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検索対象: フランス文学と愛
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1. フランス文学と愛

さらに、こんな一節もある。「マリュスもコゼットも、かくしてついにはどこに導かれ んとするかを自ら尋ねなかった。彼らは既に到達したものと自ら思っていた。愛が人をど こかに導かんことを望むのは、人間の愚かなる願いである」。 恋のただなかにある二人には、これから自分たちがどうなるのかなどと問う必要はない し、そんな問いが彼らの頭に浮かぶこともない。二人にとって、時は止まっている。時計 の針が動き出し、日常の時間がふたたび流れ始めたとき、彼らの人生はどんな変転をたど ることになるのか。絶頂からの転落が待ち受けていたとしたら二人はどうなるのか。それ は『レ・ミゼラブル』という「詩のように書かれた小説」 ( ポードレールの評一一三にとっては 関わりのない事柄である。その先へと突き進んでいくためには、フローベールやモ 1 サンやゾラの小説を読まなければならないのだ。 162

2. フランス文学と愛

結婚はいかにあるべきか 「人間の秩序が自然の関係をかき乱さなかったら、わたしはあの人のものになっているだ ろうに、そしてもし幸福であるということがだれかに許されているならば、わたしたちこ そ一緒にそうなったにちがいないのに」とジュリは書く。二人が結婚を阻まれたことは、 「自然の関係」を害う社会的因襲の力を際立たせる。だが同時に、成就しないことが「愛 の神聖な火」を燃やし続ける条件ともなる。少なくとも、欲望を即座に満たすのではな く、むしろ「欲望に抵抗」し心を「浄化」してこそ、二人は互いにとって「崇高な存在」 となれるのだ。「まことの愛はあらゆる関係のなかでもっとも純潔なものと思われるので す」というジュリの信念を、サンプルーも最後までともにする。だから二人のあいだに は、ジュリが父親の命の恩人であるヴォルマールと結婚してのちも、決して「姦通」は起 こらない。 なお『新エロイーズ』の登場人物中、既婚者でありながら妻以外の女性との情事にうつ つをぬかす男が一人だけ存在することを付記しておこう。ほかならぬジュリの父親、エタ ンジュ伯爵である。「長いあいだ多情で移り気で、貞淑な妻にくらべて相手にするに足り ないあまたの女性と青春の日を浪費」してきた人物なのだとある一節で明かされている。 このリベルタン的な生き方が、ジュリとサンプルーにとって断固否定されるべきもので

3. フランス文学と愛

たすさまじい。まずは即興詩の得意なところをお目にかけようと、「あなたの瞳はこっそ り私の心を奪った。 / 泥棒 ! 泥棒 ! 泥棒 ! 泥棒 ! 」などという頓狂な作を披露して 女心にしつかりアビ 1 ルしたかと思うと、突然一人が叫び声を発して倒れる。 「いたた、あいた、いた。お手柔らかに願いますよ。お二人とも、あんまりです」などと 娘たちに対し抗議するのでどうしたのかと思えば、「お二人して、私の心に同時に攻撃を しかけるなんて。右と左、両方から攻めるなんてルール違反ですよ。二対一ではかないま せんよ。『人殺し』と叫びますよ」。 あまりの大仰さに笑うほかはないが、しかし娘二人はそのセリフの素晴らしさにすっか り参ってしまうのである。 才女たちの見る夢 実をいうと、雅びな貴族とは真っ赤な嘘、これは娘たちにすげなく追い返された無骨な 求婚者たちが、使用人たちを伊達男に扮装させて仕掛けた意趣返しの一幕なのだった。と はいえ、町人階級 9 ルジョワ ) の勘違いぶりを笑う愉快な風刺劇が、貴族社会に発する同 時代の一傾向をするどく照射してもいたことは間違いあるまい。理想の恋はどうあるべき か、恋はどんな行路をたどるべきか。そんな机上の恋愛問題にばかりひねもす頭を悩ませ

4. フランス文学と愛

強調ということになる。 天使のような母親に存分に愛を注がれたという記憶がユゴーを支え、詩人の言葉をも支 えている。やがて自らが子供を持ったとき、今度は自分が幼子に存分に愛を注ぐ。そんな 家庭的なイメージによって、アムールは男女のカップルを結ぶ排他的な情念というのとは 異なる広がりを獲得する。母親が自分の子供を愛するように、人が他者を愛するとした ら、そこには現実の社会を大きく変革しうるような友愛と連帯の可能性が開けるのではな いか。博愛主義者としてのユゴーはそんなヴィジョンをふくらませていく。そのときにも 小さな「子供」の力が決定的に重要であることは、『レ・ミゼラブル』 ( 一八六二年 ) におけ るジャン・ヴァルジャンとコゼットの挿話を思い出せば理解できるだろう。『九十三年』 ( 一八七四年 ) でも、無垢な子供たちの姿にこそ大革命の理念にも増して意義ぶかい人間性 が求められている。 とはいえ、ユゴーの作品の貴重さは、彼がある意味でそうしたレトリックや理屈以前 に、ただもう子供が可愛くてしかたがないという夢中ののぼせ方ができた詩人だったとい う事実に由来するのかもしれない。四人の子供のうち三人に先立たれ、一人残されたアデ ルは不幸な恋愛から発狂し病院で余生を過どした。さらには妻も死んでしまうという不幸 に遭遇しながらもユゴーは、次男の忘れ形見である孫たちに心慰められ、その喜びを詩に 196

5. フランス文学と愛

出る」 ( 『シチリア人あるいは恋する絵描きしというのが「お国がら」とされ、雅び ( ギャラ ン ) であることは貴族として、フランス人としてのアイデンティティの一部にまでなって いく。 では、そのころの貴族たちはいったいどのように恋を進展させていったのか。あるいは どのように進めるべきだと考えられていたのか。恋愛道に洗練を求めるあまりほとんど抱 腹絶倒の状態にまでいたってしまった男女の姿を、モリエールは『滑稽な才女たち』 ( 一 六五九年初演 ) の中で描き出している。 モリエール最初のヒット作となったこの傑作コメディには、当時の現実離れした恋愛小 説にかぶれたあげく、男たちに甘く優しい気取った言葉遣いや態度を求めずにはいられな くなった乙女二人が登場する。鏡のことを「魅力の助一言者」、椅子のことを「会話の友」 などと呼ぶのが彼女たちにとってのお洒落な会話なのだ。そんな娘らの前に現れた粋な男 性二人のいでたちが凄い。流行の長髪のカッラは、お辞儀をすると「その場を掃除する」 ほどの長さ。帽子は羽飾りで埋め尽くされ、ポケットからはリポンがあふれ出し、靴のか かとは十六センチのハイヒールという演出だった。女性陣にいわせれば、それくらいの格 好をしていなければ男に「恋を語る資格」などないのだ。 さすがに完璧な身なりの伊達男たちだけあって、娘たちを相手にまわしてのせりふもま 15 第一章太陽王と恋の世紀

6. フランス文学と愛

そのとき彼が主人公として、一人の青年を選んだのはいかにも意義深い。『赤と黒』の主 人公ジュリャン・ソレルとはモ ーパッサン短編の老婦人のいわゆる「田吾作や平民や召使 の社会」の一員であり、ラテン語だけはよくできるものの、ほかには別にとりえといって ない、教育も人生経験も欠いた青二才なのだ。十八世紀的な優雅やエスプリのかけらもな ところが十九世紀とはまさに、そうした青二才・がむし・やら・に末来を切り開き、自己実 現を図ろうとする時代てあるというのが、スタンダールの確信だった。それはまたバルザ ックの確信でもあった。二人の天才作家はほとんど同時期に、ひ弱にしてまったく洗練を 欠いた青年を主人公とし、そんな若造であればこそ年上 S . 人に恵まれい , 社会での栄達の 道をつかむというストーリ ー展開をもつ小説を書いた。『赤と黒』と『谷間の百合』 ( 一八 三六年 ) である。 この二作に、地方出身の若者が人妻への恋情を長きにわたって抱き続けるフローベール の『感情教育』 ( 一八六九年 ) を加えるならば、十九世紀フランス小説の傑作が揃うことに なる。モー パッサンの短編の孫娘はそうした小説を少しも読んではいないらしいが、「大 恋愛」は結婚の枠の外で、未熟な男に、成熟した女がもたらすものとなったのだ。フロー べールの長編の題名は、十九世紀の文豪たちの偏愛するそうした図式そのものを言い当て

7. フランス文学と愛

い独身男だが、スケープゴート的な立っ瀬のない仕事の労苦に加え、家では二人の妹と二 人の弟を抱えて主夫役に追われている。というのも、マロセーヌの母親はまったく家に寄 りつかず、新しい男と出奔を繰り返しては妊娠して戻ってくるからだ。そして出産すると たちまちまた家を出て次なるアヴァンチュールにいそしむのであり、マロセ 1 ヌたちはい ずれもが父親不明の異父兄弟なのだ。その母親になりかわって長男マロセーヌは弟妹に愛 を注ぎ、個性派ぞろいのにぎやかで温かな家庭を築いている。そこには社会が経験しつつ あった劇的な変化が描きこまれている。 一九七二年の民法改正によって、婚姻内で生まれた子と婚姻外で生まれた子が同一の権 利を有することが認められて以降、フランスの婚姻件数は減り続けている。しかし出生率 を見ると、諸先進国が軒並み減少に悩んでいるのに対し、フランスはで有数の高さを 誇っている。つまり婚外子の割合は高まる一方なのであり ( その割合もでずば抜けてい る ) 、一九八〇年には出産数全体の一一・四パーセントだったのが、二〇〇六年には五〇 ーセントを超えた。フランス国立統計経済研究所の統計によると、二〇一〇年の合計特 殊出生率は二・〇〇人 ( 同年、日本は厚生労働省「人口動態統計」によると一・三九人 ) 、婚外子の 割合は五四・八パーセント ( 日本は二・一。 ハーセント ) に達している。 ペナックの小説はまさにそうした婚外子急増の気配を敏感にとらえた例だった。主人公 247 第六章解放と現在

8. フランス文学と愛

「講談社現代新書」の刊行にあたって 一方的に人々の 教養は万人が身をもって養い創造すべきものてあって、一部の専門家の占有物として、ただ 手もとに配布され伝達されうるものてはありません。 しかし、不幸にしてわが国の現状ては、教養の重要な養いとなるべき書物は、ほとんど講壇からの天下りや 単なる解説に終始し、知識技術を真剣に希求する青少年・学生・一般民衆の根本的な疑問や興味は、けっして 十分に答えられ、解きほぐされ、手引きされることがありません。万人の内奧から発した真正の教養への芽ば えが、こうして放置され、むなしく滅びさる運命にゆだねられているのてす。 このことは、中・高校だけて教育をおわる人々の成長をはばんているだけてなく、大学に進んだり、インテ リと目されたりする人々の精神力の健康さえもむしばみ、わが国の文化の実質をまことに脆弱なものにしてい ます。単なる博識以上の根強い思索カ・判断力、および確かな技術にささえられた教養を必要とする日本の将 来にとって、これは真剣に憂慮されなければならない事態てあるといわなければなりません。 わたしたちの「講談社現代新書」は、この事態の克服を意図して計画されたものてす。これによってわたし もつばら万人の魂に生ずる初発的かっ根本的な たちは、講壇からの天下りてもなく、単なる解説書てもない、 問題をとらえ、掘り起こし、手引きし、しかも最新の知識への展望を万人に確立させる書物を、新しく世の中 に送り出したいと念願しています わたしたちは、創業以来民衆を対象とする啓蒙の仕事に専心してきた講談社にとって、これこそもっともふ さわしい課題てあり、伝統ある出版社としての義務てもあると考えているのてす。 一九六四年四月野間省一

9. フランス文学と愛

スタンダールの場合にきわめて特徴的なのは、その至福を社会的な秩序から完全に切り 離された〕龜としてとらえる姿勢である。彼の主人公たちは世間に背を向け、二人きりで 法悦を味わう。喜びは密やかであるからこそ深いのであり、密やかさを大切にすべく、肝 心な描写は簡潔をきわめる。それがスタンダールの作品に美しさと迫力を与える。 誤解にもとづく憤怒に駆られてレナール夫人を銃撃し、死刑宣告を受けたジュリャンの もとを、負傷の癒えたレナール夫人が訪れる。看守を買収して監獄内に人ってきたのだ。 許してください、と嗚咽するジュリャンに、許してほしいならいますぐ控訴して、と夫人 は懇願する。控訴するから、これから毎日面会に来てほしい、とジュリャンはねだる。 「誓います」と夫人は約束し、ジュリャンは「狂おしいほどの喜び」に浸る。「ぼくが愛し たのはあなただけです」とジュリャンは言う。 「『本当に ? 』レナール夫人は叫んだ。今度は彼女が狂喜する番だった。ひざまずいてい るジュリャンの体に寄りかかり、二人は長いあいだ、静かに涙を流していた。 これまでの人生で、ジュリャンはこのようなひとときをただの一度も経験したことはな かった。 ずいぶん長いことたってから、ようやく口がきけるようになると、レナール夫人がいっ 99 第三章感情教育

10. フランス文学と愛

なのだと思い込んでいる彼女だが、実は夫との関係は、夫が子どもたちの将来を考えてく れているという一点のみで支えられていた。夫婦の寝室は別々である。これは貴族の夫婦 として当然のことであり、不和のしるしというわけではない。ただし、「わが家の美しい 庭を一人で散歩させてもらえさえすれば」何の不満もないという、孤独を好むその性格に は、穏やかなうわべからは想像できないほどの毅然とした意志が秘められていた。 「繊細で誇り高い心の持ち主ではあったが、だれもが備えた幸福への本能ゆえに、大抵の 場合、周囲の粗野な人間たちのふるまいにはまったく注意を向けようとしなかった。たま たまそんな人々と一緒に暮らすことになっただけのことだった」 ののうち ここには、自分の置かれた環境を心の底では軽侮し、否定するレナー が明力さてい。本当の居場所ーー本物の「幸福」ーーはどこか別のところにあると信 じるその誇り高さは、やり手の製材屋の父親を嫌い、故郷を憎悪するジュリャンの傲岸と ひそかに共通する。二人とも、「たまたま一緒に暮らすことになった」人間たちには手の 届かないところに自分の王国を築きたいと願う人間なのである。 その彼らが、夫人は良心の呵責や年の差へのためらいを、ジュリャンの場合は階級差に 由来する憎しみや卑屈さを乗り越えて、互いの恋情を解き放ったとき、二人は至福のとき としかいいようのない時間を共有する。