キプチャク人といっしょになって、七世紀に、アスパルフという名前のハーンに率いられ てバルカン半島に入って、そこの南スラヴ語を話す住民を征服した。九世紀にはポリス・ ハーンが出て第一次プルガリア帝国を建設し、キリスト教を受け入れた。 第一次プルガリア帝国が採用したキリスト教は、東方教会のキリスト教だったが、教会 の公用語には、ギリシア語ではなく、スラヴ語を使うことにした。もちろん、東ローマ帝 国から干渉されるのを防ぐためである。 これより先、九世紀の初めに、現在のチェコに、モラヴィアという、スラヴ人が建てた 国としては最初の国が出来た。このモラヴィア国に、メトディオスとコンスタンティノス という、スラヴ語のうまいギリシア人の兄弟が行って、スラヴ人にスラヴ語でキリスト教 の布教を始め、スラヴ文字 ( グラゴル文字 ) を作って福音書などをスラヴ語に翻訳した。 スラヴ語は、ここで初めて文字に書ける言語になったのである。メトディオスが死んだ後、 彼の弟子たちはモラヴィアから追放されたが、プルガリアに亡命した弟子たちは、あらた めてキリル文字を作って、スラヴ語で布教を続けた。これが東方教会のスラヴ語の由来で、 十世紀の末にルーシ人が受け入れたキリスト教も、このスラヴ語の東方教会で、これがの ちにロシア正教になるのである。 第一次プルガリア帝国は、十一世紀の初めに東ロ 1 マに滅ばされたが、十二世紀の末に なって、プルガル人のペタルとアセンの兄弟が東ローマから独立を宣言し、トウルノヴォ
人と同盟して、年々の定額の支払いと引き換えに、帝国の辺境を脅かす遊牧民を討伐させ た。五六二年になると、アヴァルのバヤン・カガンがドナウ河の下流に姿を現し、この地 方のスラヴ人を従え、ドナウ河中流のゲピダ工人を破り、ドナウ河上流のランゴバルド人 がイタリアに移動したあとを併合して、その領域は、東はドン河から、西はエルべ河とア ドリア海に及んだ。 六一一六年、バヤンの息子のカガンは、アヴァル人、スラヴ人、ゲピダ工人、プルガル人 で イから成る大軍を動員し、ササン朝ベルシア帝国と連合して、東ローマの首都ビザンテイウ キムを攻めた。しかしこの作戦は失敗して、アヴァル人の勢力は衰え始め、最後は七九六年 ら に、フランクのカ 1 ル大帝の命を受けたピピンがアヴァル人を粉砕した。しかしアヴァル コ 人はドナウ河中流の東の草原に生き残り、九世紀の末にハンガリ 1 人が移動して来た時に も、まだこの地方に住んでいた。 長 成 の スラヴ人の出現 国 帝アヴァル人のあとについて広がったのが、スラヴ人という種族である。スラヴ人はもと 遊 もと、ウクライナのドニエストル河の上流域に住んでいた種族だった。フン人が五世紀の 半ばに消滅したあと、スラヴ人は四方に広がり始め、一部は南下してドナウ河下流域に住 み着いた。そこへアヴァル人が移動して来て、スラヴ人を征服したのである。スラヴ人は、
172 アヴァル人のビザンテイウム攻撃作戦に従って、ドナウ河を渡ってバルカン半島を南下し、 一部は丸木舟に乗ってエ 1 ゲ海を渡り、クレータ島にまで侵入した。その猛烈な勢いのた めに、七世紀の半ばまでには、ギリシア本土はほとんどすべてスラヴ人の住地になり、ギ リシア語が話されるのはビザンテイウムの周辺だけになってしまった。 またスラヴ人は、東北では、バルト人 ( ラトヴィア人とリトアニア人の祖先 ) の住地を奪 、六世紀にはヴォルガ河の上流のフィン人の住地にまで侵入した。これが東スラヴ人で、 後のロシア人の先祖になる。西方では、スラヴ人は、やはりアヴァル人の征服のあとにつ いて、ゲルマン人が移動して居なくなったあとの中部ョ 1 ロッパに進出して、エルべ河に 達し、一部はさらにエルべ河を渡って、ライブツイヒというスラヴ語の地名を残している。 アヴァル人、スラヴ人とともにビザンテイウムを攻めたプルガル人は、ヒ 」コーカサスの 草原の遊牧民である。その一派は六七九年、アスパルフ・カガンに率いられて、アヴァル 人が衰えたあとのドナウ河下流域を占領し、先住民のスラヴ人を征服した。これがプルガ リアの建国である。現在のプルガリア語はスラヴ語だが、これはプルガル人が先住民の言 葉を話すようになったからである。プルガル人の別の一派は、ヒ 」コ 1 カサスからヴォルガ 河を遡って行って、その中流域に国を建てた。このプルガル人はトルコ語を使っていた。 ヴォルガ河は、もともとトルコ語でエティル河といった。今のヴォルガという名前はロシ ア語で、ここにプルガル人の国があったことからついたものである。
に町々を分け与えた。 リュ 1 リクの二人の家臣、アスコルドとディルは、自分の一族を伴ってビザンテイウム へ行く許しを得た。彼らはドニエプル河を下り、キエフの町にとどまって、ポリャネ ( 平 こうぜい 原の東スラヴ人 ) を統治した。それまでキエフはハザルに貢税を支払っていたのである。 二人は八六六年、東ローマ帝国に兵を進め、二百隻の船を連ねてビザンテイウムを包囲し でたが、嵐のために失敗した。リュ 1 リク公が死んで、一族のオレ 1 グが公位を継いだ。ノ 八一年、オレーグ公は多くの軍勢を引き連れてキエフに到着し、アスコルドとディルを殺 キしてキエフの公となった。 ら 以上の『原初年代記』の話は、年代の点で不正確である。ルーシがビザンテイウムを攻 コ 撃したのは八六〇年のことで、リュ 1 リク兄弟が東スラヴの地に渡って来たという八六二 一年よりも前になる。それはそれとして、東スラヴ人の上に初めて王権を打ち立てたのが、 長東スラヴ人自身ではなく、海の彼方のスカンディナヴィアから渡って来たゲルマン系のノ のルマン人であったことは、明らかに語られている。こうした外来のノルマン人征服者がル 帝 ーシ ( ロシアの語源 ) と呼ばれ、ル 1 シが征服した国土がロシア、ル 1 シに仼服された 牧 遊人々がロシア人になったのである。この事実は、いわゆるロシア民族のアイデンティティ が、その形成の当初から、よそからの借り物であったことを示している。 ル 1 シはヴォルガ河を下って、ハザル帝国に対する攻撃を繰り返し、ついに九六五年、
は、クリミア半島の先のギリシア人の町ケルソネーソス ( 今のセヴァストボリの近く ) で、 キリスト教の洗礼を受けた。 このキリスト教は、ビザンテイウムに大本山のある東方教会だったから、ルーシ人が受 け入れたキリスト教も、聖書から礼拝の用語まで、次ん煢・男ゾ・刀圄新るはずだった。 ところが、ちょうどそのころ、プルガリアでキリル文字が出来て、これでスラヴ語が書け るようになたの ーシ人もスラ一口をつてキリスト教を信仰するようになった。 る まおよそ文字のある言語と文字のない言語との競争では、文字のある言語の方が圧倒的に有 利である。そのためルーシ人たちも、もともと自分たちが話していた言葉の代わりに、自 分たち、ゝ正服したスラヴ人の言葉を話すようになっていった。 史 界 二〇六年の当、ル 1 シ人の政治の中心は、ウラディ 1 ミリ ( モスクワの東方 ) の町 世 一にあり、リューリクの子孫のフセヴォロド大公がここを治めていた。フセヴォロドの兄の 天アンドレイ大公が、キエフからこの町に移ったのである。この当時、モスクワはただの小 年さな砦で、まだ町と呼べるような立派なものではなかった。 〇 リトアニア人 ル 1 シ人の国の西方では、今のラトヴィア、リトアニアから、ポーランドの北部にかけ て、バルト人たちが住んでいた。バルト人は、スラヴ語ともゲルマン語とも違う、独特の
ノルマン人 4 0 ドレスデン バルト人 スラヴ人 プルガル人 ド 河ペチェネグ人 ハザル人 ノレ ス レ可 アヴァル人 ノレ プルガル人 マジャ丿レ . 人 ビサンテイウム カスピ海 アルメニア
ルーシの公たち キプチャク人の遊牧するウクライナ草原の北の端には、ル 1 シ人の町のキエフがあった。 ルーシ人は、もともと九世紀にスカンディナヴィアからバルト海を渡って来て、東スラヴ 人とフィン人の土地に国を建てた人々であった。ル 1 シ人は、イリメニ湖の北岸にノヴゴ ロドという町を建てたが、彼らの初代の指導者は、リューリクという名の人であったと伝 えられる。ル 1 シ人は、ほかにも町をいくつも建てて、それぞれの町をリューリクの子孫 が治めたが、こうした諸侯は「クニヤ 1 ジ」と呼ばれた。「クニヤ 1 ジーを日本語では普 通「公」と訳すが、これは英語の「キング , ( 王 ) やドイツ語の「ケーニヒ」 ( 王 ) と同じ 言葉で、ゲルマン齬、のー . 「族長、のことである。 ルーシの名前 , 「ロシア」源である。今でこそ「ロシア人」というのは、東スラヴ 語を話す人々のことになってしまったが、本来はそうではなかった。ルーシ人はスカンデ イナヴィアから移住した、いわゆるノルマン人のことであった。今でもフィンランド語で は、スウェ 1 デンのことを「ルオッィーという。 北方のノヴゴロドから、ドニエプル河を南に下って来て、森林地帯を抜けて草原に出た ところがキエフの町である。ル 1 シ人たちはキエフを根城にして、バルト海と黒海を結ぶ 水路を押さえて、東ロ 1 マ帝国のギリシア人たちと貿易を営んでいた。主として東ローマ 帝国とのそうした貿易と外交の必要から、九八八年、ルーシのキエフ大公ウラディーミル
196 ル 1 シのキエフ公スヴャトスラフは、ハザルの中心都市サルケルを攻略した。ハザル帝国 はこの打撃によって崩壊したが、ハザル人はすぐには消滅せず、十一世紀の末まで北コー カサスに生き残っていた。 ハザル帝国が倒れたあと、スヴャトスラフの息子のウラディ 1 ミル公 ( 一世 ) は東ロー マと手を結び、九八八年、皇帝バシレイオス二世の妹アンナと結婚して洗礼を受け、キリ スト教に改宗した。『原初年代記』の物語によると、ウラディ 1 ミル公のもとにイスラム 教徒のプルガル人が来て、イスラムを信仰するよう勧めたが、公は、イスラム教徒は割礼 を受け、豚肉を食べず、酒を飲んではならないというのが気に入らず、改宗を拒んだ。ド ィッ人が来て、ロ 1 マ教皇に帰依して精進するよう勧めたが、公はこれをも拒んだ。ハザ ルからユダヤ人が来て、ユダヤ教に改宗するよう勧めたが、公は、ユダヤ人の国が神の怒 りによって亡び、ユダヤ人が四散したと聞いて、やはり改宗を拒んだ。最後に東ローマか ら学者が来て、洗礼によって復活が保証されると説いたので、公は洗礼を受ける決心をし、 ル 1 シの神々の像を破壊した、という。もちろんこれはキリスト教の坊さんが作った有り がた 難話で、史実ではないが、このウラディ 1 ミル公の改宗が、のちのロシア正教会の起源に なるのである。 ルーシが受け入れたキリスト教は、東ローマのギリシア正教であったが、教会の公用語 はギリシア語でなく、スラヴ語を採用した。そのため、ロシア正教の修道院でスラヴ語に
アヴァル人の出現 ( 当 / トルコ人の出現 ( / スラヴ人の出現 ( / トルコ文字 ( / チベット文字 ( ) / ウイグル人の祖先 ( / 中 国のトルコ人 ( / キタイ帝国 ( / キリスト教のモンゴル高原へ の伝播 ( 当 / タングト人 ) / ハザル帝国 ( / ルーシの出現 ( 当 / キプチャク人 ) 第 6 章モンゴル帝国は世界を創る 『資治通鑑』の中華思想 ( 皿 ) / 金帝国 ( / 資本主義の萌芽 ( / モ ンゴル人の出現 ) / モンゴルの発展 ( 巴 / イスラム世界のトルコ 人 ( 当 / ョ 1 ロッパ征服気 ) / 西アジアの征服気 ) / 中国の征服 ( / モンゴル帝国の構造 ( / モンゴル帝国が創った諸国民 ( / モ ンゴルの継承国家ーー中国 ( / モンゴルと儒教 ( / 清朝はモン ゴル帝国を復興する気 ) / モンゴルの継承国家ーーロシア ( / オ スマン帝国ーー民族主義 ( / モンゴルと資本主義経済 ( 叩 ) / 大陸
第 1 章一一一〇六年の天命ーー世界史ここに始まる ルーシとキリスト教の東方教会については、次を見よ。 森安達也編「スラヴ民族と東欧ロシア』 ( 民族の世界史一〇、山川出版社、一九八六年 ) チンギス ・ハーンが受けた天命については、次を見よ。 海老沢哲雄「モンゴル帝国対外文書管見」 ( 『東方学』七四、一九八七年七月 ) 歴史が普遍でなく、特定の文明を構成する文化要素であり、その文明の地域に限られることにつ いては、次を見よ。 岡田英弘・樺山紘一・川田順造・山内昌之編『歴史のある文明歴史のない文明』 ( 筑摩書房、 一九九二年 ) 艤時間と空間の起源についてのスティーヴン・ホーキングの考えは、次の二つを見よ。 献林一訳「ホーキング、宇宙を語る』 ( 早川書房、一九八九年 ) 文 考 佐藤勝彦監訳「ホーキングの最新宇宙論』 ( 日本放送出版協会、一九九〇年 ) 参 アフリカの無文字社会の歴史文化については、次を見よ。 川田順造『無文字社会の歴史』 ( 岩波書店、一九七六年。同時代ライプラリ 参考文献の解説 ー一六、一九九〇