代理人、全力トリック教徒の代表者ローマ法王が、回教徒の王スルタンの捕囚にされたとい うことになる。枢機卿イシドロスの視線は、ちょうどその時そばを通りかかった、一人の乞 食の上にとまった。 防衛軍の総崩れを、広い市内だけに、コンスタンティノープルの住民すべてがただちに知 日ったわけではない。だが、逃走してくる味方の兵たちを見、それを追って迫るトルコ兵を見 後たとき、絶望した人々の中で、金角湾に向って逃げた者は少なかった。ギリシア人たちは、 カ市の東の端し近くにある、聖ソフィア大聖堂に向って逃げはじめたのだ。昔からの言い伝え では、コンスタンティノープルが陥ち、敵が聖ソフィア大聖堂まで迫ってきても、その時大 テ聖堂の円屋根の上に大天使ミカエルが降臨し、敵をポスフォロス海峡の東に追い払ってくれ タる、と言われてきたからであった。広大な聖ソフィアの内部も、逃げこんできた人々でいっ ンばいになった。彼らは、青銅の大扉を内側から閉め、そこにひざまずいて祈りはじめた。 章金角湾内のキリスト教艦隊も、皇宮の塔高くトルコ旗があがったのを見、のろしが数発打 第ちあげられたのを聴いて、陸側の城壁が突破されたのを知った。ただちに、艦隊は、予想さ れる、防鎖外の敵艦隊と金角湾奥の敵船団のいっせい襲撃にそなえて、対決の陣形をとった。 ところが、トルコ船の乗員たちにとっては、キリスト教艦隊を攻めるよりも、陸側の城壁か ら侵入した友軍が、自分たちよりも早く戦利品を手にする布れのほうが、頭を占めていたの である。防鎖外のトルコ艦隊は、マルモラ海側の船着場から市内に少しでも早く入ろうと、 207
するしかなかった。 西のローマが衰退しつつあっただけに、「新ローマ」とも呼ばれたコンスタンティノープ ルの急速な発展は、当時の人々の注目を集めるに充分であったろう。ヨーロッパとアジアの かなめ 要に位置するこの都は、誕生の時からすでに、地中海世界の首都となるようさだめられても いたからである。 公しかし、この「新ローマ、は、西のローマと、ある一点で完全にちがっていた。東のロー 主マは、はじめから、キリスト教を主要な要素とする帝国として生れたことである。東ローマ 人 帝国の皇帝が公式の場でまとう大マントの色は、紫でなく紅であった。古代ロ 1 マ帝国皇帝 章の色であった紫を、キリスト教会は、死の色、つまり、喪の色にしてしまったからだった。 第西暦四世紀の創立の頃からすでに、東のローマは西のローマよりも活気があったと言われ るが、地中海世界の首都としての地位を確立したのは、やはり、本家のほうのローマが滅亡 した、五世紀末からであったろう。そして、それから一世紀も経ない六世紀半ば、東ローマ 帝国の勢力圏は、最大に達したのである。全盛期の古代ローマには及ばなかったにしても、 ュスティニアヌス帝の時代、ビザンチン帝国の領土は、西はジプラルタル海峡から東はベル シアとの境まで、北はイタリアのアルプスから南はナイルの上流まで広がっていたのである。 ( 図 1 参照 ) ころ くれない
コンスタンティノープルの陥落 260 の目で眺めることができるのではなかろうか。歴史の面白さはそこにあり、本書の魅力も、 まさにその点にある。トルコとビザンチン帝国。東と西。キリスト教とイスラム教。このふ たつの文明圏は、今日においても、形を変えつつ新たなドラマを展開しようとしているのだ から。 そして、その起点は、まさにコンスタンティノープルにあるのだ。 ( 一九九一年三月、評論家 )
え持てなかったであろう。この日を境にして、日中に破壊された箇所の修復が、毎夜の仕事 になった。 しかし、海側の戦線では、優勢を見せつけたのはキリスト教徒のほうである。陸側での砲 撃開始と同じ日、トルコ艦隊は防鎖突破を期して基地を出、金角湾の入口に向って押し寄せ てきた。防衛側も、トレヴィザンの指揮下、防鎖ぞいに船の壁をつくって待ちかまえる。ト ルコ船上の射手たちは、それに向って矢を雨と降らせてくる。ガラタのジェノヴァ居留区の る東側城壁ぎりぎりの地点にそなえつけたトルコ側の大砲も、轟音をたてはじめた。トルコ船 かぎ 乢は、キリスト教徒の船団に接近するや、燃える木を投げつけてくる。また、綱のついた鉤を 投げ、それで船を引きつけておいて乗り移ろうとする者もいる。しかし、それらすべては失 章敗に終った。砲丸は距離がのびず、海中に落ちて水煙をあげるか、でなければ味方の船に命 第中して撃沈させるかしか、役に立たなかった。燃え木で起きた火災は、船乗りの手慣れた防 火作業ですぐに消しとめられ、矢も、ほとんど効果はなかった。西欧勢の大型の船はトルコ 船よりもずっと高く、その高い帆柱の上の見張台から射っ矢のほうが、命中率では断然すぐ れていたからである。海戦となると、ジェノヴァやヴェネッィアの海洋国家勢が、経験から しても能力からしても、トルコなど問題にならないほどすぐれていた。実際、攻勢に出よう と、防鎖をはずしたところから外海に出てきたキリスト教海軍に対し、トルコ艦隊は、包 囲されたあげくの全滅を避けたいと思えば、あわてて基地に逃げもどるしかなかったのであ 135
だらりとたれさがったままだった帆が、見るまに風を大きくはらむ。キリスト教側の船は、 好機とばかり、四隻が固まったまま、トルコ船をはねのける勢いで、金角湾の防鎖に向って 進みはじめた。陽が落ちるのと、金角湾の入口をふさぐ防鎖の、コンスタンティノープル寄 りのささえ綱が解かれるのが同時だった。開かれたロから、トレヴィザンの指揮するヴェネ ツィアのガレー船三隻が、ラッパを高らかに鳴らしながら出てきたのである。ラッパの勇ま しい音は、金角湾内にいる船がすべて出陣してきたと、敵に思わせるためだった。 夜のとばりが都合良く、この大胆な企てを隠してくれた。スルタンの怒声はまだ聴こえて 利 やみ 勝 のし学 / 、カ 、トルコの海将は、味方の船に撤退を命じた。夜の闇の中での海戦に比べれば、スル 海タンの怒りのほうが、まだしも耐えやすいと思ったのだ。トレヴィザンの指示に従って、半 章日におよんだ激戦から解放された四隻の船は帆をたたみ、ガレ 1 船に引かれて、城壁の上に すすな 第鈴生りになった人々のあげる大歓声の中を、安全な金角湾の中に入っていった。 コンスタンティノープルの住人が、これほどまでも喜びで狂わんばかりになったのは、こ こ何年もなかったことだった。皇帝も、停泊し終えたばかりの船に乗り移り、激戦を終えた しようさん ばかりの人々に、一人ずつ賞讃と感謝の言葉をかけてまわった。住民は誰も、喜びのあまり、 トルコ人の死者は一万を越えたのに、キリスト教徒からは一人の死者も出なかった、と言い ふらしていた。だが、 直接に治療にあたったニコロにしてみれば、苦笑するしかない話だっ た。トルコ側の死者はおそらく百人程度であり、負傷者を加えても五百人には達しなかった
8 師は、つつける。 「この偉大で真に高潔な文明の基本をなす社会単位が、信者の団体という形をとっているこ とはきみも知っているだろう。その団体を構成するものは、地理上の区画でもなければ、民 族上の区別でもない。なぜなら、ビザンチン帝国の人間は、たいていどの民族ともつながり があるのだからね。では、なにかと一一一一口えば、それは、ただひたすら、キリスト教徒としての 落意見の一致という至高の条件だけなのだ。 のカトリック教会の許における東西教会の合同は、ミサのやり方を統一するなどという単純 プなことではない。それは、異質な二つの文明を無理に一緒にしようとする、許しようもない、 また実現の可能性など少しもない暴挙なのである」 テ ンゲォルギオスは、年若い弟子をやさしく眺めながら、最後に言った。 ス「故国へ帰りたまえ。きみは、西欧の人なのだから」 コ 次の日から一週間以上も、コンスタンティノープルの街は、合同反対を叫ぶ修道士と庶民 の群れで埋まった。そして、その中心にはいつも、全身を黒い僧衣につつんだゲォルギオス の姿があったのである。十二月十二日に聖ソフィア大聖堂で行われた東西教会の合同成立を 祝うミサに、出席を乞われた高位聖職者に名をつらねながら、ゲォルギオスは姿を見せなか
時、キリスト教国の陸軍では対トルコ戦唯一人の勇将として名高かった、ハ、 ノガリア王マテ ィア・コルヴィーノの軍と対戦したトルコ軍は、劣勢におちいり、ミハイロヴィッチの隊は ン ンガリア兵に囲まれた。ミハイロヴィッチは、これを自由を回復する好機と判断し、 ガリア軍に降伏する。彼がキリスト教徒にもどったのも、この年だった。 それから後も、兵士としての彼の生活は変らなかった。だが、セルビア人である彼には、 帰る柤国はすでにない。それで、勧めに従って、ハンガリア軍に加わって戦うことにしたの グである。ハンガリア軍の行く先々、 ハンガリア、ポスニア、モラヴィア、ポーランドと、転 ロ戦して歩いた。『回想録』は、ポーランドにいた時期に書かれたものらしい。一四九〇年か 工ら九八年にかけて、書かれたということになっている。その頃では、かってのセルビアの若 章い騎士も、六十を越える年齢になっていた。ミハイロヴィッチの『回想録』は、著者の特異 第な経歴から、別名『イェニチェリ軍団の兵士であった男の回想録』とも呼ばれている。 しばしば、人は、あることを契機として、その人物に対するこれまでの評価を、百八十度 転換させることがあるものだ。コンスタンティノ 1 プルの陥落は、未熟で野放図な野、いに酔 うばかりの、うまくいっても父スルタンの遺した領土を維持するのが限度だと言われていた マホメッド二世を、一代の英雄に変えてしまった。 ただ
いかに中身がギリシアであっても、ビザンチン帝国だけしかなかったのである。それに、ビ ザンチンの皇帝は、古代ローマの皇帝にはなかった、キリスト教徒という共通性も備えてい た。その東ローマ帝国の皇帝だけが、西欧人からすれば、完全な意味での皇帝の名に値した のである。 とっ それが、今、消え失せてしまったのだ。パレオロガス家の一皇女がモスクワ大公に嫁ぎ、 落それ以後ロシアは、「第一二のローマ , と自称するが、ギリシア正教の本山の移転というなら わかっても、フランス人やドイツ人の皇帝にさえ権威を認めなかった西欧人が、なぜ、皇女 プと結婚したという理由だけで、双頭の白い鷲を紋章と決めたという理由だけで、ロシア人に 皇帝の権威を認める気になれるであろう。西欧の人々は、ビザンチン帝国の滅亡によっては テ ンじめて、古代ローマという母胎から切り離された痛みを感じたのであった。 ス コンスタンティノープルの陥落については、冷静で正確な記録よりも、感情的な詩や報告 ン コ が、当時の多くの人からより受け容れられたのは、彼らが、それによって起る変革を案ずる よりも、失ったものへの哀借の念にひたるほうを選んだからにちがいない。双頭の白鷲は、 回教徒の半月刀によって斬り殺されたのである 西欧の人々にとって、ローマ帝国最後の皇帝は、紅の大マントを風になびかせながら、白 かなた 馬を駆って、天空の彼方に永遠に去ってしまったのであろう。 252 くれない
ホメッドの他には神はなく、明日の戦いは、預言者のなされた預言を実現する聖戦なのだ。 どれい 明日こそ多くのキリスト教徒を捕え、一人ずつ二ドユカートで奴隷に売ってやろうではない か。あの都にある黄金は、すべてわれわれのものである。大金持になるのも間近かなのだ。 ギリシア人のひげをつないで、トルコの大の首輪をつくろう。 アラ 1 の他に神なし、死ぬも生きるもアラーへの愛のため ! 」 落兵たちは、槍と剣をふりまわして大歓声をあげてそれに応えた。コンスタンティノープル にある財宝は、すべて兵たちに分配されるというスルタンの宣言は、眼の前の都が地中海世 プ界で最も豊かと信じこんでいる彼らには、はなはだ魅力的にひびいたのだった。しかもそれ ノゞ、 カまもなく現実になるのだ。三日間の断食で冴えかえっていた彼らの頭も、その夜は早く、 テ ン安眠におちるにちかいなかった。 ス ン コ 194 同じ時刻、ヴェネッィア商館でも、大使ミノットが、ヴェネッィア人全員を集めて話して いた。自ら範を示そうと妻も息子も避難させなかったこの男は、言葉少なく、次のことを述 べただけだった。 「われわれの行為は、それが死に至ろうとも生に恵まれようとも、キリスト教徒としての義 務をまっとうすることに発していた。また、祖国のためにとのわれわれの想いも、裏切られ やり
ディエドには、本来の任務を思いだしたトルコ艦隊が、海上で待つ自分たちの船に、襲い かかってくる危険を忘れることは許されなかった。今なら、強い北北東からの風が吹いてい る。だが、 この風も、いっ変るかわからない。彼は、この風があるうちに、最終的な脱出の 決断を下さなければならなかった。それをジェノヴァ船に告げると、ジェノヴァの船乗りた ちはこう答えてきた。 落「自分たちの船は大型帆船だから、風に恵まれさえすれば船足はずっと早い。だから、まだ しばらくは待ってみる。せめて、陽の落ちる頃までは待ってみたい」 プ防御に強いジェノヴァの大型船が七隻では、ディエドも、心配する必要はないのを知って いる。彼は、ヴェネッィア船団だけで出発することに決めた。 テ ン 午后一一時を、少しまわった時刻だった。ヴェネッィアの四隻とクレタの四隻のガレー船は、 ス三本の帆柱に張った三角帆いつばいに強い北風を受けながら、マルモラ海を南下しはじめた。 ン コひとまず行き先は、コンスタンティノープルを失った今、対トルコの最前線基地となった、 ネグロポンテに決まっていた。 おも 去り行く船の上では、なにかの想いなしに、遠去かるコンスタンティノープルを見やらな い者はいなかった。戦いにはれているはずの軍用ガレー船の乗組員でさえ、言葉もなく、 かなた 水平線の彼方に消えていく、「キリスト教を信ずるローマ人の都」から、眼を離そうとしな かったのである。 212