ジェノヴァ - みる会図書館


検索対象: コンスタンティノープルの陥落
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1. コンスタンティノープルの陥落

る 6 。これに対抗できるだけの数の戦闘員を、市内の防衛軍から裂かねばならない。七千人し かいない全軍で、そんなことができるわけがなかった。 第三の提案は、黒海航路では知らぬ者なしといわれた、ヴェネッィア人の船長コッコが言 いだした案だった。彼は、少数の精鋭による夜襲しかない、と主張した。夜、少数の船だけ でトルコ艦隊に近づき、焼打ちするという案である。コッコは、この決死隊の指揮は自分に やらせてほしい、 とも申し出た。ビザンチン側も、これなら異存はない。隠密に、しかも敏 速にことをはこぶ必要から、ヴェネッィア人だけで決行したいと言ったトレヴィザン提督の 失 湾申し出も、もっともに田 5 われた。、、 ' シェノヴァ人には、知らせないことで一致する。決行は、 金翌二十四日の夜半と決まった。 障ところが、どこからもれたのか、ジェノヴァ人が知ってしまったのだ。二十四日の朝、ヴ 第エネッィア商館に押しかけた彼らは、トレヴィザン、に向って、自分たちがのけ者にされると は、い外だ、参加させるべきだと迫った。トルコとの海戦に勝って、彼らの自信はいやがうえ にも高まっていたのである。皇帝も常々、二大海洋民族であ ' るジェノヴァとヴェネッィアが 協力してトルコに当れば、これ以上の力強い援軍はないと思っているので、トレヴィザンに、 ジェノヴァ人の希望をかなえてはと勧める。トレヴィザンには、皇帝の願いまでしりぞける 権力はない、、 ノ、エノヴァ人も、船一隻とと・もに参加すると決まった。 だが、その日の午后になって、ジェノヴァの船乗りたちは、適当な船が日没までに準備で 157

2. コンスタンティノープルの陥落

にナポリに寄り、ナポリ王にも援軍を送るよう説得する仕事もあった。だが、これは失敗に 終る。 ナポリ港を後にし、南イタリアにそってシチリアのメッシーナに向い、そこの海峡を通っ てからは航路を東にとったイシドロスの船は、それでも順調な航海に恵まれ、エーゲ海にあ ( るジェノヴァ領のキオス島に着いた時は、まだ夏の盛りだった。ところが、東西教会の合同 一という大任を帯び、早くコンスタンティノープルでそれを実現したいとあせるイシドロスの 意向に反して、キオスでの兵集めが、意外と手間どってしまったのである。オリエントでの テ ンジェノヴァ通商の三大拠点といえば、黒海のカッフア、コンスタンティノープルのガラタ、 ス エーゲ海のキオスとされるだけに、 ここキオスでは、最新の情報に不足しない。戦争になる コ かもしれないところに行くのである。安く傭えた原住のギリシア人は、同じギリシア人を助 むた けに行くのだと説得しても無駄だった。結局、キオス島に何代もつづけて住み、コンスタン ティノープルの運命がキオスのそれに密接につながっていることを知っている、ジェノヴァ 章 人を傭うしかなかったのである。しかし、彼らは戦闘を職とするだけに、質は高いが傭兵料 第 も高い。イシドロスが私財をすべて投入しても、法王が彼に与えた資金では、一一百を傭うの かせいぜいであった。これらを船に乗せ、カッフアへ直行するもう一隻のジェノヴァ船とと もにキオスを発ったのは、日差しに秋がはっきりと感じられる季節になっていた。 この日のために東西を何度往復しただろうかと思いながら、イシドロスは、これで最後と ようへい

3. コンスタンティノープルの陥落

船か遊軍の主力とされたのは、帆船よりも動きが自由なためだった。 反対に、防鎖にそって配置された戦力の主力が、ジェノヴァの大型帆船五隻であるのにも、 立派な理由があった。一五〇〇トン級が二隻、七〇〇、四〇〇、三〇〇がそれぞれ一隻ずつ の大帆告よ、。 シェノヴァの船が本国の港の深さからも大型帆船が支配的である伝統を反映し じよ・つさい ていたが、船着場から見る人には、海面高くそびえる城塞のように見える。二〇〇トン級の 落ヴェネッィアの、ガレー軍船と並ぶと、防衛にはいかにジェノヴァ型の船が適しているかは、 日しろうと 素人にもわかるのだった。だが、これは、正確さと協調性と連続性をモットーとするヴェネ ブツィア商法と、反対に個人主義的で、一発勝負を好むジェノヴァ商法のちがいをも示してい テ ン四月十 , 一日、その日コンスタンティノープルの住民たちは、昨日までの大砲設置作業の見 ス物から、反対側のマルモラ海側の城壁にのほっての、トルコ艦隊見物に関心の的を変えたか コのようであった。人々が驚嘆の想いで見守る前を、海将バルトグルにひきいられたトルコ艦 隊は、全船の通過に半日も要したほどの大艦隊だった。ニコロの数えたところでは、ガレー 船十一一隻、大型船が七十から八十、輸送船が二十から一一十五隻、残りは小型船で、計百四十 五隻になる。テダルディの言う数はいくぶんか少なかったが、この時もビザンチン人のあげ た数字は、西欧人に比べて格段に多かった。フランゼスは、四百隻と言、 し、これほどでなく ても、三百隻とする者が多数を占めた。

4. コンスタンティノープルの陥落

かんべき Ⅷうに馬を乗りまわす姿は見えたであろう。彼は、完璧な防御態勢を崩そうとしないジェノヴ ア船三隻は放置して、苦戦をあらわに一小しはじめたギリシア船を、まず血祭りにあげようと 決める。ただちに、四カ所に散っていた全船に合図が送られた。だが、敵船の動きで、この 作戦変更は、たちまちジェノヴァ船に気づかれてしまった。 錨をいかに早くあげるかで、航海技術の優劣が評価できるのだが、その時も、地中海世界 落第一とヴェネッィア人さえもが認めるジェノヴァの船乗りの能力を、まざまざと見せつける 結果になった。 プあれほどの大型船にしては驚くばかりの早さで錨をあげた三隻の船は、トルコ船がまだ隊 ノ / / ノ 幵をととのえないうちに、ギリシア船の左右と船尾を、船べりが接するくらいにびたりと固 テ ンめてしまったのである。離れたコンスタンティノープルの城壁から見守っていた人々さえ、 じようさ、 ス一瞬、にわかに海上高く、四つの塔までそなえた城塞か出現したかと田 5 ったほどだった。ま コわりを囲んだトルコ船からでは、眼前に突然、鉄の大壁が立ちふさかったかのように思えた であろう。これ以後の海上の戦闘は、自ら防壁となったジェノヴァ船三隻と、それにあいか しつよう ゅうひ わらずの執拗さでくいさがってゆく、トルコ艦隊との戦いになる。激闘は、タ陽を浴びてつ づけられた。 ところが、陽がまさに落ちょうとした瞬間、凪いでいた海面が、にわかに波立ちはじめた のである。風が吹いてきたのだ。キリスト教徒にとっては、幸運にも北風だった。

5. コンスタンティノープルの陥落

揮をまかされたジュスティニアーニも、また海軍の総司令官を勤めるトレヴィザンも、戦場 できたえあげた男たちだけに、、、 シェノヴァ人でありヴェネッィア人であるよりも、まず武人 であったのだ。 逃亡船を告げた時と少しも変らない冷静な言葉っきで、トレヴィザンは、海軍の現勢力に ついても報告した。船長だけでなく、漕ぎ手に至るまで残留の意志を確認しての数字という 落ことだった。それによると、 の ジェノヴァの大型帆船、五隻 プ ヴェネッィアの軍用とより大型の商用ガレ 1 、ロ、 ま五隻 クレタの商用ガレー船、三隻 テ ン イタリアの海港都市アンコーナ、スペインのカタロニア、フランスのプロヴァンスの タ ス 帆船が一隻ずつで、三隻 ン コそれに、ビザンチン国籍の船十隻を加えて、計二十六隻になる。しかし、船の大きさと操 縦技術からして、この艦隊の主力は、五隻のジェノヴァ船と同数のヴェネッィア船とするの が現実的だった。 トレヴィザンはつづけて、トルコ領のガリーポリで二百隻もの船が建造中という、ヴェネ ひろう ツィアのスパイのもたらした情報を披露した。イタリアの海洋都市国家の船乗りの航行技術 は、他の追従を許さないほどに優れており、商船の伝統のないトルコの船乗りとは比較にな

6. コンスタンティノープルの陥落

ごうおん 落巨砲の轟音こそ伝わってはこなかったが、皇帝コンスタンテイヌスには、的が自分の胸に びたりと定められたと感じるしかなかった。その少し前、トルコの宰相カリルからの密使に もと プよって、スルタンの確固たる意志を知らされた際、皇帝も、密使をスルタンの許に送ったの ねんぐきん である。コンスタンティノープル攻略の意志をひるがえしてもらう代わりに、多額の年貢金 テ ンを支払うと申し入れたのだった。しかし、マホメッド二世は、全面降伏を求めただけである。 タ ス降伏して皇帝さえ首都を去れば、ビザンチン帝国の臣民の命は保証する、というものだった。 ココンスタンテイヌスには、それまでして命を永らえる気になれなかった。交渉は決裂する。 その後に送った使者は、年貢金の増額を申し入れたのだが、スルタンの答えは変らなかった。 うれ 皇帝の髪に一段と白いものが増したその頃、数日だけにしても皇帝の憂いを晴らす朗報が せき もたらされた。ジェノヴァ船二隻が、五百の兵を乗せて到着したのである。ひきいるのは、 ようへい キオス島を本拠にするジェノヴァの武将ジュスティニアーニ、配下の兵たちも、傭兵隊長の 彼の下で戦いに慣れたキオス島出身の男たちだ。彼らの傭兵料は、、、 シェノヴァが出すのでは くても、重い砲台を引いていくのには不安があったからである。首都周辺の街道さえ不整備 のままで放置されているこの事実は、ビザンチン帝国の衰えの深刻さを、なによりもよく示 していた。 ころ

7. コンスタンティノープルの陥落

スト教徒の船に、警戒をゆるめる暇を与えず、浮橋上の大砲は、金角湾側の城壁の損傷を、 日に日に大きくしていた。砲撃が集中している陸側では、被害は比較にならない。皇宮にそ う城壁を守るテダルディは、一つの塔の上半分が、砲丸の直撃を受けて消えてしまったのを 目撃した。陸側の城壁の損傷は、メソティキオン城壁と、一重しかない皇宮ぎわの城壁が最 もひどかった。ビザンチン帝国の輝やかしい歴史を体現するコンスタンティノープルは、ア 落ナトリアの山地の民による、三方からの砲撃にさらされていたのである。 の この情況の中で、ヴェネッィア人とジェノヴァ人の反目が再び爆発した。ヴェネッィア人 プは、もともとガラタの居留区の中立固持に腹を立てているうえに、夜襲失敗の限みが忘れら れない。ああいう連中だから、遅かれ早かれ自分たちを見捨てて逃亡するという疑いを、捨 テ ンてきることかできないのである。それで、ヴェネッィアの商船と同じようにジェノヴァ商船 シェノヴァ人は、侮辱された思い スも、錨と帆をはずし、皇帝に預けてはどうかと提案した。・ コをあらわにして言い返す。 ばかげ 「どうしたら、そんな馬鹿気た考えがもてるのだろう。逃げるとは、ガラタを捨てることで はないか。二百年もの間に築きあげたわれわれの富、われわれの町、われわれの息子たちを 捨てることなど、絶対にできない。居留区はわれわれにとって、生れ育った場所なのだ。そ れを捨てるくらいなら、最後の血の一滴まで戦いぬくだろう」 こうまで言われると、互いに通商国家同士、ヴェネッィア人も黙るしかない。だか、居留 172

8. コンスタンティノープルの陥落

サガノス・パシャの軍団 ガラタの 1 ' " 个角。湾。 ジェノヴ′居ー留区 皇宮 カリガリア彗 カリシウス門 ェまテ聖ロマノス軍門 ェオ 壁、ギウ , 、門 不正規軍団 聖ソフィア大聖堂 大競技場 ー金角湾封鎖の鉄鎖 浮橋 なマノレモラ : 毎… トルコ軍布陣図 スルタンの天幕 ′、大砲 = 2 km 1453 年 4 ・ 5 月のコンスタンティノープル ベガェ門 ヴェネッィア ジェノヴァ アドリアーノボリ 。翦コンスタンティノーフ。ル ・プルサ ノレフ ネドス 当ネグロホン方 : シノベ クレグ→ ・アンティオキア 0 ロ アレキサンドリア 東地中海世界 ・アッコン ・ヤッファ ・イエルサレム カイロ 200km

9. コンスタンティノープルの陥落

後は西地中海、そしてさらに大西洋に向けられるようになるのも、トルコの若者の並はずれ た征服欲のおかげであったと、言えないこともない。 決断力に恵まれていたとは言えなくても、実直ではあった代官ロメリーノのその後は、私 生活でも明るいことは少しもなかった。子のなかった彼が後継者にと思って眼をかけてきた 甥が、トルコの捕虜になった後、回教に改宗したのである。居留区のジェノヴァ人の中には、 商人として生き残るために改宗した者が少なくなかったのも事実だ。だが、居留区の心ある グ 同朋とともに、捕われ奴隷にされたキリスト教徒たちに、一日も早く自由を回復させようと ロ身代金の算段に頭を悩ませていたロメ リーノは、人もあろうに自分の甥が、改宗して自由に 工なってもどってきた姿に直面させられることになった。六十をはるかに越えていたロメリー 章ノには、ここガラタに、彼を引きとめるものはなに一つなくなった。 第攻防戦開始の前に着任しているはずであった新任の代官が、ようやくキオス島まで来たと の知らせに、彼もガラタを後にする。キオスへ行き、新任者への諸事説明が終ったのは、九 月の末であった。その後まもなく、ロメリーノは本国へ向う船に乗った。本国到着後の彼の ころ 消息を示す、確実な史料はない。だか、まだキオスにいる頃、本国に住む弟に向けて書いた、 長文の手紙が残っている。攻防戦を居留区側の視点で報じながら、いかにガラタのジェノヴ ア居留区が困難な立場にあり、それでいて、いかに居留区の多くのジェノヴァ人が、包囲中 のコンスタンティノープルを助けるために、可能なかぎりの援助を惜しまなかったかを述べ

10. コンスタンティノープルの陥落

もと も、トルコの大軍の前に屈する。皇弟の一人トマスは、ローマの法王の許に亡命した。 翌一四六一年、これもビザンチン帝国の皇統を伝える国、トレビゾンドが陥落する。これ によって、黒海南岸は、トルコの完全な支配下に入ったことになった。 一四六三年、それまで陸戦ばかりだったトルコ軍が、海に進出する。的にされたのは、エ ーゲ海に浮ぶレスポス島だ。大軍を上陸させての陸側からの攻撃に、二百年以上もジェノヴ 落ア領であったこの島も、たちまち陥落した。 のそして、一四七〇年、さらにエーゲ海の南下をつづけるトルコは、ヴェネッィアの海軍基 プ地ネグロポンテに挑戦した。この戦いは、初年のトルコによるネグロポンテ占領からはじま って、以後十年余りもつづくことになる、トルコ、ヴェネッィア戦争の端緒となった。 がいせん テ ン 一四七三年、ベルシアの地に遠征したトルコ軍は、ベルシア軍を敗走させて凱旋する。こ スれで、西と東からトルコをはさみ打ちにしようとしたヴェネッィアの策謀も、失敗に終った ン コのだった。 一四七五年、トルコは大軍を黒海に送り、カッフアを攻略する。この攻略により、黒海は トルコの内海と化したのであった。カッフアを根拠地にしていたジェノヴァ通商は、これで、 再び立ち直るなど不可能な打撃を受けたことになる。反対にトルコは、クリミャ地方への道 を開いたことになった。 一四七九年、今度は西南に兵を向けたマホメッド二世は、それまで山岳地帯でのゲリラ戦 ちょうせん