平賀源内 - みる会図書館


検索対象: 冬の鷹
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1. 冬の鷹

いた。 またその月の十七日にも大暴風雨があって、その相つぐ強風によって多くの人家が 倒壊し、伊奈郡代官の支配する関東方面の百姓家は四千軒も破壊された。世情は不安 定で、人々は、さらに大きな災害に見舞われるのではないかとおびえていた。 秋風が立ちはじめた頃、平賀源内が江戸へ帰ってきた。その留守宅は二月の大火で 焼失していたので、親交のある幕府侍医千賀道有の邸へ身を寄せた。その報せを受け 鷹た玄白は、類焼見舞いをかねて淳庵をともない、千賀邸におもむいた。 平賀源内は、玄白らの来訪を喜び、酒を出して歓談した。 の 玄白は、翻訳事業への介人をおそれていたが、源内の最大の関心事は鉱山開発事業 ながさき 冬であった。かれは、長崎から大阪までの旅の途中、西国の鉱山を手あたり次第踏査し、 やまと せつつ 大阪にきてからも摂津多田の銀・銅山を調査し、輩下の友七、専治に命じて大和の吉 おおみね 野山から大峰山にわたる金山の試掘計画もくわだてたりしていた。 「大山師になったのだ」 と、源内はほこらしげに言った。そして、ふと思いついたように、 「オランダ医書の翻訳は、いかがなされている」 と、たずねた。 209 やしき しら

2. 冬の鷹

すぎた 田沼意次の突然の失脚は、杉田玄白の周囲にあわただしい混乱をまき起した。 みちたか まず将軍侍医として本丸に詰めていた千賀道隆と子の道有が、寄合医に落された。 道有は、田沼意次の妾神田橋御部屋様の仮親で、意次の絶大な威光を背景に多額の財 と権力を得ていた。平賀源内も千賀父子によって意次に接近し、幕府の助力で事業活 動もできたのだが、意次の失脚と同時に千賀父子もその華やかな地位からすべり落ち たのだ。 かつらがわほしゅう 鷹また「解体新書」の完成に協力した桂川甫周も、意次との関係が深かったため本丸 詰の奥医師から寄合医に格下げとなった。 の その年の九月、家治は死亡し田沼時代は去った。 冬そうした混乱の中で、杉田玄白の蘭方医としての地位はさらにたかまっていた。か れは、前年若狭小浜藩主にしたがって小浜城に旅をして金一一百疋を賜り、帰路京都に こいしげんしゅん 立ち寄り古医方の大家である小石元俊と親交をむすび江戸にもどってきていた。 門人の大槻玄沢は塾をひらき、養子伯元は天真楼塾の統率者としてオランダ医学の 知識吸収に余念がない。玄白は、富も得て精神的なゆとりも見出すようになっていた。 ただかれの胸を痛めていたのは、妻登恵のことであった。登恵は、一年ほど前から びようが 病臥する身になっていた。時折気分の良い日には、十二歳の長女扇や下女に付添われ わかさおばま めかけ みいだ びき せん

3. 冬の鷹

人もおりませぬ。良沢殿が初めてです」 と、感慨深げに言った。 「しかし、平賀源内殿が田沼殿のお指図で当地へ来られているという話をきいており ますが・ : : ・」 良沢は、源内のことを口にするのはいやだったが、あえて問うてみた。 「源内殿ですか。たしかに来られておりますが、あの方は、動物、植物、鉱物などの 鷹類をあさって薬学の研究に走りまわっておられます。われら通詞にそれらに関する質 問をなさることはしばしばですが、オランダ語を地道に勉強する気などありそうにも の 思えませぬ。源内殿は、そのようなことをなさる方でないことは、良沢殿も御存知で 冬ござりましよう。それが源内殿の良さでもあるのですが : : : 」 幸左衛門の顔に、可笑しそうな表情がうかんだ。 幸左衛門は、良沢よりも年齢が一歳若い。が、幸左衛門は、源内が知識を手あたり 次第あさり歩く態度を全面的に肯定してはいないようだが、決して非難することはな く、それが源内の長所として容認している節がある。幸左衛門がそのような寛容さを 持ち合わせているのは、若くして大通詞の職にのぼった才質と、オランダ商館員と長 崎奉行所の役人との間に立ってわずらわしい人間関係をたくみにさばいてきたにがい

4. 冬の鷹

まがりぶちかいのかみ 「牢人りある。曲淵甲斐守様御掛りにて、讃州浪人平賀源内」 と一一一口うと、 「おありがとう と、牢名主の声がして、源内は獄に人れられた。 せつかん 牢内は、地獄であった。新規人牢者は囚人たちから儀式化している苛酷な折檻をう けるが、源内の名は一般にひろく知られていたので軽度ですんだ。しかし、華々しい 鷹生活を送ってきた源内にとって、牢内の生活は堪えがたいものであった。 じきさんばいしんそうりよ おめみえ 揚り屋は、御目見以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などが収容され、一般庶民 を人れる大牢よりも条件はよい。そして、源内も三畳を一人で占めることをゆるされ ておけ まひ 冬たが、寒気はきびしく全身が麻痺する。食事は、朝夕二度で飯と手桶に人れた汁、そ れに香の物が添えられる。が、牢内には汚穢にまみれた厠があって悪臭がみちていた。 寒気が一層きびしく、牢内の手桶の水も凍る。囚人の中から寒さにおかされ死亡す る者が出るようになった。源内の体は、衰弱していった。奢侈になれたかれの体は、 みじ 牢内の惨めな生活に堪えられなかったのだ。 ・ : 人牢して間もない十二月十八日、源内は病死した。五十二歳であった。 おわい しやし しる

5. 冬の鷹

良沢の娘の急死につづく目黒行人坂の大火で、会合する機会も持てなくなっていた 玄白たちは、一カ月ぶりに前野良沢の家にやってきた。玄白たちは、良沢の家に人る と仏間で娘の位牌に焼香し、あらためて良沢夫婦にくやみを述べた。そして、庭に面 した一室にあつまった。 かれらは、たがいに江戸の大火の惨状を口にし合った。 「それにしても平賀源内殿のお留守宅が焼けてしまったことはお気の毒でござります。 鷹早速そのことは大阪におられる源内殿に書簡でおしらせいたしましたが : : : 」 中川淳庵が、沈鬱な表情で言った。 の 源内の家は神田白壁町にあった。小 さな家で、妻をめとらぬ源内の留守宅は無人で 冬あった。 玄白は、淳庵が困ったことを口にしたと思った。源内を嫌悪している良沢には、自 あいだがら 分と淳庵が源内と親しく文通する間柄であることを知られたくなかった。 しかし、良沢は、玄白の危惧を裏切るように同情の念を表情にあらわして、 「それは御不運なことでござりましたな。源内殿のことであるからお留守宅にも貴重 な資料等が数多くのこされていましたであろうに : : : 」 まゆ と、眉をひそめた。 197 いはい ちんうつ

6. 冬の鷹

力に根負けしたように生きる気力をたもちつづけていた。 しゅうび 玄白は、ようやく愁眉をひらくようになった。そして、門人たちの間にも笑いが時 折おこるようにもなった。 それから一年 子は、幾分肉付きも増して体も幼児らしくなった。が、依然として体つきは脾弱で、 絶えず熱を出したり風邪をひく。そうした虚弱児であることが影響しているのか、知 鷹能のおくれもはっきりしてきた。 すわ 子は、這うこともせず、坐らせても大儀そうにすぐ身を横たえてしまう。反応も淡 の く、あやしても笑うことはなく、ただぼんやりとうつろな眼を開け閉じしているだけ 冬であった。 玄白は、しばしば子を抱いて部屋の中を歩きまわった。不幸な生れ方をした子が、 自分の化身でもあるように思えて不憫でならなかったのだ。 その年の暮れに、長女扇が生れ、かれは二児の父になった。その女児は長男とは対 照的に四肢の発育も十分であった。 そうした中で、玄白は漢方医たちの激烈な批判に反論を開始した。 玄白には、一つの心配事があった。それは、平賀源内のことで、源内は秩父の中津 262 せん ふびん ちちぶ ひょわ なかっ

7. 冬の鷹

淳庵は、提灯を手に言った。 闇はさらに濃く、夜空に星が散りはじめている。 ひらがげんない 「平賀源内殿のことでござりますが、源内殿に対してどのような態度をおとりになる 御所存か、おうかがいいたしたいと存じます」 と、淳庵はこわばった表情で言った。 玄白は、すぐに淳庵の言葉の意味が理解できた。 たぬまおきつぐ めいわ 鷹源内は、前々年の明和六年十月に老中格田沼意次の命によって長崎にオランダ語研 究のため遊学した。それを源内はひどく喜び、 ありがたきしあはせぞんじたてまつりさうらふ このたびおらんだ の 「此度阿蘭陀翻訳御用被 = 仰付一、冥加至極難レ有仕合ニ奉レ存候 しゆったっ 冬と、記している。その源内が、一年半の遊学を終えて長崎を出立し、大阪にきてい る。淳庵は、やがて江戸にもどってくる源内をタ 1 ヘル・アナトミアの翻訳に参加さ せるべきだと考えているにちがいなかった。 あいだがら 玄白、淳庵と源内との間柄はきわめて親密であり、その親交も長い。玄白が源内を 知ったのは十年も前で、二人を紹介したのは淳庵であった。当時、桂川甫周の父甫三 やしき は奥医師の高位にある幕医で、西洋文物に強い関心をもっ若い学徒を邸にあつめ、知 識の交換をおこなわせていた。その席に淳庵のすすめで顔を出した玄白は、同席して 177 おほせつけられ みやうが ながさき

8. 冬の鷹

絽た。そうした身でありながら、五十歳にちかい年齢になって新たにオランダ語修得な どという難行を自らに課する必要もないように思えた。 緑の色が、日増しに濃くなった。かれの住む中津藩侯の中屋敷にちかい鉄砲洲の海 っ 岸には、魚釣りのたよりもきかれるようになって、船宿のにぎわいも増しているよう 一につ ( 0 或る夜、子の達が食事を終ると、 鷹「父上は、平賀源内殿とお会いになったことがありますかー と、不意にたずねた。 の 会ったことはない、と良沢は即座に答えた。 冬「頭の働くお方のようでござりますね。異国の文物を熱心に御研究なされておられる 由で、その日その日の寒暖をはかる寒熱昇降器というものを作られて大した評判にな っております。異国の機械と同じものを工夫して作られたそうです」 達は、眼をかがやかせて言った。 良沢は、不快になった。寒熱昇降器のことはかれも知っていた。四年前の明和一一年、 オランダ商館長一行が江戸に出府してきた時、源内は杉田玄白らをともなって長崎屋 におもむきオランダ大通詞吉雄幸左衛門に会った。この時のことを良沢は幸左衛門か あ め ひらがげんない てっぽうず

9. 冬の鷹

ろくだか に二万五千石の禄高で老中格にまで昇進したのだ。 身分のひくい者としては異例の出世で、それだけに多くの者の反感を買ったが、か れはすぐれた処世術で幕府内に着実に権勢をのばしていった。かれは実利的な政治家 で、その政治に対する態度は農業経済から商業経済に移行する時代の流れの要求にこ たえるのに適していたのだ。 かれは、窮乏した幕府の財政を建てなおすために貨幣の新鋳をおこなうと同時に、 鷹銅の独占をはかったりした。そして、洋学者平賀源内を重用して、国産振興を目的に 源内を長崎へ派したのである。つまり源内は、田沼意次の経済政策に協力する洋学者 の として利用され、源内も同時に時代の要請にこたえたのだ。 冬良沢は、源内の長崎遊学に心の平静をうしないかけた。源内の活動は華やかで、江 戸からはるばる長崎へと出掛けてきている。その長崎遊学も西洋文物の表面を生かじ りするだけで終るだろうが、源内の異常なほどの好奇心はなにかをつかむかも知れな 良沢がいらだったのは、源内に対する嫉妬ではなかった。源内が知識欲に燃えては しゅんじゅん るばる江戸から下ってきているというのに、長崎にちかい中津で逡巡している自分が 腹立たしくてならなかったのだ。 しっと しんち物う

10. 冬の鷹

着かぬように室内を歩きまわり、翻訳に関係のない西洋文物の知識を口にするだろう。 神経を集中せねばならぬ訳読会の空気は、かき乱される。 それよりも良沢は、源内が加われば匆々に席を立ってしまうにちがいない。良沢の 最も嫌いな人間は、源内のような男であることを玄白は知っていた。人の耳目をひく ようなことを好んでする源内の態度は、良沢にとって堪えがたいものにちがいない。 けんお おそらく良沢は、源内をさげすみ嫌悪しているはずであった。 鷹玄白にとって源内は、才豊かな友人であったが、かれにはターヘル・アナトミアの 翻訳の方が大切であった。それを成功にみちびくためには、源内を排することが絶対 の に必要だと思っていた。 たぬまおきつぐ 冬しかし、源内を怒らせてもならぬ、と玄白は思った。それは源内が老中格田沼意次 わざわい と親しく、もしも源内の不快を買えば翻訳をつづける玄白たちにも幕府から禍がふり ちがみちあり かかるかも知れないからであった。源内は、将軍侍医千賀道有とも親交があり、二千 坪にも達する浜町の豪奢な千賀邸にも出人りしていた。千賀は、囚獄医から侍医にま で出世した医家で、田沼意次の妾である神田橋御部屋様の仮親でもあった。そうした 関係から、源内は千賀道有を通じて田沼意次に接近していったのである。 対外貿易に経済政策の活路を見出そうとしていた意次は、源内を重用し、源内もそ 187 きら どうしゃ めかけ みいだ そうそう