎ手の一糸乱れぬ櫂の動きが、なめらかな海面に波さえ立てないほどだ。出港の直後に、ガ せんこう ラタのジェノヴァ居留区の塔の一つに、なにか閃光に似た光がきらめいたのを見て、トルコ 軍への信号かと疑ったが、闇の向うに一団となって停泊しているトルコ艦隊には、少しも変 った様子は見えなかった。船団は、前進をつづける。秘かに敵艦隊に近づき、可燃物を敵船 に投げこみ、それに火を点けた後、敵船の錨を切って逃げる。これが、夜襲の段取りだった。 仮りに戦闘になっても、四隻の大型船が、充分にその力を発揮してくれるはずである。 失 湾ところが、目標にあと一息という距離に近づいた時だった。七十二人の漕ぎ手をかかえて 金船足の早いコッコの央速船が、ゆっくりと前を進む四隻に我漫がならなくなったのか、にわ 障かに速度を増し、追い越しをはじめたのだ。央速船は四隻を追い越し、船団の先頭に立った 第 まま、速度もゆるめずに敵中に突入した。 その時、突如、岸からの大砲が火を吹いた。轟音は、間もおかずに次々と起る。三発目が、 コッコの船に命中した。小型の船は、見るまに火だるまと化し、沈没した。他の二隻の央速 船も、焼打ちどころではない。大型船の陰に避難しようと、引き返しはじめる。 大型船とても、無傷ではいられなかった。一一隻の大船は何発も砲丸を受け、船乗りたちは 火災を消すのに必死だったが、船べりに並べてあった防御袋のおかげで、致命的な痛手は受 けないですんだ。しかし、ガレー船は、船高も低いだけにそういう準備をしていない。とく