十分」という幸左衛門の言葉を胸の中で反芻した。暗雲が一時にぬぐい去られたよう な気分であった。 幸左衛門は、数日前にも同じような忠告を口にしたが、良沢には一層はっきりと幸 左衛門の言葉の意味が理解できたような気がした。すべては、江戸にもどってからの 勉学 : : : という幸左衛門からの伝言が、素直に受けいれられた。 良沢は、急に胸に熱いものがっきあげてくるのを感じた。幸左衛門も栄左衛門も、 鶯自分のことを親身になって気づかってくれている。異郷の長崎にきて、このような人 うれ 間の温い情にふれたことが、かれには嬉しかった。 の 「御好意、身にしみますー 冬良沢は、眼をしばたたきながら栄左衛門に深く頭をさげた。 その日から良沢は、ふたたび気力をとりもどした。すべては江戸にもどってからの 勉学と思うと、身のふるい立つような心のたかぶりすら感じた。 良沢は、栄左衛門や小川悦之進の家にしばしば足を向けた。そして、単語をしめし ては、それに相当するオランダ語を書きとめていった。また時には、かれらが紙にオ ランダ語を書きしめして、日本語訳を教えてくれることもあった。が、そのような場 合に最も支障となるのは、かれらの使う長崎の方言であった。 はんすう
きわだ 身であるはずだった。かれは、通詞として際立った才能をもっているとは思えず、そ の弱点をおぎなうために自家秘伝の辞書があるかのように言いふらして、自らの権威 をたかめようとこころみているのではあるまいか。 いずれにしても良沢は、節右衛門と接したことで通詞の世界の一端をのぞきみたよ うに田 5 った。 かれは、帰路の途中にある橋の上で足をとめた。気分が滅人って、このまま離室に 鷹帰る気にもなれなかった。かれは、しばらく橋の上から水の動きを見下していたが、 重い足どりで吉雄幸左衛門の家に歩き出した。 「どうなされました」 すわ 冬部屋に人ってきた幸左衛門は、沈鬱な顔をして坐っている良沢に声をかけた。 いきどお 良沢は、憤りをおさえながら節右衛門の家を訪れたことを話した。それは、吉雄幸 左衛門をふくむ通詞全体に対する不満でもあった。 「たしかに、そのような風潮はございます。しかし、それは通詞の仕事がいかに困難 なものであるかをしめすものとも申せます。通詞はオランダ人の言語をお役人にった なかっ えますが、江戸、中津、長崎の言葉が異りますように、オランダ人も出身地によって 異った言語をつかいます。それを苦心して理解しお役目をはたすことは、並大抵のこ ちんうつ はなれ
左衛門殿と亡くなられた西善三郎殿ぐらいがそれを辛うじてはたせたと申しても過一言 ではありませぬ。しかも、幸左衛門殿、善三郎殿とて自在に読めるなどというもので やみ はなく、闇の中を手さぐりするようにあれこれ思案しておよその意味をつかめるだけ に過ぎぬのです。そこでマリンの書についてでござるが、私なども到底理解すること はできませぬ。それを失礼ながら貴殿が読解できるはずはなく、もしもマリンの書を 眼にして失望なされたとしたら、それは僭越と申すもの。西善三郎殿は、勇をふるつ 鷹てその翻訳を志しましたが、それは非常な御苦しみであった由で、その仕事が西殿の 命をちぢめたと噂されているほどです」 の 栄左衛門の顔には、自分の無力を悲しむ色があらわれていた。そして、眼を伏せる きせる 冬と煙管をとり上げ、煙をくゆらせた。が、一服すると、かれの顔はやわらいだ。 「幸左衛門殿は、マリンの書をお渡ししたものの貴殿の身を案じられておられるので す。がっかりしておられるだろうが、決して気を落されぬようったえてほしいと申さ れました。それから、こうも申しておられた。長崎では、ただ驚かれるだけで十分で ある。大いに驚かれるがよい。勉学は江戸におもどりになってからするべきだ : と」 良沢は、背筋をのばし眼を栄左衛門の顔に向けた。「長崎ではただ驚かれるだけで うわさ
すぐれ、オランダ流医家としても第一人者であり、幸左衛門に序文を執筆してもらえ ば、「解体新書」の社会的信用は絶対的なものになる。 あいだがら 幸左衛門とは、長崎屋を訪れて顔見知りの間柄にあり、懇請すれば承諾を得る可能 性は十分にあった。 しかし、玄白は良沢を仲介者とすべきだと思った。良沢は、玄白よりもはるかに幸 ひんばん 左衛門と親密な間柄にあって、長崎遊学中も頻繁にまじわり、ターヘル・アナトミア 鷹も幸左衛門の世話で人手したという。良沢が序文の執筆を乞えば、幸左衛門がこばむ ことは全くないはずだし、それに良沢に斡旋をたのむことによって、玄白が独断で序 文を依頼したという非難もうけずにすむ。 冬玄白は良沢に会うのも不快だったが、円滑に事をはこぶためには良沢に幸左衛門へ の斡旋をたのむのが良策だと判断した。 つぼみ 桜の蕾がほころびかけた頃、オ一フンダ商館長ダニエル・アルメノールト一行が華や いえはる かな行列をくんで江戸へ到着し、三月十五日には江戸城で将軍家治の引見をうけた。 随行の大通詞は、ったえきいたとおり吉雄幸左衛門で、弟の小通詞吉雄作次郎を同道 していた。 玄白は、良沢の家を訪れ、 232 ころ あっせん
えた。 廊下を足音が近づき、背後の障子がひらいた。そして、妻が人ってくると、良沢に 一通の書簡をさし出した。 つじかご すぎたげんばく 「杉田玄白様から頼まれましたと、辻駕籠の者が持って参りました」 珉子は、言った。 玄白とは五年前の春長崎屋に同道して大通詞西善三郎に会ってから、一度も顔を合 よしお 鷹わせたことはない。その後、二年前に江戸へ商館長一行に随行してきた大通詞吉雄幸 左衛門から、玄白が長崎屋にしばしば訪れていることをきいただけで、消息も耳にし の ていない。その玄白から突然、しかも深夜に書簡を送りとどけてきたことに、良沢は 冬不審感をいだいた。 良沢は、すぐに書簡をひらき行燈の灯の下で文字をたどった。 それはあわただしく書きしるしたものらしく短い書簡であった。 いたしたきむね ざいしふわけ せんぢゅこつはら 明四日千住骨ヶ原刑場に於て、罪屍腑分ある由聞き及候間、観臓致度旨出願候処、 さんや おにしめし 滞なく許可相成候。貴下に於て観臓の思召有之候はゞ明早朝浅草三谷町出口の茶屋 くだされたく 迄御越し被下度、他の同志とも夫々通知書差出置候に付左様御承知被下度候 125 とどこほり まで おい それぞれ ところ
そうした江戸の洋学研究家に比較して、良沢は知識を得るのに有利な長崎へきてい る。当然かれは、多くのものを身につけることができるはずなのだが、正月気分にみ ちた長崎ではただ町の中をうろっきまわるにすぎない。かれは、むしろ江戸にいて商 館長一行と接する者たちの方がめぐまれているとさえ思った。 ただ一つの救いは、吉雄幸左衛門も楢林栄左衛門も商館長一行に随行せず長崎にと どまっていることであった。商館長一行と行をともにしていった通詞は、栄左衛門の 鷹実兄である大通詞楢林重右衛門と小通詞堀儀左衛門で、重右衛門は大通詞になったば かりの人物であった。 の 商館長一行が出発した日は、一行に随行した者たちの家族、親族、友人たちが、道 冬中の安全をいのるため「アト賑カシ」と称する酒宴を張った。当然、兄をおくり出し た楢林栄左衛門も親交のあつい吉雄幸左衛門も酒席にくわわった。さらに五日後には、 なだわた 灘渡しと称する宴がひらかれた。長崎を出発した商館長一行は、その日小倉で船に乗 り、瀬戸内海を神戸にむかうことになっていた。灘渡しは、その船旅の安全と将軍へ の献上物が無事江戸につくことを祈願する行事なのだ。そして、それは留守家族、親 族のみならずひろく友人まで参加することになっていたので、良沢も楢林栄左衛門の 家でひらかれた酒宴に招かれた。 こうべ にぎわ ほり こくら
と一言った。 かれは立ち上ると、机の前に坐り巻紙をひろげて筆をうごかすと、ふたたび火鉢の 傍にもどって書状を手渡してくれた。その書状には、楢林栄左衛門殿と表書きされて いた。 たかみち そうけ 「栄左衛門殿は、楢林家の宗家大通詞重右衛門高通殿の御舎弟で、昨年小通詞並にな られた。丁度貴殿と同年の四十七歳で、人のお世話をねんごろになされる方です。書 鷹状を書きましたので、お近づきになられるとよいと存じます」 幸左衛門は、神妙な口調で言った。 の 「西善三郎殿は亡くなられたのですか」 冬良沢は、たずねた。 「御存知なかったのですか。五十三歳でした。蘭和対訳辞書の御執筆にとりかかられ ておられましたが、手がけられてから間もなくで、惜しいことをいたしました。知識 の豊富な方でありましたのに : : : 」 幸左衛門は、よくおこった炭火に眼を落した。 こんよう こがら 良沢は、小柄な西の顔を思いおこした。師の昆陽は死亡し、さらに西の死を知って 背筋の冷えるのを感じた。 そば らんわ ならばやし
であった。そしてかれの所蔵している辞書は、祖父である二代七郎左衛門の人手した ものらしいという。 良沢は、悦之進に紹介状を書いてほしいと懇願した。 「さて、いかがなものでしようかな」 と、悦之進は苦笑してしばらく思案していたが、 「見せて下さるかどうか、心もとないが : : : 」 鷹と言いながら筆を走らせた。 かれは、その書状を懐中におさめると、悦之進の家を辞し、茂節右衛門の居宅にい の そいだ。悦之進の言葉から察して、茂節右衛門が秘蔵しているといわれる辞書を閲覧 冬させてくれる確率はすくないらしい。それは節右衛門が決して度量が人並以上にせま いからではなく、通詞全般に共通した特徴であるのだろうとも思った。 かれらは、通詞の株をもっ世襲職で、たがいに家門のため大通詞に昇進することを ねがってっとめている。かれらの間には競い合う気持が強くはたらいて、他を押しの けてまでも自分の出世をねがう。そうした環境が、自然にかれらを孤立させ、徹底し た秘密主義をとらせることにもなっている。親は、家をつぐ子に修得したオランダ語 をつたえるが、それは秘伝として口外することを禁じる。つまり通詞同士の知識の交
を必要とするだろう。それよりも系統的に単語をしるした辞書を人手することができ れば、著しい効果をあげられることはあきらかだった。 かれの辞書に対する関心を知った小川悦之進は、 「実は、通詞の中に日本語とオランダ語のデキショナールを秘蔵している者がおるの です。詳細はわかりませぬが、わが国に宣教のためやってきたバテレンが日本語を理 解するために作ったデキショナールだとのことです。しかし、そのデキショナールは、 鷹われら通詞も見せてもらった者はおりませぬー と、言った。 の 良沢の眼はかがやいた。もしもそのデキショナ 1 ルを筆写することができれば、単 冬語修得に関する難問は消える。 「その通詞殿は、どなたでござる」 良沢は、うわずった声でたずねた。 「茂節右衛門と申す者です」 と、悦之進は答えた。 茂家は、四代にわたって通詞職にある家で、節右衛門は恵美須町の乙名伊東源助の 子として生れたが、三代七郎左衛門の養子となって茂家をついだ三十八歳の小通詞並 しげ おとないとう
もとむねけんぼう ことを知っていた。整骨法は、長崎の医家吉原元棟が拳法を参考に編み出した医術で、 幸左衛門もそれに着目して元棟の教えを乞い、それを吉雄流の外科にくわえていたの である。 えとく 良沢は、西洋医学にくわしくしかも整骨法を会得している幸左衛門こそ藩侯の母君 の治療者として最も適している医家だと思った。ただ異国から渡来した西洋医術を妖 いな じゅっ 術として忌避する傾向が一般的に強かったので、藩侯がその来診を許可するか否かあ 鷹ゃぶまれた。 むね しかし、他に良策もないので良沢は、藩主昌鹿にその旨を申出た。昌鹿は、ただち の に賛成した。かれは進取の気象に富んだ藩侯で、洋学に深い理解をもっていたのだ。 冬良沢は、早速使いを長崎屋に派し、やがて幸左衛門が迎えの駕籠に乗って治療具を たずさえ邸にやってきた。 幸左衛門は、ただちに治療にとりかかった。その方法は、良沢の眼に斬新な方法と して映り、あらためて幸左衛門の医術が並々ならぬものであることを知らされた。 その後、幸左衛門は熱心に治療をつづけ、昌鹿の母君の骨折は快癒した。 治療のたびに立ち会っていた良沢は、幸左衛門と親しく言葉をかわすようになって いた。そして、幸左衛門も良沢が青木昆陽のもとにかよってオランダ語修得につとめ かいゅ ざんしん よう