の非業の死であった。 はすぬま 正教の曾祖父の娘は、新田郡を領している幕府の旗本筒井氏の御用役を勤める蓮沼 家に嫁し、貞正を生んだ。が、貞正は筒井氏に仕えることをきらって家督を弟にゆず 、土豪の高山家をついだ。その行為は、貞正が尊皇の志をもっていたためで、自然 に貞正は徳川幕府の旗本である筒井家の監視にさらされることになった。 貞正の子正教ーーっまり彦九郎の父も祖父の意志をついで神道に親しみ、山崎闇斎 ころ 鷹が神道の大典とした「日本書紀」を愛読していた。が、その頃、山崎闇斎の学説を奉 たけのうちしきぶ ずる竹内式部らの尊皇思想運動に対して幕府は弾圧を加え、多くの者を処罰した。そ の の余波が正教の身辺にもったわり、彦九郎が二十三歳の折に正教は筒井家の刺客によ 冬って暗殺されたのだ。 この事件は、高山家に大きな波紋を生んだ。 正教の弟で剣持家に養子として人っていた剣持長蔵は、正教の殺害事件によって一 層尊皇思想を強く抱くようになり、彦九郎もそれに同調した。が、村役人であった彦 九郎の兄専蔵は、幕府の旗本である筒井家の怒りをおそれて、尊皇思想に燃える彦九 郎、長蔵と激しく対立するようになった。 彦九郎は祖母りんの愛育を受けていたが、天明六年八月二十四日、りんは八十八歳 ひごう そうそふ あんさい
嘉膳は、友人の永野十内を急いで呼び、 「なぜそのようなことをなさるのか」 と、声をかけた。 「私は、狂ったのでござる」 彦九郎は答え、しきりに歯ぎしりをする。 もったい 「勿体ないではござらぬか。日頃からっとめて書き記した日記を破り捨ててしまうと 鷹は誠に惜しい。私にお与え下さらば大切に保管いたします」 嘉膳と十内は、彦九郎の手の動きを制した。 の 「言われるまでもなく私も破り捨てることは辛い。しかし、これを残すと友人知己に わざわい 冬禍がかかるおそれがある。それよりもむしろ破り捨てた方がいい」 彦九郎は、暗い眼をして言った。 「しかし、そのようなことをすれば、貴殿の朝廷に対する忠義が後世に残らなくなる ではございませぬか」 十内の言葉に彦九郎は返事もせず沈思していたが、かすかにうなずくと破ることを やめた。 嘉膳と十内は彦九郎の身を案じてその顔を見つめていたが、下女が気をきかして彦 ひごろ
と紹介されているが、良沢もその教えにしたがって人のかえりみなくなった一節截 という尺八の原型ともいうべき管楽器の習熟につとめた。 つまり一節截は良沢の若い頃から愛してきた楽器で、教授を乞う次正とたちまち交 りを結んだにちがいない。趣味は人を結びつけるというが、一節截が良沢と次正をか たく結びつけたのだろう。 簗家には、幸いにも次正愛用の一節截が残されていた。それは、尺八よりも短く細 鷹い。優雅な管楽器で、玉うたはという銘が記されていた。 私は、この旅で、良沢、次正、彦九郎がいかにして結ばれたかを知った。 もりかぜん じじん くるめ の 高山彦九郎は、寛政五年六月一一十七日久留米在住の友人森嘉膳宅で自刃したが、彦 おうしゅう 冬九郎の克明に記した尨大な旅日記は、幕府の押収をおそれた嘉膳によって秘蔵され、 つご さらに信州の矢島家に保存されて現存し、彦九郎歿後百五十年を経て公開された。そ ちちわみのる の発刊を指導されたのは東京学芸大学名誉教授千々和実氏で、私も氏から多くの指示 を受け、前野良沢から彦九郎宛の書簡や良沢の子である達から彦九郎に送られた手紙 を閲読させていただいた。むろんこれらの書簡は矢島家所蔵のものの写しであるが、 この書簡の中で良沢の隠居した日付を知ることができたことは幸いだった。それは、 良沢の息子達 ( 良庵 ) から高山彦九郎にあてたもので、 418 ぼうだい
を将軍家斉に嫁がせていた、いわば将軍の義父でもあった。当然、重豪もその子であ なりのぶ る現薩摩藩主島津斉宣も大御所擁立派であるはずで、大勢力を持つ重豪、斉宣を動か すことができれば両問題も一挙に解決すると予想された。 ぞうしかん あかざきかいもん たまたま彦九郎は、重豪に重用されている薩摩藩校造士館の主宰者である赤崎海門 と親しく、大御所・尊号両問題でたちまち意見が一致した。彦九郎は海門を伏原、岩 倉、芝山と会見させ、かれとの間に両問題を成功にみちびくための盟約をむすんだ。 じようじゅ 鷹基礎工作はかたまり、計画成就の機運もたかまった。そして、薩摩藩に対する運動 が彦九郎に一任され、かれは同志の大きな期待をになって決死の覚悟で九州への旅に のた 発ったのである。かれに託された意図は、朝廷と薩摩藩の連携のもとに幕府を崩壊に 冬みちびくという大理想で、かれも成功をかたく心に期していた。 くまもと かれは、久留米を経て熊本に赴き、苦心の末赤崎海門の仲介で薩摩藩に人ることが できた。 かれは、早速宣伝活動を展開し、薩摩藩士たちも彦九郎を朝廷からの使者のように 丁重に遇した。学者たちはかれの言葉に耳を傾け、かれらの間に大きな反響がまき起 っ ( 。 しかし、前藩主島津重豪、現藩主斉宣の意志は不明で、寛政四年五月一一十五日に彦
家庭を破壊させることを企てていたのだ。 良沢は、彦九郎が家庭に不幸をもたらしていることに苦悶していることを知った。 十月一一十八日、良沢の家に使いの者が一通の手紙を持ってきて去った。それは、彦 九郎に同調している親族の政徳から彦九郎にあてた手紙であった。 その夜、彦九郎が訪れてきたので、良沢は手紙を渡した。 書面に眼を走らせた彦九郎の顔がはげしくゆがみ、眼に涙が湧いた。政徳の手紙に 鷹よると、二十三日に専蔵が団平という家来を連れて彦九郎の家族の住む家に踏みこみ、 きんびようぶきんまきえ 金屏風、金蒔絵の重箱、毛氈など目ぼしいものをすべて持ち去り、さらに翌日には食 の ろうぜき 器まで運び出し、彦九郎の妻子をののしり、叔母にも死んでしまえなどと言って狼藉 冬をはたらいたという。 ごこんじゃうのほどねがひあげたてまつり 「 : : : 私一命にも及候ハ、御懇情之程奉願上候」と政徳は生命に危険が及んでい このなにとぞやな はなくださるべく ることを訴え、「此段何卒簗氏前野氏へも得と御咄し可被下候」と、簗次正、前野良 こ 沢と達の助力も乞うように哀願していた。 彦九郎はその夜一睡もできず、翌朝、手紙を持ってきてくれた香取弥淵を訪れて故 郷の様子をたずねた。それによると兄専蔵の家に旗本筒井氏の家来が滞在しているこ とからみて、専蔵が筒井氏の命令によって彦九郎の家族などを迫害していることがあ 352 たっ もうせん とく わ ゃぶち
鷹 の すます孤独になり、そしてまた貧しくなる。良沢は、彼の語学力によって成った『解 ひとごと 体新書』を踏台に盛名をほしいままにしている十年若輩の玄白の生き方を他人事と観 じて、みずからは尊敬されてももてはやされることのない貧しい一学究としての道を 歩きつづけ、晩年は家督を養子にゆずって身ひとつを借家に置き、最後は娘婿の小島 春庵の家に引取られてそこで八十一歳の生涯を終える。その、『解体新書』をはじめ はげ とするいくつかの先駆的な訳著書を世に送り出した人の、烈しく、厳しく、かっ寂し かった生き方を、作者は感動をもってーーということは小説家としての興味をもって ということにほかならないが 0 追究 . ルに . いる . の . で。 ひらがげんないたかやまひこくろう この小説には副人物として、平賀源内と高山彦九郎が登場する。源内が蘭学にも通 冬じた当時のもっとも進歩的な知識人であってみればその登場は当然だとしても、彦九 郎のそれはやや意外の感を与えるかもしれない。しかし、この前野良沢の縁をもって 登場すタ彦九郎の熱狂・・・直 と置ど飛「方向こそちがえ彼がまさしく良沢の側に属す る人間であることを証しており、その登場によって小説は幅を拡げている。源内につ いても、彼の浮薄さと名誉欲は、これを均衡のとれた常識人玄白の場合と同一平面に 並べて論じることはもちろん不可能だとしても、ともに時の人として派手な存在であ った点において共通するものを持っといっても間違いではない。源内の登場もまた小 しゅんあん びろ むすめむこ
冬の鷹 一吉村昭リ 冬の鷹 吉村昭 Yoshimura Akira ( 1927-2006 ) 東京・日暮里生れ。学習院大学中退。 1966 ( 昭和 (1) 年「星への旅」で太宰 治賞を受賞。同年発表の「戦艦武蔵」 で記録文学に新境地を拓き、同作品 や『関東大震災』などにより、 ' 73 年 菊池寛賞を受賞。以来、現場、証言 史料を周到に取材し、緻密に構成し た多彩な記録文学、歴史文学の長編 作品を次々に発表した。主な作品に 「ふおん・しいほるとの娘』 ( 吉川英 治文学賞 ) 、『冷い夏、熱い夏』 ( 毎日 芸術賞 ) 、『破獄』 ( 読売文学賞、芸術 選奨文部大臣賞 ) 、『天狗争乱』 ( 大佛 次郎賞 ) 等がある。 Photo ◎ Shinchosha IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII 9 7 8 4 1 0 1 1 1 7 0 5 8 わずかな手掛りをもとに、苦心惨憺、 殆んど独力で訳出した「解体新書」だ が、訳者前野良沢の名は記されなか った。出版に尽力した実務肌の相棒 杉田玄白が世間の名声を博するのと は対照的に、彼は終始地道な訳業に 専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死 する。わが国近代医学の礎を築いた 画期的偉業、「解体新書」成立の過程 を克明に再現し、両者の劇的相剋を 浮彫りにする感動の歴史長編。 新潮文庫 吉村昭の本 戦 艦 武 蔵 長英逃亡 ( 上・下 ) の 旅 冷い夏、熱い夏 へ 高 熱 隧 道 仮 鷹 ふおん・しいほるとの娘 ( 上・下 ) 零 式戦闘 機 桜田門外ノ変 ( 上・下 ) 陸 奥爆 沈 コライ遭難 天 狗争乱 流 尢 白の戦 記 プリズンの満月 海 の史 劇 わ たしの流儀 大本営が震えた日 ア メリカ彦蔵 背中の勲 章 生 麦事件 ( 上・下 ) 羆 ( くまあらし ) 嵐 け ポーツマスの旗 天 に遊ぶ 争 遠い日の戦 敵 ( かたきうち ) 光る壁 画 大黒屋光太夫 ( 上・下 ) 船 わたしの普段着 1 9 2 0 1 9 5 0 0 6 7 0 4 定価 : 本体 670 円 ( 税別 ) 吉村昭 I S B N 9 7 8 - 4 ー 1 0 - 1 1 1 7 0 5 ー 8 C 0 1 9 5 \ 6 7 0 E よ 5 5 リ第を 新潮文庫 『解體新書』より カバー装画 カバー印刷錦明印刷 デザイン新潮社装幀室 670
た ゅ 冬の鷹 新潮文庫 よー 5 ー 5 \ 、昭和五十一年十一月二十日発行 9 平成一一十四年九月一一十五日四十刷改版 平成一一十五年九月二十日四十一刷 社 むら あきら八 著、者吉村 昭株司 発行者佐藤隆信 7 本 発行所 般新潮社 社 郵便番号 東京都新宿区矢来町七一刷 編集部 ( 〇一一 l) 三二六六ー五四四〇印 電話 読者係 ( 〇一一 l) 三二六六ー五一一一日 8 http:、、www.shinchosKa.co 」 p 9 豼◎ 価格はカ・ハーに表示してあります。 乱丁・落丁本は、ご面倒ですが小社読者係宛ど送付 ください。送料小社負担にてお取替えいたします。 グ \ つ ) の入を
表記について 新潮文庫の文字表記については、原文を尊重するという見地に立ち、次のように方針を 定めました。 一、旧仮名づかいで書かれたロ語文の作品は、新仮名づかいに改める。 二、文語文の作品は旧仮名づかいのままとする。 三、旧字体で書かれているものは、原則として新字体に改める。 四、難読と思われる語には振仮名をつける。
説 解 説の幅を拡げるのに役立っているだろう。そしてこの源内や彦九郎の行動の背景に、 まつだいらさだのぶ たぬまおきつぐ 田沼意次とそれにつづく松平定信の幕府を置くことによって、政治には直接無関係な 『解体新書』の時代の空気が感得される。吉村氏が、そういう歴史小説の持つべき条 件を、二人の副人物の行跡を通して果していることにも、注意を向けておきたい。 ( 昭和五十一年八月、歌人 )