174 と、発展があまりに短期間に起こったために、統一の力が弱く、アルタイ山脈を境にして、 モンゴル高原の東トルコと、ジュンガル盆地・カザフスタン草原の西トルコとに分かれる 傾向があった。そこへカガンの位の継承争いが起こり、五八三年、西トルコのタルドウ・ カガンは東トルコのイシュバラ・カガンと開戦した。窮地に立ったイシュバラ・カガンは 隋と和解して内モンゴルに本拠を移し、東トルコは隋の同盟国となった。五八九年に隋が 陳を併合して中国を統一すると、力関係はいよいよ逆転して、東トルコは隋の保護を受け る立場となった。 ようだい 六一七年、中国は全面内乱状態となり、群雄が各地で蜂起した。その翌年、隋の煬帝は しひっ 側近に殺された。中国の群雄はそれぞれ東トルコの始畢カガンに忠誠を誓い、カガンから 称号を受けた。山西の太原で挙兵した唐の高祖もその一人で、始畢カガンに使いを遣わし て臣と称し、東トルコから援兵を受けている。 高祖の後を継いだ唐の太宗は、六二八年に中国の統一を回復すると、東トルコに対する 臣属関係を破棄し、六三〇年、東トルコを滅ばして最後のカガンを捕らえた。これが第一 次トルコ帝国の滅亡である。続いて唐の高宗の軍は、六五七年、カザフスタンのチュー河 のほとりで西トルコのカガンを撃破し、逃走したカガンは翌年、タシュケント人によって 唐に引き渡された。こうして遊牧帝国のカガンと鮮卑の中国皇帝との間の綱引きは、鮮卑 の勝利に終わった。
そういうわけで、トルコ帝国の発展は、西方ではアヴァル人の移動を引き起こして、地 中海世界と西ョ 1 ロッパ世界に大きな影響を残したが、東方でも中国世界との関係で、や はり大きな影響を与えている。 せんび トルコ帝国の建国は、その時期がちょうど、華北で東西二つの鮮卑政権が対立、抗争し うぶんかく ていた最中だった。ムカン・カガンは最初、西魏と同盟し、宇文覚が西魏を乗っ取って北 周朝を建ててからも、北周と同盟を続け、北周の第三代の武帝はムカン・カガンの娘を皇 で ま 后に迎えている。北周と北斉の戦争では、トルコ軍は常に北周と協同作戦を行った。トル イ コに対して弱い立場の北周としては、同盟関係を維持するために、年々十万段の絹・錦を ら トルコに贈って歓心を買うしかしかたがなかった。北斉もまた対抗上、トルコを買収する ルために全力を挙げた。トルコの第四代のタスパル・カガンは、「私の南方に居る二人の息 一子さえ親孝行ならば、物資が無くなる心配があろうか」と言「て自慢したという。「二人 長の息子」とは、北周と北斉の皇帝のことである。 よう せんきんこうしゅ の トルコのイシュバラ・カガンは、北周の皇女千金公主と結婚した。そのあとで北周は楊 国 帝堅に乗っ取られ、楊堅は隋朝を建てた。千金公主はこれを恨んで、イシュバラ・カガンに 遊勧めて隋と開戦させた。ところがこの時、トルコ帝国の東西分裂が起こった。 りよ - っル トルコ人は、東は満洲の遼河から、西はヴォルガ河に至る広大な領域を支配した。これ ほど大きな遊牧帝国は、それまでに例がなかった。ただし領域があまりに広大だったこと けん
168 とつけっ 「突厥」と呼ぶので、それが名前になったという。しかし漢語の「突厥」、日本語の「トル コ , のトルコ語での原形は「テュルク」であって、兜をトルコ語でいう「トルガ」、モン ゴル語でいう「ドウールガ、とは形が違う。この語源解釈は、中国人の語呂合わせに過ぎ ないが、それでもこれによって、トルコ人の故郷がアルタイ山脈と天山山脈にはさまれた、 ジュンガル盆地であったことがわかる。 トルコの阿史那氏族長プミンは、五五一年、宇文泰と同盟して、西魏の皇女と結婚し、 翌年、柔然を破ってそのカガンを自殺させた。ここにおいてプミンは自らカガンの称号を 採用し、第一次トルコ帝国を建国した。トルコの第三代のムカン・カガンは五五五年、柔 然を滅ばし、本拠をモンゴル高原に移した。プミン・カガンの弟シルジプロス ( またディ ザプロスともいう ) は、中央ューラシア草原の道を西方に向かい、中央アジアを制圧して、 ヴォルガ河にまで及んだ。このトルコ人の西方移動によってカザフスタン草原を離れて、 地中海世界に入って来たのが、先に四六三年ごろ、柔然によってモンゴル高原を追い出さ れていたアヴァル ( 烏丸 ) 人である。 うぶんかく アヴァル人がついに地中海世界に姿を現したのは、華北で宇文覚が西魏の皇帝を廃位し て、自ら皇帝となり、北周朝を建てたのと同じ五五七年の冬のことであった。この時、ア ヴァル人は、東方のカザフスタン草原からヴォルガ河を渡って、北コーカサスのアラン人 の地に入り、東ローマ皇帝ュスティニアヌスに使者を遣わしたのである。皇帝はアヴァル
ルと同盟する道を選んだ。七三二年、ハザル・カガンの娘チチェク姫は、東ローマ皇帝レ オン三世の息子コンスタンティノス ( 後に皇帝コンスタンティノス五世 ) と結婚して、一子 レオンを産んだが、このレオンも後に皇帝 ( レオン四世 ) となっている。東ロ 1 マ皇帝が 「バルバロイ」の女を皇后にするのは、きわめて異例のことで、もって当時ハザルとの同 盟が、東ローマにとっていかに大切であったかがわかる。 八世紀の末か九世紀の初めに、ハザルのプラン・カガンはユダヤ教に改宗した。ハザル で ま 帝国の支配階級もこれにならい、一般人にも改宗した者が多かった。シナゴーグ ( ユダヤ イ しようへい キ教の会堂 ) が建立され、ユダヤ人の著名な学者が招聘された。カガンの位を継ぐ者は、ユ ら ダヤ教徒に限ることとなった。それでもハザル人は、ユダヤ教の伝統に従って他の宗教に コ 寛容であった。ハザル帝国の七人の裁判官のうち、二人は「トーラー」 ( モーセの五書 ) の 一律法に従って ( ザル人の事件を裁き、二人はイスラム教徒の事件を裁き、二人はキリスト 長教徒の事件を裁き、一人は異教徒の事件を裁いた。国政の実務を担当したのは、ホラズム の出身のイラン人イスラム教徒から成るカガンの親衛隊であった。ハザル帝国は、中央ュー 帝ラシアの東西を結ぶ草原の道と、南北を結ぶヴォルガ河・カスピ海の水の道の交差点を占 遊めていたので、地中海世界・イスラム世界との貿易によって大いに繁栄した。 現在、ロシアとウクライナには、非常に多数のユダヤ人が住んでいて、南ドイツ語の方 言 ( イディッシュ語 ) を話し、ヘブル語で「アシュケナジム , ( スキュタイ人 ) と呼ばれて
114 トルコ帝国である。当時の華北では、鮮卑が東魏と西魏、北斉と北周に分裂して抗争して おり、各陣営は先を争ってトルコ帝国との同盟を求めた。その後、五八三年になって、ト ルコ帝国は東西に分裂し、モンゴル高原の東トルコ帝国は、隋と同盟する。隋の煬帝の末 りえん さんせいたいげん 年、中国が内戦状態に陥ると、山西の太原の司令官李淵 ( 唐の高祖 ) も兵を挙げたが、そ の際、李淵は東トルコ帝国のカガン ( 君主 ) に使者を送って、臣従の誓いを立てた。李淵 りせいみん の息子の唐の太宗 ( 李世民 ) が、中国統一の二年後、六三〇年に至って、東トルコ帝国を 滅ばすのである。 この時、草原の遊牧部族の首領たちは、太宗を自分たちの共通の君主に選挙して、「天 かがん 可汗。 ( テングリ・カガン ) の称号を贈った。これから太宗は、西北地方に送る手紙には、 「天可汗ーと署名することにした。これは中国の「皇帝」と中央ューラシアの遊牧帝国の 「カガン」を一身に兼ねる君主が始めて出現したという、画期的な事件で、言い換えれば、 歴史の舞台がこれまで中国だけであったのが、ここで初めて中央ューラシアをも含むよう になったのである。しかしこの重大な変化を「正史」の枠組みで取り扱うことは、中国の 史官の手に余ることであった。 正史の欠陥 ところで唐の時代には、歴史の材料になる記録の編纂の手続きが完備した。一人の皇帝 てん
東トルコを滅ばした後、唐の高宗は、遊牧民の君主たちによって彼らの「テングリ・カ ガン」 ( 天可汗 ) に選挙された。それ以後、高宗が中央ューラシアの君主たちに手紙を送 るときには、テングリ・カガンの称号を用いることになった。このことは、唐の天子が、 中国世界に対しては中国皇帝、中央ュ 1 ラシア世界に対しては遊牧帝国のカガンという、 二つの地位を一身に兼ねることになったことを意味する。こうして二つの世界は、共通の 最高君主を持っことになった。これは画期的な事態であったが、この状態は半世紀しか続 で イかなかった。 タ キ ら トルコ文字 コ 六八二年、内モンゴルのトルコ人のクトルグが、唐から独立して、エルテリシュ・カガ ンと自称し、モンゴル高原に第二次トルコ帝国を建てた。この遊牧帝国はこれから六十三 長年間存続する。この帝国では、中央ューラシアの歴史にとって、大きな意義を持つ事件が の起こった。それは遊牧民が、初めて自分たちの言葉を書き表す文字を持ったことである。 帝 これより先、第一次トルコ帝国では、共通語としてソグド語が使われていたらしく、ソ 牧 つづ 遊グド文字で綴った碑文が残っている。ソグドというのは、現在のウズベク共和国のサマル カンドを中心とする地方のことで、この地方の昔の住民はイラン語を話していた。ソグド 人は古くからモンゴル高原や中国に商売に来ており、彼らが使った文字がソグド文字であ
人と同盟して、年々の定額の支払いと引き換えに、帝国の辺境を脅かす遊牧民を討伐させ た。五六二年になると、アヴァルのバヤン・カガンがドナウ河の下流に姿を現し、この地 方のスラヴ人を従え、ドナウ河中流のゲピダ工人を破り、ドナウ河上流のランゴバルド人 がイタリアに移動したあとを併合して、その領域は、東はドン河から、西はエルべ河とア ドリア海に及んだ。 六一一六年、バヤンの息子のカガンは、アヴァル人、スラヴ人、ゲピダ工人、プルガル人 で イから成る大軍を動員し、ササン朝ベルシア帝国と連合して、東ローマの首都ビザンテイウ キムを攻めた。しかしこの作戦は失敗して、アヴァル人の勢力は衰え始め、最後は七九六年 ら に、フランクのカ 1 ル大帝の命を受けたピピンがアヴァル人を粉砕した。しかしアヴァル コ 人はドナウ河中流の東の草原に生き残り、九世紀の末にハンガリ 1 人が移動して来た時に も、まだこの地方に住んでいた。 長 成 の スラヴ人の出現 国 帝アヴァル人のあとについて広がったのが、スラヴ人という種族である。スラヴ人はもと 遊 もと、ウクライナのドニエストル河の上流域に住んでいた種族だった。フン人が五世紀の 半ばに消滅したあと、スラヴ人は四方に広がり始め、一部は南下してドナウ河下流域に住 み着いた。そこへアヴァル人が移動して来て、スラヴ人を征服したのである。スラヴ人は、
した六三〇年頃までにチベット高原を統一し、六四〇年には自分の息子の嫁に唐の皇女文 せい , 、うしゅ 成公主を迎えて、唐と肩を並べる帝国となった。 後世のチベットの伝説によると、ソンツェンガンポ王は、トンミ・サンポ 1 タという人 をインドに派遣して文字を学ばせ、サンポ 1 タがインド文字を改良してチベット文字を創 ったことになっている。実際、六三五年から後、毎年の記録が残っており、この王の治世 でからチベット語がチベット文字で書かれるようになったことは確かである。 どもえ ま チベット帝国は、唐帝国、第二次トルコ帝国と三つ巴となって中央アジアの争奪戦を繰 イ キり返したが、七四四年、モンゴル高原でウイグル人のクトルグ・ポイラが独立してカガン ら となり、翌年トルコの最後のカガンを殺した。ウイグル帝国の建国である。 コ このころすでに中央アジアには、七一〇年代からイスラム教徒のアラブ人が進出して来 一ていた。七五一年、現在のキルギズ共和国のタラス河のほとりで、アッパース朝アラブ帝 長国の将軍アプー・ムスリムの軍が、高句麗人の将軍高仙芝の率いる唐軍を破った。続いて の七五五年、中国で安史の乱が起こったので、唐は中央アジアをめぐる国際競争から脱落し 帝なければならなかった。 遊 ウイグル人の祖先 ウイグル帝国を建てたウイグル人は、公用語としてはトルコ語を採用した。しかしウィ あんし ぶん
208 モンゴル人の出現 モンゴルという部族は、もともと現在のシベリアと内モンゴル東部の境を流れるアルグ ン河のほとりの遊牧民で、その名前は七世紀に初めて記録に現れる。モンゴルが再び現れ るのは一〇八四年のことで、この年に「遠方のモンゴル国 , の使者がキタイ皇帝の宮廷を 訪問している。後世のチンギス・ 1 ン家の伝承によると、チンギス・ ーンの六代前の 祖先はハイドウといった。隣りのジャライル部族に襲われて馬群を奪われ、一族が皆殺し まき になった時、幼いハイドウは一人だけ薪を積んだ中に隠れて助かった。バルグの民の家に 入り婿に行っていた叔父のナチンが帰って来て、ハイドウを連れてバルグの地に移った。 ハイドウがやや成人すると、ナチンはバルグジン渓谷の民を率いて、ハイドウを君主に選 挙した。ハイドウは、兵を率いてジャライル部族を攻めてこれを臣下とした。勢力はだん ばくえい だん大きくなって、バルグジン河のほとりに幕営を張り、河に橋を架けて往来に便利にし た。これから、四方の部族から集まって来る者がだんだん多くなった。ハイドウの曾孫が ーンの 1 ンで、モンゴル部族の最初のハ 1 ン ( カガン ) となった。ハプル・ハ ーンである。 孫がイエスゲイで、イエスゲイの息子がテムジン・チンギス・ この話のバルグジンは、バイカル湖に東側から流れ込む河の名前で、その渓谷は大きな ーンであった。
192 持っていたが、まだ十分には解読されていない。タングト人は仏教徒であった。 ハザル帝国 さて、東方で遊牧帝国と中国の対立が、次第に遊牧帝国の優位に傾きつつあった七—十 一世紀のころ、西方では黒海の北に、強大なハザル帝国が存在していた。 ハザルというのは、単一の種族ではなくて、西トルコ人の支配の下で統合された、多く の遊牧部族の連合体の名前であったらしい。彼らの共通語はトルコ語であった。西トルコ の支配がゆるみ始めた六三〇年頃、つまり東方で第一次トルコ帝国が唐に滅ばされるのと 同時に、ハザル人が北コーカサスに姿を現して、プルガル人と抗争を始めた。間もなく、 西トルキスタンを征服したアラブ人が北コ 1 カサスにも侵入して、ハザルの都市バランジ ャルを襲い、これから約百年もアラブ・ハザル戦争が続いた。七三七年には、アラブ軍が ヴォルガ河下流のハザルの本拠地にまで攻め込んで、ハザル・カガンにイスラム改宗を誓 わせたが、それも一時のことで、結局は、現在のダゲスタン共和国のデルべント峠で、ア ラブの北方進出は食い止められた。 ハザル帝国の支配圏は、ヴォルガ河下流と北コーカサスを中心として、東方ではウラル 河、西方ではドニエプル河まで広がり、東ローマ帝国とクリミアの領有をめぐって争った。 それでも東ローマは、アラブ帝国に対する防衛と、北方国境の安全の確保のために、ハザ