本書旧版に手を入れて改訂版を出すことになった。旧版の初版刊行は昭和三十九年だった から、じつに三十二年ぶりの改訂ということになる。 き 改訂の最大の目的は本書の削除箇所を埋めて完訳本とすることであった。従前の版は、と あくに記してなかったが削除版であって、主要な削除の箇所はアステリスクで示してあった。 へその箇所は十箇所あまりで、頁数にして七、八十頁はあっただろう。 訂それだけの削除があるのに、これにたいする言及がなかったのは奇異な感じがするが、そ の事情を知ろうとしても、訳者伊藤整本人がすでに没しているので確かめようがない。ただ、 これは憶測であるが、この新潮文庫版『チャタレイ夫人の恋人』が発刊された昭和三十九年 には、世の人々の記憶のなかにまだチャタレイ事件がなまなましく生きていて、伊藤整訳 『チャタレイ夫人の恋人』といえば削除版であるというのは明白なことであったから、それ に関する説明は不要と考えられたのではなかろうか。 初版出版から三十二年の年月がたって、世の中の状況はずいぶん変った。伊藤整訳『チャ 563 タレイ夫人の恋人』のなかのアステリスクはどういう意味だ、ひょっとしてこの訳書には欠 改訂版へのあとがき
説 解 575 離した状態にあるものはなく、たえず恐怖と不安に曝されているので、これは脱却しなけれ ぞうお ばならない。また労働階級が持っ階級意識または階級的憎悪も、けつきよく孤立者の意識の 前兆にすぎず、どこまでいっても平和を得ることができない。しかし、「性」ということが 男女の関係にかかわるものとして、一見常に個人的な問題にのみ終始すると、人々が思いこ んでいるけれども、それは誤りだとする。彼は、個人主義を否定するのだ。つまり、個人間 の障壁を除くばかりでなく、自然と宇宙に順応する生命をよみがえらすものとして、「性 , を考えていたのである。こういった原始的または神秘的な生命主義をたどって、彼は、最後 に永遠回帰の思想に到達したのである。「せめて、性的思考だけでも、完全で清潔なもので ありたい」というのが、ロレンスの願望だったのである。 そこで、ロレンスの性思想を、ただ「性 . に限定して狭く考えることが、常に誤解を発す もと る因になっていることを知らなければならない。『チャタレイ夫人の恋人』にしても、性描 写は一部で、他に人間と社会の根本的問題がいろいろ取り上げられている。ロレンスは、こ こに自分の思想のすべてを押しこんでいる、むしろ、押しこみすぎているぐらいである。 結論として、ロレンスは、一生を賭けて「自然」の探求を続けた詩人であり、同時に現代 社会の病弊を鋭敏に見透し、人間性の新しい回復を唱導すると共に、偽善的な俗物との闘い にひるまなかった、予言的思想家だったのである。彼の思想は、「不死鳥」のようにいくた よみがえ びも蘇って、いつの時代にも、われわれが自身を省みるよすがになるであろう。 ( 一九六四年六月、英文学者 ) さら
今回の改訂版出版は、したが「て、最高裁判所判例にたいする正面からの挑ということ 、いたずらに事を好んでこの完全訳を出版しようと になる。だが、私も、また当然新潮社も しているわけではない。世のなかは変ったのだ。風俗的な表現は加速度的に激化する一方で がんじよう あるが、それに比例して表現の受け手の側もたいていのことには驚かないぐらい頑丈な神経 の持ち主となっている。あるいは、これは感性が麻痺していると言いかえることができるか もしれない。いずれにせよ、取り締まり当局や裁判官の好んで使う社会通念というものが昭 和二十五年とまったく違っているのである。だからもう問題はないだろうというのが私の判 断であるが、新潮社もそう考えているらしいのである。 あもう問題はないという、はっきりした証拠もある。それは『チャタレイ夫人の恋人』の完 へ全訳はすでに出版されているということである。昭和四十八年、講談社から羽矢謙一氏訳が 訂出たが、これは完全訳であった。完全訳が出たということは、おそらくは、その時点におい ては画期的なことだったはずだが、この訳は静かに出版され静かにうけいれられたのである。 アメリカとイギリスの社会の『チャタレイ夫人の恋人』の承認は日本のチャタレイ裁判に くびすを接して行なわれた。アメリカではグロウブ・プレス社がニューヨークで、昭和三十 四年に無削除版を出版した。この小説を郵便によって通信販売をしようとし、そのことが連 邦郵便法に抵触し、裁判が行なわれたのであるが、連邦側が敗訴して、『チャタレイ夫人の 恋人』は自由を得たのである。この裁判事件はグロウブ・プレス社の意図的な挑戦だった。 この裁判で陪審員を導いたのは、フレデリック・ヴァン・ベルト・プライアン裁判長の行な まひ
完訳チャタレイ夫人の恋人
私を忘れたの ? 私が 「ベル ! 」と彼女は大きな白いプルテリアに呼びかけた。「ベルー わからないの ? 」 よう・と 彼女は犬がきらいだった。ベルはあとずさりしてほえた。彼女は農場を通って、養兎場の 道へ出ようとしていたのだった。 フリント夫人が出てきた。彼女はコンスタンスと同年配で、以前に学校の教師をしており、 魅力もあったが、コニーにはずるい女に見えていた。 「あら、まあ ! チャタレイ奥さまではございませんか ! まあ ! ーと言ってから、改めて 人 恋フリント夫人の眼は輝き、少女のように顔を赤らめた。「ベル、ベル。なんですか ! チャ 人タレイ奥さまにほえたりして。ベル ! おやめなさい ! 」彼女は駆けよって手に持っていた イ 白い布で犬を打ち、それからコニーの方へやってきた。 レ タ 「前には犬は知っていたんですけど」と言ってコニーは握手した。フリント夫婦はチャタレ ャ チ イ家の借地人だったのである。 「もちろん奥さまのことは知っていますわ。じゃれているんでございますわーと言ってフリ ント夫人は赤くなり、混乱して、コニ 1 を見上げた。 「でもベルもずいぶん長くお目にかかっていませんでしたから。お元気になりましたか ? 「ええ、ありがとう。私、大丈夫よ 「冬じゅうお目にかかれませんでしたが。ちょっとお立ち寄りくださいまし。赤ん坊を見て いただけませんか ? 」 235
落部分があるのではないか、この書物は削除版だというがいつまでこんなかたちの出版を放 置しているつもりか。いつのまにか、そういうような質問が編集部に寄せられる時代になっ ていた。昭和二十五年にはじまり、昭和三十二年最高裁判所大法廷にまで争われた「チャタ レイ夫人の恋人ー裁判、あの大文学裁判のことを知っている人々はすでに少数派になってい 伊藤整訳、『チャタレイ夫人の恋人』の完全訳版が出版されたのは、昭和二十五年四月だ った。上下二巻で出版され、下巻は同年五月に発行された。出版元は小山書店。同店の企画 恋した「ロレンス選集、の最初の配本がこれだった。この選集はロレンスの主要作品を含み、 つねあり 全体で十七巻になるはずだった。訳者として伊藤整のほか、吉田健一、福田恆存、中野好夫 にしきみはた などがいた。第二次世界大戦が終わり、一一一一〔論の自由が錦の御旗となり、思想的にも風俗的に も開放的になった時代の空気のなかでの出版だった。 英国貴族の若い奥方が、領地の森の管理人と肉体的な関係を持っ話。その肉体的交渉が赤 裸々に語られる話ということで、この訳書はたちまちベストセラーになった。そうして、当 然のなりゆきとして警視庁当局の目をつけるところとなり、同年六月訳書は出版社の倉庫か らばかりでなく全国の小売店の店頭からも押収された。九月に入って、発行人小山書店主小 わいせつ 山久二郎と訳者伊藤整は猥褻文書頒布のかどで、刑法百七十五条で罰すべきものとして起訴 された。これがチャタレイ事件の発端だった。東京地方裁判所で行なわれた裁判は昭和二十 六年五月八日に始まり、総計三十六回の公判が行なわれ、翌昭和二十七年一月十八日に判決 564 はんぶ
新潮文庫 完訳 チャタレイ夫人の恋人 ロレ 伊藤 伊藤 新 潮 ンス 整訳 礼補訳 社
チャタレイ . 夫人の一 ~ D ・ H ・ロレンス David Herbert Lawrence ( 1885 ー 1930 ) 1885 年、イギリス生れ。小学校の教 員などを勤めながら書いた作品が認 められて作家に。流浪と遍歴に明け 暮れながら執筆を続け、独特の「性 の哲学」に基づいた数々の作品を発 表。肉体の愛による魂の解放をテー マとした「チャタレイ夫人の恋人』 には、自らの体験が色濃く反映され ている。 1930 年、南フランスで 45 年 の生涯を閉じる。主な作品に『息子 と恋人』『恋する女たち』など。 訳者伊藤整 sei 1905 ( 明治 38 ) 年、北海道生れ。小楙中、小 樽高商を経て東京商大中退。昭和初期より 20 世紀文学を紹介する気鋭の評論家・作家とし て活躍。また「ユリシーズ」 ( ジョイス ) など の翻訳も手がける。 ' 69 年没。 補訳者伊藤礼 Rei 1933 ( 昭和 8 ) 年、東京生れ。一橋大学経済 学部卒。アメリカ留学後、広告会社勤務を経 て現在日本大学芸術学部教授。ロレンス作品 の翻訳のほか、「狸ピール」 ( ' 91 年、講談社工 ッセイ賞受賞 ) などの著書がある。 1 膩 III Ⅲ旧馴ⅧⅢ 9 7 8 41 0 2 0 7 01 2 5 コンスタンスは炭坑を所有する貴族 クリフォード卿と結婚した。しかし 夫が戦争で下半身不随となり、夫婦 間に性の関係がなくなったため、次 第に恐ろしい空虚感にさいなまれる ようになる。そしてついに、散歩の途 中で出会った森番メラーズと偶然に 結ばれてしまう。それは肉体から始 まった関係だったが、それゆえ真実の 愛となった 現代の愛への強い 定価 760 円 ( 本体 738 円 ) 不信と魂の真の解放を描いた間題作。 訳チャタレイ夫人の恋人口レンス ロレンス 伊藤整訳 伊藤礼補訳 んス D 必 CHATTERLEY'S 〃砒 ) 〃げ厖 / の ds ん〃肥尾化 新潮文庫 ロレンスの本 完訳チャタレイ夫人の恋人 ロレンス短編集 1 91 01 9 7 0 0 7 6 0 9 I S B N 4 ー 1 0 ー 2 0 7 0 1 2 ー 5 C 0 1 9 7 P 7 6 0 E l€a Y B 4 \ 350 ロ 1 9 新潮文庫哩 カバー装幀伊東省二 カバー写真フォトニカ提供 デザイン新潮社装幀室 カバー印刷錦明印刷
新潮文庫 完訳 チャタレイ夫人の恋人 ロ 伊 伊 新 レ 藤 藤 0 ンス 整訳 礼補訳 潮社 版
チャタレイ夫人の恋人 女のことについては、そうはっきりとわかっているわけではなかった。 朝食は寝室ですることになっていて、クリフォードは昼食までは出てこないので、食堂は さびしいぐらいであった。コーヒーがすむと、おちつきのない、じっとしておれない性のマ イクリスはこれからどうしたものかと思っていた。十一月の晴れた日だった : : ラグビー邸 としては上天気の方だった。彼は陰気な庭園をながめた。まったく、何という場所だろう ? 彼はシェフィールドへでもドライプしようかと思って、召使をやって、チャタレイ夫人に いかがですかと誘わせた。その返事は、彼女の居間へ来ていただけまいか、ということだっ コニーの居間は三階にあった。そこはこの建物の中央の最上階だった。クリフォードの部 屋はもちろん一階にあった。チャタレイ夫人の部屋へ呼ばれたことにマイクリスは気をよく した。 , 。 彼よやみくもに召使について行った : : : 彼は物を観察したり周囲に接触したりするこ とのない人間だった。彼はコニ 1 の部屋でルノアールとセザンヌのドイツ製の立派な複製を ばんやりと見ていた。 「気持ちのいい部屋ですな」と言って彼は歯を見せて、奇妙な微笑をした。笑うと痛いとい うかのようであった。「最上階に部屋をとられたのは賢明ですな」 「ええ、私もそう思っていますの」と彼女が言った。 彼女の部屋はこの家の中でたった一つの派手な現代風のものであった。ラグビー邸の中で 彼女の個性が示されているたった一つの場所だった。そこはクリフォ 1 ドもいちども見たこ たち