帝国 - みる会図書館


検索対象: コンスタンティノープルの陥落
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1. コンスタンティノープルの陥落

も収まらなかった。ビザンチン帝国をはじめとして、それまではトルコの属国と同じだった 各国は、これを、自由になる好機と判断する。しかし、トルコがこの打撃から立ち直るのに 要した二十年という歳月を、これらの国々は、年貢金支払いと軍勢提供には知らぬ顔をきめ こむことだけはしたが、 自国内の防衛力を高めることには活用しなかったのである。実際、 二十年経って再び攻勢に転じてきたトルコの前に、これらの国々はなすすべを持たなかった。 落結局は失敗に終ったにしても、コンスタンティノープルは包囲され、ビザンチン帝国をはじ めとするこれらの国々は、スルタン・ムラードの要求にたちまち屈して、二十年間途絶えて プいた年貢金支払いと軍勢提供を受け容れたのである。一四〇一一年の当時に、再びもどったの であった。 テ ン だが、それからほば三十年の間、スルタン・ムラードは、再び支配下に収めた領域の確保 スに専念したほうが得策と信じたのか、大規模な侵略行動に出ようとしなかった。戦いはした コ が、それもほとんどが防衛戦で、コンスタンティノープルにはふれようともしない。まった く当時のコンスタンティノープルは、ビザンチン帝国の首都とは言っても、一種の自由港の ような立場にあった。ここを基地として、ジェノヴァやヴェネッィアを主とする西欧の通商 国家や、アラブやアルメニア、ユダヤ人らの、オリエント地方の伝統的な商業民族が、互い に商いの技を競っていたのである。トルコ民族は、同じ回教徒のアラブ人とはちがい、本質 的には遊牧の民で、商業に得意であったことはない。その不得手なことを他の民族が代わっ

2. コンスタンティノープルの陥落

れ、首都にもどることを許されなかった。盟友同士は、巧妙に引き離されたのである。そし ・バシャか首 て、その代わりということで、先のスルタンによって左遷されていたサガノス 都入りした。 しかし、ビザンチン帝国も西欧各国も、この一連の現象の持つ意味を深くは考えなかった。 新スルタンは、ビザンチン帝国をはじめとするオリエントの国々との間に、スルタン・ムラ ード時代に結ばれた友好と不可侵の条約を再新するのに、なんの難題も持ちださなかったか 公らである。ジェノヴァやヴェネッィアとの友好通商条約再新も、まったく問題はなかった。 主そして、若いスルタンは、セルビア王の妹でスルタンのハレムに献上されていた、子はいな 二かったが先のスルタンのもう一人の正妻であったマーラを、彼女がハレム入りの時に持って 章きた持参金を返しただけでなく、数々の贈物に仕度金まで与えて、故国に帰してやったので 第ある。マーラが、ハレムにいた間もキリスト教徒でありつづけたことは、西欧でさえも知ら れたことだったから、これは、新スルタンのキリスト教徒に対する態度の、穏健さの証拠と 見る者が多かった。ヨーロッパ諸国は、十九歳の新スルタンを、偉大な武人で義に富む男で あった父の後を継いで、その遺産を守るのだけに力いつばいの器、と評価したのである。 だが、そう単純に楽観できなかった少数の者がいた。その一人が、ビザンチン帝国皇帝コ ンスタンテイヌス十一世である。皇帝は、トルコとビザンチンの間の相互不可侵条約が再新 されたにかかわらず、マホメッド二世の即位のわずか一カ月後に、西欧に向けて、援軍派遣 うつわ

3. コンスタンティノープルの陥落

ギリシアの精鋭をひきいて守ることになった。そこからさらに南に向って、再び地型が高く なる一帯は、ギリシア人、ヴェネッィア人、ジェノヴァ人の各隊が、それぞれ一つずつの城 門を中心に防衛を受けもつ。学生のウベルティーノは、ベガ工門を守る、グリッティ指揮下 のヴェネッィア隊に加わっていた。 異なる民族からなる防衛軍を、一つの民族に一地域の防衛のみをまかせず、小隊に分離し たそれらを混ぜ合わせた防衛体制を提唱したのは皇帝だが、これは、各民族間の反目をやわ るらげながら、それでいて個々の民族の持っ力を最大限に活かそうと考えたからであった。陸 海全軍の総司令官は皇帝、海軍はヴェネッィア人のトレヴィザン、陸軍の総指揮はジェノヴ 防ア人のジュスティニアーニとしたのも、この意図のあらわれだった。だが、皇帝の深謀遠慮 章も無用であったかと思われるほど、この混成軍は今のところ、総指揮官が他国人であっても、 第一致団結して防衛にあたる気概にあふれているように見えた。 皇宮に接する城壁を守るヴェネッィア隊に属していたテダルディは、そこに立っ塔の一つ に、二人の騎士とともに登ってきたところだった。この、コンスタンティノープルでは最も 西北に位置する塔の上に、ビザンチン帝国旗とヴェネッィア共和国旗をかかげる仕事に呼ば れたのである。空色の地に銀の双頭の鷲のビザンチン帝国旗と、赤地に金の聖マルコの獅子 のヴェネッィア共和国旗は、ギリシアとヴェネッィアの騎士二人の慣れた作業で、たちまち 塔の上高くひるがえった。 121 わし

4. コンスタンティノープルの陥落

じていた西欧の人々にとって、言葉にならないほどの衝撃であった。ビザンチン帝国と直接 の関係があったイタリアの海洋都市国家やローマ法王庁、それにハンガリア等の東欧諸国の 人々は、末期の帝国の実情に通じていたが、それ以外の国の人々でも、東のローマ帝国が、 数百年の間にゆるやかに衰えつつあったことを知らなかったわけではない。十字軍時代から すでに、回教徒の進出に対して守勢に立っしかなかった帝国は、十字軍遠征から幸運にも帰 還できた人々のロを通じて、ヨーロッパの端しまで知られた事実だった。しかも、ここ半世 グ紀というもの、帝国を見捨てて西欧に住みつく学者や、公会議のたびに西欧の君主たちに援 ロ軍要請に訪れる皇帝たちは、西欧の人々には見なれた光景にさえなっていたのである。 工 だが、ビザンチン帝国がついに地上から姿を消したという事実は、これらの人々の胸さえ 章も、説明のつかない暗い想いで満たさずにはおかなかった。 第 西欧でも、古代のローマ皇帝がいなくなって以来、皇帝を名のる君主にはこと欠かなかっ たが、彼らのある者は、古代ローマ人がガリア人と呼んだフランク人であり、その他の者も、 ガリアよりももっと野蛮の地とされていた、ゲルマニアの出身者だった。彼らは、神聖ロー マ帝国皇帝という名称は持っていても、黒い双頭の鷲を紋章にしていても、かってのローマ 帝国皇帝の権威もなく、権力も持たなかったのである。西欧の人々は、それを知っていた。 知っていたからこそ、やむをえぬ時だけ従い、 機会が訪れれば、迷うことなく反対の立場を とった。このように感じていた人々にとって、古代のローマ人が創設した帝国を伝えるのは、 わし

5. コンスタンティノープルの陥落

だが、十字軍のはじまる十一世紀ともなると、勢力圏はおおはばに縮小されてくる。西欧 のキリスト教勢力とオリエントの回教勢がぶつかったこの時代、教理問題でカトリックと分 離したギリシア正教の本拠となっていたビザンチン帝国は、この両新興勢力の間で、旗色の 判然としない中間の国になっていた。東地中海の制海権が、ビザンチン人の手から、海洋都 市国家のジェノヴァやヴェネッィアの手に移ったのもこの時代である。 ( 図 2 参照 ) そして、 落このままの状態で、一時期にしろ帝国が消滅した、一二〇四年の第四次十字軍による、ラテ ン帝国創建につながっていく。この時期に東ローマ帝国の血筋を伝えつづけたのは、コンス プタンティノープルから亡命した人々によってつくられた、小アジアの一部を占めるニケーア 帝国だけであった。 テ しかし、わずか六十年で「ラテン人を追い出し、コンスタンティノープルに復帰したビ スザンチン人だったが、不幸にしてこの時代、東方には大敵が成長しつつあったのである。ア たくわ コナトリアの地で力を貯えていた、オスマン・トルコ民族がそれだった。その後の一世紀の、 じようしやひっすい ことわり いかに盛者必衰は歴史の理とはいえ印象的である。 ビザンチン帝国の後退に次ぐ後退は、 ( 図 3 ・ 4 参照 ) トルコは、ポスフォロス海峡を渡りヨーロッパの地を次々と征服していった結果、栄光を ほしいままにしていたかっての大帝国の領土は、首都コンスタンティノープルの周辺を除け ばあとはペロポネソス半島の一部を残すだけになってしまう。南にあるエーゲ海は、ヴェネ

6. コンスタンティノープルの陥落

落庶民たちは、もはや神にすがるしか道はないと感じていた。だが、超現実的なことにすか りつく者は、他の超現実的なことに心を乱されずにはすまなくなる。それまでは人々のロの プ叫而にものばらなかった日からの言い伝えか、まことしやかにささやかれるよ、つになった。 ビザンチン帝国は、最初の皇帝コンスタンテイヌス大帝と同じ名の皇帝の治世に滅亡する テ ンという預言を、あらためて人々は思いだしていた。また、大帝の立像は片手が東方を指して ス それは、東方からくる者によって帝国は滅びるという意味なのだ、という者もいた。 ン コ昔からの言い伝えの一つに、帝国は月が満ちつつある間は絶対に滅びない、 とい、つのかあ - り・・、 これまで人々を元気づけていたのだが、二十四日は満月だった。この後は、月は欠けるしか げつしよく これが、人々をおびえさせた。しかも、その満月の夜に、月蝕が起ったのである。三 やみ 時間つづいた暗黒の闇は、もともと迷信深いビザンチンの人々にとって、これ以上の不吉な 前兆はないと思えた。月は、ビザンチン帝国の象徴でもあったのだ。神が帝国を見捨てられ おも たのだという想いは、彼らの胸に、重くのしかかって動かなくなった。 188 第八章崩れゆく人々

7. コンスタンティノープルの陥落

するしかなかった。 西のローマが衰退しつつあっただけに、「新ローマ」とも呼ばれたコンスタンティノープ ルの急速な発展は、当時の人々の注目を集めるに充分であったろう。ヨーロッパとアジアの かなめ 要に位置するこの都は、誕生の時からすでに、地中海世界の首都となるようさだめられても いたからである。 公しかし、この「新ローマ、は、西のローマと、ある一点で完全にちがっていた。東のロー 主マは、はじめから、キリスト教を主要な要素とする帝国として生れたことである。東ローマ 人 帝国の皇帝が公式の場でまとう大マントの色は、紫でなく紅であった。古代ロ 1 マ帝国皇帝 章の色であった紫を、キリスト教会は、死の色、つまり、喪の色にしてしまったからだった。 第西暦四世紀の創立の頃からすでに、東のローマは西のローマよりも活気があったと言われ るが、地中海世界の首都としての地位を確立したのは、やはり、本家のほうのローマが滅亡 した、五世紀末からであったろう。そして、それから一世紀も経ない六世紀半ば、東ローマ 帝国の勢力圏は、最大に達したのである。全盛期の古代ローマには及ばなかったにしても、 ュスティニアヌス帝の時代、ビザンチン帝国の領土は、西はジプラルタル海峡から東はベル シアとの境まで、北はイタリアのアルプスから南はナイルの上流まで広がっていたのである。 ( 図 1 参照 ) ころ くれない

8. コンスタンティノープルの陥落

しかし、その同じ日、トルコの陣営でも動揺はあったのである。包囲は五十日をすぎてい るのに、コンスタンティノープルはまだ持ちこたえている。砲撃もあれほど間断なく浴びせ 落ているのに、外城壁を越えられた兵は一人もいなかった。ヴェネッィアの艦隊が、出港した のという知らせも入っている。もしかしたら、明日にでも、艦隊か到着するかもしれないのだ。 プそうなった時に起る海戦に、楽観的な予想を立てられる者は、これまでのトルコ艦隊の無力 うわさ / ガリア軍か救援に来るという噂も流れて を見せつけられては一人もいなかった。また、ハ、 テ ンいた。もしも、 ハンガリアがトルコとの間に交わした協約を破り、勇将フニヤディにひきい スられた軍がドナウ河を越え、海からもヴェネッィア艦隊が救援に馳せつけてきたとしたら、 ン コ十六万のトルコ軍も、コンスタンティノープルにばかりかかずらってはいられなくなる。二 十六日に開かれた作戦会議は、このような空気を反映してはじまったのであった。 さいしよう 宰相のカリル・パシャは、この機をのかしてはとばかり、力をこめて話しはじめた。 「攻略は断念し、包囲は解くべきである。亡きスルタンも経験したことなのだから、撤退は けっして恥ではない。無謀こそ、大国をひきいる者の、してはならないことである。西欧の 国々も、ビザンチン帝国の救援に、いつまでも知らぬ顔をつづけることはできないであろう。 190 えただけだった。

9. コンスタンティノープルの陥落

参 9 ロ コジ支タンテ第、 ノ第プ 海 地中 〔図 1 〕 565 年頃のユスティニアヌス帝時代のビサンチン帝国 黒 海 コンズタンディ ノ←プル 6 20 ・ 0 0 ・ 0 地 中 海 〔図 2 〕 11 世紀・十字軍当時のビサンチン帝国

10. コンスタンティノープルの陥落

そして、自力で巻き返す力はすでにないビザンチン帝国と、西欧での内紛に力をそがざる をえなかったヴェネッィア、ジェノヴァの二大海洋勢力が対処の機会を逸している間に、ト ルコのバルカン地方への進攻は、着実に進められていたのだった。 一三六一一年、アドリアーノボリ陥落 一三六三年、フィリッポーポリ落城 落 の トラキア地方は、完全にトルコの手に帰したわけだった。この二年後には、トルコは首都 プを、アジア側のプルサから、ヨーロッパの地のアドリアーノボリに移したのである。以後も 西進をつづけるとの、これ以上の意志表示はなかった。たちまち、トラキアと境を接するプ テ ンルガリア、マケドニア、そして、ビザンチン帝国までが動揺した。プルガリアも、公式には ねんぐきん スビザンチン領であるマケドニアも、属国になって年貢金と軍勢提供を約束させられる。ビザ コンチン帝国皇帝も、毎年スルタンの宮廷に年貢金を送ることと、スルタンが遠征に出向く際 は、皇帝か、でなければ皇族の一人が兵をひきいて従軍する義務まで負うことになった。 その後もトルコ軍は、負け戦さを知らないかのように、連戦連勝をつづける。一三八五年、 プルガリアの首都ソフィアが陥落。一三八七年、マケドニアのテッサロニケもトルコの手に 落ちた。ビザンチン帝国の属国化も進む一方で、恒例の観さえあった皇族間の争いのために 次期皇帝が決まらない時など、トルコのスルタンの決裁を待って、ようやく決着がつくとい