現在 - みる会図書館


検索対象: 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統
79件見つかりました。

1. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

192 持っていたが、まだ十分には解読されていない。タングト人は仏教徒であった。 ハザル帝国 さて、東方で遊牧帝国と中国の対立が、次第に遊牧帝国の優位に傾きつつあった七—十 一世紀のころ、西方では黒海の北に、強大なハザル帝国が存在していた。 ハザルというのは、単一の種族ではなくて、西トルコ人の支配の下で統合された、多く の遊牧部族の連合体の名前であったらしい。彼らの共通語はトルコ語であった。西トルコ の支配がゆるみ始めた六三〇年頃、つまり東方で第一次トルコ帝国が唐に滅ばされるのと 同時に、ハザル人が北コーカサスに姿を現して、プルガル人と抗争を始めた。間もなく、 西トルキスタンを征服したアラブ人が北コ 1 カサスにも侵入して、ハザルの都市バランジ ャルを襲い、これから約百年もアラブ・ハザル戦争が続いた。七三七年には、アラブ軍が ヴォルガ河下流のハザルの本拠地にまで攻め込んで、ハザル・カガンにイスラム改宗を誓 わせたが、それも一時のことで、結局は、現在のダゲスタン共和国のデルべント峠で、ア ラブの北方進出は食い止められた。 ハザル帝国の支配圏は、ヴォルガ河下流と北コーカサスを中心として、東方ではウラル 河、西方ではドニエプル河まで広がり、東ローマ帝国とクリミアの領有をめぐって争った。 それでも東ローマは、アラブ帝国に対する防衛と、北方国境の安全の確保のために、ハザ

2. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

いものになる。第一次世界大戦後の二十世紀の世界の情勢は、帝国主義と民族主義の対、 資主義と社会主義の対立、民主主義、と全体習の対 ~ 絡みあっていたと、よく言われ ,. 物 - 「・・・ル、か・し ~ 」・のわあ . のにれ .. 一 .. 、い .. 体順協位にはない。現代の世界での本当の対立は、 歴史のある文明と、歴史のない文明の対立である。 日本と西ョ 1 ロッパは、歴史のある文明である。これに対して、アメリカ合衆国は、十 八世紀の当初から、歴史を切り捨てて、民主主義のイデオロギーに基づいて建国した国家 」おみ气現在は解体したソ連が、マルクス主義のイデオロギ 1 に基づいて建国した国家で モンゴル文明の一部であ あったことは言うまでもない。ソい ) 肌身・の・・ロいゾ、ア帝国は 局うまくカオかった国家であった。それをロシア革命で歴史を切り捨てて、イデオロギ ーに置き換えた国家がソ連であったのである。 現代の世界の対立の構図は、歴史で武装した日本と西ヨーロッパに対して、歴史のない アメリカロ国が、強大な軍事力で対抗しているというのが、本当のところである。 そういうわけだから、歴史のある文明に属する我々が、現在の世界を把握し、未来の世 界を予測するためには、歴史というビ・ーし「かり理解しておく必要がある。 ところが、ここで大きな問題は、 ' 地中海文明の歴史文化と、判可文脚の歴史文化が 全く性質が違って、混ぜても混ざらない、水と油のようなものであることである。そのた

3. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

180 名を東トルキスタン ( トルコ人の国 ) と呼ばれるようになるのは、このためである。 キルギズ人は、トルコ語を話す種族で、もともとシベリアのイェニセイ河とオビ河の間 に住んでいた。現在ではカザフ共和国の南、天山山脈の西部にキルギズ共和国があるが、 キルギズ人がシベリアから天山に移住したのは、モンゴル帝国時代の十六世紀のことで、 モンゴル系のカザフ人に率いられて南下したものであるらしい 九世紀にウイグル帝国を倒したキルギズ・カガンの本拠は、サヤン山脈の南のイェニセ イ河の上流、現在のトウヴァ共和国の地にあった。しかし、キルギズ人のモンゴル高原支 配は長くは続かず、間もなくタタル人という、モンゴル高原東北部の遊牧民がキルギズ人 を逐い出して、高原の主人となった。このタタル人の中から、後のモンゴル人が出て来る のである。 ウイグル帝国の滅亡の二年後、八四二年にチベットのダルマ・ウイドウムテン王がわず か十歳で宰相の一党に殺され、王位の継承をめぐってチベット帝国は分裂した。もはや中 央政府は存在せず、チベットはこれから約百五十年間、記録のない暗黒時代に入る。 中国のトルコ人 こうそう 八七五年には中国で黄巣の乱が起こ ウイグル帝国とチベット帝国の滅亡から間もなく、 った。黄巣は河南の中国人で、反乱軍を率いて華北から華中に転戦し、また華北にもどっ

4. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

歴史の父ヘーロドトス 地中海文明の「歴史の父」は、前五世紀のギリシア人、ヘーロドトスである。へ 1 ロド トスは、アナトリアのエーゲ海岸の町ハリカルナッソス ( 現在のトルコ共和国のポドルム ) の出身で、その著書『ヒストリアイ』は、ベルシア戦争の物語である。 「ヒストリア」 ( 単数形、「ヒストリアイ」は複数形 ) というギリシア語は、英語の「ヒスト 丿ー」、フランス語の「イストワ 1 ル」の語源だが、もともとは「歴史 , という意味では ない。ギリシア語の「ヒストール , は「知っている」という意味の形容詞、「ヒストレイ ン , は、「調べて知る」という意味の動詞である。それから出来た名詞が「ヒストリア」 で、本当は「研究」という味である。ヘーロドトスは、自分が調べて知ったことについ て語る、という意味で、著書に『研究』という題をつけたのだったが、これが地中海世界 で最初の歴史の書物だったために、「ヒストリア」という言葉に「歴史。という意味が付 いてしまったのである。このことは、ヘーロドトス以前には、歴史の観念が、まだ存在し なかったことを示している。 へ 1 ロドトスは、ベルシア戦争の物語を、次のように、古い古い大昔から書き始めてい る。

5. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

240 ケマル・アタテュルクが鼓吹したトルコ民族主義のおかげで、アナトリアのトルコ共和 国民はすべて純粋のトルコ民族であるから、団結して国家の統一を守るべきであるという 主張と、広大な中央ューラシアの各地方で現在トルコ語を話している人々も皆、単一のト ルコ民族であるという思想が生まれた。このトルコ民族単一思想は、まったく事実に反し ている。トルコ語は、確かに七世紀のモンゴル高原の第二次トルコ帝国の公用語になって 以来、千年以上もの間、非常に多くの種族が公用語として採用してきたが、それらの種族の 起源は雑多で、系譜の上ですべて同じ血を引いていたわけではない。だから民族の観念が発 生する前の時代に「トルコ人といえば、トルコ語を話す人というだけのことで、ことに十 三世紀のモンゴル帝国から後の時代のイスラム世界では、「トルコ人 , と「モンゴル人」は 同義語であった。それが区別されるようになるのは、十九世紀の西ヨーロッパで発達した比 較一一一口語学で、インド・ヨーロッパ語族に属する言語と区別して、ある言語をトルコ系、ある 言語をモンゴル系と分類してからのことである。そういうわけで、トルコ共和国民のトルコ 人というアイデンティティは、まったくオスマン帝国のヨ 1 ロッパ化の産物なのである。 現代の世界のインド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人という国民は、いずれ もモンゴル帝国の産物であり、その遺産なのである。そればかりではない。 現代の世界の 指導的経済原理である資本主義も、モンゴル帝国の遺産である。 こすい

6. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

248 けたということである。社会主義は、民族主義を抑え込んで、旧ロシア帝国の統合を維持 するために導入された原理だから、それを放棄して、代わるべき新しい原理が見つからな い限り、連邦が解体して民族共和国がそれぞれ独立してしまうのは当然である。同様にし て、やはり大陸国家の中華人民共和国も、一九八九年の天安門事件以来、経済成長が停止 して、政治の面でも末期症状を呈している。 社会主義が過ぎ去った後のロシアと中国では、資本主義はまず成功しないであろうし、 ロシア人と中国人は、いずれも中 経済成長で先進国に追い付くこともまず期待できない。 央ュ 1 ラシアの草原の道の両端に接続する地域に住んでいる。そのため両国民とも、国民 形成以前から繰り返し繰り返し、草原の遊牧民の侵入と支配を受けて、その深刻な影響の 結果、現在の姿を取った。長い長い間、ロシアでも中国でも、支配階級は外来者であり、 ロシア人とか中国人とかいうのは、被支配階級の総称に過ぎなかった。そのためロシア人 にも中国人にも、無責任・無秩序を好むアナーキックな性格が濃厚であり、強権をもって こうした性格は、個人の自発性と責任観念を 抑圧されなければ秩序を守ろうとはしない。 前提とする資本主義には向いていない。これもモンゴル帝国の支配の後遺症である。 ーンの即位に始まったモンゴル帝国は、現代の世界にさまざ 一二〇六年のチンギス・ まの大きな遺産を残している。実にモンゴル帝国は、世界を創ったのである。

7. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

208 モンゴル人の出現 モンゴルという部族は、もともと現在のシベリアと内モンゴル東部の境を流れるアルグ ン河のほとりの遊牧民で、その名前は七世紀に初めて記録に現れる。モンゴルが再び現れ るのは一〇八四年のことで、この年に「遠方のモンゴル国 , の使者がキタイ皇帝の宮廷を 訪問している。後世のチンギス・ 1 ン家の伝承によると、チンギス・ ーンの六代前の 祖先はハイドウといった。隣りのジャライル部族に襲われて馬群を奪われ、一族が皆殺し まき になった時、幼いハイドウは一人だけ薪を積んだ中に隠れて助かった。バルグの民の家に 入り婿に行っていた叔父のナチンが帰って来て、ハイドウを連れてバルグの地に移った。 ハイドウがやや成人すると、ナチンはバルグジン渓谷の民を率いて、ハイドウを君主に選 挙した。ハイドウは、兵を率いてジャライル部族を攻めてこれを臣下とした。勢力はだん ばくえい だん大きくなって、バルグジン河のほとりに幕営を張り、河に橋を架けて往来に便利にし た。これから、四方の部族から集まって来る者がだんだん多くなった。ハイドウの曾孫が ーンの 1 ンで、モンゴル部族の最初のハ 1 ン ( カガン ) となった。ハプル・ハ ーンである。 孫がイエスゲイで、イエスゲイの息子がテムジン・チンギス・ この話のバルグジンは、バイカル湖に東側から流れ込む河の名前で、その渓谷は大きな ーンであった。

8. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

284 意味はなかった。「歴史」という観念そのものがなかったのだから当然だ。 しかし、同じ歴史とはいっても、ヘーロドトスが創り出した地中海型の歴史では、大き な国が弱小になり、小さな国が強大になる、定めなき運命の変転を記述するのが歴史だと いうことになっている。世界で最初の歴史が、ベルシアというアジアの大国に、統一国家 ですらない弱小のギリシア人が勝利する物語であったために、アジアに対するヨ 1 ロッパ の勝利が歴史の宿命である、という歴史観が確立してしまった。これに、キリスト教の 「ヨハネの黙示録ーの善悪対決の世界観が重なって、アジアを悪玉、ヨーロッパを善玉と する対決の歴史観が、現代の西ヨーロッパ文明にまで影響を及ばしている。 これに対して、司馬遷の『史記』は、皇帝という制度の歴史であって、皇帝の権力の起 源と、その権力が現在の皇帝に受け継がれた由来を語るものである。皇帝が「天下」 ( 世 界 ) を統治する権限は、「天命」 ( 最高神の命令 ) によって与えられたものだ、ということ になっていて、この天命が伝わる順序が「正統ーと呼ばれる。天命の正統に変化があって は、皇帝の権力は維持できないから、中国型の歴史では、現実の世界にどんな大きな変化 があっても、なるべく無視して記述しないことになる。 このように、同じ歴史とはいっても、地中海文明では変化を主題とする対決の歴史観が、 中国文明では変化を認めない正統の歴史観が、それぞれ独自に書きつがれてきて、今日の われわれの歴史観、ひいては世界観にまで大きな影響を与えている。

9. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

るので、常に物事の筋道というものを考える。物事に筋道があるとすれば、過去を自分の ものにすることによって、現在がよりよくわかり、さらに未来の予測も可能になるはずで ある。実際には間違ったシナリオを立てているかも知れないが、それでも未来に対して、 何とか備えることは出来るのである。 ところが、歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。過去と現 在、現在と未来の関連があいまいなので、予測の立てようがない。脈絡なく起こる次々の る ま出来事に対して、出たとこ勝負の対応しか出来ない。方針を前もって決められず、常に後 手後手に回る結果になる。 こ 軍事力がよほど強大で、どんな場合でも相手を圧倒出来るのでない限り、歴史のない文 史 界明は、常に不利である。そうしたわけで、本来は歴史がなくてもし ) いはずのイスラム文明 も、地中海世界でロ 1 マ帝国と対抗する必要上、歴史という文化要素を採用したのである。 寿歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する 年歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようと öするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文 一明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染ーしていっ たのである。 それでも、もともと歴史のなかった文明は、歴史文化を採用しても、その歴史はカの弱

10. 世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

250 日本史・東洋史・西洋史の三区分 現代の日本の歴史学には、日本史、東洋史、西洋史という三つの分野があって、それら の間にはかっきりとした区別がある。これはヨーロッパの歴史学にはない現象であるが、 この区別の起こりは、直接には日本の大学制度にある。 八八六年 ( 明治十九年 ) に創立された。翌 現在の東京大学の前身の「帝国大学」は、一 しようへい 年、ユダヤ系ドイツ人のルートヴィヒ・リ 1 スが招聘されて、文科大学 ( 文学部の前身 ) に「史学科ーを開設した。リースは、ドイツの偉大な歴史学者レオポルト・フォン・ラン ケの弟子で、自分が新しく東京に開設した史学科で、実証を重んずるランケ学派の歴史学 研究法を、初めて日本に移植したのである。 翌々一八八九年、史学科と並んで、文科大学に「国史科」が設置された。これで判ると おり、日本の大学制度では、西ヨーロッパ流の「史学」は、日本史を対象とする「国史 学ーとは最初から別物であった。その後、国史科、史学科と並んで、中国史を対象とする 「漢史科ーというものも設置されたらしい。一九〇四年 ( 明治三十七年 ) になって、国史・ 史学・漢史の三科は新しい「史学科」に統合され、その中に「支那史学」と「西洋史」と いう分野が公認された。その後、一九一〇年 ( 明治四十三年 ) 、「支那史学ーは「東洋史学」 と改称された。これで国史・東洋史・西洋史という三つの分野が出そろったわけである。