さらに、こんな一節もある。「マリュスもコゼットも、かくしてついにはどこに導かれ んとするかを自ら尋ねなかった。彼らは既に到達したものと自ら思っていた。愛が人をど こかに導かんことを望むのは、人間の愚かなる願いである」。 恋のただなかにある二人には、これから自分たちがどうなるのかなどと問う必要はない し、そんな問いが彼らの頭に浮かぶこともない。二人にとって、時は止まっている。時計 の針が動き出し、日常の時間がふたたび流れ始めたとき、彼らの人生はどんな変転をたど ることになるのか。絶頂からの転落が待ち受けていたとしたら二人はどうなるのか。それ は『レ・ミゼラブル』という「詩のように書かれた小説」 ( ポードレールの評一一三にとっては 関わりのない事柄である。その先へと突き進んでいくためには、フローベールやモ 1 サンやゾラの小説を読まなければならないのだ。 162
たすさまじい。まずは即興詩の得意なところをお目にかけようと、「あなたの瞳はこっそ り私の心を奪った。 / 泥棒 ! 泥棒 ! 泥棒 ! 泥棒 ! 」などという頓狂な作を披露して 女心にしつかりアビ 1 ルしたかと思うと、突然一人が叫び声を発して倒れる。 「いたた、あいた、いた。お手柔らかに願いますよ。お二人とも、あんまりです」などと 娘たちに対し抗議するのでどうしたのかと思えば、「お二人して、私の心に同時に攻撃を しかけるなんて。右と左、両方から攻めるなんてルール違反ですよ。二対一ではかないま せんよ。『人殺し』と叫びますよ」。 あまりの大仰さに笑うほかはないが、しかし娘二人はそのセリフの素晴らしさにすっか り参ってしまうのである。 才女たちの見る夢 実をいうと、雅びな貴族とは真っ赤な嘘、これは娘たちにすげなく追い返された無骨な 求婚者たちが、使用人たちを伊達男に扮装させて仕掛けた意趣返しの一幕なのだった。と はいえ、町人階級 9 ルジョワ ) の勘違いぶりを笑う愉快な風刺劇が、貴族社会に発する同 時代の一傾向をするどく照射してもいたことは間違いあるまい。理想の恋はどうあるべき か、恋はどんな行路をたどるべきか。そんな机上の恋愛問題にばかりひねもす頭を悩ませ
結婚はいかにあるべきか 「人間の秩序が自然の関係をかき乱さなかったら、わたしはあの人のものになっているだ ろうに、そしてもし幸福であるということがだれかに許されているならば、わたしたちこ そ一緒にそうなったにちがいないのに」とジュリは書く。二人が結婚を阻まれたことは、 「自然の関係」を害う社会的因襲の力を際立たせる。だが同時に、成就しないことが「愛 の神聖な火」を燃やし続ける条件ともなる。少なくとも、欲望を即座に満たすのではな く、むしろ「欲望に抵抗」し心を「浄化」してこそ、二人は互いにとって「崇高な存在」 となれるのだ。「まことの愛はあらゆる関係のなかでもっとも純潔なものと思われるので す」というジュリの信念を、サンプルーも最後までともにする。だから二人のあいだに は、ジュリが父親の命の恩人であるヴォルマールと結婚してのちも、決して「姦通」は起 こらない。 なお『新エロイーズ』の登場人物中、既婚者でありながら妻以外の女性との情事にうつ つをぬかす男が一人だけ存在することを付記しておこう。ほかならぬジュリの父親、エタ ンジュ伯爵である。「長いあいだ多情で移り気で、貞淑な妻にくらべて相手にするに足り ないあまたの女性と青春の日を浪費」してきた人物なのだとある一節で明かされている。 このリベルタン的な生き方が、ジュリとサンプルーにとって断固否定されるべきもので
各自の著作の及ぼしたインパクトに加え、二人の生き方そのものから多くの人々が強力な メッセージを受け取ったという事実があった。旧来の結婚制度の否定、そして恋愛の自由 をめぐるメッセージである。「さまざまな女の魅力をあきらめるつもりは全然な」かった おはこ 「二十三歳」のサルトルが、ポーヴォワールに語った「十八番の一一一一口葉」をポーヴォワール は自伝『女ざかり』 ( 一九六〇年 ) で記している。 「《僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要があるよ》」 そしてサルトルは、パリの街を散歩しながらポーヴォワールに「二年間の契約を結ぼ う」と提案するのである。要するに二年間はできるだけ親密に暮らすが、そのあとは互い に別れて住む。ただしどちらかが呼びかければすぐさま一緒になる。とはいえそれは束縛 ではなく、「理論的」にはそれぞれ自由に他の異性との交際が認められる。しかも「私た ちはもうひとつの同盟を結んだ。ふたりとも互いに嘘をつかないという以外に、互いに隠 しだてはしない、という約束だった」。相手に対し秘密をもたないという掟である。以 後、二人は契約を終生延長し続け、「誠実」の掟を守り続けたーーー・少なくとも「理論的」 には。 実際のところ二人の生活が相手のあずかり知らない秘密に満ちたものだったことは、両 者の没後明らかになっている。サルトルの驚くべき複雑な幾多の女性関係についてはさま 225 第六章解放と現在
通を描かないという点にある。 貴族の娘ジュリの前に、サンⅱプルーは住み込みの家庭教師として登場する。そのとき 二人はまだ十代。たちまち惹かれ合うようになった両者は、サンⅱプルーが苦しい胸の内 を訴えた手紙にジュリが応えることで互いの気持ちを知り、愛を誓い合う。木立でロづけ を交わした二人は、ある夜、ついに結ばれる。だがジュリの厳しい父親は身分違いの結婚 を許さず、サン日プルーは失意の内にイギリスへ渡る。 以上の展開は全六部からなる長編の第二部までにすぎない。しかし十八世紀小説におけ る『新エロイーズ』の革新性はここまでですでに明らかだ。一方で、未婚の若者同士の恋 は、その未熟なぎこちなさゆえに、逆にみずみずしい心の動き、情熱や感動の真率さによ って読む者に強く訴えかける。何よりも、デイドロやヴォルテールの創作を特徴付ける軽 やかで皮肉な批判者の感覚とはかけ離れた、若い二人の真剣そのものの態度、自分たちの 関係の清らかさを保とうとする懸命の努力は、当時の読者にとっていじらしくも、新鮮な 魅力を湛えて映ったはずだ。若者の初恋の美しさを描く小説は、何といってもほとんど存 在していなかったのである。 61 第二章快楽の自由思想
の内実 「ずいぶん長いこと」 こうして、独房で再会した二人が共有する時間 は、具体的には何も語られていない。そのあいだずっと二人が「静かに涙を流していた」 のかといえば、そうとは思えない。ひょっとするとジュリャンの一生で「ただの一度も経 験したこと」のなかったほどの体験とは、監獄という、本来はあらゆる快楽と無縁な、社 会的制裁の一環をなす密閉空間で、死を前にして最愛の女性と営むセックスのことだった のではないか ? そうした方向でこの重要な一節を読み直すべきだと、現代のスタンダール研究家イヴ・ アンセルは強調している。ここに見える「狂おしいほどの喜び」とは、十八世紀ェロチッ ク小説において性的な悦楽を表す決まった表現だったし、「ようやく口がきけるようにな ると」云々というのも、セックスの場面から次の場面に移る際の決まり文句だった。十八 世紀文学に精通したスタンダールがそれを知らないはずはなく、このシーン全体は性愛の 表現コードに則って書かれているというのだ。 ノカシュリャン 興味深い、そして大胆な解釈である。確かなのは、ここでスタンダーヒ、、、 かんこうれい にとっての人生最高の経験に関し、一種の「緘ロ令」をしいているということだろう。二 人は一瞬、だれの手も届かない境地に達してしまった。そこで起こった事柄に関してはロ を慎む姿勢をつらぬくことで、スタンダールは自らの主人公たちを、どんな卑俗さからも 100
強奪と恍愡 ロルはフィアンセを夢中で愛していたのだから、彼が別の既婚女性に心を奪われ、去っ ていったことは彼女に激しい苦痛を引き起こして当然の事件だった。ところがそれこそが 彼女にとって「歓喜」の啓示となったのである。ダンスパ ーティー会場で自分のフィアン セと未知の女が踊る姿を、ロルは「昔ながらの恋の痛みの代数学を忘れてしまった」かの ように、微笑みを浮かべてうっとりと見つめる。ホールがほとんど空つぼになり、バンド が演奏をやめてしまっても二人はなお踊り続ける。夜が明ける頃になって、誰かが″事 件を知らせたのか、 0 ~ の母親が駆け 0 ける。すると 0 ~ は母親を払」のけ、絶叫す るそしてフィアンセと未知の女に向けて、どうかもっと踊り続けてくれと哀願する。 「まだ遅くはないわ。夏の時刻は勘違いするものだわ」。しかし二人は彼女の前を通り過 ぎ、立ち去る。「二人の姿が見えなくなると、彼女は気絶して床に倒れた」。 こうして、ロルはフィアンセの心変わりを、夢のようにすばらしい出来事ででもあるか のように受け容れた。フィアンセが別の女性と夢中で踊る姿を、崇めんばかりに見つめ、 自分はただ、いつまでもその光景を眺めていたいと願う。その反応の異様さと、喜びの深 ラヴィスマン さには、ほとんど神秘的なものがある。表題の「歓喜」とは強烈な快感とともに、宗教 的恍惚をも指す言葉であり、辞書の説明によればェクスタシー ( 脱我 ) をしのぐ、超自然 236
友人口ランが訪問する。テレーズは夫とは正反対のロランのたくましい肉体、ハンサムな 顔立ちに魅了される。「ブルジョワ的な甘ったるさのなかで、息の根を止められて」いた テレーズとロランのあいだにはたちまち情欲が燃え盛り、やがて二人は白昼堂々、夫のい ない寝室で情事にふける仲になる。何ひとっ気づかない夫や姑を嘲笑してテレーズは「勝 ち誇ったように」いう。「みんな、ものごとが見えていないのよ。だって愛なんてものを 知らないんですもの」。 その「愛」の力に支配されるがまま、ロランはとうとう , ーーテレーズの暗黙の同意のも とにーーー凶行に及び、カミーユを溺死させる。 ところが邪魔なカミーユが消えてしまうと、テレーズとロランをあれほど悶えさせてい た互いに対する情欲も嘘のように沈静化する。「殺人は、抱擁をも、吐き気をもよおす、 うんざりするものにさせるほどの、熱烈なる快楽と思われたのだ」。事件のほとぼりが冷 めたのち、二人は結婚するが、「この結婚こそ、殺人への宿命的な劫罰」だった。溺死者 の幻にさいなまれながら、殺人者同士は互いに憎悪を募らせ、夜ごとなじりあう。喧嘩は 決まって、ロランがテレーズを猛烈に殴り蹴りすることでけりがついた。 そんな二人の「泥濘の道」がどこまで達するのかを、二十七歳の小説家は執拗に描き出 す。冒頭部分、欲望のとりことなった男女の大胆な情交にエロチックな興味をかきたてら 1 第四章結婚と愛
出る」 ( 『シチリア人あるいは恋する絵描きしというのが「お国がら」とされ、雅び ( ギャラ ン ) であることは貴族として、フランス人としてのアイデンティティの一部にまでなって いく。 では、そのころの貴族たちはいったいどのように恋を進展させていったのか。あるいは どのように進めるべきだと考えられていたのか。恋愛道に洗練を求めるあまりほとんど抱 腹絶倒の状態にまでいたってしまった男女の姿を、モリエールは『滑稽な才女たち』 ( 一 六五九年初演 ) の中で描き出している。 モリエール最初のヒット作となったこの傑作コメディには、当時の現実離れした恋愛小 説にかぶれたあげく、男たちに甘く優しい気取った言葉遣いや態度を求めずにはいられな くなった乙女二人が登場する。鏡のことを「魅力の助一言者」、椅子のことを「会話の友」 などと呼ぶのが彼女たちにとってのお洒落な会話なのだ。そんな娘らの前に現れた粋な男 性二人のいでたちが凄い。流行の長髪のカッラは、お辞儀をすると「その場を掃除する」 ほどの長さ。帽子は羽飾りで埋め尽くされ、ポケットからはリポンがあふれ出し、靴のか かとは十六センチのハイヒールという演出だった。女性陣にいわせれば、それくらいの格 好をしていなければ男に「恋を語る資格」などないのだ。 さすがに完璧な身なりの伊達男たちだけあって、娘たちを相手にまわしてのせりふもま 15 第一章太陽王と恋の世紀
そのとき彼が主人公として、一人の青年を選んだのはいかにも意義深い。『赤と黒』の主 人公ジュリャン・ソレルとはモ ーパッサン短編の老婦人のいわゆる「田吾作や平民や召使 の社会」の一員であり、ラテン語だけはよくできるものの、ほかには別にとりえといって ない、教育も人生経験も欠いた青二才なのだ。十八世紀的な優雅やエスプリのかけらもな ところが十九世紀とはまさに、そうした青二才・がむし・やら・に末来を切り開き、自己実 現を図ろうとする時代てあるというのが、スタンダールの確信だった。それはまたバルザ ックの確信でもあった。二人の天才作家はほとんど同時期に、ひ弱にしてまったく洗練を 欠いた青年を主人公とし、そんな若造であればこそ年上 S . 人に恵まれい , 社会での栄達の 道をつかむというストーリ ー展開をもつ小説を書いた。『赤と黒』と『谷間の百合』 ( 一八 三六年 ) である。 この二作に、地方出身の若者が人妻への恋情を長きにわたって抱き続けるフローベール の『感情教育』 ( 一八六九年 ) を加えるならば、十九世紀フランス小説の傑作が揃うことに なる。モー パッサンの短編の孫娘はそうした小説を少しも読んではいないらしいが、「大 恋愛」は結婚の枠の外で、未熟な男に、成熟した女がもたらすものとなったのだ。フロー べールの長編の題名は、十九世紀の文豪たちの偏愛するそうした図式そのものを言い当て