太陽はもう朝の緑の草にやさしく照りつけていた、森は青々とした新鮮な姿で、目の前に 立っていた。彼女はべッドの上に起きあがって、屋根窓から、夢みるように外を眺めていた。 裸の両腕が、ふたつの裸の乳房を押し出していた。彼は身づくろいをしていた。彼女は生活 を、彼といっしょの生活をばんやりと考えていた。 彼は、彼女の危険なうずくまった裸体から逃げてゆくところだった。 「私の寝巻なくしちゃったのかしら ? 、と彼女は言った。 彼は寝台の中に手を人れて、薄っぺらな絹の布切れを引き出した。 人 くるぶし 恋「踝のあたりに絹物があると思っていた」と彼は言った。 人その寝巻はほとんど二つに裂けていた。 「かまわないわ」と彼女は言った。「それはこの家のものなのよ。ここへ置いて行くわ」 レ タ 「ああ、置いてゆけよ。夜、足のあいだに置いていっしょに寝るよ。それには名前やマーク ャ チ がついていないだろうね ? 」 「ついていないわ ! 普通の古いものよ」 彼女は破れた寝巻をはおって坐り、夢みるように窓の外を眺めた。窓はあけられて、朝の さえず 空気や、鳥の囀りがはいってきた。鳥は絶え間なく窓をかすめて飛んでいた。フロシーがさ まよい出て行った。朝であった。 おこ 階下で彼が火を熾し、水をくみ、裏口から出てゆく音をきいた。まもなくべーコンの匂い がしてきた。部屋の入口をやっと通るような大きな黒い盆を持って、彼が上がってきた。彼 にお
誰かの役にはたつものなのだ。 クリフォードは屋敷から出て丘の斜面を注意深く運転して行った。コニーはそのあいだじ はしばみしげ ゅう椅子の中の彼の手を握っていた。前方に森が見えていた。手前には榛の繁みがあり、そ うさぎ のうしろには槲の紫がかった込みいった枝が見えた。森のはずれで兎が何かかじっていた。 しろはしがらす 白嘴烏がとっぜん黒い列をなして飛びたち、小さな丘を越えて行った。 コニーが森の木戸を開いた。クリフォ 1 ドはゆっくりと広い乗馬道のほうへ進んで行った。 その道は、榛の枝のびんと伸びた繁みの間をとおって、丘を登ってゆくのである。この森は 人 恋ロビン・フッドが猟をしたといわれる大森林の残部であり、乗馬道も、もとこの国を横断し 夫ていた古い古い街道だった。もちろん今ではただの私有の森の車道にすぎなかった。この道 はマンスフィールドから迂回して北に向かっているのだった。 タ 森の中ではすべてが静止していた。地面に落ちた朽ち葉は霜柱の上に凍りついていた。カ ャ チ ケスが鋭い声をたて、いろいろな小鳥が羽音をたてていた。だが猟鳥ーー雉はいなかった。 戦争のあいだ、森に番人をおいていなかったので、猟りつくされてしまったのである。だが 今はクリフォ 1 ドが再び番人を置いていた。 クリフォードはこの森を愛していた。彼は古い槲の木が好きだった。幾代ものあいだ自分 の持ちものだったような気がしていた。彼はそれらの槲を保護しておきたいと思った。この 森を外界から隔離して、踏み荒らされないようにしておきたかった。 っちくれ 椅子は凍った土塊の上で揺れたり震えたりしながら、静かに斜面を登っていった。とっぜ かしわ きじ
378 犬はマットの上で落着きなく溜息をついた。火は灰に埋もれて消えかかっていた。 「私たちは二人とも戦い敗れた戦士ね」とコニ 1 が言った。 「あなたも敗れた ? ーと彼が笑った。「それが、今また戦場に戻ろうとしている 「そうよ ! ほんとに怖ろしくなる 「そう ! 」 ぬぐ 彼は立ち上がって彼女の靴が乾くようにし、自分の靴も拭って、両方とも火のそばに置い た。彼は朝になったら墨を塗るつもりだった。彼は厚紙の灰をできるだけ火の中から掻き出 人 まき 恋した。「こいつは焼けてもまだ汚ない」と言った。それから薪を持ってきて、朝使えるよう ろ′」うし 人に炉格子にのせておいた。そして彼は犬をつれてしばらく散歩に出た。 イ 彼が戻って来たとき、コニーは言った。 レ 「私もちょっと歩いてきます」 やみ チ 彼女はひとりで闇の中へ歩いて行った。頭上には星が輝いていた。夜気の中に花の匂いが 漂っていた。湿っていた靴がいっそう湿ってきたような気がした。彼女は彼からも、またあ らゆる人間からも、今すぐ逃げてゆきたいような気がした。 寒かった。彼女は身震いして家へ戻った。彼は消えかかった火に向かって腰かけていた。 「おお ! 寒い と彼女は身震いした。 彼は薪を火にくべ、さらにもっと運んできた。やがて燃え立っ炎は煙突までのばっていっ さざなみ た。小波のように走る黄色い焔は、二人の魂と顔を暖め、二人をともに幸せな気持ちにさせ ためいき うず
416 「じゃ、言ってくださいな」と彼女はきつばりと言った。「ヴェニスへ行かないほうがい い ? 」 「ぜったいに行ったほうがいい」と彼は冷たく、ややあざけり気味の声で答えた。 「来週の木曜日よ」 「ええ ! すると彼女は考えはじめた。そして最後に言った。 「帰ってきたら、私たちがどういう立場にいるか、もっとよくわかるわね 人 恋「ええ、確かに ! 」 ふち 奇妙な沈黙の淵が二人を分けへだてた。 イ 「僕は離婚のことで弁護士のところへ行ってきました」と、彼は少しぎごちなく言った。 レ みぶる タ 彼女は軽く身震いした。 ャ チ 「あなたが ? 」彼女は言った。「で、向こうの人はどう言ったの ? 」 「こう言うんです。もっと早く済ましてしまうべきことだった。今となっては面倒かもしれ このことで、あの ない。しかし僕は軍隊にいたからーー・万事うまく済むかもしれない。 女が僕のうえにのしかかってきさえしなければねー 「奥さんにも知らせはゆくの ? 」 どうせい 「ええ ! 知らせはいきます。あいっと同棲している男、共同被告にも」 「すっかり済ますには、いやな思いをするのね ! 私もクリフォードとのことでそれをしな
へ出て耳を澄ました。なんの物音もしなかった。彼女はガウンを羽織って階下へおりて行っ た。クリフォードはポルトン夫人を相手に賭けてトランプをしていた。たぶん夜中まで続く にちかいない コニーは部屋へ戻ってパジャマを乱れた寝台の上に投げ、薄いテニス用の服を着、その上 に毛のふだん着を着、テニス靴をはき、軽いコートを着た。それで準備はできた。もしだれ かに出逢ったら、ちょっと散歩するということにする。そして朝戻ってくる時は、よく彼女 が朝食前にする例の朝の散歩に行ってきたことにする。ただ夜中にだれかが彼女の部屋へや 人 恋ってきたら、ということがあった。だがそれは万に一つもありえないことであった。 かぎ 人べツツはまだ戸締まりをしてなかった。彼は十時に戸締まりをし、朝は七時に鍵をはずす イ のであった。彼女は音も立てず、だれにも見とがめられずに部屋を出ていった。半月が出て レ タ ャいて、あたりはほの明るかったが、暗灰色の服を着た彼女を照らし出すというほどではなか チ った。彼女は逢い引きの喜びを感じているというよりは、胸の中に怒りと反抗をいだいて、 足早に庭園を抜けていった。それは恋人に逢いに行くときにいだく感情としてふさわしいも ア・ラ・ゲール・コム・ア・ラ・ゲール のではなかった。だが「苦も楽もともに受けいれねばならぬ ! 」だ。 359 ぐっ
424 第十六章 きつもん コニーは家に帰ると、きびしい詰問を受けた。クリフォードはお茶の時間に出かけて、ち あらし カ奥さまはどこにいるのだ ? だれも知らなかった ようど嵐の前に帰ってきたのだ。、ゝ、 ただポルトン夫人が奥さまは森へ散歩にいらしたのだろうと言った。森へ、こんな嵐にー 人 恋 クリフォードは今度だけは激しく狂気のように腹をたてた。彼は稲妻が光るたびに驚き、 の 夫雷が鳴るごとにたじろいだ。彼は世界の終末を見るかのように、冷たい雷雨をながめていた。 げ・つこう イ レ彼はますます激昂してきた。 しず タ ポルトン夫人は彼を鎮めようとした。 ャ チ 「奥さまは嵐が止むまで、小屋に避けていらっしやるのでございますわ。ご心配あそばさな いでくださいまし。だいじようぶでございますから 「こんな嵐に森へ行くなんてことを僕は好かん ! まったく森へ行くのはいかん。もう二時 間以上になる。いつ出て行ったんです ? 「殿さまがお帰りあそばすちょっと前でございますわ」 「庭園では会わなかった。これではどこにいるか、なにが起こったか、だれにもわかりはし ない」
393 とびら 彼女は彼のあとから台所にはいり、裏の扉のところにある小さな鏡で髪を整えた。それで 出かける支度はできた。 せきちく くさむら つまみ 彼女は露に濡れた花を見ながら小さな前庭に立っていた。石竹の灰色の叢はすでに蕾を持 っていた。 「ほかの世界がみな消えてしまえばい ) しと思うわ」と彼女が言った。「そしてここであなた と暮らせたら」 「世界は消えないんだよ」と彼が言った。 人 恋彼らは美しく露に濡れた森の中をほとんどロもきかず歩いて行った。が、彼らは、ふたり 人だけの世界でびたりと触れ合っていた。 イ ラグビー邸へ行くのはつらかった。 レ タ ャ 「私、すぐにも来て、あなたといっしょに暮らしたいと思う」と、彼女は別れぎわに言った。 チ 彼は黙って微笑した。 彼女は静かに、だれにも気づかれずに家にはいって、自分の部屋に上がっていった。
るので少しこわくなっていた。 「雛を入れる籠を作っていたんでさあ」と彼はむきだしの方言で言った。 彼女は何と言っていいかわからなかったが、自分は疲れていると思った。 「ちょっと休みたいのーと彼女が言った。 「小屋ん中で坐んな」と彼は、材木などを押しのけながら先立って小屋の中へ入り、榛の木 で作った田舎じみた椅子を持ち出した。 「ちょっと火をたいてやろうか」と彼は奇妙に素朴な方言でたずねた。 人 恋「おかまいなく、と彼女は答えた。 人しかし彼は彼女の手をながめた。手は血の気を失って青ざめていた。彼は手早く、隅の小 ほのお イ さな煉瓦の炉へ落葉松の枝を運んだ。すぐに黄色い焔が煙突を昇っていった。彼は炉のそば レ タ へ席をつくった。 ャ チ 「ここにちょっと坐って暖まりな」と彼は言った。 彼女はそれに従った。彼には保護者の立場の人間の、あのふしぎな権威があったので、言 われるままになっていた。彼女は坐って焔で手を暖め、薪をくべた。彼は出て行ってまた槌 をふるっていた。彼女はほんとうは炉のそばなどに押し込められて坐っていたくなかった。 むしろ扉のところから外をながめていたかった。しかし世話をやかせたのでそれに従わなけ ればならなかった。 小屋は塗料もぬらない松板を張っただけのものだったが、とても居心地がよかった。小さ 157 れんが かご まき すみ
214 彼女は彼と別れて庭園を通って行った。彼はそこに残って彼女が地平線の蒼白い雲のあた りを横切って暗がりの中へ消えてゆくのを見まもっていた。彼女の去ってゆくのを彼は胸が 痛くなるような気持ちで見守っていた。自分ではただひとりでいたいと思っていたのに、あ の女が現われて、また自分とつながりを作ったのだ。ひとりになることを切望していた男性 の、あの痛切な孤独というものを、彼女は彼から奪ったのだ。 彼は振りむいて森の闇の中へ入って行った。すべては静寂そのものだった。月はもう沈ん でいた。だが夜の音響、スタックス・ゲートのエンジンの音、国道を通る車の音が聞こえて 人 恋きた。彼は静かに、伐採された丘をのばって行った。その丘の頂に立っと、この地方がはる 夫かに見渡された。スタックス・ゲートの輝いた灯の列、もっと小さなテヴァ 1 シャル炭坑の イ レ明り、それからテヴァーシャル村の黄色い明り、それから暗い田園のあちらこちらと、至る ようこうろ ャ所に灯が見えた。そのほかに、遠くに熔鉱炉の赤い火がかすかに薔薇色をなしていた。それ チ は晴れた夜空にうつる流れ出た白熱した金属の、薄薔薇色だった。ぎらぎらした邪悪な電光 の見えるのはスタックス・ゲ 1 トであった。その中には何とも形容しようもない悪の気配が あった。そしてそれらはことごとく中部地方の工業地の夜にある、不安な、絶えず動揺する まきあげき 恐怖であった。彼は交替の坑夫らを七時に坑内に入れるスタックス・ゲートの捲揚機の音を 聞いた。この炭坑は三部交替になっていたのである。 彼は再び森の闇と隔絶との中へ入って行った。だが彼は、森の中の隔絶というものが、幻 せきばく 覚的なものにすぎないことを知っていた。工場の騒音は孤独の寂寞さを破っているし、ここ
343 彼女は白い雲に見とれていた。 「雨になりはしないかしら」と彼女が言った。 「雨だって ! なぜ ? 降ったほうがいいのかね」 二人は帰途についた。クリフォードは注意深く下って行った。いちばん低いところに来て から右に曲がって、百ャードばかり進んだところで、陽光をあびてプル 1 ベルの咲いている 長い斜面を登りはじめた。 「さあ、しつかり頼むぞ」とクリフォードが車椅子を坂道に向けて言った。 人 でこぼこ かっこう 恋その坂は、かなり急な凸凹のある道だった。車椅子は気の進まない苦しげな恰好で道をた 人 どり、徐々に登っていった。それでもどうにかこうにかヒヤシンスの咲き乱れているあたり 夫 イ まで這い上がって行った。だがそこでつまずき、あえぎながら花の中から少し出たところま レ タ で来ると止まってしまった。 ャ チ 「森番が来るかもしれませんから、警笛を鳴らしてみるといいですわ」とコニーが言った。 「少し押してもらえるでしよう。それに私も押してみましよう。そうすればなんとかなりま すわー 「ちょっと車椅子に息をつかせよう」とクリフォードが言った。「車の下に石をあてておい てくれないかね ? 」 コニーは石を見つけた。そして彼らは待っていた。しばらくしてからクリフォードはまた エンジンをかけ、車椅子は妙な音を立ててもがき、病気になった動物のようにあえいだ。