ことになっている。一四九七年にはアフリカ大陸の南端を回ってインド洋に入り、翌年、 インドに達し、一五一一年にはマレ 1 半島のマラッカ王国を滅ばしてここを拠点とし、南 シナ海に入って一五一七年には中国に達した。スペイン人は少し遅れて、大西洋から南ア メリカ大陸の南端を回って、一五二一年、フィリピンに達し、一五七一年にはマニラ市を 建設した。しかしモンゴル帝国の東側に接する日本は、ポルトガル人のセウタ攻略より半 世紀以上も早く、大航海時代に入っている。東シナ海の貿易は、十三世紀のモンゴル帝国 わこう の出現まで、中国の商船が独占していた。それが一三五〇年、倭寇と呼ばれる日本人の海 かん 賊が韓半島の沿岸を荒らし始め、中国大陸の沿岸に移って東シナ海を次第に南下し、華南 の海岸に多い中国人の海賊と合流して、十六世紀のポルトガル人・スペイン人の中国到着 創と時を同じくして、倭寇は最盛期に達した。これらはすべて、大陸帝国の時代が過ぎ去り、 界海洋帝国の時代が到来しつつあったことを物語るものであった。 二十世紀末の現在では、世界の三大勢力はアメリカ合衆国であり、日本であり、ドイツ 国 を筆頭とするである。これらはすべて、本質的には海洋国家である。アメリカ合衆国 ゴは大陸国家のように見えるが、実はその文明は大西洋岸と太平洋岸に集中していて、中間 モは空白である。その世界制覇のカの根源は、圧倒的に強大な海軍力にある。日本が海洋国 家であることはいうまでもなく、第二次世界大戦の後の日本の経済的成功は、資源の輸入 と製品の輸出に、海運を有効に利用したことに原因があった。西ヨーロッパでも、大西洋
二つ目の話も、もともとは全くの神話である。フェニキアのテュロスの王女エウローベ ゅうかい ーを誘拐したという、クレータ島のギリシア人は、前の神話と同じく、これも実はゼウス 神である。普通の神話では、エウロ 1 ペーはポイニークス ( 「フェニキア人」という意味の 名前 ) の娘 ( 後の伝承では、フェニキア王アゲーノールの娘 ) だった。ゼウスが美しいエウロ ーベーを愛して、白い牡牛に姿を変えて近づき、エウローベ 1 を自分の背に乗せて、海を 渡ってクレータ島に連れて行った。エウロ 1 ペーはクレータ島で、クレータの王ミーノー スらを産んだ。ミーノースは死後、死者の国の王となった、ということになっている。 ゼウスは、ギリシア人がギリシアに入って来る前から持っていた天空の神だが、クレ 1 タ島のゼウスはこれとは違い、ギリシア人が来る前から信仰されていた、エーゲ文明の神 である。「エウロ 1 ペ 1 」というのも、人間の名前ではない。 これはギリシア語で「幅広 い眼をした女神ーを意味し、ヘ 1 ラ 1 を呼ぶ「ポオ 1 ピス」 ( 「牛の眼をした女神」 ) と同じ 意味である。エウロ 1 ペ 1 は、クレータ島で信仰された女神であった。フェニキア人がク レータ島と海上貿易を営んでいたことは確かだが、ヘーロドトスは、この話でも、神のし わざを強引に人間界の出来事に変えてしまい、フェニキア人とクレ 1 タ島のギリシア人の 間に起こった事件としているのである。 三つ目の話の王女メーディアーは、エウリーピデースの悲劇の女主人公として有名だが、 つかさど もともとはギリシアのテッサリア地方で信仰された、魔法を司る女神であった。それが、 おうし
1 ろ 8 河中流域に、東アジア最古の都市国家を建てたのである。前二千年紀の前半のことで、彼 らの文化が、 , 後世の中国文明の基層になった。 その夏人の都市を征服したのが、前二千年紀の半ばに北方から侵入した狩猟民 ( 北狄 ) の殷人である。黄河中流の北岸に接する山西高原から、その北の内モンゴル東部にかけて ニレなどの茂る森 は、古くはカエデ、シナノキ、カバ、チョウセンマツ、カシ、クルミ、 林地帯で、この森林は東北に延びて、満洲・シベリアの森林につながっていた。殷人は、 この森林の住民だったのであろう。 さらにその殷人の都市を征服したのは、前二千年紀の末に西方の草原から侵入した遊牧 しゅう 民 ( 西戎 ) の周人であった。周人とその同盟種族は、華北の黄河流域の平原の諸都市を支 ほくてき と、つい せいじゅう 配し、その城壁の中では東夷系・北狄系・西戎系の人々が混じり合った。これに対して、 ちょうこうわいが 華中の湖北には、山地の焼畑農耕民 ( 南蛮 )' 出身の楚人が王国を建て、長江・淮河流域を 支配して、華北の諸国と競争した。最後に、前三世紀になって、西北方の西戎出身の秦王 国が、華北・華中の都市国家を次々に征服し、前一三一年に統一を完成して、秦王政 ( 秦 の始皇帝 ) が皇帝の称号を初めて採用した。これが中国という世界と、その中心を成す皇 帝という制度の始まりであった。 こうした前一一千年紀に始まる、中国以前の都市国家の時代を動かした人々は、中央ュ 1 ラシアから繰り返し侵入して都市を支配した狩猟民・遊牧民であった。彼らが持ち込んだ いん まんしゅう さんせい しん
232 ゴル軍の侵入を迎えた。これ以後、ルーシは黄金のオルドのハーンたちに臣従して、いわ くびき ゆる「タタルの軛」の時代が五百年間も続くことになった。「タタルーとはロシア語で、 トルコ語を話すイスラム教徒のモンゴル人を指した言葉である。 じんとうぜい モンゴルの支配下に、ル 1 シの文化は飛躍的に成長した。モンゴル人が人頭税の徴収のた ちゅうとん ちょうぜい めに戸籍を作り、徴税官と駐屯部隊を置いてから、ルーシの町々は初めて徴税制度と戸籍制 度を知り、自分たちの行政機関を持つようになった。ル 1 シの貴族たちは、黄金のオルドへ さんきんこうたい 1 ンの宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化にあこがれるよう の参勤交代の機会に、ハ になった。彼らは他のル 1 シとの競争に勝っために、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚と なるのに熱心であった。またモンゴル人のほうでも、仲間との競争に敗れたモンゴル貴族に きやくぶん は、ルーシの町に避難して、客分となって滞在する者もあった。政治だけでなく、軍事の面 でも、ル 1 シの騎兵の編制も装備も戦術も、まったくモンゴル式になった。ただ一つ、宗教 の面では、ルーシはモンゴル人のイスラム教は取り入れず、ロシア正教を守ったが、そのロ シア正教でさえ、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人が、教会や修道院を免税にして保護した おかげで、それまでになく普及したのである。そういうわけで、五百年のモンゴルの支配 下で、ルーシはほとんど完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になったのである。 とりで モスクワの町は、一二三七年のモンゴル軍の侵入の時にはまだ小さな砦だったらしく、 名前すら出てこない。大きくなるのは十三世紀末で、十四世紀初めのモスクワ公イヴァン
スト教改宗は、アルファベットの普及という点で、中央ュ 1 ラシアの文明に大きな影響を 残したのである。 タングト人 もう一つの遊牧キリスト教王国のオングト部族は、沙陀トルコ人の後裔で、内モンゴル 西部の陰山山脈に遊牧し、キタイ帝国の西南国境の最前線の防衛を担当していた。その南 ねいかかい とうこう 隣の黄河の上流沿いの、現在の寧夏回族自治区の地は、すなわちタングト ( 党項 ) 人の西 キ夏王国であった。 タングト人は、四川の西北部、チベット国境の山地から出てきた遊牧民の種族であった。 たくばっ ルその王家の姓がもと拓跋といって、鮮卑の北魏の帝室と同じだったところから見て、元来 一は鮮卑系であ「たらしい。八世紀の安史の乱のあと、唐は国境防衛の都合上、タングト人 長を寧夏の地に移した。八八 三年、タングト人の拓跋思恭は、黄巣の反乱軍から長安を奪回 かこくこう のする作戦に参加して功績を立て、唐の帝室の姓である李氏を名のる特権と、夏国公の爵位 こうりようが りけいせん 帝を許されて、独立の軍閥となった。高梁河の戦いでキタイが宋を破ると、夏国公李継遷は 遊独立してキタイと同盟し、九九〇年、キタイの聖宗から夏国王の称号を与えられた。これ りげ・んこう が西夏王国の建国である。李継遷の孫の李元昊は、一〇三八年、大夏皇帝の称号を採用し ぎんせん て、銀川に都を定めた。この西夏王国は、タングト語を書き表すための独特の西夏文字を いんざん
いで宋の皇帝となった弟の太宗は、南方の統一がほば終わると、九七九年、太原を陥れて 」、つりよ、つ 北漢を滅ばした。太宗は勢いに乗って北京を攻めたが、南郊の高梁河でキタイ軍に大敗し、 皇帝は身一つで命からがら脱出するという有様で、燕雲十六州の奪回は成らなかった。 しようてん せいそう せっしよう 九八二年、キタイの聖宗が十二歳で即位した。摂政となった母の承天皇太后は、外モン ゴルに遠征軍を派遣して、ケンティ山脈以西のタタル人を攻撃し、一〇〇〇年までにこの そぼく 地方の征服を完了した。この地方のタタル人を、キタイ人は「阻トーと呼んだ。キタイ帝 国は、外モンゴル統治の中心として、一〇〇四年、オルホン河畔のウイグル人の都市カト ちんしゅうけんあんぐん ウンバリクの廃墟に鎮州建安軍という軍事基地を設置した。 同じ一〇〇四年、承天皇太后と聖宗は、自らキタイ軍を率いて華北に侵入して、宋の首 せんしゅう ぼくよう 都開封に迫った。キタイ軍が黄河の北岸の濵州 ( 河南省濮陽県の西 ) に達したとき、その しんそう 一勢いに恐怖した宋の皇帝真宗は和議を申し入れ、真宗と聖宗が兄弟となること、真宗は承 長天皇太后を叔母とすること、宋はキタイに年額、絹二十万匹、銀十万両を支払うことを条 の件とする盟約を結んだ。両国の関係はこれによって安定し、これから約百二十年間、キタ 帝イ帝国の滅亡まで平和が続くことになる。 遊キタイ帝国の制度は、それまでの遊牧帝国とは違って、遊牧型の政治組織と中国型の都 市文明を結合したものであった。これはキタイ人の故郷が大興安嶺山脈の東斜面にあって、 雨量が多く、遊牧だけでなく農耕も可能で、都市を建設しやすかったからである。この遊