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検索対象: 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統
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1. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

るので、常に物事の筋道というものを考える。物事に筋道があるとすれば、過去を自分の ものにすることによって、現在がよりよくわかり、さらに未来の予測も可能になるはずで ある。実際には間違ったシナリオを立てているかも知れないが、それでも未来に対して、 何とか備えることは出来るのである。 ところが、歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。過去と現 在、現在と未来の関連があいまいなので、予測の立てようがない。脈絡なく起こる次々の る ま出来事に対して、出たとこ勝負の対応しか出来ない。方針を前もって決められず、常に後 手後手に回る結果になる。 こ 軍事力がよほど強大で、どんな場合でも相手を圧倒出来るのでない限り、歴史のない文 史 界明は、常に不利である。そうしたわけで、本来は歴史がなくてもし ) いはずのイスラム文明 も、地中海世界でロ 1 マ帝国と対抗する必要上、歴史という文化要素を採用したのである。 寿歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する 年歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようと öするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文 一明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染ーしていっ たのである。 それでも、もともと歴史のなかった文明は、歴史文化を採用しても、その歴史はカの弱

2. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

対抗文明の歴史文化 歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。 本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史があ る場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に 対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。 たとえば日本文明には、六六八年 ( 天智天皇即位 ) の建国の当初から立派な歴史がある が、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである三五三頁参照 ) 。 またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソ ンツェンガンボの治世の六三五年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残ってお と、つ り、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のあ る中国文明だったからである。 イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかし 。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知 れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、 ふけい 事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬 くわだ の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。 それにもかかわらず、イスラム文明には、六世紀にムハンマド ( マホメット ) がメッカ へんねんき

3. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

も終わりも、前も後もないことになって、ますます歴史など、成立するはずがない。 もう一つ、インド文明に歴史がない原因として考えられるのは、カースト制の存在で に属する人間は、同じ ある。カースト制度のムの生活の実感では、自分と、うカー 人類ではなく、異種類の垤物である。しかもそのカーストば際限なぐ紐州偈いでほとん ど無数にあるものなので、カーストの壁を越えた人間の大きな集団を扱一プのが生質の歴史ー は、こういう社会ではまとまるはずがない。か「いズ・ドを認め・イズ " プム教が入って来て、 初めてインドで歴史が可能になったのは、その証拠である。 歴史のない文明ーーマヤ文明 さて、歴史のない文明は、インド文明だけではない。アメリカ大陸の二つの大文明、メ ソアメリカのマヤ文明と、南アメリカのアンデス文明は、どちらも歴史のない文明である。 インカ帝国を産み出したアンデス文明には、偉大な都市も、強大な王権もあったが、文 字もなく、暦もなかった。もちろん歴史もなかった。これに反して、マヤ文明の都市には、 三世紀から、約八百字ほどから成る、よく発達した文字の体系があった。マヤ文明には、 また、精密な暦があって、前三一一四年八月十一日を時間の起点として、そこから十四万 四千日 ( 三百九十四年余り ) を一つの周期として、数千年の長い期間にわたる日付を正確 に表すことが出来た。これとは別に、十三日の周期と二十日の周期を組み合わせた、二百

4. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

ある。実を言うと、歴史のある月よりも、歴史のない文明の方が、はるかに数が多い。 世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の 二つだけである。 もともと歴史というものの力い文明の代表ば、・・・不・ン・・ド文で。インド亜大陸には、 非常に古い時代から都市文明が栄え、立派な暦があり、文字があった。それにもかかわら ず、長い長い間、インド文明には歴史という文化がなかった。 る ま 北インドの平原には、前三千年紀から前一一千年紀にかけて、すでにモへ 1 ンジョ・ダロ やハラッパ 1 などの都市を作ったインダス文明があり、まだ解読はされていないが文字も いんしよう こあって、印章に刻まれていた。この文明を創った人たちが誰だったのか、後世には何も伝 界わらなかったので、インダス文明の時代は、歴史以前の時代であるとしか言えない。 前二千年紀になって、アーリヤ人たちが北方から侵入して来て、北インドの平原のあち 天らこちらに新しい都市を建てた。そうした都市にはラ 1 ジャ ( 族長、「王」と訳される ) が 年居て戦士たちを従え、商人が商売をし、文字があって「ヴェーダ」などの宗教文献が残っ 〇ているが、それでもそうした北インドの都市国家では、歴史らしい歴史が書かれることは はけん 一なかった。前六世紀になって、マガダ国のビンビサ 1 ラ王がガンジス河の中流域に覇権を じせき 打ち立てて、この王国は前四世紀まで強力だったが、その王たちの事蹟は、ちょうどその 時代に興ったインドの一一大宗教、広い舸・石刋 6 叫故見ず引引・ 0 、この王国の

5. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

目次 まえかき 第 1 章一一一〇六年の天命ーー世界史ここに始まる 1 ン ( 当 / モンゴルの外の世界 ( 巧 ) / ル 1 シの公たち チンギス・ ( 巴 / リトアニア人気 ) / 東ローマ帝国 ( 巧 ) / アイユ 1 プ家 ) / 西 ョ 1 ロッパ龜 ) / 世界支配の天命 ( ど / 歴史は文化である ( と / 歴 史のない文明ーーインド文明 ( / 歴史のない文明ーーマヤ文明 ( 七 / 対抗文明の歴史文化 ( 第 2 章対決の歴史ーー地中海文明の歴史文化 歴史の父へ 1 ロドトス ( と / 歪曲された神話 ( を / 対決の歴史観

6. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

28 ろあとがき 歴史は文化である。歴史は単なる過去の記録ではない。 歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体 験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことで ある。人間の営みさえあれば、それがそのまま歴史になる、といったようなものではない。 地球上に生まれたどの文明のなかにも、歴史という文化があったわけではなかった。歴 史は、地中海文明では紀元前五世紀に、中国文明では紀元前一〇〇年頃に、それぞれ独立 に誕生した。それ以外の文明には、歴史という文化がもともとないか、あってもこの二つ の文明の歴史文化から派生した借り物の歴史である。 歴史という文化を創り出したのは、二人の天才である。地中海世界では、ギリシア語で 『ヒストリアイ』を書いたヘーロドトスであり、中国文明では、漢文で『史記』を書いた 司馬遷である。この二人が最初の歴史を書くまでは、ギリシア語の「ヒストリア」 ( 英語 いまのわれわれが考える「歴史」という のヒストリーの語源 ) にも、漢字の「史」にも、 あとが、

7. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

のである。歴史を持っ二大文明である地中海西ョ 1 ロッパ文明と中国文明は、それぞれ 前五世紀と前二世紀末に固有の歴史を産み出してから、十二世紀に至るまで、それぞれの 地域でそれぞれの枠組みを持った歴史を書き続けていた。それが十三世紀のモンゴル帝国 の出現によって、中国文明はモンゴル文明に呑み込まれてしまい、そのモンゴル文明は西 に広がって、地中海西ヨーロッパ文明と直結することになった。これによって、二つの 歴史文化は初めて接触し、全ューラシア大陸をおおう世界史が初めて可能になったのであ る。 こうした状況を反映して、十四世紀のモンゴル帝国の最盛期には、人類最初の本当の世 へ界史を書く歴史家たちが現れた。 史 界 世 ら ラシード・ウッディーンの「集史」 史 一三〇三年、イラン高原のイル・ハ ーン・ガザンは、ユダヤ人の宰相ラシード・ウッデ 洋 西ィーンに命じて、宮廷所蔵のモンゴル語の由緒正しい古文書に基づいて、モンゴル帝国の へんさん 史歴史をベルシア語で編纂させた。この歴史には『ジャーミア・ウッタワーリーフ』という 東題がついている。これは「歴史の集成」という意味なので、普通は『集史』と訳される。 『集史』の構成は三巻から成る。第一巻は一三〇四年のガザン・ 1 ンの死までのモンゴ ル人の歴史である。これはモンゴル人およびそれ以外の遊牧民の諸部族の歴史から始まる。 ゆいしょ さいしよう

8. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

もともとユダヤ教徒の経典である『旧約聖書』には、年代記の性質を持った部分が多く、 ャハヴェの神とイスラエル人との間の契約関係によってイスラエル人の運命を説明する、 されている。こうした歴史文化が成立したのは、前七世紀の末の、イ 特異な歴 エルサレムのユダ王国でのことであったらしい。この時代は、アッシリア帝国の末期で、 ダ王国は間もなく興の新バビロニア帝国に滅ばされてしまう。これからイスラエル人 の「バビロニア捕囚 , の苦難が始まるのである。 しかしイスラム教の歴史文化の源泉は、もっと直接には、ローマ帝国である。ロ 1 マ帝 国の地中海文明には、二つの歴史文化が存在していた。一つは前五世紀のヘーロドトスに 始まるギリシア系の歴史文化で、もう一つはキリスト教を通して口 1 マ帝国に入った、ユ ダヤ系の歴史文化である。キリスト教は、もともとユダヤ教の一派だったので、ユダヤ教 の歴史観はキリスト教にもそのまま入っている。そしてそのキリスト教は、四世紀にロー マ帝国の国教になっていた。ムハンマドの生まれるより一世紀半も前のことであった。 歴史のある文明と、歴史のない文明が対立するとき、常に歴史のある文明の方が有利で ある。一つの理由は、紛争が起これば、歴史のある文明は、「この問題には、これこれし かじかの由来があるので、その経緯から言えば、自分の方が正当である」と主張できる。 歴史のない文明には、そうした主張に反論する有効な方法がない。 もう一つの理由は、歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きてい

9. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

270 ここに、地中海型の歴史と中国型の歴史、東洋史と西洋史の矛盾を解決し、単一の世界 史に到達する道のヒントがある。それは、中央ューラシアの草原の道である。中央ュ 1 ラ シア草原の遊牧民たちは、定住地帯への侵入を繰り返すことによって、歴史のある二つの 文明、地中海文明と中国文明をまず創り出した。ョ 1 ロッパのインド・ヨーロッパ語族の 言語を話す人々は、もともと中央ュ 1 ラシア草原から入って来て定住したものであった。 中国以前の時代の東アジアの都市国家を支配した遊牧民・狩猟民も、やはり中央ューラシ ア草原から入って来て、都市の住民となり、中国を創ったものであった。こうして地中海 文明と中国文明が成立してしまったあとは、またもや中央ューラシア草原からの遊牧民の 侵入が、そのたびにそれぞれの文明の運命を変えた。地中海世界の古代が終わり、西ヨー ロッパ世界の中世が始まったのは、文明の内部に原因のある自律的な発展によるのではな く、モンゴル高原から移動して来たフン人の活動が、ゲルマン人を口 1 マ領内に追いこん だ結果である。また中世が終わって近代が始まったのも、モンゴル帝国の活動を引き継い だオスマン帝国の侵攻の結果であった。さらに西ヨーロッパ人の勢力を全地球上に拡大し た大航海時代は、それまで知られていた世界の利権を、大陸帝国であるモンゴル帝国とそ の継承国家が独占してしまったのに対抗して、西ョ 1 ロッパ人が海洋帝国に活路を求める 運動であった。 しんかん 中国でも、秦・漢時代の第一の中国の滅亡のあと、隋・唐時代の第二の中国を形成した ずいとう

10. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

文科大学が文学部と変わり、単一の史学科が三つに分かれて、国史学科・東洋史学科・西 洋史学科というそれぞれ独立の学科になるのは、一九一九年 ( 大正八年 ) からである。 ところで問題は、こうした制度上の三区分が、日本でなぜ必要であったか、ということ である。その理由は、日本の歴史学が研究対象としなければならなかった三つの文明、日 本文明・中国文明・地中海西ヨーロッパ文明が、それぞれまったく異なった歴史文化を 持っていたことである。その根本的な差異に引きずられて、本来ならば一元的な世界観に 立つべき歴史学が、分野ごとの違った形を取るようになってしまったのである。 歴史は文化である。地中海文明が産み出した歴史も、中国文明が産み出した歴史も、そ へれぞれの地域に特有の文化という性格を帯びていて、自分の地域だけを世界と見なすもの 界であった。しかもそれぞれの歴史を創り出した最初の歴史家が生きた時代と、初めて歴史 らを書くことを思い立った動機が、歴史の枠組みを決定してしまっていた。 史歴史はもともとこのような性格のものである。歴史が初めて成立した当初、当地でこそ、 西それは世界史と呼ばれるにふさわしいものだったが、地球全体が一つの世界となった現代 史では、こうした既成の地中海型、中国型の歴史の枠組みに頼って世界史を書くこと、世界 東史を語ることは、もはや無意味である。それにも拘らず、世界史の新しい有効な枠組みは いまだに開発されていない 。こんな状態では、世界史は成り立たない。現に成り立ってい かかわ