フランゼス - みる会図書館


検索対象: コンスタンティノープルの陥落
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1. コンスタンティノープルの陥落

年以上もそば近く仕えたフランゼスも、言葉もなく背後に立つ。ふと振りかえった皇帝は、 この忠実な家臣の肩に手をおき、市内の予備軍の様子を見てきてくれ、と言った。フランゼ スは、この期におよんで一刻も皇帝のそばを離れたくなかったのだが、そんな私心をあらわ にするのははばかられた。頭をさげて承知の意を示した後、フランゼスは、塔の階段をおり ていった。早くこの任務をすませて、聖ロマノス軍門を守る皇帝の許に行こうと心に決めな これが、忠臣フランゼスが主君を見た最後になった。 落がら。だが、 の レ プ ノ イ テ ン タ ス ン コ

2. コンスタンティノープルの陥落

コンスタンテイヌスがまだモレアの君主であった時代に秘書官として勤めは とかできない じめたのは、フランゼス、二十七歳の年である。彼よりは三歳年下のコンスタンテイヌスが、 子のいなかった兄のヨハネスの後を継いで皇帝に即位した四年前から、フランゼスの地位も あがり、今では大蔵大臣になっているのに、気分だけはどうにも昔と変らず、秘書官であっ た頃と同じ敬愛の気持で接してしまうのだ。皇帝のほうも、フランゼスの二十四年に及ぶ親 身な忠節を感じとっていて、今でも内密を要することは、なにかとフランゼスに頼るのが常 ちだった。 人「わが皇帝ほど、心身ともに高貴な方はおられない 場 フランゼスは、わがことのように誇りに思うのである。実際、コンスタンテイヌス十一世 現 ほそおも がた 章は、痩せ型にしても均整がとれて背が高く、細面ての彫りの深い顔は、暖かい眼とあごひげ くれない このコンスタンテイヌスが、紅の大マ、ント 第で、威厳を保ちながらも人間味に欠けていない。 い・ - しえ を風になびかせながら白馬を駆る様は、フランゼスならずとも、昔のローマ皇帝もかくやと、 せいれん ほればれするようだった。性格も、清廉潔白で誠実そのもの。自分と考えをともにしない者 きゅうせんばう の意見でも忍耐づよく聴くので、東西教会の合同反対の急先鋒であるゲォルギオスさえ、個 人としての皇帝は、敬愛せずにはいられなかったのである。もちろん、国民の人気も上々だ っ , 」 0 コンスタンテ フランゼスにしてみれば、皇帝の家族運の悪さが気の毒でならない。

3. コンスタンティノープルの陥落

でにトルコの支配下に入っている地方のギリシア人も、コンスタンティノープルの陥落で奴 かね レ」・つは」・つ 隷となった同朋の救済にいちょうに力をつくしていたから、彼らの一人から借りた金で、奴 隷生活十八カ月目にわが身の自由を買いもどすことができたのである。次は、妻を買いもど すことだったが、これも、フランゼスの長年の献身的な仕事ぶりを知っている人々が、協力 を惜しまなかったので実現した。 息子と娘については、父親は、悲しい知らせしか得ることはできなかった。スルタ ンのハレムに入れられた娘は、そこでまもなく死んだということだった。また十四歳になっ プていた息子も、スルタンの欲望を拒絶したために、殺されたのだと知らされた。 もはやこれ以上トルコ人の国にとどまる意味も必要もなくなったフランゼスは、妻を伴な テ ン」し ペロポネソス半島の一部を領する皇弟トマス・パレオロガスを頼って行った。そこで官 ス職を与えられて住んでいたのだが、一四六〇年、マホメッド二世がこの地をも征服した時に、 ン 司、バレオロガスの亡 コトマスに従い、ヴェネッィア領のコルフ島に亡命する。その後数年の尸 命政権の一員として、ローマやヴェネッィアをはじめとするイタリア諸国への使節を勤めた が、一四 , ハ八年、妻の死が契機か修道院に入った。そして、一四七七年に死ぬまで、修道士 きようじゅ として生きながら、『回想録』を書きつづったのであった。フランゼスの享受していた立場 からも、この記録は、ビザンチン帝国最後の日々を知るに、ギリシア側第一の史料とされて いる 220

4. コンスタンティノープルの陥落

ったので、スルタンの白馬が西の地平線に消えた後も、捕虜たちの行列の最後のほうにいた 人々は、まだコンスタンティノープルの城門の中にいたとい、つ。 その間フランゼスの頭を占めていた最大のことは、皇帝の遺体の行方だった。皇帝が雄々 だれ しく戦った末に討死したということは、捕囚たちの間にも風のように伝わっていて誰もが疑 わなかったが、 遺体の行方については、誰一人、確かなことを一言える者はいなかった。フラ ンゼスには、スルタンの許に持ってこられ、ギリシアの重臣たちに首実検もされたという頭 グ部か、皇帝のものであるとはどうしても信じられなかった。だが、つながれている身の彼は、 ロ円柱の上にさらされているというそれを、見にいくことはできない。フランゼスは、自分が 工あれほど心から仕えた皇帝が、自身秘かに望んでいた死を、ビザンチン帝国最後の皇帝にふ 章さわしいやり方で迎えたという事実だけで、充分であったと思うことにしたのである。 第 もう一つの心配事、妻と息子と娘の行方を探ることも、簡単にはいかなかった。だが、こ れは、トルコの捕囚になったギリシア人のほば全員の関心事であったから、情報は注意して いれば欠けることはない。まもなく、妻が別のトルコ人の所有になっているのがわかった。 そして、アドリア 1 ノボリに着いてしばらくしてから、息子も娘も、スルタン自らが選んだ どれい 宮廷用奴隷の若い男女の中にふくまれていることが、判明したのである。 スルタンの馬丁頭の奴隷になったフランゼスは、まずはじめに、自らの自由を買いとる仕 事にとりかかった。まだギリシア人の支配していたペロポネソス半島に住む人々も、またす 219 ひそ

5. コンスタンティノープルの陥落

もと 落早く皇帝の許にもどらねばと思いつつ、市内の予備兵をまとめるのに手間取っていたフラ ンゼスは、陥落時、押し寄せてくる敵兵に囲まれて、まわりのギリシア兵ともども捕虜にな カった。実直で地味な性格どおりに、人目に立たない肉体の持主でもあった彼は、占める地位 にふさわしい武装もしていなかったこともあって、トルコ兵たちは、捕えたばかりのこの男 ンが、ビザンチン帝国の大蔵大臣であるだけでなく、皇帝の一の側近であったことに、まった スく気がっかなかったようである。 コ一介の兵士並みにあっかわれたフランゼスは、他の捕虜たち同様に二列縦隊につながれ、 あるじ 城外のトルコの陣営まで引かれ、兵たちの間で分配がすんだ後も、主となったトルコ兵の天 幕の外に、家畜の群れのようにかたまって過ごす一カ月を送ったのである。そして、マホメ ッド二世が、征服したばかりの都の管理をひとまず重臣の一人にゆだね、アドリアーノボリ にもどるためコンスタンティノープルを後にした六月二十二日、フランゼスもまた、勝利者 に従ってアドリアーノボリへ向う長い捕囚たちの行列に加わっていた。捕囚があまりに多か 218 第十章エピローグ

6. コンスタンティノープルの陥落

以後、外の世界からの援助はまったく途絶えていた。ガラタのジェノヴァ人が運んでくれて 、も、たにとい、つわナ・こよ、 。ーーーし , 刀学はし 、。また、これも、居留区の外のガラタ地区へのトルコ支配 網が固まって以後は、ジェノヴァ人にも、外からの補充が困難になっていた。コンスタンテ イノープル市内で飼われている、羊や牛の数はしれている。菜園も、この季節では、役に立 つほどの量は産しなかった。 フランゼスは、皇帝に向い、国費では充分でないので、金持の個人や教会、修道院に寄附 をつのり、それでできるかぎり多量の小麦粉を買い求め、一家族ごとに必要最小限の量を配 カ 、と言った。皇帝も賛成で、この案はただちに実行に移された。寄附の総額 の給するしかない 贏は予想をはるかに下まわり、皇帝をまたも憂い。、冫 こ尢ませたが、住民たちの不満は聴かれなく 章なったのである。 第 その間も、砲撃はつづいていた。「親熊は時々、故障か破裂かで沈黙することはあった が、「子熊」のほうは補充も簡単なためか、うなり声をあげない日はなかった。それでも敵 ごうおん 兵の攻撃はないので死者は出ず、城壁の外からの轟音と、城壁内の教会の鐘がときを告げる 音との奇妙な合唱が、人々の頭から、ややもすると大軍の敵に囲まれている恐怖を忘れさせ ろ・つじよう た。だが、籠城は、すでに一カ月におよんでいたのである。 五月三日。その日の朝、ヴェネッィア大使ミノットとトレヴィザン提督は皇帝に招ばれた。 皇帝のかたわらには、フランゼスしかいない。四十九歳のコンスタンテイヌス十一世は、一 167 うれ

7. コンスタンティノープルの陥落

の盛んなフランスを中心に、十字軍結成の呼びかけの宣伝文として、法王ニコロ五世の推薦 まで受けて活用されたのである。フィレンツェ商人テダルディは、生国イタリアでよりも、 フランスで名を知られるようになる。そして、それから十五年後の一四六八年には、簡潔だ が文学味にとばしかったテダルディの物語は、より文章的に練られた末、コンスタンティノ ープルの陥落については、フランスで最も権威ある史料といわれるようになったのである。 落六月四日のヴェネッィア到着から、そこを七月五日に発ちフィレンツェへ向うまでのテダ ルディの消息はたどれるが、その後の彼について知らせてくれる史料はない。おそらく、余 プ生は故郷で、フランスの地で有名人になったのに苦笑いでもしながら、過ごしたのではなか ノ ろ、つか テ ン タ ス ン コ 230 もはやビザンチン帝国の首都ではなくなったコンスタンティノープルを後に、折りからの 北風を帆に受けて全速力で南下したヴェネッィアとクレタの船団が、トルコ艦隊の追撃の恐 怖から完全にのがれたと思えたのは、六日目の朝、ネグロポンテに入港した時だった。総指 揮官ディエドの判断で、最も前線の基地だが守りが充分とはいえないテネドス島に寄らず、 安全では不安のないネグロポンテに直行したのである。ロンゴ指揮の十五隻がテネドスにい るとは、ディエドも知らなかったのだ。 た せき

8. コンスタンティノープルの陥落

題した、長編叙事詩をつくった。自らの眼で見た一帝国、一文明の滅亡は、古典文明の学徒 であったウベルティーノにとって、なにかの形に残さずにはいられないほど、強烈な印象を 与えたのであろう。その後、故郷にもどった彼は、ギリシア哲学を教え飜訳し、また詩をつ くる静かな生活を送る。没年は、一四七〇年と思われる。 古典文明などにはまったく関心がなく、また、カトリックとギリシア正教が合同しようか グ ロしまいが、これに対しても特別な関心を持ったこともなかった商人のテダルデイも、コンス おも エタンティノープルの陥落という大事件に自ら参加し、それを誰かに伝えたいという想いでは、 章他の「現場証人たち」と変りはなかったようである。 第陥落時、泳ぎのできないことも忘れて海にとびこんだおかげで助かったこのフィレンツェ 人は、六日後、ヴェネッィア海軍基地のあるネグロポンテに入港した船に乗っていた。ここ に、ヴェネッィア人たちが今後の対策を協議している間待たされていた彼は、ちょうどそこ に滞在していた一人のフランス人に、コンスタンティノープルの攻防戦について物語ったの である。 このフランス人は、テダルディの物語を早速フランス語に訳し、アヴィニョンの大司教に おくったのであった。たちまち、この一文はフランス人の間に広まり、もともと十字軍精神 229

9. コンスタンティノープルの陥落

有にかかっていることを頭にたたきこんだうえで、ビザンチン帝国と西欧を刺激しないやり 方で、トルコとの友好関係の維持に全力をつくせ、という難題である。自分たちの存在が相 手に絶対に必要であるとはいえない状態での中立ほど、むずかしい課題はないのだ。それを 本国政府は、ロメリーノに命じてきたのである。六十半ばといえば、地中海を縦横に活躍し たの てきた交易商人でも、引退して故国での安らかな生活を愉しむ年である。ロメリーノも、妻 落を亡くし子もないところから、手許に引き取って仕事をしこんできた甥にガラタで築いた全 事業を残し、ジェノヴァへ帰り、そこに住む弟一家とともに静かな余生をおくる日を、眼の おも プ前にする想いだったのである。それが、帰るどころか大任を背負ってしまったのだから、彼 ノがため息をもらすのも無理はない。 テ ン 「もう一度、皇帝とスルタンの双方に、友好関係確認のための使節をおくらねばならないだ スろ、つ」 コ ロメリーノは、塔のらせん状の急な階段を注意して降りながら、誰にともなくつぶやくの だった。 一四五ニ年・夏コンスタンティノープル 皇帝の前に出るたびに、フランゼスは、暖かい想いで胸がいつばいになるのを押さえるこ

10. コンスタンティノープルの陥落

ほとんどの人は知らない。使者は、ギリシア人で回教に改宗したイスマイル・べグだ。スル タンの出した降伏の条件は、十万ビザンチン金貨の支払いと、皇帝の退去だった。皇帝は断 わったが」 これは、ウベルティーノは知らなかった。だが、彼には、守備兵の労をねぎらいにしばし としごろ ば彼の守る城壁にも姿を見せた、自分の父親の年頃と思われる皇帝の、高貴な風貌と暖かい 落言葉を思いだしながら、断わった皇帝を非難する気にはどうしてもなれなかった。 陥 の この後は、師も弟子も、攻防戦の話題にはふれなかった。二人とも、互いにこれからも、 プそれまでと同じ立場をつづけるであろうことはわかっていたからである。話題は、哲学につ イいてだった。ウベルティーノには、コンスタンティノープルに住みはじめた当時にもどった テ ンような気分を、心ゆくまで味わえたひとときだった。僧院を後にする時、晩鐘が鳴りはじめ タ スていた。師は、、 しつものとおりの短いあいさつをした若い弟子に、眼にやさしい微笑をたた ン コえたまま、なにも言わなかった。 フランゼスは、またも皇帝から、難問題の解決をまかされていた。住民からの声が高まり はじめた食糧の欠乏を、どうにかしなければならないのだ。三万五千に外国勢を三千として、 四万近くものロを満足させるのは、簡単な問題ではない。四月二十日の四隻の船による補給 ふうぽ・つ