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検索対象: 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統
79件見つかりました。

1. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

スト教改宗は、アルファベットの普及という点で、中央ュ 1 ラシアの文明に大きな影響を 残したのである。 タングト人 もう一つの遊牧キリスト教王国のオングト部族は、沙陀トルコ人の後裔で、内モンゴル 西部の陰山山脈に遊牧し、キタイ帝国の西南国境の最前線の防衛を担当していた。その南 ねいかかい とうこう 隣の黄河の上流沿いの、現在の寧夏回族自治区の地は、すなわちタングト ( 党項 ) 人の西 キ夏王国であった。 タングト人は、四川の西北部、チベット国境の山地から出てきた遊牧民の種族であった。 たくばっ ルその王家の姓がもと拓跋といって、鮮卑の北魏の帝室と同じだったところから見て、元来 一は鮮卑系であ「たらしい。八世紀の安史の乱のあと、唐は国境防衛の都合上、タングト人 長を寧夏の地に移した。八八 三年、タングト人の拓跋思恭は、黄巣の反乱軍から長安を奪回 かこくこう のする作戦に参加して功績を立て、唐の帝室の姓である李氏を名のる特権と、夏国公の爵位 こうりようが りけいせん 帝を許されて、独立の軍閥となった。高梁河の戦いでキタイが宋を破ると、夏国公李継遷は 遊独立してキタイと同盟し、九九〇年、キタイの聖宗から夏国王の称号を与えられた。これ りげ・んこう が西夏王国の建国である。李継遷の孫の李元昊は、一〇三八年、大夏皇帝の称号を採用し ぎんせん て、銀川に都を定めた。この西夏王国は、タングト語を書き表すための独特の西夏文字を いんざん

2. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

七四四年に建国したウイグル帝国は、中国の安史の乱に介入して、皇帝を支持して唐に 恩を売り、強い立場を獲得した。 あんろくざん げんそう この安史の乱を起こした安禄山は、父はソグド人、母はトルコ人の混血で、唐の玄宗に りようねい 信任されて、遼寧・河北・山西の軍司令官を兼ね、ついに唐から独立して、北京によって だいえん ししめい 大燕皇帝と自称したのである。安禄山の死後、その息子を殺して取って代わった史思明も、 で父はトルコ人、母はソグド人の混血であった。またこの二人の部下の将兵も、大部分が非 しちょうぎ 中国人であった。七六三年に史思明の息子の史朝義が殺されて安史の乱が終わった後も、 キこうした非中国人の軍人たちは、地方軍閥となって華北に居すわり続け、唐の皇帝の支配 権を無視したので、唐帝国の統一は名目だけのものとなり、その国際的な立場は弱いまま ルであった。そういうわけで、安史の乱から約百五十年、十世紀の初めに至るまで、中国の 一政治を動かしたのは、中央 = 1 ラシア出身の人々だ「たのである。 長さて、モンゴル高原のウイグル帝国は、百年近く繁栄した後、八四〇年、西北から侵入 のして来たキルギズ人に倒され、ウイグル人は四散した。ある者は内モンゴルに、ある者は かんしゆく てんざん 帝甘粛に、ある者は天山山脈に逃げ込んだ。天山山脈に避難したウイグル人は、その北麓の、 遊現在のウルムチの東方のペシュバリクの地に新しい国を建てて、タリム盆地のオアシス都 市を支配した。そのため、これらのオアシス都市では、それまで話されていたトカラ語に 代わって、ウイグル人の持ち込んだトルコ語が話されるようになった。タリム盆地が、一

3. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

しんしこうてい ス , が存在できるという性格のものである。これに反して、秦の始皇帝に始まる中国の皇 帝は、世界の中心であり、皇帝があってはじめて中国が中国になり得るという性質のもの であり、「アウグストウス、とは異質のものである。「アウグストウス、を「皇帝 , と誤訳 したこと自体が、慣れないヨーロッパ史を、なじみ深い中国史に引き付けて理解しようと する、日本人の努力の表れである。 ほうけん こよ、中世の「封珒がある。中国史の「封建 , は、武装移 古代の「皇帝」に似た誤訳を冫 民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味する。それに対してヨーロッパ史の 「フュ 1 ダリズム」は、騎士が、一人または複数の君主と契約を結び、所領 ( フュード ) へ一部を手数料 ( フィー ) として献上して、その見返りに保護を受けることを意味する。そ 界の内容には、中国史の「封建」と共通な点はほとんどない。それにもかかわらず、日本の 坊西洋史で「フューダリズム、を「封建制」とする誤訳が通用しているのは、西洋史学者に 史中国史の知識がない上に、東洋史学者にもヨーロッパ史の知識がなくて、誤訳を正す能力 西 がないからである。 史マルクス主義の時代区分では、「古代奴隷制、中世封建制、近代資本制、と、それぞれ 東の時代には特有の生産様式が存在することになっている。言うまでもなく、これはとんで もないナンセンスである。時代の三区分はあくまで政治を基準にした区分であり、それが 経済構造に対応すべき必然的な理由は何もない。それに、古代は地中海世界の現象、中世

4. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

150 三一六年には長安を占領して次の皇帝を捕らえた。翌三一七年の一年間、中国には皇帝と いうものがなかった。前一三一年に秦の始皇帝が初めて皇帝となってから、一九一二年に せんとうてい 清の宣統帝が退位するまでの二千百三十二年間で、中国に皇帝がなかった年は、後にも先 にもこの三一七年だけである。 フン人の出現 フン人が西方のカザフスタン草原から姿を現して、ヴォルガ河とドン河を渡り、黒海の 北の草原に侵入して東ゴート王国を征服したのは、ちょうど東方で南匈奴が引き起こした 「五胡十六国の乱」の最中の三七〇年代のことであった。フンはすなわち匈奴であり、ア ルタイ山脈で敗れた北匈奴の単于が姿を消してから、フン人が北コ 1 カサスに姿を現すま で、二百八十年が経っていた。南匈奴が後漢と同盟してから、晋を滅ばすまでも、二百六 十六年で、ほば同じ長さの時間である。 四三四年、フン人の王ルガが死んで、その甥のプレダ、アッテイラ兄弟が後を継いだ。 東ローマ皇帝テオドシウスは兄弟に年額七百ポンドの黄金を支払って、しばし辺境の平和 を買い取った。フン人の活動の方向は西方に転じ、四三六年、ライン河畔のヴォルムスの ゲルマン人のプルグンド王国を攻め滅ばした。この戦いはゲルマン人の間に語り伝えられ、 中世高地ドイツ語の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主題となったので有名である。

5. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

ヨーロッパが珍しく一致協力して湾岸戦争を戦ったのは、この戦争が「主なる神の御使た ちとサタンの使たちの戦 いーだったからである。 湾岸戦争がヨーロッパ ( アメリカ・西ヨーロッパ ) の勝利に終わって、アジア ( イラク ) が打倒された後、あれほど戦争の遂行に協力した日本が、アメリカ・ヨーロ。パから露 ! 骨に警戒ざん・をの、日本がアジアの国である、という単純な理由からである。アジアの 国であるからには、表面はともあれ、潜在的にはアメリカ・西ヨーロッパの敵であるはず だ、というのが、地中海世界のキリスト教歴史観の論理の明快な結論である。いかに日本 文が国際社会で誠実に努力しても、日本がアジアの国であることをやめるか、またはキリス 歴ト教歴史観よりもはるかに強力な歴史観を創り出さない限り、アメリカ・西ョ 1 ロッパか 明ら敵視される運命を逃れることなど出来るはずがない。 海 それでは、地中海文明のキリスト教歴史観よりも説得力のある、新しい歴史観を創り出 中 地 すことは可能なのであろうか。この問いに答える前に、もう一つの歴史のある文明である ぎんみ 史中国文明の歴史文化を、まず吟味してみることにしよう。 歴 の 決 対

6. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

の妻となって、都市国家の王家の始祖を産むのである。この大地母神の「配偶者」の天の 神が、すなわち「帝」なのである。 先に紹介した「五帝本紀」の物語を見てもわかるように、五帝は本来、神々であって、 その治世は現実の人間界ではなく、神話の世界に属する。五帝はそうした架空の存在では あるが、問題は司馬遷が、どんなつもりで、「史記』の人間界の歴史の冒頭に五帝の物語 を置いたのか、ということである。 「五帝本紀」の叙述の特徴は、「天下ー ( 中国世界 ) が、人類 ( 中国人 ) の歴史の始まりか ら、まとまった政治の単位として成立していたように扱っていることである。ところが わ 『史記』で「五帝本紀ーに続く「夏本紀ー「殷本紀」「周本紀」に叙述される時代は、い ゆる「三代 , の王朝であるが、この時代の物語には、五帝の時代のような中国世界の統一 は見られない。 とうい 東夷の夏 「夏本紀」の物語は、次のようになっている。 こん せんぎよく 顗項の息子が鯀 ( 「卵」 ) 、鯀の息子が禹 ( 「蛇」という意味 ) で、禹は夏の初代の天子とな これより先、帝堯の時、鯀は、人間界を没する大洪水の治水に失敗して、処刑された。 っ一」 0

7. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

286 第三に、北シナで誕生していた資本主義経済が、草原の道を通って地中海世界へ伝わり、 さらに西ョ 1 ロッパ世界へと広がって、現代の幕を開けたことである。 第四に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった。このた め、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出し、 歴史の主役がそれまでの大陸帝国から、海洋帝国へと変わっていったことである。 十三世紀からあとの歴史は、それまでのように、地中海・西ヨーロッパ世界の歴史と、 中国世界の歴史とを、それぞれ別々に叙述することは、もうできない。モンゴル帝国が、 一方で起こった事件が、ただちに他方に影響を及ばすような世界を創り出したのだから、 つまり、世界史は、モンゴル帝国 どうしても一本の世界史として書かなければならない。 から始まったのである。 一九九二年に、ちくまライプラリーの一書として本書が世に出てから、私のこのような 論拠は各方面に影響を与え、とくに文筆を専門とする同業者からの支持を受けたのは、た いへん嬉しいことであった。幸い、ちくまライプラリーとしても版を重ねたが、今回、文 庫化にあたっては、さらに多くの読者に恵まれると思い、見慣れない漢字にルビを多くふ ることを心がけた。 一九九九年七月 岡田英弘

8. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

下 ) がまだ成立しておらず、統一などなかったことが判る。 正統の理論 かかわ いんしゅう そうした実情にも拘らず、『史記』が夏・殷・周を、実際に中国を統治した秦の始皇帝 や漢の皇帝たちと並べて、「本紀」に列しているのは、 , 「正統ーという理論に基づくもので ある。いかなる政治勢力でも、実力だけでは支配は不可能であり、被支配者の同意を得る ための何らかの法的根拠が必要である。中国世界では、そうした根拠が「正統ーという観 念である。唯一の「正統」 ( 中国世界の統治権 ) が天下のどこかに常に存在し、それが五帝 史から夏に、夏から殷に、殷から周に、周から秦に、秦から漢に伝わった、というのである。 のこの「正統」を伝えることが「伝統」である。 せしゅう ぎよう 「伝統。の手続きとしては、世襲が原則である。五帝は黄帝とその子孫であり、帝堯は帝 しゅん ぜんじよう と、つお、つ 舜に、帝舜は禹に「禅譲」したのだから問題はない。問題は武力で夏を倒した殷の湯王と、 史殷を倒した周の武王が、どうして「正統」を承けたと認められるかである。これには、王 あらた の朝の「徳」 ( エネルギー ) が衰えると、「天」がその「命」を革める ( 取り去る、「革命」 ) 。 皇そして新たな王朝が「天命」を受け ( 「受命」 ) 、それに「正統ーが遷る、という説明がっ しかも系譜の上では、三代の王朝はいずれも黄帝の子孫であるということになっている。 うつ

9. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

152 いわゆる「ロ 1 マ帝国」の正式な名称は、ラテン語では「レ 1 ス・プープリカ」であっ げんろういん て、「元老院と民衆の共有財産 , を意味する。「レース・プ 1 プリカーは英語の「リバブリ ック」、フランス語の「レピュプリーク」の語源だが、この言葉が「王国」に対していわ ゆる「共和国ーの意味になるのは、十八世紀末のフランス革命からあとのことである。 またこの「レ 1 ス・プ 1 プリカ」に実力で君臨した「アウグストウスーたちの資格は、 正式には「元老院の筆頭議員ーでしかない。元老院は中国にはなかったから、「アウグス トウスーを中国式に「皇帝」 ( 光り輝く天の神 ) と訳すのは、完全な誤訳である。ロ 1 マの 「プロウインキア」 ( 「属州」 ) には、元老院に属するものと、アウグストウスに属するもの との二種類があった。この両方をひっくるめたものが「レ 1 ス・プ 1 プリカ」、いわゆる ロ 1 マ「帝国」であった。 日本語の「帝国」は、英語の「エンパイア」、フランス語の「アンピールーの訳語であ る。どちらもラテン語の「インペリウム」のなまりだが、「インペリウム」はラテン語で は「命令権ーの意味である。ローマ人の官吏は、その地位によってそれぞれ命令の及ぶ範 囲がきまっており、これが「インペリウム」であった。つまり口 1 マ「帝国 , の中には、 官職の数だけの「インペリウム」が存在した。この言葉が実際に「帝国 , の意味に使われ るようになったのは、十四世紀の初めのことで、しかも当時のドイツの神聖ロ 1 マ帝国を 指した。

10. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

244 ションの程度も大したことはなかった。もっとも一三五一年の紅巾の乱が起こってからは、 しつつい 爆発的な悪性インフレーションとなり、紙幣の信用は失墜した。元朝から中国を奪った明朝 は、元朝に倣って不換紙幣を発行したが、中国人の明朝の信用はモンゴル人の元朝に遠く及 ばず、その紙幣はまったく流通せず、中国の経済は沈滞した。明朝の中国の経済が好況を呈 するのは、十六世紀の半ばにスペイン人が太平洋航路でフィリピンに到着して、メキシコ産 じがね の銀が大量に中国に流れ込み、銀地金が決済に使われるようになってからのことである。こ の通貨制度で見ても、現代の世界がいかに多くをモンゴル帝国に負うているかがわかる。 大陸帝国と海洋帝国 しかしモンゴル帝国の弱点は、それが大陸帝国であることにあった。陸上輸送のコスト は、水上輸送に比べてはるかに大きく、その差は遠距離になればなるほど大きくなる。そ の点、海洋帝国は、港を要所要所に確保するだけで、陸軍に比べて小さな海軍力で航路の 制海権を維持し、大量の物資を低いコストで短時間に輸送して、貿易を営んで大きな利益 を上げることが出来る。これがモンゴル帝国の外側に残った諸国によって、いわゆる大航 海時代が始まる原因であった。 西ヨーロッパ側では、大航海時代は普通、一四一五年にポルトガル人が、ジプラルタル の対岸のセウタを攻略して、アフリカ大陸の西海岸の航路を確保した時に始まったという なら