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検索対象: 反・幸福論
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1. 反・幸福論

そもそも、人間は決して平等になどできていません。人によってカッコよく生まれた ものもカッコ亜く生れたものもいる。カッコよく生まれたものはそれだけで有利な財 びしゅう 産をもっている。いくら美醜は人の主観だなどといってごまかしても、実際には生まれ ながらの条件の違いを無視することはできません。企業の面接でも美人はそれだけでト クなのです。 美醜は外見ですが、性格もそうで、どこへでてもすぐに人気者になる者もおれば、引 っ込み思案でぼそぼそしゃべる者もいる。社会に出れば気のきいたセリフが流れるよう に口をついてでてくる者がトクをするのは当たり前で、これも決して平等ではない。そ れを、性格はその気になればいくらでも変えられるなどというのはきれいごとで、ある 論 福程度は真理であってもせいぜい「ある程度」の話です。 の かくのごとく、どうにもならない不平等がある。いや、それも正確な言い方ではなく、 虫 蛆 人それぞれでどうにもいたしかたのない違いがある。この「違い」を「不平等」だとわ 人 れわれは感じてしまうのです。どうしてか。それは、「社会的に成功する」ということ 五がわれわれの人生の大きな基準になっているからです。「社会的に成功する」ことが幸 福だと思っている。そして「人はみな幸福になるべきだ」と考えている。 773

2. 反・幸福論

はどこにあるのか、と問わねばなりません。これはすなわち、「善い結婚の形とは何か」 と問うことを意味しているのです。 そして、アリストテレスに従っていえば、「善い結婚ーをすることが名誉あることだ とすれば、その名誉に値する「徳」とはどのようなものなのか。こういう問いが生まれ ます。誰でも、未成年であろうが、ただ「愛しあっている」というだけで結婚できるわ けではない。いや、法的には一定の年齢になれば結婚できるでしよう。しかし、「善い 結婚」を可能にするには、それなりの資格と条件がなければならない。ここで「徳」が でてくる、というわけです。 「善い結婚」とは何か。へたをすればトルストイのように歳を越して妻から逃げ出す 羽目になるかもしれません。「善い生」とは何かなどといっていたソクラテスもとんで もない悪妻と結婚していたようです。答えは容易には見いだせません。だがそのように 問うてみることは必要なのです。そしてその問いこそアリストテレスの問いかけでした。 そして結婚を例として述べたことは多くの分野に適用可能なのです。 すぐに思い浮かぶのは夫婦別姓をめぐる議論でしよう。賛成派 ( リべラル派 ) は夫婦 同姓であれ別姓であれ、合意さえあればどちらでもよいではないか、といいます。夫婦

3. 反・幸福論

ず親がいます。たとえ死んでいても親の記憶はあるし、場合によっては遺産も借金もあ る。「横軸」は破棄することができても、「縦軸」は破棄できないのです。 このことは何を意味しているのでしようか。 無用者の系譜 われわれは決して自分で選択してこの世に生まれ出てきたわけではありません。結婚 や就職や自分の生き方はある程度、自分の意思で決めることができるでしようが、そも そもその前提となる「生」そのものを選択することはできません。 とすれば、私は私の意思を超えた何かによって存在しているとう力ない。私から 幸 すればこの事態はまったくの偶然です。生まれてしまったのだから仕方がないのです。 い だから、まずはこの「生まれてしまった」という選択不能な事態を受け人れるほかな とら 世い。その時に、われわれは「縁」という一言葉を使うのです。寅さんなら、″縁あって、 詰一たいしやくてんうぶゅ 帝釈天で産湯を使い〃とでもいうところでしよう。仏教では、それを「因縁」というわ 四けです。人の生は、様々な「縁」や「因縁」によって成り立っている。 いくら、「私の人生は私が決める」とか、「オレこそがオレの人生の主人公」などとう

4. 反・幸福論

まったのか、と改めて自らに問うことができるでしよう。 宮澤賢治の生まれた 1896 年、彼の生まれる 2 カ月前には三陸で地震津波が起きて います。歳の時に関東大震災が起きます。彼の死ぬ 1933 年、死の半年前にも三陸 き沖の大地震がおきています。 むろん、賢治は、東北の貧しさを直視して、農業改善に全力を尽くしました。その意 い 味では決して自然に服し忍従していたわけではありません。しかしそれでも、賢治のな ずいじゅん 罰かには、「おのずから」 ( の随順という日本的な自然観と、そこからくる死生観が静か にに流れているように思われます。花巻に生まれた賢治が愛した東北は、日本でもおそら わくもっとも「おのずから」への随順や忍従の精神の残っている場所でしよう。その場所 が巨大地震と大津波に飲み込まれたことは、皮肉な、しかし本当に心の痛むことという 災ほかありません。 人 章 第 165

5. 反・幸福論

佐伯啓思 1949 ( 昭和 24 ) 年奈良県 生まれ。京都大学大学院人間・琿撞 、を究科教授。東大経済学部卒業。」 東大大学院経済学研究科博士課程 単位取得。「隠された思考」「代型 本のリべラアズ広了と著書多数。 ⑧新潮新書 反・幸福論 さえきけいし 著者佐伯啓思 2012 年 1 月 20 旦発行ン 2012 年 2 月 10 日 4 刷 450 ん ふ はん 発行者佐藤隆信 発行所株式会社新潮社 〒 162-8711 東京都新宿区矢来町 71 番地 編集部 ( 03 ) 3266-5430 読者係 ( 03 ) 3266-5111 http : 〃 www.shinchosha.co.j p 印刷所大日本印刷株式会社 製本所加藤製本株式会社 ⑥ Keishi Saeki 2012 , printed in Japan 乱丁・落丁本は、ご面倒ですが 小社読者係宛お送りください。 送料小社負担にてお取替えいたします。 I S B N 9 7 8 ー 4 ー 1 0 ー 61 0 4 5 0 ー 5 C 0 2 1 0 価格はカバーに表示してあります。 2 び / 2

6. 反・幸福論

むしろ、私にしつくりくるのは次のような考え方なのです。 人間の生とはもともと生物的なもので、それは基本的に広い意味で、物質現象という ほかありません。だから死れ御個体ば - 肖減 - す・を 9 ' 無・ヘ・帰・・つ・・てゆぐ、ーそれだげ・の。ど・で・す。 それ以上でもそれ以下でもない。その本来は物質的現象のなかから何らかの形で「生 命」が生み出される。「意識」が生まれ「精神」が生まれる。その「精神」が「幸福」 や「死」について考えをめぐらせるのです。 この「精神」の働きは、社会のなかで他人や様々な出来事と共振しあうし、またカ って生きていた死者の思い出や「い一たものども共振しあうそしてそれは非常に大事な ことです。 ( たぶん ) 人間だけが「精神」をもっという意味もそこにある。 論 福しかし他面で人間はただの生物体として死んでゆきます。「土にかえる」ごとくただ のの物質に帰ってゆき姿も消える。物質において個体の意識も精神もありません。「無」 蛆 なのです。 人 五どこから来てどこへ行く 実はトルストイもそのことを述べている。彼は、人が死を恐怖しなくなるロジックと 733

7. 反・幸福論

味では、広い意味で物的なもの ( 最近の物理学では究極的には「物質」と「物質でない もの」の区別はつかないようですが、それも含めて物的なもの ) の偶然の組み合わせや 流れから「われわれ」も出来上がっている、という考えに何の不都合もありません。 ここで思い出すのは、トルストイとおおよそ同時代人である福沢諭吉のいわゆる「人 間蛆虫論」です。 近代日本を作る上でをつ。ど一も重要な想関齟をし福沢は『福翁百話』のなか で次のようなことを書いています。現代語に直し、かっ私なりに少し編集して引用して おきましよう。 「おろかなことだが、宇宙のなかに地球があるのは大海に浮かぶ芥子の一粒のような ものだ。人間と称する動物は、この芥子の一粒の上に生まれて死ぬだけで、どこから 来てどこへ行くのかもわからない。ちりやほこりのようであり、水溜まりに浮かぶポ かげろう ウフラのようなものだ。蜉蝣は朝に生まれタに死ぬというが、人間も同じようなもの 由という広大な視点から自らを見れば、人間などは無知無力で見る影もな い蛆虫のごときもので、ある瞬間に偶然この世に生れ出て、喜怒哀楽を一時の夢とし 736

8. 反・幸福論

ものを問い直さなければならない、ということです。戦後日本人が幸福のもっとも基本 的な条件とみなした「個人の自由」と「縁」は対立するものだったのです。 もうひとつはもっと根源的なことで、端的にいえば、人間は最終的にはひとつの生物 体、生命体として死ぬほかない、ということです。この世に生まれ、そして死ぬという 人生の最初と最後だけは、どうつくろっても生物的な個体的な現象なのです。特に 「死」の方はそうでしよう。生まれる方は母親という他者がいなければ成り立ちません が、死の方は、これは全く個人的で個体的な現象という以外にない。だから、死とは本 質的に「無縁化」なのです。そのように言うほかないのです。 そして、戦後年以上もたって、個人主義や自由主義を理想とする近代化もすすみ、 高度な産業社会ができあがったまさにその極致で、「無縁死」というむき出しの生物的 な死にわれわれは直面している。これは別に驚くことでもなく、考えてみれば当然のこ とで、「近代化Ⅱ個人的自由の拡大」という方程式をどこまでも推しすすめれば、どう してもむき出しの生物的な死という現象に向き合わなければならなくなってしまう。 むしろ不思議なのは、一方で、個人的な自由や幸福を徹底的に求めながら、他方では、 ここへきてやたら「絆」や「つながり」が言われるようになった、ということでしよう。

9. 反・幸福論

受け人れるということは徹底した「無縁」を受け人れるということなのです。 これはどうしようもない矛盾を孕んでいる。どうしてかというと、「死」に至るまで われわれは決して「無縁」ではありえないのですが、「死」に至る瞬間には「無縁」で しかありえないからです。 「死」を経験することはできません。「経験」とはすべて生きているからこそありうる 事態だからです。だから、実際には「無縁」を経験することはありえない。ところが、 「死」へ向かうとは、ありえない「無縁」へ向けて生きることなのです。この生は、「 縁」ではないけれど、常に「無縁」に向かっている。 そしてそこからひとつの精神的な態度が生まれてくるでしよう。生がどうしようもな く「無縁ーへ向けて動くなら、その生のうちにあらかじめ「無縁ーを組み込んでゆこう とという態度です 人の生のモデルだったのです。 それを昔の人は、出家者と呼び、 ' 漂泊者どい、また無用者や隠遁者などといったの 四です。唐木順一二はこうしたロてたちを「無用者の系譜」といっていますが、ここに は、日本人の心が感じとったある種の死生観が表明されているといってよいでしよう。 はら 9 9

10. 反・幸福論

い奇病におかされる。あるいは、家族に重度の障害者を抱えている。こうなると通常言 う幸福など最初から望むべくもありません。どうして私はこんな不幸な境遇に生まれた か、と誰しもが思ってしまう。しかしこうしたほとんど偶然による不幸はどうにもなり ません。引き受けざるを得ないのです。 「ポジティブ , 、まかり通る というあの近代社会の原則 にもかかわらず「人はみな幸福に、は . 必呼聳は歴利をは . っト がでてくると、人生のうちに生じる様々な偶然の「違い」が「不平等」だと意識されて しまうのです。人生は不平等だ、神様は不公平だと怨みたくなる。「不平等」という意 福識は不平不満の連鎖を生みます。こうなると「人はみな幸福になる平等な権利をもって のいる」というあの近代的原則こそが不幸をもたらしているとさえいいたくなるのです。 そこでどうなるか。まさか神様の責任を追及するわけにはいきません。責任は自分に 人 あるので、自分で境遇を変えるしかありません。しかしまさか体型や顔かたちを変える 五わけにはいかない。で、どうするか。考え方を変える、というわけです。幸福になるも 5 ならないも自分次第だということになります。