二人 - みる会図書館


検索対象: フランス文学と愛
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1. フランス文学と愛

たりを忘れさせるきびきびとした魅力がある。一方では、シュヴァリエは監獄に閉じ込め られたり、彼の意図ではなかったとはいえ殺人を犯したりと、前途有望な青年としては想 像もっかなかったはずのご乱行に及ぶこととなる。しかも他方では、彼の身を襲うトラブ ルのことどとくが、マノンが「贅沢と快楽には目がない」たちであり、彼女の美貌に惹か れた放蕩貴族が金銀宝石を積んだなら、たちまちシュヴァリエのことなどきれいに忘れ去 ってしまうというその不実さが引き起こした事態である。ところがシュヴァリエにとって マノンとは、幾度裏切られようとも決して思い切ることができないどころか、彼女さえ傍 らにいてくれるなら「自分は全宇宙が崩壊しても平気でそれを見るだろう」というほどの 熱烈な恋情を掻き立ててやまない存在なのだ。しかも、あらゆる恥辱と不幸を忍び、人生 をそっくり犠牲にして尽くすその相手の女が「不貞な、嘘つき」であることに疑いの余地 はないのである。そこにこの小説の大きな、いまだに古びないミステリーが潜んでいる。 ろくでもない女に引っかかって、相手の正体もさすがに呑み込めてきた。それでもなお好 きで好きでたまらない。そんな馬鹿げたことがあるだろうか。いや、まさにそんな馬鹿げ たありさまに嵌まり込んでこそ、恋の支配力を知ったといえるのではないか。 「もしこの物語を読んで、シュヴァリエ・デ・グリューのあまりにものだらしなさに眉を ひそめる人があるとしたら、その人は真の恋愛とは、また女に迷うとは、いかなることで

2. フランス文学と愛

わたしはこの本を捧ける / ジュール・ヴァレス」 全編に横溢する、まさにいま、かっての辛い幼少年期が蘇ってきているという感覚は、 その当時の辛さや苦しさ、痛みや悲しみが癒されることなく保たれていることに由来す る。いきおい、ヴァレスの作品は被害者による告発という色彩を帯びずにはいない。もち ろんそこには、子供のころならではのみずみずしい感覚の喜びや興奮もまた盛り込まれて はいるのだが。 献辞に明らかなのは、少年時代の生きにくさが「学校」と「家」という二つの場所に集 約されていることである。学童としては八方ふさがりの状況だが、加えて『子ども』の主 人公ジャック ( ヴァレス自身を投影した存在 ) の場合は、父親が自分の通う学校の教師である という事実によっていよいよ逃げ場のない状況となっている。しかも父はまだ アグレガシオン 「教授資格試験」に合格していない「上級生の自習監督」にすぎない。父が生徒たちにさ んざん馬鹿にされ嫌われている様子を目の当たりにすることは、ジャックにとって学校で 経験するほかのどんな不快にも増して誇りを傷つけられることなのである。 だがそうした心理的な要素以上に、読者がもっとも衝撃を受けるのは、家庭でジャック の身体に絶え間なく加えられる殴打だろう。一人息子は厳しい体罰の嵐にさらされている のだが、そもそもそれが何に対する罰であるのかが定かではない。記憶をさかのぼるかぎ 20 う第五章親子の愛

3. フランス文学と愛

れようがかまわない。「このわたしは、いったい何者か ? その探求だけがわたしに残さ れている」。 表題からは、一人きりでだれにも邪魔されない散歩の折々、心に浮かぶ気ままな夢想の あれこれを書きとめた記録という風に予想される。しかし中身は必ずしもそうではなく、 これまでの著作と同様に執拗なまでに粘り強い思弁、論述が重ねられ、「わたし」の立場 が掘り下げられていく。残された全十章のうち、第九章で孤児院問題がまたしても取り上 げられる。 「子供たちを孤児院にやったという非難が、ちょっとした話の具合で、すぐに自然に反し た父親だという非難、子供がきらいだという非難に変わっていったことは、わたしにもよ くわかる」。とはいえ自分はそれが子供たちにとって最善の道と信じて彼らを孤児院へや ったのだ。「いまでもわたしは、もしそういうことをしなければならないならば、あのこ ろよりももっとためらわずにそうするだろう」。そんな述べ方はやはり強弁であり、理屈 が勝っているのではないか。以降、子供については「学者先生の一人として」何もわかっ ていないが、自分だけはよくわかっているのだとか、自分ほど真に子供を愛する者はいな いといった主張がなされ、いささか辟易させられる。 だがそうした口説き文句を断ち切るようにして、ルソーの文章に「子供」の姿が闖入す ちんにゆう 189 第五章親子の愛

4. フランス文学と愛

がしい成り行きもあった。 近代以前には「じつのところ、両親にとって娘などどうでもいい存在であって、娘と母 親を結びつけるものはなにもな」かったのであり、「母親は自分の愛情も誇りも、財産 の、そして両親が貴族の場合は称号の、単独の相続人である長男だけに注ぐのである」 ( バダンテール『母性という神話』 ) 。そんな一般論と真っ向から対立するかのようなセヴィニエ 夫人の娘に対する熱愛は、「称号」の相続に基盤を置く男性中心主義社会への反撥、反抗 を秘めてもいたのだろうか。あるいは夫人は娘との強力な一体化のうちに、人を待ちうけ るどのような境遇の転変ーー宮廷貴族たちの運命の浮沈を彼女はつぶさに目撃し、娘宛の 手紙で活写しているーーーも寄せつけない、ナルシスティックな砦を築こうとしたのか。だ が分析、解釈の企てを虚しいと思わせるほどの純一な情念が、夫人の書簡をつらぬいてい ることも確かだ。 「あなたに接吻し、あなたを愛します。これは永久に言ひっゞけるでせう、といふのも私 の愛はいつまでも同じだからです」 ( 同年四月一一十九日 ) ラ・ファイエット夫人は、女にとっての恋愛の不可能性を示すヒロイン像を小説中にあ ざやかに造形した。それに対しセヴィニエ夫人は、娘を「愛の対象」とし熱烈な手紙を綴 り続けることで、アムールの不壊を具現して見せたのである。それだけの愛情をいわば一 ふえ 180

5. フランス文学と愛

描こうとした例はないのだろうか。 そこで思い出されるのが、ヴィクトル・ユゴーのあまりに有名な長編小説『レ・ミゼラ ブル』である。孤独の人ジャン・ヴァルジャンの後半生を灯す光となった幼い娘コゼット は、やがて一人の青年と恋をし、愛に包まれた幸福な夫婦生活を実現したのではなかった コゼットもまた、女子修道院で数年を過ごしたヒロインであり、修道院で受けた教育ゅ えの無知を特徴とする。「コゼットは愛ということを知らなかった。現世的の意味で愛と いう言葉が言わるるのをかって聞いたことがなかった」というのだから徹底している。 「俗世の音楽書にあるアムール ( 愛 ) という音は、修道院の中にはいって行くとタンブー ル ( 太鼓 ) もしくはパンドウール ( 略奪者 ) と代えられていた。『ああタンブールとはど れんびん んなにか楽しいことでしよう ! 』とか、『憐愍はパンドウールではありません ! 』とかい なぞ うような一言葉は、姉さまたちの想像力を鍛う謎となっていた」。アムールという一言葉自体 が危険視されていたというのだから、何とも大変な無菌培養であり、修道院内で秘かに貸 本屋の恋愛小説に読み耽っていたエンマ・ポヴァリーがいよいよ不良少女に見えてくる。 同時に、これだけ世間離れしてしまうとそれこそ修道院を出たあとが思いやられる。 だがユゴーの主眼は修道院をこの世に残されたオアシスとして描くことにあり、またコ 1 う 8

6. フランス文学と愛

率直でなまなましい当者の告白」が好まれるようになったのである。 主人公のシュヴァリエがマノンと出会ったのは、アミアンの学校を優秀な成績で卒業 し、良家の子弟を集めるパリのアカデミーで社会に出る仕上げをしようというときだっ た。アミアンからいったん実家に戻る前日の夜に、宿命的な出会いが訪れる。一台の駅馬 車が到着し、数人の女が下りてきたかと思うとすぐに立ち去っていった。 「ただ一人、非常に若い女だけが後に残っていた。 ( : : : ) 未だかって異性のことを考えた こともなければ、注意して女を眺めたこともない私が、私は言うが、その賢さと慎み深さ をあらゆる人々に嘆賞されていた私が、一挙にしてのぼせ上ってしまうまで情熱を煽られ た程、それほど彼女がうるわしく私におもわれたのである。極端にまで臆病であるととも に、容易に節度を失ってしまうのは私のもっ弱点であった。しかしながらあの時は、この 気の弱さのために思いとどまるどころか、私は進んでこの意中の恋人の方へと歩み寄っ いきなり「意中の恋人」と決めているところが逆に、愛の目覚めの唐突さをよく伝えて いる。相手に挨拶し、言葉を交わしたシュヴァリエは、娘が「ここで尼になるために両親 から差し送られた」ことを知った。それはどうやら、娘の「享楽的な性癖」を「矯め直 す」ため、娘の意志に反してのことだった。修道院に入られては「生れかかった私の恋」 あお

7. フランス文学と愛

第五章 エリザベ ート・バダンテール『母性という神話』鈴木晶訳、ちくま学芸文庫、一九九八年 フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、一九八一年 『万葉集 ( 一 lh 佐竹昭広他校注、岩波文庫、二〇一三年 『ルーヴル美術館展ーー美の宮殿の子どもたち』国立新美術館、朝日新聞社事業本部文化事業部編、一一〇〇九年 ラブレー「ガルガンチュアーーガルガンチュアとパンタグリュエル 1 』宮下志朗訳、ちくま文庫、二〇〇五年 ラブレー『パンタグリュエルーーーガルガンチュアとパンタグリュエル 2 』宮下志朗訳、ちくま文庫、二〇〇六年 スクリーチ「ラブレ ! ーー笑いと叡智のルネサンス」平野隆文訳、白水社、二〇〇九年 セヴィニエ夫人「セヴィニエ夫人手紙抄』井上究一郎訳、岩波文庫、一九八七年 Madame de Sévigné, Correspondance, GaIIimard, «PIéiade», 3 vo 一こ 1973 ー 1978 ール」今野一雄訳、岩波文庫、上・下、一九六二年、一九六四年 パッサン「女の一生』永田千奈訳、光文社古典新訳文庫、一一〇一一年 ジャック・ルゴフ、アラン・コルバンほか「世界で一番美しい愛の歴史』小倉孝誠・後平隆・後平澪子訳、藤原書店、二〇〇四 年 Maupassant, 公 Ga お on. un bock!», C02 s no に . 尸 Gallimard,< 《 Pléiade 》》 , 1996 ゾラ「テレーズ・ラカン』宮下志朗訳〔サントプーヴへの手紙およびテーヌからの手紙の翻訳も収録〕、宮下志朗・小倉孝誠責 任編集「ゾラ・セレクション 1 初期名作集」藤原書店、二〇〇四年 ポール・ヴァレリー『精神の危機他十五篇』恒川邦夫訳、岩波文庫、二〇一〇年 ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳、岩波文庫、全四巻、一九八七年 ポードレール「ヴィクトール・ユゴー著『レ・ミゼラブル』書評」「ポードレール全集 2 文芸批評』阿部良雄訳、筑摩書房、一 九八四年 265 参考文献

8. フランス文学と愛

シュタインを知っている」と述べて、この理解しがたい状況を引き受け、かつ事態を丹念 に記述する。ロルに対するジャック・ホールドのそうした態度も、この作品に独特の魅力 を加えるものとなっている。男は自分の欲望を抑制し ( 彼としてはすぐさまタチアナと別 れ、ロルと愛人関係を築きたいはずだ ) 、ロルその人をわがものにすることはできないこ とを知りつつ、ロルの願いを叶えようとする。 つまりここにもまた「遠い恋」がある。精神分析学者ジャック・ラカンはホールドのロ ルに対する接し方に「あの『宮廷愛』の伝統の遠い、しかし明白な残響」を認めた ( 立木 康介「狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛」 ) 。ただし、トルバドウールの詩が、報われない 愛に甘んじる自らに対する賛美を含むものだったのに比べ、ジャック・ホールドにそうし た自己陶酔的な側面はない。彼はロルのふるまいをそっくり受け容れ、できるだけ彼女の 立場に寄り添って体験を語ろうとする。もちろん、それもまた困難なことに違いない。作 者であるデュラス自身、ロルの行動を「自分は翻訳できない、その意味をいうことはでき ない、なぜなら私はロルと一緒にいるだけなのだから」 ( 『物質的生活』 ) と語っている。ホ ールドにできるのもまた、結局はロルのかたわらにいることだけなのだ。 『ロル・・シュタインの歓喜』とは、一人の女が生み出す謎そのものに対する愛によっ て支えられた作品なのである。根本的な分裂を抱え、深い沈黙を湛えた存在を慈しみなが 240

9. フランス文学と愛

になる。ところがルイズとスペイン人の関係が燃えあがる恋に発展していく様子をルイズ からの手紙でつぶさに知るや、「愛情を感じなくとも一身をささげねばならぬ」という家 庭の掟に殉じる我が身を省み、「あたしたちの運命は、どうしてこれほどちがっているの でしよう ? 」と嘆かずにはいられない。ルイズの最期に立ち会ったときも、ルネの心を満 たすのは自らの勝利の実感ではありえない。彼女が「胸も裂けるような気」を味わうの は、彼女自身の人生が引き裂かれていたからでもある。ルネが看取ったのは、本来自分に もありえた情熱的人生の終焉だった。 この作品を寄贈されたジョルジュ・サンドはすぐさま一読し、バルザックに感謝の手紙 を送った。あなたの最高傑作の一つを献呈されて誇らしく思うと綴るサンドの文章には真 率さがあふれている。とりわけ素晴らしいと思えるくだりについて熱心に感想を述べたの ち、サンドはこうしめくくる。「私は産む女を賞賛しますが、でも大好きなのは愛のため に死ぬ女のほうです」。それに対するバルザックの返事がふるっている。「親愛なる人よ、 どうかど安心ください。われわれは同意見です。私だって、ルネと一緒に長生きするより もルイズに殺されるほうを望みます」。 サンドの手紙に調子を合わせている部分は差し引かなければならないとしても、かくし て作者は自分の思想に忠実な若妻を裏切ったのである。たとえ彼女は家庭の幸福を掴み取 1 第四章結婚と愛

10. フランス文学と愛

ードする有力雑誌「アート・プレス」の編集長として活躍してきた、美術界の有名人であ る。その彼女が文芸出版の名門、スイユ社から刊行した一冊は、赤裸々な点においてこれ 以上はないほどの内容だった。十八歳で処女を失って以来、彼女はありとあらゆる機会を とらえて数えきれないほどの男たちと性関係をもってきた。乱交パーティーやスワッ。ヒン グ・クラブにも頻繁に通って一晩で大勢の男を相手にすることもいとわず、「可能な限り 多くの人と関係を持つ」日々を送り続けてきたのである。ミエは一九四八年生まれ。女に とって性をめぐるタブーも束縛も存在しない時代が到来したことをこれほど如実に示す著 作はない。しかも普通の読者には想像を絶するだろう彼女の性行動は、冒険の観念とは 縁である。危険は一切なく、男たちの「乱暴な振る舞いに苦しめられたことは一度もな い」、「いつも優しく扱われた」という。サド侯爵の空想した乱交状態から加虐・被虐性を そっくり抜き取った世界がそこには広がっている。「どんな人とでも肉体関係を持っこと ができるという自信」があると「広い外海の空気を胸いつばいに吸いこんだときのような 気持ち」がするのだという。そんな彼女の物語は、ものおじしない圧倒的な行動力で驚か せるが、明晰な筆致は奇妙なまでに感動を欠き、感情を欠いている。何しろそこには「恋 愛関係」はほとんど存在しないし、必要とされてもいない。惚れたはれたのドラマは一切 ぬきで行為に専念するのでなければ、これだけ膨大な数をこなすことは不可能なのだろ 244