れば次の事故は防げることになります。もし人災なら、問題は東電の組織や政府の対応 にあるのであって、原発そのものにあるのではない、ということになるでしよう。 実際には、天災か人災か、という議論はあまり意味がありません。地震・津波は天災 といいますが、もっと高い防潮堤を造ったり、日頃から徹底した避難訓練をしておけば 被害はかなり縮小できたでしようから、それも人災といえなくもない。一方、原発事故 もそもそもの発端が大地震、大津波にあるという意味ではやはり天災ともいえるわけで す。 要するに、天災か人災かなど、きれいに分けられるものではなく、からみあっている。 よく「想定外」といいますが、あらゆる技術は一定の「想定」のもとにつくられている。 いや、技術だけではなく、われわれの生活そのものが一定の「想定」のもとに成り立っ ているわけです。家を新築する時にはまさか来年死んでしまうとは考えていないし、借 金する時には、通常は、返済できると「想定」している。タクシーに乗る時には目的地 へ行ってくれると考えているし、餃子を食べる時には毒ははいっていないと「想定」し ている。 ところが技術になると、この「想定」は本質的に困難な問題をはらみます。もともと、 796
ハラエティのあまりのコントラスト。言いかえれば、この手のバラエティを連日ほぼあ らゆる時間帯にわたって、われわれは見続けてケタケタ笑っていたわけで、普段気付か ないそのことのおぞましさをこの時ばかりは改めて実感しました。 私は謹厳実直などとは程遠い人間で、ナンセンス番組もお笑い系も好きな方ですが、 それでも、この時ばかりは、なるほどこれでは「天罰」だと思ったりもしたのです ( む い とろん、くりかえしますが、被災者への「天罰」などではありません ) 。 しかし今日では、石原氏を除いて誰も「天罰」だなどと言いません。 に近代社会とは、「〕ー・「屯」ーど・。い引、いがを否定し ' 、それに代えて人間の理性や人間 わの能力を称揚してきました。出来事には原因があり、原因と結果をつなぐ法則を見出せ い ば、人は出来事を管理できる、という。 力、和学てあり、さらに科 災この法則を見出すのは人間の。・理生 0 ガであり、その綿「当近代謝・」 学から産業技術がうまれ、技術の使用によって、人は自然を変た、・・社会を変え・、 ' ' 幸福を 人 増進できる、という。 六確かに近代科学や近代技術は、われわれにけた外れの富をもたらしました。留済磁長ー こそが近代の幸福を約束したのです。 141
0 はありません。西欧のキリスト教的な宗伝統を背景にもった「信仰」なのです。 もちろん原発に関する判断はそれだけで決まるものではないし、ヨーロツ。ハにもアメ リカにも反科学主義や反技術主義の流れがあります。というより、この「反ーの方も日 本よりもっと強固なぐらいです。だけどそれも、もとはといえばそれだけ科学信仰、技 術信仰が強いからなのです。 ヨーロツ。ハではドイツやスイスやイタリアが脱原発を宣言しました。しかし彼らはフ ランスから電力を買えるし、またこの先どのように展開するかわかりません。アメリカ にも環境主義や自然主義はありますが、日本の原発事做程度にけ力の原発推進は 止まらないでしよう。遺伝子技術もも金融工学も絶対にやめません。 明・ 文問題がでれば、よりよい技術を作り出すだけなのです。それが、人間の自由の拡大と 技幸福の実現に結びついているという信念があるのです。神が自然を人間の役に立つよう 解に創ったのなら、人は自らの幸福のために自然を支配することができるはずなのです。 溶 自然という制約から自立することが人間の自由だというわけです。 章 八 ここにアメリカと日本の大きな違いがあります。われわれはどうみてもそんな信念を 7 第 示をもっていないのです。科学 も 0 ていません。 ' 恥笋も拠術を信仰一い ~ 一アー幻「的背ー、
しかし、また、ゴの無能の印に、いぞ、人は、自然のうちにある、何か計り知れな 密へといざなわれるのではないか、とも彼 はいうのです。 結局、この現代技術の最先端において、われわれは、あのギリシャの古人と同様、計 引にさまずき、その覆い隠された力を改めてまざまざと知るほ り知れない自然 かない本当の意味での自然のもっ途方もない力に思いを至すほかない。物理科学もも ともとは自然のもっ神秘的というばかりの潜在力を知るための知識だったはずです。 そこで、もう一度、なぜギリシャ人が、自然を支配するなどと考えずに、人は自然に 寄り添い、自然の内蔵するものを引き出す手助けをする、と考えたのかに思いを致すこ 明一 蚊とができるのではないでしようか。 それは、日本の場合には、本古来の「自然 ( じねを」 ~ 、思いを致す、ということ 解なのです。 むろん、「現代テクノロジー」を「テクネー」へ戻すことはできません。しかし、「テ 八クノロジ 1 」への志向のうちに、「テクネ 1 」への思いを持ちこむことで、われわれは 現代技術の暴走を多少でも遅らせることができるのではないでしようか。 227
ってしたのです。 実際、世論調査などによると原発反対派が容認派を大きく上回っているようです。確 かに多くの人が脱原発の方を向いているのはわからなくはない。しかし、今回のとんで もない事故をみてなんとなく原発はいやだ程度の話で脱原発へとふれるのではどうにも なりません。そんな気楽な話ではありません。 ( 発は 「原発」をかりに現代の技術文明の象徴だとすれば、脱原発は、この技術文明そのもの ) ど・一プ考・え・る・の = か、・もっといえば、技明にしたわれわれの「幸福」をどう考え 明・ 文るのかという問題へつながってくるからです。 技まずはっきりしていることは次のようなことでしよう。 解今ここで脱原発 ( 向かったとしましよう。これは、長期にわたって電力使用レベルを 落とすことであり、電力料金の値上げを容認することです。それは企業からすればコス 八ト上昇によって国際競争力を失うことを意味し、消費者にとっては生活レベルを低下さ ー・を一〔」・・と・を意味ナ・を・、ということです。
や技術への期待を「主義」にまで持ち上げるには、何か強烈な精神的背景が必要なので す。それが日本にはありません。 だから、われわれは科学や技術を使いながらも、そのことに確信がなく、問題が起き ればすぐにオタオタする。責任のなすりつけあいになる。最後は、結局、「よそがやっ ているから」とい = 丿・週随主 - になるのでしよう。 —e や遺伝子工学も同じで、それがわれわれの「幸福」にとってどういう意味がある のか、などという問いもなければ、特別な思い人れも、また特別な反対もなく、ただ 「アメリカがやっているから」とか「世界の潮流から遅れるから」というだけのことな のです。 今回の原発も同様でしよう。推進派もどうもそれほど強い信念があるわけでもない。 反対派も情緒やイデオロギー的執念以上の強い信念があるようにはみえません。推進す るにせよ、反対するにせよ、それをるほどの「信仰」も「哲学」もないのです。 じっさい、原発に「原則的に」あるいは「論理的に」反対するのは決して容易なこと ではありません。情緒的には多くの人が何となくそう思う。しかし、どうして火力発電 はよくて原発はダメなのか、水力はよくて原発はどうしてダメなのか、その決定的な理 208
ト教的な発想がここにはあります。体をルを理や月神、つまり霊性はいつう に近いわけです。 さらに大事なことがあります。「この世は最善ではない」としてひとたび神学的世界 観が崩れたとしても、霊的である「理性」によって、人は自然を支配し、この世をより よいものに作り替えることができるという、この発想そのものが、実は「最善説」の変 形ともいえるのではないでしようか。 「理性」の働きによって、人がいわば神の代理として神の意図を実現するわけです。神 も人間の幸福を望んでいる。よりよい世界とは人間の幸福が増進する世界で、人はこの 世を「最善」のものにする義務をもっということです。 となれば、西欧の科学や技術への深い信頼と執着は、実は、キリスト教的心情を背景 にしているということもできる。これはヨーロツ。ハよりもアメリカにおいてもっと顕著 彿イは、実は宗教的心情に支えられてい る、ということなので アメリカ的な科学主義や技術主義は相当筋金人りのものと思わねばなりません。ただ 新しいものといえばすぐに飛びつく実験精神旺盛なアメリカ人の性癖などということで 206
し生きながらえるかです。科学や医療や技術を駆使して、いかにして「死」と「生」の 境界線を引き直し、いかにして「死」を先送りするか、ということなのです。こうなる と「死」は医療技術の従属変数ということになってしまう。 病院の一室でべッドに寝かされ、点滴やらその他のチュープを差し込まれ、心臓の鼓 動をモニターして、画面に映ったピコピコだけで「生」か「死」かを管理するという光 景がどうしても浮かんでくるでしよう。これは近代主義というものの果てにあらわれて くる生の廃墟といってよいでしよう。 考えてみれば、これはなかなかの皮肉ではないでしようか。 い 生命尊重主義にたち生存を第一原理とする近代社会は、まさに人間の「生」と「死」 何 を、もっともその基本的な原点、すなわち生物的・生理的な次元にまで退却させてしま で 幻ったのです。生命尊重主義のゆきついた先が生命維持装置なのです。 ここでは人間はただひたすら生物的・生理的な存在であって、「生」とは循環器と呼 吸器が機能しているということにほかなりません。どうやら文明のきわめて高度な段階 三で、人間はもっとも単純でむき出しの生物的存在に戻ってしまった。 人間の基本的権利なるものがかってなく重要な価値とされ、科学がかってなく進歩し、 はいきょ
お気楽な話 今回の東日本大震災に付随して生じた大間題は原発事故でした。多くの人が、地震と 津波は自然災害だが原発は人災だといいます。確かに、原発事故対応の初動のまずさ、 明一 蚊情報の混乱、電源喪失 ( の無策、これらを見ていると、素人ながらあぜんとします。そ 技もそも、どうして海岸沿いにずらっと電源装置をならべたものなのかなどと不思議に思 解います。 しかし、これが人災だといって東電の責任、政府の責任、補償問題などと騒いでいる 八人の多くが、「だから原発は危険だ、廃止しろ」というのはどこかへンではないでしょ 5 うか。人災なら防げるはずです。事故拡大原因はそれなりに究明できるはずで、そうす 第八章溶解する技術文明 しろうと
医療技術がかってなく高度化したこの「近代市民社会」のまっただなかで、われわれは 「死」にさいして、もっとも単純な人間存在であるむき出しの生命体に戻らざるをえな いのです。 おそらくは誰もが、べッドにくくりつけられて生命維持装置によって「生かされる」 ことを望みはしないでしよう。しかし、誰もがそうなる可能性にさらされている。そし て、どうすればそれを避けることができるかわからない。だからできるだけ「死」につ いては考えまいとする。そうこうするうちに気がつけば救急車で病院に運ばれ、チュー ブ人間にされてしまうというわけです。 だが、それこそが今日の死生観というべきものなのかもしれません。もし今日の死生 観があるとすれば、それこそ、べッドにくくりつけられてもよし、全身チュープだらけ で生きる物体になってもよし、道端で突然死んでもよし、事故にあってもよし、として すべてを受け人れる覚悟をもっことかもしれません。こういうふうに達観すれば別に 「死」について思い悩む必要もないでしよう。 考えてみれば、それこそもっとも徹底した死生観というべきなのでしよう。いわばゼ ロ地点に戻った死生観というものです。もはや死というものをいかなる形でも受け人れ、