た。九〇年代末の経済危機後、補償金も減らされ、生活も厳 しい状況だった。それでも、多くのリクビダートルが惜しみ なく協力した。 この記念碑は原子力被害者を永遠に記憶する ( ウヴェコヴェ チヴァニエ ) ことを目的に建てられた。追悼の対象は、ウラル ポームニ ( 記憶せよ ) 事故 ( 一九五七 ) やセミバラチンスク核実験など、ロシアにお 「ポームニ ( 記憶せよ ) 」 ける原子力被害すべてである。 サンクトペテルプルク市北部に位置するサハロフ記念公園。 「チェルノブイリだけを追悼するつもりはない」とアレク 公園の一角に立っ記念碑に記されている。 サンドルは一一一口う。 記念碑のデザインは原子炉の断片を表現しており、記念碑 サハロフ公園の反対側にはヒロシマ・ナガサキの原爆投下 に刻まれた亀裂は引き裂かれた運命の象徴である。 HO. 亠 H に対する追悼記念碑「平和の鐘」が立っている。 ( ポームニ ) という単語の二文字目の 0 には、原子核を表現す 毎年、一人、また一人と仲間たちは去っていく。若い世代 る球形の石がはめ込まれている。 にとってチェルノブイリは過去のものとなり、だれがどう被 この記念碑の前でも、毎年、四月一一六日にペテルプルク市害拡大を止めたのか、忘れ去られていく。「風化対策」とい 内のリクビダートルたちが集まり、追悼記念集会を行なって う語感とは少し違う。「私たちを永久に記憶せよ」というリ クビダートルたちからの要請である。 の 記念碑完成までには相当の苦労もあった。 か 「収束作業」は女の顔をしていない 記念碑建設は「チェルノブイリ同盟」が一九九九年一月の イ 四月一一六日の記念式典では、英雄たちの追悼の言葉、要人 時点で提案し、チェルノブイリ一五周年三〇〇一年 ) までの ル 完成を目指した。しかし間に合わず、完成したのは最初の提たちの感謝の辞がつづいた。そのなかで、ひときわ心を打っ チ 案から四年後の二〇〇三年。資金難のため実現が遅れたのだ。 た挨拶があった。 年 それでもリクビダートルたちはあきらめず、記念碑のデザ 収束作業員の末亡人を代表して壇上に立った、一人の女性 事イン公募と建設資金集めに奔走した。仲間からも募金を集め の言葉だ。収束作業から帰った夫が年々体調を悪くしていく 害者ではない」とみなされたのだ。 アレクサンドルと歩いていると、ひっきりなしに法律相談 の電話が鳴る。友人の「傷痍軍人」としての地位を取り戻す ために、法律家としての仕事がまた始まる。
皮切りに、ロシア、ペラルーシの各地でそれぞれの「同盟」 ん以外でも、胃炎や関節症、心臓病、血管症など、様々な病 が設立された。一九九〇年にはソ連全国規模の「チェルノブ 気が補償される。ロシアではもともと医療保険により治療は ィリ同盟」ができる。八九年にソ連初の民選の議会選挙が行無料である。チェルノブイリ法は、リクビダートルに、薬品 なわれた際には、リクビダートルの中からも候補者を立て、 の無料支給、サナトリウム保養の無料化を認めてきた。高度 世代表者を議会に送り込んだ。 医療施設での検診、治療などの優遇措置もある。交通料金の アレクサンドルも「チェルノブイリ同盟」の法律専門家と減免や住宅供給など、生活上の優遇も受けている。 して、チェルノブイリ法の草案作りに参加した。そしてリク また目に見える疾患がなかったとしても、補償の対象にな ビダートルの権利が法律に書き込まれた。 る。通常の基準をはるかに上回る高い被曝を強いられた「リ このとき彼らがこだわったのが、「第二次世界大戦功労軍 スク」に対しての補償だ。これは月額補償金や年金の上乗せ 人」 ( ペテラン ) と同等のステータスである。この法律によっ などの形で支払われる。 て、リクビダートルたちは「国を守った英雄」としての地位 健康被害と収束作業の因果関係を、「線量」で証明するこ を勝ち取った。 とは求められない。そもそも被曝データが正確に記録されて 「リクビダートル」と認定されるのは、一九八六 5 九〇年 いないため、線量による証明など不可能だ。特に否定する理 に原発周辺三〇畑圏内やいくつかのホットスポットで勤務し 由がなければ「原発事故による被害」と認められる。 た作業員。原子炉の火災を止めた消防員や、原子炉を覆うシ しかし、一一〇〇〇年以降は補償の削減や、法律の改悪も目 エルターを作った建設者など。それ以外でも、医療スタッフ 立つ。無料で支給されていた薬品や保養のための旅行券が、 や看護師、運転手、ゾーン内の食堂を切り盛りした調理人な 現金支給になった。インフレでその価値も目減りしてしまっ ど様々な職種が含まれる。 た。「収東作業との関連」を積極的に認める疾病のリストも、 そのなかでも、事故初期の線量が高い時期の作業員は「初保健省令で狭められてしまった。 期リクビダートル」として、手厚い補償を受ける。八六年九 「リョウ、悪いが君が帰る日、空港へは送っていけないよ。 月から勤務したアレクサンドルも「初期リクビダートル」の 裁判所に行かないといけないんだ」 一人である。 友人のリクビダートルが障害者手帳を没収されたという。 収束作業参加後、病気になった人は多い。白血病や固形が 一度障害認定を受けたはずが、認定指針の見直しで「もう障
「残念ですが、日本にチェルノブイリ法のような法律がな 「ごらんよ、この大砲一本でうろたえてこのざまだ。戦場 。白血病のようなはっきりした病気にならない限り労災認 では、こんな大砲が何百とひっきりなしにうなるんだよ。私 定も受けることはできないんです」 は、従軍した父の話から想像できるだけだ。今の若者たちに、 「野蛮だ ! 」という言葉が耳に痛く響いた。 収束作業なんて理解出来っこない。同じことだよ」アレクサ ンドルは一一一口 , つ。 「彼らは招集されたのかい ? 」 「いや、会社との契約で働いています」 砲弾を包んでいた筒は、記念に参加者に贈られる。 「じゃあ志願兵みたいなものか ? 」 「要塞」を出た私たちは、公園のペンチに陣取り、この打 「そういうんでもなくて、下請け企業の従業員だったり、 ったばかりの砲弾の筒をポトルにコニャックを回し飲みした。 みな朗らかで、満足げな顔をしている。「プラトストボ契約労働者だったりするんです」 ( 兄弟 ) だよみんな」とアレクサンドルも笑う。命がけで一緒 なかなか日本の仕組みがわかってもらえない。考えてみる となぜ「補償の約束」や「従軍義務」もなく一般の民間人が に国を守ったという意識が、三〇年後も彼らをつなげる。 収束作業に従事できるのか、兵士として招集され「英雄」と 福島第一原発で作業に従事し、確実に私たちを守ってくれ ている作業員の方々は、三〇年後こんなふうに集まってお酒して補償される彼らからは理解できないのだ。 リクビダートルたちも、当初は十分な補償なしに、打ち棄 を飲めるのだろうか。こんなふうに笑い、誇りをかみしめる ~ ろ、つカ てられていた。 しかし彼らには、「命を捨てて国を守った」という意識が リクビダートルが勝ち取った「功労軍人」としての地位 の あった。八八年には収東作業員の権利を求める市民団体「チ か エルノブイリ同盟」を立ち上げる。ソビエトは労働者の国と 「それは野蛮だ ! まさか日本でそんな ! 」 イ プ いう国是であったはず。軍人をはじめソビエト社会に貢献し アレクサンドルの「戦友」の一人バーベルは驚きを込めて ル 旨日つ。 た市民は、尊敬され、優遇されてきた。命を投げ出して国を チ 「リョウ、フクシマのリクビダートルたちは補償金をもら救った功績を認めるよう、リクビダートルたちは自ら声を上 年 っているんだろう ? サナトリウムへの旅行へは行けている ウクライナ・ハリコフでの「チェルノブイリ同盟」発足を 事のかい ? 」とバーベルは聞く。
対して「放射線のせいではない」「熱中症によるもの ( だから 「功労軍人」の十字架 放射線と関係ない ) 」などのコメントが目立つ。チェルノブイ リのリクビダートルからすれば、「直接被曝の影響」による アレクサンドルやその戦友たちと行動をともにしてみて、 あらためて気づくことがある。 かどうかは関係ない。国民のリスクを除去するために危険条 偵察、突撃、戦死、戦友 : : : 彼らの語彙は、「戦争」に満件下で作業し死亡した人々がいる。それは、放射線症や白血 ちている。 病による死者でなくとも、「収束作業死Ⅱ戦死」なのだ。 リクビダートルたちは、「功労軍人」としてのステータス 彼らは爆発した原子炉を覆う「石棺」の建設が完了した一 を認めさせることで、社会的な尊敬と比較的手厚い補償を勝 一月三〇日を「勝利の日」として記念するという。 ち取った。 チェルノブイリ原発の周辺で行なわれた作業は、客観的に 見れば「消火活動」と「がれきの撤去」、「コンクリート建造 福島第一原発で作業に従事する方々が置かれた立場と比較 物の建設」などである。これを「英雄的戦闘」と理解させる すると、雲泥の差だ。 には、一つ一つを戦場の言葉に置き換える必要があった。そ 「そんな野蛮な ! まさか日本で」 「開かれた勤勉な国」というイメージを持っていた日本で、 うでないと、自分たちが「敵」から祖国を守ったことを証明 収東作業員がその功績に見合った補償を受けていない。その し、英雄として記憶させることができない。 アレクサンドルが行なった放射線状況調査には、「放射線ことにロシアのリクビダートルたちは驚きと怒りをあらわに する。 寸測」ではなく口シア語で「諜報」を意味する「ラズベト 問そロ、 「フクシマのリクビダートル」たちが被ったリスクに対し らカ」の名前が付された。屋根によじ登り、スコップでがれき か てどのような補償が必要か、広く社会的に議論すべき時期は を撤去する作業は「突撃」。 プ とっくにきている。それは作業従事当事者だけの問題でない。 消火作業中のヘリコプターが墜落し、運転士が亡くなった ル 原子力事故に際して、国民全体への被室紘散を防ぐためにリ 時にもそれは「戦死」と呼ばれた。直接被曝の影響による死 チ スクを引き受けている人々がいる。その人々を、どう位置づ ではない。それでもこの運転士をはじめ、作業中の死者たち 年 : は「戦死者」と認められ、その遺族は補償を受けている。 けるのか。社会のあり方が問われている。その議論において、 チェルノブイリ法は参考資料の一つになるだろう。 事事故後の福島第一原発における作業中に亡くなった方々に
世界 SEKAI 2 0 1 6 . 7 ー 2 2 8 リクビダートルの総数は公式には六〇万人以上といわれる。 ていなかったら、どうやって補償を求めるのか。多くの問題 が手つかずのままである。 そのうち約二五〇〇人がレニングラード州から派遣された。 レ一一ングラード原発や原子力研究所の職員を中心に、技術者 各地で国を相手取った訴訟も起きている。 たちがかりだされたのだ。 アレクサンドルの予想はあたりつつある。 リクビダートルの団体はロシア各地にあり、毎年四月二六 戦友たちと 日にはそれぞれの地域で記念式典が行なわれている。 レニングラード州のリクビダートルには、医師やエンジニ 式典二日前の四月二四日。作業員仲間たちが、ベトロバブ アなど、教育水準の高いインテリが多い。ソ連時代の最高度 ロフスク要塞に集まった。 この要塞は、河に面した風光明媚な立地も手伝い、今では の教育を受けた花形技術者が収束作業に投じられ、健康や命 ペテルプルク市有数の観光名所だ。帝政時代には政治犯が収を失った。それほどの事故だったのだ。 待ち合わせ場所には、徐々に仲間たちが集まってくる。 容された場所で、シベリア送りになる前にドストエフスキー ロシア人は日本人から見れば時間にルーズだ。いつになっ もこの要塞に拘束された。 リクビダートルたちは、今年もまた会えたことを喜び、そ たら全員集まるのか、これから何時にどこに行くのか、しつ かりとしたプランがない。 して亡くなった仲間たちを追悼するために、セレモニー用の ゆっくりとした歩調で一人、また一人あらわれる旧友たち 大砲を「打ち上げる」。 は、抱き合い、とめどなく近況や共通の知人の話を続ける。 車で会場に送ってくれたのは、放射線探査隊時代のアレク もうどこにも急がなくていいのだ。かって、高線量化で作 サンドルの部下セルゲイ氏だ。 孫のデニス君 ( 五歳 ) と一緒にこの「戦友会」に参加した。 業の数秒の遅延が命取りになった。当時危険スポットを駆け 「そりや皆に会えるのはうれしい。私は当時二四歳で一番抜けた彼らの足取りは、ゆったりしている。杖をついて歩く 者もいる。 の下っ端。サーシャ ( アレクサンドル ) も含めて兄貴みたいな 「耳に詰めて、ロを開けて」とアレクサンドルの妻エレー 存在だよ」セルゲイは言う。 ナさんが綿を手渡してくれる。大砲の音や気圧で耳がおかし 「でも、去年来ていた仲間たちの何人かはもういない。四 くなることがあるという。 月七日にも葬儀があった」
コのを、どんな気持ちで見守ったのか。素朴な言葉で一つ一つ 語られた。 病院から帰ってくるたびに、、い配で「どうだったの ? 」と 世聞きます。 「大丈夫、問題ないって」 その言葉は、かれの「生きたい」という願いの証でした。 でもそれを聞くと、一緒にいられる時間はもう長くない、 とわかったのです。 エレーナ夫人は帰りのマイクロバスのなかで、アレクサン ドルが招集された夜のことを話してくれた。 帰ってきた夫は、軍服を着ていて、何か、いつもと違うこ とが起こったのだと分かりました。 四歳の娘は、不思議にも思わずいつものように。ハバに駆け 寄って、小さな指でしがみつきます。娘には話しませんでし た。何も知らず眠ったんです。次の休日、いつものようにバ ハと出かけるのを楽しみにして。 チェルノブイリ収東作業の歴史は、男たちの英雄物語とし て語られる。男らしい英雄であることを要請されるリクビダ ートルたち。家族が受けた被害や、家族の苦悩、子どもに受 け継がれたかもしれない影響についても、そうは簡単に話し てはくれない。 でも、これは本当に戦場に向かった男たちの話なのか。英 雄譚からこばれ落ちるいくつもの物語があるのではないか。 「リクビダートルのなかには、女性だって多かったでしょ う。でも本を読むと男の偉業の話ばかりじゃないですか。女 性リクビダートルに焦点をあてた本とかドキュメンタリーは 作られているんですか ? 」アレクサンドルに聞いてみた。 「彼女たちもちゃんと功績は認められている。でも全体か ら見れば女性はごくわずかだし、看護師などの補助的な役割 だからね。主には男の仕事だった」 本当にそうなのだろうか。数の割合ではなく、彼女たちは どんなふうに派遣され、収東作業後の人生をどう生きてきた のか、これはチェルノブイリの悲劇を理解するうえで欠かせ ないページなのではないか。 戦争は女の顔をしていない ( アレクシェーヴィチ ) 。 収東作業も、おそらく女の顔、そして子どもの顔をしてい 身をもってチェルノブイリを経験した収東作業員は、ノー ベル文学賞作家にも手厳しい 「チェルノブイリのことを書いたといったって、被災地住 民の話ばかりじゃないか。リクビダートルの妻の話はあるけ れど、お涙ちょうだいじゃ何も解決しない。誰かが行かなき ゃならなかったんだ」
コでも「功労軍人」となって、彼らが失ったものもあるので 1 よよ、、。 ー十′ . しカ 原子力発電所の事故により、運命を狂わされたリクビダー トルたち。彼らですら、国の原子力政策に対しては、ものが 界 世、いにくいようだ。リクビダートルのなかにも原子力業界の 関係者は多い。 また「功労軍人」である彼らが、国力の源泉 である「核」の批判はしにくい。 四月一一六日の式典の来賓として、レニングラード原発所長 の姿があった。式典会場の広場に立っ記念碑は、国営原子力 企業「ロスアトム」の資金援助で建てられたと聞く。 リクビダートルは地域の学校に呼ばれて、子どもたちに自 分の偉業を語る。「バトリオット教育」の一環で、「有事にお いては身を捨てて祖国を守る覚悟」を伝えるのだという。 それでよいのか ? もう一度原発事故が起きた時にそなえ、 「自分たちのように命を投げ出せ」と子どもたちに教えるのか。 もう一一度と原発事故が起きない、もう一一度と自分たちのよ うな「特攻兵」を必要としない国を作ることこそ、彼らの仕 事なのではないのか。 核武装国の「功労軍人」であることが、かれらにいくつか の沈黙を強いている。 「大丈夫かい。飛行機には間に合うか ? 」 アレクサンドルは、ホテルから空港までのタクシーも手配 してくれた。移動中の車のなかで、彼からの電話だった。 「日本に戻ったら、無事ついたことだけメールくれよ」 友人たちの裁判で忙しいなか、最後まで気遣ってくれる。 ロシア人はもてなし好き、というよりも、一度一緒に仕事を した人間を家族の一員のように思ってくれる。 「リョウ、『二〇ミリシーベルト基準は高い』といっていて も、このままじや日本で『法律』はできないよ。高いか低い かは評価の問題だ。重要なのは事故以前に日本がどんな基準 を定めていたかだ。その基準に照らし合わせれば『許されな いこと』の範囲はおのずと見えてくる。『高いか低いか』、法 が判断を下すだろう」 リクビダートルたちの言葉は重い。 計測すら不可能な量の放射線を受け、人生を狂わされた、 その体験を三〇年かけて言葉にしてきた人々。見捨てられた 仲間たちの無念を晴らすため、願いを言葉に紡ぎ、法律に書 き込んだ人々。 彼らは、福島第一原発事故後の日本を気にかけ、自分たち の経験に照らし合わせ、時にぞっとするほど的確な言葉で言 い当てる。 私たちが、その言葉を直接聞ける時間はあとどれくらいあ るのか。来年の四月一一六日、今回集まった何人かは、式典の場 にいないだろう。私たちが学べる時間は、それほど長くない。