冬 九郎に薬をのませ食事も運んできた。 彦九郎は嘉膳たちと食事をとり、ようやく落着きをとりもどしたようだった。十内 は安心して家に用事が残っていると言って辞し、嘉膳も彦九郎の部屋から出た。 しかし、嘉膳は不安になってすぐに部屋にもどってみると、意外にも彦九郎はすで に刀を腹に突き立てていて流れる血の中に身を屈していた。 「主人、主人」 鷹彦九郎の口から、低い声がもれた。 嘉膳は驚いて走り寄り、 の 「なぜこのようなことをなされたのでござる」 と、叫んだ。 彦九郎が嘉膳と十内に話したいことがあると言ったので、嘉膳は急いで十内を呼び にやらせた。そして、二人は彦九郎の行為を嘆きながらも遺書の有無を問うと、懐中 から辞世の歌一一首を記した紙をとり出した。 彦九郎は、京都と故郷の方向に体を向け深く頭を垂れた。そして、その夜戌ノ刻 ( 午後八時 ) 頃、気力もおとろえて突っ伏した。 ただちに検使が来て、彦九郎に、 386 いぬ
家庭を破壊させることを企てていたのだ。 良沢は、彦九郎が家庭に不幸をもたらしていることに苦悶していることを知った。 十月一一十八日、良沢の家に使いの者が一通の手紙を持ってきて去った。それは、彦 九郎に同調している親族の政徳から彦九郎にあてた手紙であった。 その夜、彦九郎が訪れてきたので、良沢は手紙を渡した。 書面に眼を走らせた彦九郎の顔がはげしくゆがみ、眼に涙が湧いた。政徳の手紙に 鷹よると、二十三日に専蔵が団平という家来を連れて彦九郎の家族の住む家に踏みこみ、 きんびようぶきんまきえ 金屏風、金蒔絵の重箱、毛氈など目ぼしいものをすべて持ち去り、さらに翌日には食 の ろうぜき 器まで運び出し、彦九郎の妻子をののしり、叔母にも死んでしまえなどと言って狼藉 冬をはたらいたという。 ごこんじゃうのほどねがひあげたてまつり 「 : : : 私一命にも及候ハ、御懇情之程奉願上候」と政徳は生命に危険が及んでい このなにとぞやな はなくださるべく ることを訴え、「此段何卒簗氏前野氏へも得と御咄し可被下候」と、簗次正、前野良 こ 沢と達の助力も乞うように哀願していた。 彦九郎はその夜一睡もできず、翌朝、手紙を持ってきてくれた香取弥淵を訪れて故 郷の様子をたずねた。それによると兄専蔵の家に旗本筒井氏の家来が滞在しているこ とからみて、専蔵が筒井氏の命令によって彦九郎の家族などを迫害していることがあ 352 たっ もうせん とく わ ゃぶち
の非業の死であった。 はすぬま 正教の曾祖父の娘は、新田郡を領している幕府の旗本筒井氏の御用役を勤める蓮沼 家に嫁し、貞正を生んだ。が、貞正は筒井氏に仕えることをきらって家督を弟にゆず 、土豪の高山家をついだ。その行為は、貞正が尊皇の志をもっていたためで、自然 に貞正は徳川幕府の旗本である筒井家の監視にさらされることになった。 貞正の子正教ーーっまり彦九郎の父も祖父の意志をついで神道に親しみ、山崎闇斎 ころ 鷹が神道の大典とした「日本書紀」を愛読していた。が、その頃、山崎闇斎の学説を奉 たけのうちしきぶ ずる竹内式部らの尊皇思想運動に対して幕府は弾圧を加え、多くの者を処罰した。そ の の余波が正教の身辺にもったわり、彦九郎が二十三歳の折に正教は筒井家の刺客によ 冬って暗殺されたのだ。 この事件は、高山家に大きな波紋を生んだ。 正教の弟で剣持家に養子として人っていた剣持長蔵は、正教の殺害事件によって一 層尊皇思想を強く抱くようになり、彦九郎もそれに同調した。が、村役人であった彦 九郎の兄専蔵は、幕府の旗本である筒井家の怒りをおそれて、尊皇思想に燃える彦九 郎、長蔵と激しく対立するようになった。 彦九郎は祖母りんの愛育を受けていたが、天明六年八月二十四日、りんは八十八歳 ひごう そうそふ あんさい
ふくおか 九郎は薩摩を去り、九州の熊本藩、中津藩、久留米藩、福岡藩の学者グループと接触 して朝廷復権を説いて歩いた。それら四藩の藩主たちは、血縁関係からも大御所問題、 尊号問題で彦九郎の運動を支持する立場にあったので、それら各藩の者たちは彦九郎 に温い態度で接した。 しかし、かれが九州で活動中に尊号問題は思わぬ方向に進んでいた。丁度かれが薩 摩人りを企てて熊本に滞在していた寛政四年一月十八日、朝廷では再び尊号を閑院宮 鷹にあたえたいと幕府に伝えたが、幕府は八月二十七日付で重ねて反対の旨を伝えてき 〔 0 の これに対して朝廷は、九月十三日、十一月上旬には尊号を閑院宮にあたえるという 冬強硬な態度を幕府に伝えた。朝廷としては幕府に対して異例の強い反撥をしめしたわ けで、朝幕間の緊張は最高潮に達した。 これに対して、十月四日、幕府側の回答が朝廷にもたらされたが、それはおだやか な態度を一変した強圧的なものであった。回答には、尊号を宣下することは無用のこ とであり主謀者の公卿を江戸に出頭させるよう要求していた。 この強硬な態度に朝廷はたちまち動揺し、十一月十三日には光格天皇から京都所司 代に対して尊号問題は停止すると伝えた。 はんばっ むね
れたかれの妻子が、幕府側の迫害を受けて窮地におちいっているのを見かねて、わざ わざ実情をしらべに上州まで出掛けていったほどである。 なぜ良沢が彦九郎を親しく受け人れるようになったのか。彦九郎日記からはそのこ なかつはんしゃな とについて探り出せる記述は見出せないが、仲立ちをしたのは中津藩士簗次正 ( 又 七 ) という人物であることは彦九郎日記からも確実に推測できる。 高山彦九郎、簗次正、前野良沢の三者がどのように結ばれたのか。その事情を知り きたいと思った私は、まず彦九郎と次正の関係をしらべるために、高山彦九郎の研究家 である前橋市立図書館長萩原進氏を群馬県前橋市に訪れた。 こうずけのくに 萩原氏は、次正の仕える中津藩主奥平侯の先祖が、彦九郎の郷里である上野国の出 あであることに特殊な親近感をいだき接近したのではないかという意見を述べた。調査 してみると、たしかに奥平侯の先祖は赤松氏として上野国奥平郷を領し、それによっ て奥平氏と改めたことがあきらかになった。彦九郎が殊のほか郷土意識の強い人物で あっただけに、萩原氏の解釈はたしかに理にかなっていると思えた。 かながわしゆく 彦九郎日記によると、安永九年六月一一十二日、富士登山の帰途神奈川宿で簗次正と 同宿して意気投合、それから次正との交友がはじまったと記されている。食あたりし 物た彦九郎を次正が道中なにくれと介抱したことによって二人は接近したのだが、かれ はぎわら
冬 と、詠んだ。すでに彦九郎は、身辺に幕府の追及の手がのび、同志である海門との 再会もおぼっかないことをはっきりとさとったのだ。 彦九郎は、京都へ行こうと思ったが途中で捕われの身となると察し、再び森嘉膳の 家にもどった。 へんにう かれを迎え人れた森嘉膳は、彦九郎の変貌に驚いた。眼には落着きを失った光がや 鷹どり、頬はこけ顔に血の気はなく、しきりに歯ぎしりをしている。 嘉膳は、 の 「病気にでもなられたのですか」 と、不安気に問うた。それに対して彦九郎は、 「暑気あたりになやまされている」 と答えたので、嘉膳は脈をはかって薬をあたえた。 もんもん すわ 彦九郎は悶々として日をすごし、身じろぎもせずに坐りつづけていた。 六月二十六日、嘉膳は、彦九郎が異様なことをしているのに気づいた。彦九郎が克 明に書きつづけてきた日記や知人から送られた漢詩、和歌などを水にひたしてもみな がら破っているのだ。 ほお
府への憤りを口にし、さらに良沢に異国事情をたずねたりした。 良沢は、かれの話に耳を傾け、翻訳を終えたロシア領カムチャッカのことなどを述 べて応対していた。 そうした談笑の夜がくり返されているうちに、彦九郎の顔に時折悲しみの表情がよ ぎるのを良沢は気づいていた。 ある夜、良沢は、 鷹「なにか気がかりなことでもおありか」 と、さりげなくたずねると、彦九郎は、 の 「はい」 と、言って、眼を閉じた。彦九郎のもとに故郷から便りがあって、それによると、 兄専蔵が彦九郎を殺すと公言し、彦九郎に同情する親戚の者たちに横暴のかぎりをつ くしているという。 「幼い子供たちが、どのような思いでおるかと思うと哀れでなりませぬ」 と、彦九郎は、憤りをこらえるように言った。 専蔵のこのような行為は、かれの仕える旗本筒井氏の命令にしたがったものであっ た。筒井氏は、反幕思想をいだいて各地の同志を糾合しようと行動している彦九郎の 冬 しんせき
彦九郎は、淀みのない口調で言った。 良沢は、他藩の者から藩侯のことについてそのように詳細な話を耳にしたことがな いので驚いた。と同時に、彦九郎が生地に深い愛着をもった人物であることも知った。 その夜、彦九郎は次正の家に行ったが、再びもどってくると良沢の家に泊った。そ して、翌朝、達とともに明るい陽光の中を出て行った。 そうそう 彦九郎は、その後もしばしば良沢の家に泊っては匆々に家を出てゆくことをくり返 鷹した。良沢は、彦九郎のなすままにまかせていたが、そのあわただしい行動に切迫し たものを感じ不審もいだいていた。かれは、簗次正が訪れてきた折に、彦九郎がなに の を目的に行動しているのか説明を乞うた。 冬次正は、声を低めて彦九郎の動きについて打ち明けた。 かまくらしつけんほうじよう よしさだ こうずけのくににった 彦九郎の祖先は上野国新田の住人新田義貞の家臣で、時の鎌倉の執権北条高時に 対し朝廷軍として兵をおこした義貞に従い、武功をあげた。そして、その後も新田氏 の後裔に仕え、徳川の天下統一によって朝廷が政治と無関係になったことを憂え、武 士を廃し土豪として帰農した。 彦九郎は、祖先が朝廷のため身を捧げたことに刺戟され、祖先崇拝がそのまま尊皇 思想につながった。さらにかれを尊皇のための実際活動にふみきらせたのは、父正教 こうえい ささ しげき まさのり
「私の部屋は風もよく通りますので、お涼みにおいでなさりませぬか。それともそち らに参上してお話をうかがわせていただきましようか」 という趣旨の手紙をしたため、宿の女中に彦九郎のもとへ持参するよう申しつけた。 その誘いに彦九郎は応じて、次正の部屋へやってくると素姓を名乗り親しく会話を 交した。 翌日は雨も上り、親類の浪人と会うこともできたので、次正は帰郷する彦九郎と江 かわさき 鷹戸への道をたどった。途中、彦九郎は食あたりがしたらしく気分がすぐれず、川崎を かわや ろくどう へて六郷をすぎた頃には腹痛もひどく人家に人って厠を使わせてもらったりした。 の 「良沢先生。その時の簗殿の御親切は、今もって忘れることができませぬ」 冬彦九郎が言葉をはさむと、今度は次正が恐縮して微笑した。 体の変調に彦九郎は歩行も困難になり、途中何度も休みながらようやく大森村にた どりついた。かれは、次正に門限もあるので先に江戸へ行くようすすめたが、次正は 深夜についても差支えはないと言ってはなれようとしない。その上、薬なども買いも とめてきて彦九郎をいたわりながら品川の宿場に人り、茶店で休息をとらせた。そし て、さらに駕籠をひろってきて彦九郎を乗せ、芝に人った。 彦九郎は、芝の芝居町に住む知人の善一一郎宅に泊る予定であったが、すでに夜半に さしつか
と、言った。彦九郎は、深く頭をさげた。 良沢は、おだやかな微笑をうかべながら彦九郎の姿をながめた。衣服は垢じみてい て布の破れ目から綿がはみ出し、畳においた刀の鞘の表面も剥げている。眼光は鋭か ったが、その顔には誠実そうな表情があふれていて、かれは一見して好しい人物だと 田 5 った。 「次正殿は、彦九郎殿と旅先で知り合ったと申しておられたな」 鷹良沢は、次正に顔を向けた。 「はい。もう九年前になります。安永九年のことでございました」 の と、次正は、思い出すような眼をして言った。 かながわしゆくば 冬その年の夏、次正は血縁の者で浪人している者を神奈川の宿場まで迎えに出たが、 とうりゅう 豪雨にたたられて旅宿米屋佐七方に逗留した。たまたま富士登山を終えて帰路にあっ た彦九郎が、その宿屋に人った。 「私は彦九郎殿を見て、これは尋常な方ではないと直感いたしました」 てのひら 次正が言うと、彦九郎は恐縮したように首筋に掌をあてて笑った。 ′かり . よ - っ 次正は無聊をかこっていたので彦九郎と近づきになりたいと思い、彦九郎の入った 部屋をうかがうと、風通しも悪く暑気と湿気がよどんでいるようであった。次正は、 さや あか