世界史 - みる会図書館


検索対象: 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統
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1. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

な著作は、それまでのイスラム世界では、凝った文体のアラビア語で書くのが常識であっ たのに、『集史』はベルシア語の簡潔な散文で書いてある。『コーラン』の言葉であるアラ ビア語ではなく、世俗的な言葉であるべルシア語を選んだのは、これがイスラム世界の歴 史ではなく、モンゴル帝国を主流とする世界史だからである。 クンガドルジェの「フラーン・デブテル」 イル・ハ ーンの宰相が書いた『集史』よりは遅れて、同じ十四世紀に、今度は元朝の支 配圏のチベットで、やはり世界史が書かれた。その題は『フラ 1 ン・デブテル』といし あかさっし へ「紅い冊子」の意味である。著者はツェルバ・クンガドルジェという仏教の僧侶で、一三 お、つとう 界四六年にチベット語で書いている。その構成は、前半分が王たちの歴史で、インドの王統、 坊中国の王統、西夏の王統、モンゴルの王統を叙述する。王統とはいっても政治史ではなく、 史帝王と仏教との関わりに叙述の重点がある。後半分はチベット仏教の歴史で、フビライ・ 西 ーン ( 世祖 ) の信任を受けてチベットを統治したパクパのサキャパ派をはじめとする、 史それぞれの宗派について、師から弟子への教義の伝授の次第を叙述する。これは仏教の立 東場から見た世界史である。 チベットでは、七世紀の建国当時から文字の記録があったが、九世紀の半ばに帝国が分 裂して中央政府が消滅してから、記録のない暗黒時代に入り、それが約百五十年も続いた。

2. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

う。そう簡単に、世界の人類に共通な歴史、つまり世界史が可能になるはずはない。 時間の感覚と同じように、やはり歴史と密接な関係がある文化要素は、記録である。自 分の眼に世界がどう見えたかを書き留めておいて、その状韻失 - せ . 未屎の . 塒澗に いて、慟を・呼び起 rj 引羽・の新し引・しい引糯褂盟当これも高度に文化的であって、 自然に育って、自然に同化して暮らしている人間が、ちょっとやそっとで記録を残そうな はか どと考えつくはずはない。また記録を残すのには、時間を測るのに負けず劣らずの高度な 技術が要る。文字を創り出し、習い覚え、使いこなすのはもちろん文化だが、文字がない なわ きざ ところでも、木に刻み目をいれたり、縄に結び目をつけたりして、数の心覚えにするのは、 やはり記録の文化である。西アフリカのプルキナフアソのモシ族には文字がないが、王家 せしゅう の由来を語り伝えることを代々世襲の職業とする人々がいて、宮廷の儀式の場で、歴代の 王の事蹟を一言一句変えることなく朗誦する。これも記録を残そうという意志の表れであ ヒる。ただし口頭伝承だけでは歴史は成立しない。【脣ど史字の両・ 方があって、初めて歴史という文化が可能になる。 歴史のない文明ーーインド文明 歴史は文化である。そしてこの歴史という文化は、世界中のどの文明にもあるものでは ない。世界の多くの文明の中には、歴史という文化要素を持った文明と、持たない文明が

3. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

285 あとがき 本書で書きたかった主題の半分は、以上のことである。 あとの半分は、単なる西洋史と東洋史の合体ではない、本当の意味での世界史の可能性 をさぐるため、中央ューラシア世界を中心とした世界史を叙述することであった。 中央ューラシア草原の道は、すでにヘ 1 ロドトスの時代に遊牧民の移動路として知られ ていたし、『史記』の中にも、モンゴル高原最初の遊牧帝国「匈奴ーの存在が記される。 この中央ュ 1 ラシア世界の草原の民の活動が、東は中国世界、西は地中海世界そしてヨー ロッパ世界の歴史を動かす力となった。そして、十三世紀に、モンゴル帝国が草原の道に 秩序をうち立てて、ユ 1 ラシア大陸の東西の交流を活にしたので、ここに一つの世界史 が始まったのである。 十三世紀のモンゴル帝国の建国が、世界史の始まりだというのには、四つの意味がある。 第一に、モンゴル帝国は、東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配す ることによって、ユーラシア大陸に住むすべての人々を一つに結びつけ、世界史の舞台を 準備したことである。 第二に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまでに 存在したあらゆる政権が一度ご破算になり、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が分 かれた。それがもとになって、中国やロシアをはじめ、現代のアジアと東ヨーロッパの諸 国が生まれてきたことである。

4. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

264 こんりゅう 十一世紀に入って、チベットの各地の土着の豪族たちは、競って高僧を招いて寺院を建立 し、それを運営して富を集め始めた。こうして政治的統一はないまま、チベット人は仏教 信仰をアイデンティティとする国民になった。 最初は西夏王国がチベット仏教の最大の施主であったが、十三世紀になってモンゴル人 が西夏を滅ばすと、モンゴルのハーンたちがチベット仏教を保護するようになった。なか じそう でもフビライ・ハ 1 ンとその侍僧パクパとの関係は、以後のチベットの国際的な地位を決 定したもので、仏教教団の教主がチベット国民を代表して、外国の帝王の帰依を受け、そ の保護下にチベットを統治するという方式がここに始まった。 チベット文明はもともと、歴史という文化のないインド文明を継承したものであったが、 一方においては中国文明の対抗文明でもあったから、その建国の当初から、中国に対抗し て記録を持っていた。しかしその記録はせいぜいチベット王の年代記で、世界を定義する ような、本格的な歴史は書かれなかった。それが十四世紀になって、インド、中国、モン ゴルを含めた仏教的な世界史を産み出したのは、やはりモンゴル帝国の出現によって、チ べット人が広い世界に触れ、歴史は世界史だという意識に目覚めたからである。 げんちょうひし 空想的な「元朝秘史」 ではモンゴル人自身は世界史をどう見ていたかというと、十三 5 十四世紀にはモンゴル きえ

5. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

しゅし ーンの遺児 1 ンの血を引いているという趣旨の物語である。永楽帝がトゴン・テムル・ハ だというのは、もちろん事実ではないが、この物語は、明朝の中国がモンゴル帝国の継承 国家であることを表現したものである。 清朝の順治帝は、南方の中国人、西方のチベット人・オイラト人、東方の朝鮮人、中央 のマンジュ人・モンゴル人を統合し、正統の政権を再び確立した。こうして『蒙古源流』 こ、つき の叙述する世界史は、順治帝の息子の康煕帝の即位をもって終わる。 この『蒙古源流』は、チンギス家の高貴な血統を中心の軸とする世界史であって、チン ギス・ ーンの受けた世界統一の天命が、著者の時代に至って再び実現するまでの経緯を へ描写するものである。 史 界 ら単一の世界史の可能性 史十四 5 十七世紀のモンゴル帝国で世界史を書いた歴史家たちの出身地は、イラン高原も、 西チベットも、モンゴル高原も、それまで歴史の著作の伝統のなかった地方であり、ベルシ 史ア語も、チベット語も、モンゴル語も、それまで歴史の言語ではなく、地中海型や中国型 そくばく 東などの、既成の歴史の枠組みに束縛されることがなかった。そうしたモンゴル帝国の産み 出した世界史が、いずれもチンギス家の系譜を中心として世界を叙述しているのは、当然 とはいえ、当時の世界の実情を反映しているものである。

6. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

286 第三に、北シナで誕生していた資本主義経済が、草原の道を通って地中海世界へ伝わり、 さらに西ョ 1 ロッパ世界へと広がって、現代の幕を開けたことである。 第四に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった。このた め、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出し、 歴史の主役がそれまでの大陸帝国から、海洋帝国へと変わっていったことである。 十三世紀からあとの歴史は、それまでのように、地中海・西ヨーロッパ世界の歴史と、 中国世界の歴史とを、それぞれ別々に叙述することは、もうできない。モンゴル帝国が、 一方で起こった事件が、ただちに他方に影響を及ばすような世界を創り出したのだから、 つまり、世界史は、モンゴル帝国 どうしても一本の世界史として書かなければならない。 から始まったのである。 一九九二年に、ちくまライプラリーの一書として本書が世に出てから、私のこのような 論拠は各方面に影響を与え、とくに文筆を専門とする同業者からの支持を受けたのは、た いへん嬉しいことであった。幸い、ちくまライプラリーとしても版を重ねたが、今回、文 庫化にあたっては、さらに多くの読者に恵まれると思い、見慣れない漢字にルビを多くふ ることを心がけた。 一九九九年七月 岡田英弘

7. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

のは、中央ューラシア草原から移動して来た鮮卑などの遊牧民であった。この鮮卑系の第 二の中国と競争して、次第に中国を圧倒し、最後に中国を呑みこんでしまったのは、中央 ューラシア草原の一連の帝国、トルコ・ウイグル・キタイ・金・モンゴルである。モンゴ ル帝国の支配下に中国は徹底的にモンゴル化して、元朝・明朝・清朝の時代の第三の中国 が形成された。このモンゴル化した中国の文化が、普通にいう中国の伝統文化である。こ の第三の中国は、もはや皇帝を中心として回転する独自の世界ではない。中国の皇帝と見 えるものは、実はチンギス・ 1 ンを原型とする中央ュ 1 ラシア型の遊牧君主の中国版で あり、中国は中央ュしラシア世界の一部になってしまっている。この第三の中国の性格は、 へ現在の中華人民共和国にはっきり表れている。 もくしろく 史 ヘーロドトスと『旧約聖書』、「ヨハネの黙示録」に由来する地中海Ⅱ西ヨーロッパ型の 界 しじつがん ら歴史の枠組みと、『史記』と『資治通鑑』に由来する中国型の歴史の枠組みをともに乗り 史越えて、単なる東洋史と西洋史のごちゃ混ぜでない、首尾一貫した世界史を叙述しようと 西するならば、とるべき道は一つしかない。文明の内的な、自律的な発展などという幻想を 史捨てて、歴史のある文明を創り出し変形してきた、中央ュ 1 ラシア草原からの外的な力に 東注目し、それを軸として歴史を叙述することである。この枠組みでは、十三世紀のモンゴ モ の成立までの時代は、世界史以前の時代として文明をそれぞ ン の、として、単一の世界を扱うことにオ 少 , だけを せんび

8. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

いものになる。第一次世界大戦後の二十世紀の世界の情勢は、帝国主義と民族主義の対、 資主義と社会主義の対立、民主主義、と全体習の対 ~ 絡みあっていたと、よく言われ ,. 物 - 「・・・ル、か・し ~ 」・のわあ . のにれ .. 一 .. 、い .. 体順協位にはない。現代の世界での本当の対立は、 歴史のある文明と、歴史のない文明の対立である。 日本と西ョ 1 ロッパは、歴史のある文明である。これに対して、アメリカ合衆国は、十 八世紀の当初から、歴史を切り捨てて、民主主義のイデオロギーに基づいて建国した国家 」おみ气現在は解体したソ連が、マルクス主義のイデオロギ 1 に基づいて建国した国家で モンゴル文明の一部であ あったことは言うまでもない。ソい ) 肌身・の・・ロいゾ、ア帝国は 局うまくカオかった国家であった。それをロシア革命で歴史を切り捨てて、イデオロギ ーに置き換えた国家がソ連であったのである。 現代の世界の対立の構図は、歴史で武装した日本と西ヨーロッパに対して、歴史のない アメリカロ国が、強大な軍事力で対抗しているというのが、本当のところである。 そういうわけだから、歴史のある文明に属する我々が、現在の世界を把握し、未来の世 界を予測するためには、歴史というビ・ーし「かり理解しておく必要がある。 ところが、ここで大きな問題は、 ' 地中海文明の歴史文化と、判可文脚の歴史文化が 全く性質が違って、混ぜても混ざらない、水と油のようなものであることである。そのた

9. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

28 ろあとがき 歴史は文化である。歴史は単なる過去の記録ではない。 歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体 験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことで ある。人間の営みさえあれば、それがそのまま歴史になる、といったようなものではない。 地球上に生まれたどの文明のなかにも、歴史という文化があったわけではなかった。歴 史は、地中海文明では紀元前五世紀に、中国文明では紀元前一〇〇年頃に、それぞれ独立 に誕生した。それ以外の文明には、歴史という文化がもともとないか、あってもこの二つ の文明の歴史文化から派生した借り物の歴史である。 歴史という文化を創り出したのは、二人の天才である。地中海世界では、ギリシア語で 『ヒストリアイ』を書いたヘーロドトスであり、中国文明では、漢文で『史記』を書いた 司馬遷である。この二人が最初の歴史を書くまでは、ギリシア語の「ヒストリア」 ( 英語 いまのわれわれが考える「歴史」という のヒストリーの語源 ) にも、漢字の「史」にも、 あとが、

10. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

きわめて重要な点で一致していこ。それは、「ヨハネの黙示録ーの、世界は善の原理と悪 ' 、の ' 原理の戦場でおみ、とい一一元論る。これとへ , ・」・ドド・ズい・ 1 ・引・Ⅱ・ロ・ツ・。、・ど・アジ・・ , ) の対、の図かオり合うと オちョ 1 ロッパは善であり主なる神」の陣営に属 する。これに対して、アジアは悪であり「サタンーの陣営に属する。世界はヨーロッパの 善の原理と、アジアの悪の原理の戦場である。ヨーロッパの神聖な天命は、神を助けて、 悪魔の僕であるアジアと戦い、アジアを打倒し、征服することである。ヨーロッパがアジ アに対して最後の勝利を収めた時、対立は解消して、歴史は完結する、という思想になっ てしまう。この思想。十一世紀・一〕 ' 主 ' いの・ゾ・・ 0 ・ ? ー幻デ幻 - - - ロ対ず・を十字軍ど・い・ 、」一プ形をど・づ、たが、それで終わりではない。十五世紀に始まる大航海時代に、アジア、アフ リカ、アメリカに進出したヨーロッパ人の世界観も、全くこのキリスト教の歴史観そのま まであった。現代においても、対決こそが歴史である、という地中海型の世界観は、絶え まさっ ざる対立と、摩擦と、衝突の最大の原因であり続けている。第二次界大戦の第 ... 〔註ー なる神ーの側に立つアメリカ・西ヨーロッパ陣営と、アジアの「サタン , の側に立っソ 連・中華人民共和国・北朝鮮・北ヴェトナム陣営の対立は、半世紀にわたって歴史そのも のであった。一九九〇年を境にして、対立がアメリカ・西ョ 1 ロッパ側の一方的な勝利に 終わったことが明白になると、アメリカ・西ヨーロッパには、別のアジアの悪魔の僕が必 要になった。そこに起こったのが、同年のイラクのクウェイト侵略である。アメリカ・西