港であるからにちがいなかった。 かれは、その日町の中の宿に泊った。宿の者たちは親しみのこもった眼を向けてき て、親切に応対してくれる。その態度はおおらかで、他国の者を扱いなれているのが 感じとれた。 おおつうじよしお かれは、まず大通詞吉雄幸左衛門の家を訪れてみたいと思った。長崎へくるように すすめてくれたのは幸左衛門であるし、かれから教えをうけたいと思っていたのだ。 鷹翌日、かれが宿の主人に幸左衛門の家の所在をたずねると、主人は宿の者に案内さ せてくれた。 の やしき 幸左衛門の家は、海岸に近い所に立っていた。門構えの立派な邸で、門に人の出人 冬りがはげしかった。 かれは、玄関に立ち、 「お頼み申す」 と、声をかけた。 すぐに人の気配がして、若い門人らしい男が膝をついた。 良沢は、 「中津藩医前野良沢と申す者です。幸左衛門殿には江戸藩邸でしばしばお眼にかかり りよう。たく ひざ
の名がしるされていないことに気づき、急にかれに対する非難がたかまった。翻訳は おばまはんい 小浜藩医の玄白と淳庵が推進者であり、良沢は単なる協力者にすぎないらしいと思い こんだのだ。 おくだいらまさか かれらの中には、藩主奥平昌鹿に良沢が家にとじこもって藩務を怠りがちであるこ とを訴える者もいた。 三十歳をすぎたばかりの昌鹿は、家臣の訴えをにこやかな表情できいていた。かれ 鷹にとっても、「解体新書」の訳者が他藩の医師玄白であることが口惜しかったが、洋 学に深い理解をしめす昌鹿は、学究肌の良沢に好意をいだいていた。 の 「まあ、よいではないか。藩務に精励するのも藩医の勤めなら、広く天下後世の民に 冬益する学業にはげむのも勤めではないか。あれは、オランダ語の化物だ。あのような 者が一人ぐらいいてもよい。放って置け」 と、かれは、笑って家臣の訴えを制した。 そのうちに、昌鹿は、良沢がオランダ医書の人手に苦心していることを家臣からっ たえきいた。それは、諸病の原因、治療法等を書いたポイセンというオランダ医家の 著した「プラクテーキ」という医書で、価格も高く、貧しい良沢の人手できる書物で はなかった。 272 はだ
の 玄白は、同志の中川淳庵、桂川甫周としばしば会っていたが、かれらも良沢とは会 っていないという。 風聞によると、良沢は病と称して人の招きにも一切応ぜず、その姿をみた者もいな いという。 玄白は、良沢が安産の樹木を送ってくれたのは一種の気まぐれにすぎなかったのか、 と釈然としない思いにとらえられていた。 冬良沢は、玄白の耳にしたように家にとじこもったまま外出することもしなかった。 かれが「解体新書」訳業の中心であったことは一部の者にも知られたらしく、かれ の家を訪れてくる者は多かった。かれらは、 「オランダ語修得を志しております故、なにとぞ御教示いただきたく : : : 」 と、異ロ同音に玄関へ出た妻の珉子に挨拶するのが常だった。 良沢は、妻からそうした伝言をきくたびに腹立たしさを感じて、 「会う気はない」 」りようたく ゆえ あいさっ
ろくだか に二万五千石の禄高で老中格にまで昇進したのだ。 身分のひくい者としては異例の出世で、それだけに多くの者の反感を買ったが、か れはすぐれた処世術で幕府内に着実に権勢をのばしていった。かれは実利的な政治家 で、その政治に対する態度は農業経済から商業経済に移行する時代の流れの要求にこ たえるのに適していたのだ。 かれは、窮乏した幕府の財政を建てなおすために貨幣の新鋳をおこなうと同時に、 鷹銅の独占をはかったりした。そして、洋学者平賀源内を重用して、国産振興を目的に 源内を長崎へ派したのである。つまり源内は、田沼意次の経済政策に協力する洋学者 の として利用され、源内も同時に時代の要請にこたえたのだ。 冬良沢は、源内の長崎遊学に心の平静をうしないかけた。源内の活動は華やかで、江 戸からはるばる長崎へと出掛けてきている。その長崎遊学も西洋文物の表面を生かじ りするだけで終るだろうが、源内の異常なほどの好奇心はなにかをつかむかも知れな 良沢がいらだったのは、源内に対する嫉妬ではなかった。源内が知識欲に燃えては しゅんじゅん るばる江戸から下ってきているというのに、長崎にちかい中津で逡巡している自分が 腹立たしくてならなかったのだ。 しっと しんち物う
流医家として伯元の大成することを願った。 また玄白は、玄沢が良沢に師事してオランダ語研究者として着実な歩みをつづけて いることに満足していた。玄白は、医家であると同時に「解体新書」の訳者としても 知られている。純粋な医家の継承者である養子の伯元と蘭学研究者を得たことは、天 真楼塾に二本の太い支柱が据えられたような心強さを感じた。 玄沢は、良沢からロ授された知識を整理し増補することにつとめ、天明三年九月 かいてい 鷹「蘭学階梯」の述作をまとめた。それは、良沢のオランダ語に対する知識を広く世に 紹介したもので、オランダ語の発音、一般的な学習方法の概略をしるしたものであっ の た。この書物は、良沢の語学力の一端を公けにしたもので、オランダ語研究の門戸を 冬ひらく糸口にもなった。 あんたん 玄白の門は、そうした喜びにみちていたが、世情は暗澹としていた。 ふもとしゆくばしやくねっ あさまやま その年の七月、浅間山が大震動とともに噴火し、麓の宿場に赤熱した石が降って焼 あがつまごおり きつくした。その後上州吾妻郡の吾妻川に熱湯がふき出し、川に沿って点在する二十 二カ村の人畜、家屋を押しながすという惨事にも発展した。 また奥羽一帯に大飢饉がひろがり、餓死者が相つぎ、その影響をうけて江戸でも米 価が高騰した。 321 おうう だいききん
鷹 の その頃、「解体新書」の草稿が成ったことが江戸の医家たちの間にもったわり、多 おばまはん くの者たちが玄白の住む新大橋の小浜藩酒井侯の中屋敷に訪れてくるようになってい た。無名の医師であった玄白の名は、ようやく江戸の医家たちに知られるようになっ ていたのだ。 玄白の身辺は、急に多忙になった。かれは、草稿の整理につとめながらも愛想よく 来訪者に接していた。しかし、独身のかれには、来訪者を十分もてなすことはできな かった。自然に、妻帯をすすめる声が、かれの周囲におこった。四十一歳にもなって わ いるのに、ひとりで侘び住いをつづけているかれの身を案じてくれたのだ。 玄白は、病弱のため結婚することも断念していたのだが、「解体新書」の草稿がま 冬とまったことが好影響をもたらしたのか、その冬は風邪もひかずに春をむかえること ができた。気力も充実し、健康にも自信がもてるようになっていた。 嫁の候補者は、身近にいた。 ありさかきけい ただ 玄白には、有阪其馨という唯一人の門人がいた。玄白の其馨に対する信望はあっく、 「解体約図」にも識語を書かせて印刷の事務を一任したりした。その其馨の縁戚に二 十九歳の登恵という女がいた。 しもつけのくにきつれがわはん 登恵は下野国喜連川藩の藩士安東家の息女として生れたが、不幸にも幼時に両親を こう えんせき あいそ
おおや けた。それは公けにみとめられた者に限定されていたが、商館長一行は、かれらにわ ずかながらでも洋学の知識をあたえることにつとめていた。 殊に江戸では一カ月間ちかくも滞在するだけに、洋学研究者はかれらに接触しよう とする者が多かった。商館長一行は、幕府によってさだめられた日本橋本石町の長崎 とうりゅう 屋源右衛門の経営する宿に逗留する。そして、将軍拝謁時以外は宿から外出すること ができなかったので、学徒は長崎屋へとおもむくのだ。 鷹良沢は、オランダ商館長ャン・クランス一行が十日ほど前に江戸へ人り、長崎屋に おおつうじ 投宿したことを耳にした。そして、その一行中にオランダ大通詞西善三郎がくわわっ の ていることも知った。 よしお 冬西は、吉雄幸左衛門らとともに最もすぐれた通詞という声が高かった。かれは、父 くちげいこ にならって七歳の時に通詞見習になり十八歳でロ稽古に任ぜられた。その後稽古通詞、 こつうじ 小通詞末席、小通詞並、小通詞助、小通詞と順調に栄進し、大通詞助をへて三十九歳 の年に通詞として最高の位置にある大通詞にのぼった。現在五十一歳のかれは、四十 四年間オランダ人と接し通訳の仕事をしていることになる。 しかし、一般的に長い歳月通詞の仕事をしていた者も、すぐれた語学力の持ち主と はかぎらなかった。その原因は、かれらがオランダ語を学問として基本的に学習する こと ほんごくちょう
394 の 続動 の 簡事 が と 質 た も 玄 ら しこ問 。返 伯 タ 々 がを と っ 白 ての状記若陸む 元医送 : 書 も と 天 へ生 . づは畏い書を さ狭さ奥つ を の学 り 、敬は玄れ小 ルれけ 取 - 兄の 日月 て供を蘭白 、浜関 り は重そ て 年 の の編侍侍 寄 、要の ア い い た者身医も集医 医 な後 せ る ハナ 人清 、関問両 。を に た と 編藩題者 そ養連集 と斎庵 ち に 四 十アれ子れ し杉建 集 医 め の と に の ら イ白 ど て田部 ふ間 ノ、 の て た必 し と 歳訳 兀 一駕か 祝け養先先 も た し れで で業例 、籠ご すた子生生 て て す に外 、、衣 : 伯 そ 建 いさ で努な人乗 き関元 し部 る も甫 く 大 り て 家 にカ の ん し玄槻 患 の軒児大 、を こ で に が槻 問 寛 のた白玄家 っ イ白 : 墅 と 答 あ玄 政 元簡 世同を沢を さ い の往 、師 れげ沢 七で が が = 年 と学診 の い そ 父 つ中仰は し 玄れ玄 秋たれさ 白 て白 て川 ぐ大な の をれ に い淳 者・ いが は で と た い の た庵たに オた門 ら 和 り 。はんち進 蘭同ま清 ネ上 ン 有 医家 と庵 た 、でみ だすあ 、会 阪 事 ダ に めは 桂ぐっま人 医 問所 其 よ死 術 川象れた と 答蔵 う去 た 甫なた 。多 の と さ し と し 周ヒ才 て 最 れ企た く と の 同 庵 はう能 し が て て 健を 蘭 極 いた の て の 在も 学的 出 る の そ でち 者な 導 初 版玄 だ の も活 者 し白 、な 。書 の ありさかきけい
を必要とするだろう。それよりも系統的に単語をしるした辞書を人手することができ れば、著しい効果をあげられることはあきらかだった。 かれの辞書に対する関心を知った小川悦之進は、 「実は、通詞の中に日本語とオランダ語のデキショナールを秘蔵している者がおるの です。詳細はわかりませぬが、わが国に宣教のためやってきたバテレンが日本語を理 解するために作ったデキショナールだとのことです。しかし、そのデキショナールは、 鷹われら通詞も見せてもらった者はおりませぬー と、言った。 の 良沢の眼はかがやいた。もしもそのデキショナ 1 ルを筆写することができれば、単 冬語修得に関する難問は消える。 「その通詞殿は、どなたでござる」 良沢は、うわずった声でたずねた。 「茂節右衛門と申す者です」 と、悦之進は答えた。 茂家は、四代にわたって通詞職にある家で、節右衛門は恵美須町の乙名伊東源助の 子として生れたが、三代七郎左衛門の養子となって茂家をついだ三十八歳の小通詞並 しげ おとないとう
めなししれとこ 前年五月、蝦夷地のクナシリ島でアイヌの反乱が起き、それは目梨 ( 知床半島 ) に つうじ りやくだっ ひろがって支配人、通詞、番人等六十五名が殺害され、物資が掠奪された。この事件 ぎやくたい まっ を重視した幕府は、関係者の処罰と同時に、蝦夷地を統治しアイヌを虐待していた松 まえ 前藩に対して失政を責める態度を強めた。 そうした中で、松前藩は幕府の処断をおそれ、蝦夷に人る者の人改めをきびしくし たので渡海は至難になっているという。 鷹「十日か二十日お待ちになればもしかしたら船があるかも知れませぬが、それもはか りがたく存じます。それに、早くも寒気がきびしくなり却ってお体のためになりませ の ぬ。来年二月から三、四、五月頃になれば出稼ぎで蝦夷に渡る者も多く人改めも緩和 冬しましようから、その頃に再びおいでになってはいかがでしようか」 善四郎は、そこで言葉をきると声をひそめて、 「もしも来春松前に渡ることができましても、アイヌの反乱事件のことについては決 して口にしたりしませぬように。それが松前藩の耳にでも達したりしますと、むずか しいことになります と、言った。 かれは、思案の末、蝦夷へ渡ることを断念して青森にもどった。そして野辺地を経 ごろ でかせ かえ