ユダヤ人 - みる会図書館


検索対象: 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統
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1. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

っことが出来たのは、ヨシャ王の一神教改革のおかげで、ヤハヴェを信仰する者がユダ王 国の民 ( ユダヤ人 ) であるという、はっきりとしたアイデンティティ、それも政治とは関 係のない、純粋に宗教的なアイデンティティを持っていたからである。ユダヤ人のアイデ ンティティは、このバビロニア捕囚の時代に始まったものである。 ハレスティナのユダヤ人は、ベルシア帝国の支配下に暮らしていたが、マケドニアのア ・レ ' 名サ ) イド・ロ、ス・大王・が、べ・ル・ンズ - 風をし・た復 1 マケドニア人たちに支配される。前一六 七年に至って、ユダヤ人は反乱を起こし、前一四〇年、ハスモン家のユダヤ王国が独立を 達成した。ユダ王国の滅亡から四百四十六年が経っていた。このユダヤ王国は前六三年に なって、ロ 1 マの勢力下に入って属国となった。 紀元四四年、アグリッパ王の死とともに、ユダヤ王国は最終的に廃止され、ユダヤはロ ーマの属州になった。しかしローマ帝国の国教である皇帝崇拝と、ユダヤ人の過激な一神 教の信仰とは両立しなかった。ユダヤ人が何度も反乱を起こした後、紀元七〇年、ローマ 軍はイエルサレムを占領して、ヤハヴェの神殿を破壊した。 前五八六年のユダ王国の滅亡と、それとともに始まったバビロニア捕囚の時代から数え て六百年の長い間の不運の連続のために、ローマ時代のパレスティナのユダヤ人は、欲求 こう 不満が昂じて、ヤハヴェ神の命を受けた民族解放の王者 ( メシャ、キリスト ) の出現を熱 望するようになっていた。そこに、ユダヤ人イエスが現れて、彼を取り巻く小さな教団が

2. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

間が停止してしまえば、忠実な信徒が報いられて楽しむことも、不信者が罰せられて苦し むこともなくなるので、その矛盾を解消するために、世界の終末の直前に千年の期間を特 別に設けたわけであろう。 この「ヨハネの黙示録 , が書かれた紀元一世紀末の時代には、キリスト教はまだユダヤ 教の一派だったのだから、この文献に、イエルサレムのヤハヴェ神殿を破壊したローマを 呪い、ローマに屈服したユダヤ人仲間を断罪する語調が激しいのは当然である。そういう わけだから、「ヨハネの黙示録 . は、ユダヤ人の運命についてだけの預言であって、人類 一般は関心の対象外であった。 一三二年にも、またもやユダヤ人の反乱が起こった。ローマは、三年かかってこの反乱 を鎮圧した後、ユダヤ人のイエルサレム立ち入りを禁止した。ユダヤ人の大多数はパレス ティナを離れ、帝国の各地に移住した。これとともに、ユダヤ人の宗教であったキリスト 教が、ユダヤ人以外のロ 1 マ帝国の人々にも広まり、国家によるキリスト教徒の迫害も始 じゅんきよう まった。殉教者の事蹟のうち、伝説ではなくて事実であることが確かなものは、みな二 世紀の後半から後である。 ついでに言うと、俗説では、六四年のロ 1 マ市の大火の後、皇帝ネ口が、キリスト教徒 の放火であるとして、最初の迫害を行ったことになっているが、これは嘘で、ネロのキリ スト教徒迫害という事実はなかった。当時のロ 1 マ市内には、まだキリスト教徒はほとん

3. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

生まれ、イエスが待望のメシャであると見なされた。イエス自身は紀元三〇年頃、ローマ 人によって処刑されたが、イエスの弟子のユダヤ人ベトロス ( ペテロ ) が、律法を完全に て厳密な意味ではユダヤ人と認められなかった人々に対しても、イエスが メ、、 オしう日 こカキリスト教の起源になったこの段階では、 キリスト教は、ユダヤ教の一派、それも異端の一派だったのである。 当時のロ 1 マ帝 も広い範囲に通用した言語は、ギリシア語であった。一方『旧 約聖書』は、すで , 則三世紀初めに、エジプトのアク、ドリアリ、、アに翻訳 化 しオたから、後にキリスト教が、 文されて、ヘレ ノ一口、刀一カし 歴もともとユダヤ人でない人々にも広まると、『旧約聖書』の内容も、地中海世界のギリシ 明 ア語を話す人々に、広く知られるようになるのである。 文 しかし何と言っても、ユダヤ人だけの神ャハヴ = の聖典である『旧約聖書』は、内容の 地幅が狭すぎて、どうこじつけて解釈して見ても、地中海世界をおおうローマ帝国の多種多 史様な人々の政治的な経験を、うまく説明するには役に立たなかった。イ、エズの伝ど - 剃子 歴 、聖書』冫 決 対 ・ユダヤ人の待望し・たメジャ、 0 ・み、プ・切い〕プ主ロ卿叫い 0 可現実の歴史には関係がな く、この点では『旧約聖書』にも及ばない。ただ一つの例外として、地中海世界の歴史観 に影響を与えたキリスト教文献は、『新約聖書』の中の「ヨハネの黙示録ーである。

4. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

ルと同盟する道を選んだ。七三二年、ハザル・カガンの娘チチェク姫は、東ローマ皇帝レ オン三世の息子コンスタンティノス ( 後に皇帝コンスタンティノス五世 ) と結婚して、一子 レオンを産んだが、このレオンも後に皇帝 ( レオン四世 ) となっている。東ロ 1 マ皇帝が 「バルバロイ」の女を皇后にするのは、きわめて異例のことで、もって当時ハザルとの同 盟が、東ローマにとっていかに大切であったかがわかる。 八世紀の末か九世紀の初めに、ハザルのプラン・カガンはユダヤ教に改宗した。ハザル で ま 帝国の支配階級もこれにならい、一般人にも改宗した者が多かった。シナゴーグ ( ユダヤ イ しようへい キ教の会堂 ) が建立され、ユダヤ人の著名な学者が招聘された。カガンの位を継ぐ者は、ユ ら ダヤ教徒に限ることとなった。それでもハザル人は、ユダヤ教の伝統に従って他の宗教に コ 寛容であった。ハザル帝国の七人の裁判官のうち、二人は「トーラー」 ( モーセの五書 ) の 一律法に従って ( ザル人の事件を裁き、二人はイスラム教徒の事件を裁き、二人はキリスト 長教徒の事件を裁き、一人は異教徒の事件を裁いた。国政の実務を担当したのは、ホラズム の出身のイラン人イスラム教徒から成るカガンの親衛隊であった。ハザル帝国は、中央ュー 帝ラシアの東西を結ぶ草原の道と、南北を結ぶヴォルガ河・カスピ海の水の道の交差点を占 遊めていたので、地中海世界・イスラム世界との貿易によって大いに繁栄した。 現在、ロシアとウクライナには、非常に多数のユダヤ人が住んでいて、南ドイツ語の方 言 ( イディッシュ語 ) を話し、ヘブル語で「アシュケナジム , ( スキュタイ人 ) と呼ばれて

5. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

256 が明言している通り、エジプトにあった。これはギリシア人にとってだけでなく、ユダヤ しゆっ 人にとってもそうであった。「旧約聖書』の「出エジプト記」に、ユダヤ教の教祖モ 1 セ がナイル河でファラオの王女に拾われた話、モーセが同族を率いてエジプトを脱出した話 があって、ユダヤ人の文化のエジプト起源を示している。これとは別に、『旧約聖書』に ほしゅう はユダヤ人が「バビロニア捕囚ー当時に取り入れたメソボタミア起源の一群の話があって、 そうせいき 「創世記」のエデンの園や、ノアの洪水や、バベルの塔や、始祖アプラハムが「カルデャ のウルーの出身であるという話などがそれである。この印象が強いために、後世のキリス ト教徒は、文明の発祥地をメソボタミアに求めたがるのである。 それはそれとして、日本の西洋史概説が、ギリシアから始まって、フランス、ドイツ、 英国という、明治維新当時の世界の三大強国に終わる歴史の流れを主軸にして叙述するの は、『史記』以来の中国史の「正統」の観念を当てはめて、ヨーロッパ史を理解しやすく しようとしたものである。その証拠に、五世紀の西口ーマ帝国の滅亡までを「古代」、そ れから十五世紀の東ロ 1 マ帝国の滅亡までを「中世」、それから後を「近代」とする時代 区分法が、ほとんど疑問を挟まずに受け入れられている。この区分は、どう見てもローマ だんだいし 「皇帝 , を基準にした時代区分であり、中国史の歴代王朝を基準とした「断代史ーの枠組 みに従ったものである。しかしロ 1 マの「アウグストウス」は皇帝ではない。その本質は げんろういん 「元老院の筆頭議員ーであるから、まず元老院があって、そこではじめて「アウグストウ

6. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

196 ル 1 シのキエフ公スヴャトスラフは、ハザルの中心都市サルケルを攻略した。ハザル帝国 はこの打撃によって崩壊したが、ハザル人はすぐには消滅せず、十一世紀の末まで北コー カサスに生き残っていた。 ハザル帝国が倒れたあと、スヴャトスラフの息子のウラディ 1 ミル公 ( 一世 ) は東ロー マと手を結び、九八八年、皇帝バシレイオス二世の妹アンナと結婚して洗礼を受け、キリ スト教に改宗した。『原初年代記』の物語によると、ウラディ 1 ミル公のもとにイスラム 教徒のプルガル人が来て、イスラムを信仰するよう勧めたが、公は、イスラム教徒は割礼 を受け、豚肉を食べず、酒を飲んではならないというのが気に入らず、改宗を拒んだ。ド ィッ人が来て、ロ 1 マ教皇に帰依して精進するよう勧めたが、公はこれをも拒んだ。ハザ ルからユダヤ人が来て、ユダヤ教に改宗するよう勧めたが、公は、ユダヤ人の国が神の怒 りによって亡び、ユダヤ人が四散したと聞いて、やはり改宗を拒んだ。最後に東ローマか ら学者が来て、洗礼によって復活が保証されると説いたので、公は洗礼を受ける決心をし、 ル 1 シの神々の像を破壊した、という。もちろんこれはキリスト教の坊さんが作った有り がた 難話で、史実ではないが、このウラディ 1 ミル公の改宗が、のちのロシア正教会の起源に なるのである。 ルーシが受け入れたキリスト教は、東ローマのギリシア正教であったが、教会の公用語 はギリシア語でなく、スラヴ語を採用した。そのため、ロシア正教の修道院でスラヴ語に

7. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

ど居なかったのである。 いずれにせよ、キリスト教がローマ帝国の一般人の宗教になって、ついに三九一年、皇 帝テオドシウスは法律をもってキリスト教を国教とし、他の宗教を禁止する。そうなると、 もともとはユダヤ人の読者だけのために書かれた「ヨハネの黙示録 . も、全人類の運命の 預言として読まれるようになる。そうした事情で、キリスト教化した地中海世界では、歴 史はヤハヴェ神とイスラエル人 ( ユダヤ人 ) の間の契約とともに始まったが、今やメシャ の出現で契約は完了し、まもなくメシャの再来とともに時間は停止して、歴史は終わるの 対だ、という歴史観が主流になってしまう。 歴しかしこのキリスト教の歴史観は、もともとユダヤ人だけの、視界の狭い歴史観だった 月から、それまで地中海世界の主流だったへ 1 ロドトスの、歴史はヨ 1 ロッパとアジアの対 文 決だという、ロ 1 マ帝国の現実によりよく合った、規模の大きい歴史観と、完全に矛盾す こうえい 地 る。このために、キリスト教化したローマ帝国の精神的な後裔である、後世の西ヨーロッ 史パ人は、二つの矛盾した歴史観の間を、いつまでも右往左往しなければならなくなるので のある。 決 対 東西の対決 ところで、不幸なことに、ヘ 1 ロドトスの対決の歴史観と、キリスト教の歴史観とは、

8. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

ったのは、ほとんど全世界を支配する強大なベルシアに対して、統一国家ですらない弱小 のギリシア人たちが、絶望かと見えた最後の瞬間に、ゝゝ し力にして奇跡の勝利を収めたか、 ということだったのである。 ヘーロドトスの著書が、地中海文明が産み出した最初の歴史であったために、アジアと ョ 1 ロッパの対立こそが歴史の主題であり、アジアに対するヨ 1 ロッパの勝利が歴史の宿 命である、という歴史観が、不幸なことに確立してしまった。この見方が、現在に至るま で、ずっとアジアに対する地中海世界、西ヨーロッパの人々の態度を規定して来ているの である。 「旧約聖書」の歴史観 ヘーロドトスとは別に、もう一つ、地中海世界の人々の歴史観に深刻な影響を残したも のに、『旧約聖書』がある。『旧約聖書』は、言うまでもなく、ユダヤ教の文献であるが、 たまたま一世紀に、ユダヤ教からキリスト教が分離して、しかもそのキリスト教が三九一 年に、ローマ帝国の法律によって国教と定められたために、『旧約聖書』は地中海文明で は、極めて重要なテキストになってしまった。 ユダヤ教の日い書』の内容は、律法 J ・ス = ⅱ・ラⅱ「ä謝・「預言者」 ( ネビイー の書の、一つの部分 , 分かれている。律法の書とは、「モ 1 セの とも呼ばれる「創

9. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

もともとユダヤ教徒の経典である『旧約聖書』には、年代記の性質を持った部分が多く、 ャハヴェの神とイスラエル人との間の契約関係によってイスラエル人の運命を説明する、 されている。こうした歴史文化が成立したのは、前七世紀の末の、イ 特異な歴 エルサレムのユダ王国でのことであったらしい。この時代は、アッシリア帝国の末期で、 ダ王国は間もなく興の新バビロニア帝国に滅ばされてしまう。これからイスラエル人 の「バビロニア捕囚 , の苦難が始まるのである。 しかしイスラム教の歴史文化の源泉は、もっと直接には、ローマ帝国である。ロ 1 マ帝 国の地中海文明には、二つの歴史文化が存在していた。一つは前五世紀のヘーロドトスに 始まるギリシア系の歴史文化で、もう一つはキリスト教を通して口 1 マ帝国に入った、ユ ダヤ系の歴史文化である。キリスト教は、もともとユダヤ教の一派だったので、ユダヤ教 の歴史観はキリスト教にもそのまま入っている。そしてそのキリスト教は、四世紀にロー マ帝国の国教になっていた。ムハンマドの生まれるより一世紀半も前のことであった。 歴史のある文明と、歴史のない文明が対立するとき、常に歴史のある文明の方が有利で ある。一つの理由は、紛争が起これば、歴史のある文明は、「この問題には、これこれし かじかの由来があるので、その経緯から言えば、自分の方が正当である」と主張できる。 歴史のない文明には、そうした主張に反論する有効な方法がない。 もう一つの理由は、歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きてい

10. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

194 いる。この人々は、昔のハザル人ユダヤ教徒とは関係がない。アシュケナジムは、もとポ ーランドに住んでいたのが、十八世紀にポーランドがロシア帝国に併合されてから、ロシ アやウクライナに移住して来たのである。一九四八年にパレスティナにイスラエルを建国 したユダヤ人の主流は、このアシュケナジムの移民であった。 ルーシの出現 九世紀になると、北方にルーシという種族が現れて、ハザル帝国と東ローマ帝国を脅か げんしよねんだいき し始めた。十二世紀の初めに書かれたロシア語の『原初年代記』には、八六二年のことと して、次のような話が書いてある。 人々の間には正義がなく、氏族は氏族に向かって立ち、彼らの間に内紛が起こって、互 いに戦いを始めた。彼らは互いに「私たちを統治し、法によって裁くような公 ( クニャー ジ、族長 ) を、自分たちのために探し求めよう」と言い合った。彼らは海の向こうのル 1 シのもとに行った。チュディ ( フィン人 ) 、スロヴェネ ( 東スラヴ人 ) たちがルーシに「私 たちの国の全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。公となって私たちを 統治するために来て下さいーと言った。そこで三人の兄弟が自分たちの氏族とともに選び 出され、ルーシのすべてをつれて到着した。長兄リュ 1 リクはノヴゴロドに座した。次弟 シネウスと末弟トルヴォルは間もなく死んだので、リューリクが権力を取り、自分の家臣