「食ってねえ。じつは」 「べべさんがよく俺の生まれたときの話を出しつつ、端末で西洋占星術のサイトをひ 「じゃあこれいいよ。俺そんなに腹すいてするから覚えた」 らいた。ここで相性鑑定をするのにふたり ない」 「ほんっとにおまえ、親に愛されてるな」 の正確な生年月日時と出生地のデータが必 彼はつつつ、と皿をこちらに押してくる。 「うん」 要だったのである。ふたりとも未来東京都 と、彼は読みさしの漫画本を手にとって生まれだし、彼の誕生日なら知っている ひらいた。 「うん」 おれと一日ちがいの九月二十三日の天秤 「じゃあありがたく」 見ていてまぶしいくらいに彼は両親に愛座。おれはその前日の二十二日で乙女座、 「うん」 されていて、そのことをひやかされてもま一日の差で星座が分かれている 彼はべッドに手を伸ばして漫画本をつかるで屈託がない。愛されることに堂どうと これまでも彼との相性は気になって、雑・ もうとする。訊くならいまだ、という声がしていて、たぶんそれが人を惹きつける誌の占い記事を眺めたりしていた。しかし 頭の中でした。 し、おれもそこに惹かれているんだと思う。乙女座は土属性、天秤座は風属性の星座で 「あ、あのさ」 「生まれた時間なんてなんで知りたい」彼あり、現実てきで安定志向の「土」と自由 「うん は本に目を落としつついう を求める「風」は、ビジネスならば最高の 「おまえ自分の生まれた時間ってわかる ? 「ちょっとね」 相性だなんていわれるけど、恋愛ではよい 何時何分まで、正確に」 「ふうん」 相性だと書かれていることはあまりない 「朝六時ちょうど」 おい、あきらめがはやすぎねえかもう はっきりいえばよくない古い本だと 「あッあさろくじちょうど ? 」まさか即答ちょっと食いさがりやがれーーーと、内心文乱暴に「相性三十点 , なんて書いてあった されると思わなくて、反射てきに聞きかえ句をいう りして、テストでは見たこともないその数 した声は裏返っていた。 彼はおれにあまり関心がないらしいこ字にめまいがした。 と。いつもはそれがさびしくてむなしさに 荻原は笑って、「なんその声」 しかし占いとは、相性や未来を決定する 「いや、だって、知ってると思わんくて。おそわれるところだが、いまは彼の生まれものではない。相手と自分の性質を知っ 自分の生まれた時間」 時間という貴重な情報を獲得したので、そて、ふたりらしい唯一無二の関係を作って 「知らないと思いながら訊いたのか」 の興奮のほうがまさっている いくために参照する羅針盤ーーそんなふう 「あとで親に訊くか、母子手帳でも見とい おれはいつものように勉強するふりをしに活用していくものなのだ、と、これはど てもらお、つかと て、テープルに予備校のテキストなんかをこかの占い師の言葉の受け売りだけど。 290
穫れ。一 ィ 7 ト ン / ・冫′ゾ 地の肉を 絵と文 小豆島で 狩り暮らし 内澤旬子 第一一十一一回変わりゆく「殺生」 獣害には、地域住民全員で、集落全体を 変えていくことが、大事。それが一部の人 たちにはすでにわかっているのに、成功例 もでてきているのに、ど、つにもこ、つにも動 しようどしま かない。動かせない。ト / 豆島だけの問題で はない日本各地で同じことが起きてい る。集落も自治体も猟友会も、みんなどう にかしよ、つと思っているし、できることは しているのだけれど、うまいこといってい 正直に言えば、こ、ついう問題に立ち向か うのは、とてもとても苦手だ。人がい力に こちらの期待通りには動かないか、よく知 っている。動かない人に声を掛けるくらい ならば自分でやったほうが早いと考えがち だからこそ、組織を離れてフリーランス で、しかも共同作業のなるべく少ない職種 で生きているとも一言える。 こうちゃく しかし世の中にはこういう膠着状態に 着手しようと思う人たちがいるのである。 前回にも書いた「野生動物対策技術研究 468
イラストレーターの二宮由希子さんと一緒 ってください〉 ラストレーターと漫画家の境目がなくなっ と書かれたハガキが届いた。これを郵便に「ギャラリー」にいらっしやった。 た理想の時代を作った ) 、「本人術ー ( もは この日、丹下さんは娘のバレエの発表会が 受けで手にしたばくは、「わ 5 や説明不要 ) を発明した芸術家であり・ : やったー ! 」と叫びながら、そのあるとかで在廊していなかった。 え 5 っと、とにかく自分の人生にモロに影た 1 伸坊さんと二宮さんとしゃべることで気 場でめいつばい三回ジャンプした。『あひ 響を与えた人が目の前にいるのだ。 実は、二〇〇三年、初めての個展『人のびき』というのは『アックス』 ( 『ガロ』の持ちがいつばい。ちょうど久しぶりに会う 後継誌 ) に持ち込みして、ボツになった漫大学時代の友達が来ていたが、すごく適当 間』をやった時に、これも記念だと思い 「マスコミ電話帳 , で南伸坊さんの住所を画だったけど、『ガロ』の元編集長であるにあしらってしまった。小一時間ほど歓談 調べて勝手に案内ハガキを送ってみた。当伸坊さんに褒めてもらったので、自分の中して、ばくとしては、もう充分に満足だっ た。記念撮影もした。今日の出来事でこの 然、いらっしやらなかった。そりやそうでは「入選ーにしておいた。 だ。見す知らずの男から変なハガキが届い 〈展覧会見に行きます〉ではなくて〈頑張先三年は頑張れると思った。たまにはいい ってください〉という結びだったので、きこともあるもんだな。 ても、忙しい時間を割いて行くわけない。 出過ぎた真似をしてしまった。恥ずかしっといらっしやらないだろうと思っていた「そろそろ私行きますね」 と二宮さんが言った。ところが伸坊さん い。以来、展覧会のハガキは出すことを控が、予想通りであった。一方的に知ってる だけなんだし。 えた。 「え ? もう帰っちゃうの ? 」 しかし、二〇〇七年「こつけい以外に人でも、このハガキがどれだけ励みになっ と言った。 間の美しさはない』という個展をした時、たかわからない。今もトイレの壁に貼って ( え ? 伸坊さんは帰んないの ? ) 同名の作品集を作ったので、性懲りも無ある。 三人でいると話しやすかったのだが、と : とい、つよ、つなほのかな交流があり、 く、勇気を振り絞って伸坊さんに一冊献本 その後、イラストレーターの集まりなどでっさに出た伸坊さんの言葉に自分と同じ心 してみた。そしたら、 〈すごくおもしろい。ツルゲエネフ原作、お会いした時に挨拶くらいはするようになの動揺を見て取った。 「そうなんです、今日中にやらなきゃいけ 伊野孝行まんが・脚色「あひびき」も「金ったが、ちゃんと話をしたことはなかっ ない仕事があって」 太郎全敗物語」もいいし、スモウもの、マた。それがついに今日 ! と二宮さんはあっさり帰って行き、ギャ ゲもののイラストもいい。全部いいです。 何回も見ました。これからも見そう。頑張伸坊さんは、ばくとの共通の友人であるラリーには伸坊さんとばくの二人だけにな 506
( ひょっとして、これはうまくいくかもくと、八月の展覧会までに四十点出来上がンセンスを書いたが、我々は丹下さんが主 に工、ロを、ナンセンスを主にばくが受け持 ) 、と思った。二人展なら二人でやる意る予定だった。 ばくはこの他にも十二月の『画家の肖っというバランスになった。 味がないといけないし、男女ということも ポイントになる。 像』に向けての絵も描かなければいけな 三つ折りの案内ハガキには、 、。でもばくは自分でノルマを決めてこな 『鍵』は谷崎潤一郎が七十歳の時に書いた ェロ & ナンセンスな傑作で、夫と妻のそれしていくのが割と好きで、毎月のペースを〈老境をむかえた夫は、めつきり衰えた精 ぞれの日記が交互に出てくる。夫婦はお互守れたのだが、丹下さんはギリギリにならカをある方法で取り戻すことを思いつい いが日記を盗み読みしていることを知ってないとやらない性格の上、子育てと仕事た。 / 夫は若い男を妻に近づけた。彼は娘 / 嫉妬の効用 いる ( イラストレーターとプランナーをやの恋人でもあるのだが・ により、夫は目的を果たしつつあるが、貞 夫の日記をばくが、妻の日記を丹下さんっている ) に忙しかった。一枚描くごとに が絵にする。絵とともに『鍵』のテキストスキャンして送り合う約東もだんだんとズ淑な妻の中では何かが目覚めはじめた。 / を短く引用して添えることにした。簡単なレ込み、結局、月末最終日に「ごめんやで奇妙すぎる四人の関係。その果てにある世 という詫びと共に四点まとめて送られ界とは。 / 谷崎潤一郎の小説を元に伊野孝 ヘージ数はかなりあり、 構成の物語だが、。 どこの場面を描くか決めるのに二ヶ月費やてくるのだが、それらの絵はいつもの丹下行と丹下京子がおくる愛欲の悪夢〉 という文章を載せて方々に送った。これ した。大谷崎の文章を脚色するという大胆さんとは一味違う、重苦しく、陰気で、ド を考えるのも : : : そう、お察しのようにま スケベな最高の出来栄えだった。 なこともやらなければならなかった。 「伊野くんに負けたくなくて、いろいろ描たしてもばくの役目だった。 : という面倒くさい作業は、全部ばく 一人でやった。本当は分担してやる予定だき方を研究した。毎月のノルマをこなすの ったが、丹下さんは取りかかりが遅くて、が大変で、最後の二、三ヶ月はほとんど仕かくして二〇一〇年八月二十七日から 」で開催された二人展 「 CQ ギャラリー 残された時間を考えると結局自分でどんど事も断っとったわ」 『鍵』は表参道界隈にスキャンダラスをま という気合の入れよう ん進めてしまうしかなかった。 絵を一枚描くごとにスキャンして、画像対してばくの絵はあっさりとした描き方き散らし、連日予想外に大勢の人々が見に をメールで送り合った。コール & レスポンで、あまりエロくはなかった。ェロはどうきてくれた。 当時流行していたツィッターのもの珍し スも物語の流れを作っていく上で必要な作も苦手なのだ。ただ『鍵』はエロ & ナンセ ンスである。谷崎潤一郎は一人でエロとナさで、つぶやきのロコミで来てくれた人も 業だった。お互い月に四点ずつ仕上げてい 502
る、喪失感によるものですよね。 に自分の精神性を闇雲にぶつけていくとい ただろうに、と思えてなりません。でも大 三田私が死んだときに、私が平さんを語 う行為はもうできないですよね。やろうときな流れに男たちは自ら流されて、命を捨 ったように、誰かが私を語ってくれるのか思ってもこの辺で ( 胸を押さえて ) 霧散してる : : : 。女の本質とは違うことを痛感さ な、と思ってね。ああ、語られるべきものていってしまうものですよ。だからそういせられます。 が何もないな、って。 う意味ではある種の「憧れ , なんでしよう諸田本当ですね。「忠臣蔵」に限らず、 諸田とんでもない。語りきれませんよ。ね。 戦国を書いていても、常に女たちの思いが 三田何か残しておかなきやと、ふいに焦諸田日本人の 欠けている気がしてならないんです。私は りだしちゃったみたい。 三田日本人に限らず世界中の人間の。同子供もいませんし、必然孫もいませんが、 諸田私もここ数年、宇江佐真理さんや火じ思いを抱える者たちが志をひとつにして小説に「命のつなぎ手」としての思いを込め 坂 ( 雅志 ) さんと親しい作家が亡くなられ団結し、自分たちの抱える恨みつらみや義たいと思っているんです。子供や孫の代 て、私にも残された時間は自分が思うほど憤をこんな形で昇華することは今の時代でわりにそういう小説を生みだしていこう ないと、何か書かなきやと強く思いましは絶対にないことですよね。クーデターだと。 の自爆テロだのというあってはならぬ中 三田それって悪いことではない焦りだとに、悪しき形として残っているのかもしれ役者にしかできないこと 思うんです。だからたまには私も焦らなきませんが。私は、女で子供を産むという性 やと。大いに焦ろうと思うんです。 を授かっていますから、やつばり、命や絆三田仙桂尼は尼さんで、テレビを観てい が壊れたり切れたりしてしまうのが怖いんただくとわかるんですけれど、切り髪なん です。命をつないでいきたいという本質ですね。四十七士がみな自害し、誰もいな 命のつなぎ手 が、主義や思想を超えたところにど、つした くなった後、尼として家を守り、墓を守 諸田三田さんは「討ち入り」ってどう思ってあるんです。私も孫ができたとき「私り、お家再興を願う役 : : : でもそのままで われますか ? この本が出るのも、ちょうの血が、私の命がつながった」って、そのは何か足りない、と感じました。作家や脚 どその頃なので、ちょっとだけ伺いたいんことが一番嬉しかった。討ち入りは「美本家も書いていない、演者としての生理的 ですけれど。「討ち入りーって、日本人に談」だと思いますが、首を刎ねたり、腹をな発想というか欲求をどこかひとっくらい ですよね 響くストーリー 切ったり、たくさんの血が流れ、どれほど発露したいとある提案を申し上げたんで 三田時代の流れを考えると、あんなふう痛かっただろうか、本当は死にたくなかっす。生き残った者、家を守り引き継いでい 208
ね。棚から牡丹餅のごとく、ヒロ子さんとンというか心配なのは、おれのメールに対だと信じた人でさえ、 いっしか疎遠になっ 二人きりで冬の海へドライヴに行けるといする返信がないということだ。いや、マジて連絡もっかなくなって、よう ! とか元 う、その一点に限れば、けっこうワクワク、で。そんなことはこれまでただの一度もな気 ? とか参ったよ 5 とかも言えなくなっ かなりキュンキュン、だいぶドキドキしてかった。ェアメール時代はともかく電子メて、それぞれがそれぞれの場所で、たとえ いたけど、全体的には、白がイエス、黒がノ 1 ルになってから、ひと月近く返信がない孤独だとしてもそれぞれの場所で、もしか ーだとすれば、鼠色と墨色の中間あたりでことは過去にあったけど、それは出産とかしたらアンハッピーかもしれないのにそれ ふる 答えの針はぶるぶる小刻みに震えていた。 肉親が亡くなったとかの非常時だけであっぞれの場所で、それこそ元は同じ樹にとも ) い、つの , も、当 5 に・ : いや、急にじゃなて、たいていは一週間もすれば返信があつに茂って薫風にさらさらそよいでハーモニ くすぶ いな、以前から胸の奥の洞窟で地味に燻った。それに、これはべつに自慢でも何でもーすら奏でていたプラタナスの葉っぱみた ていたことだけど、ドラム、ヒロ子さんなく、日本を離れる際の、ラブレターと言 いに、やがて木枯らしに吹き飛ばされて離 と、立て続けに会っていろいろと昔の話を いたいところだけど、宛名がドラムとの連れ離れになって人や車や大に踏んづけられ したものだから、再び火勢が戻ってきたの名だから、普通の手紙にしておくけど、そてべったんこになって冷たい雨に濡れそば だ。どころか、火柱まで立っているのだ。の手紙の中で、おれとドラムのことを「かって最後は朽ちてゆくものなのかな ようするに、久美ちゃん関連のことだけどけがえのない友だちだと思っているわ」と ていうか、やつばり、おれという人間 も。久美ちゃん、どうしてるのかな。いく 書いてくれたんだから。そういうことを、は、ドラムの言うようにいつまでも後ろ向 らなんでもヘンじゃないか、三年もフェイ易々と、ノリで書いちゃうような女性じやきな、感傷的なこと極まりない、チンカス スブックに投稿がないというのは : いやないんだって、久美ちゃんというのは。そ野郎なのか。天にまします我らの神よ、そ まあ、久美ちゃんはそもそも煩雑なコミュの、かけがえのない友だちであるはすの、 のへんのところはどうなんですかね ? ニケーションは不得手なはずだし、プライおれからのメールをシカトするとい、つの ヴェートを小出しに公開しては、あるいは は、おれの思い込み、独りよがり、潜在的見事に晴れて暖かい、こういうのを小春 自分の意見などを垂れ流しにしては、いい 片思い、みたいなことを差し引いても、や日和というんだろう、水曜日の午前九時半 ね ! いいね ! とおざなりに同調し合ってはり考えにくいのだ。 に、ヒロ子さんは、アルファロメオのミト に入るタイプの人間でもないはずだから、 どうしてるのかな、久美ちゃんは。ちゃというらしい、黄色くてチャーミングな車 フェイスブックなんていう面倒なものにはんと生きてるのかな、久美ちゃんは。それに乗って、おれの住み処の近くの新宿通り 見切りをつけたんだって考えれば、得心がとも人生という曲がりくねった長旅においまで迎えにきてくれた。で、最寄りのコン いくのだけど、なによりもヘンなのは、へては、こうやって、かけがえのない友だちビニに寄って、おやつやサンドウィッチや
夭、つしし 、つすかねえ ? とその口調を真ぬくもりが残っている。家の電気はすべてうを見る。白いものが動いていて、よく見 消えていた。父はもう、眠ったのだろう。るとそれは手だった。手。手 ! 叫びそう 似して俺も笑った。 になる。垣根ごしに伸びてきた手はゆずの 信号待ちで、運転手が突然「おもしろい時々寝室に行かす、居間でテープルに突っ んすか ? , と訊ねてきた。おもしろいって伏したまま寝ていることがある。引きずつ実をさぐり当て、くるりと手首を回転させ 非力な俺て枝からぶつりと実をもぎとった。ゆずが なにが ? 忘年会が ? と訊き返そうとしていこうにも、父の身体は重い。 には無理なので、だから毛布をかけてや盗られる瞬間を、俺は見た。 てやめる。運転手の視線は、助手席のシー トに置きつばなしになっていた『初恋』にる。朝目を覚ました父は必ず、身体が痛父の妄言ではなかった。ばうぜんとして いたせいで、動くのがすこし遅れた。田中 とばやくのだった。 、冫かれていた。 ああ、と曖味に頷きながら、腕を伸ばし庭に目を転じる。ここに梅や枇杷や柿や絹江になにか声をかけなければ、と思った て『初恋』をとった。主人公の女の好みがゆずの木を植えたのは、母だ。木に生った次の瞬間に、扉が閉まる音が聞こえた。間 自分と違い過ぎて、という話をしながらば実を収穫する時、俺はいつも母の助手になに合わなかった。 せんていばさみ った。脚立に乗って剪定鋏をあやつる母 らばらとめくる。真ん中あたりのページ てつわん ざる 翌日は土曜日で、鉄腕が朝から遊びにき に、ふたっ折りにした紙が挟まっていた。の傍で笊を持って立っているだけという、 いわゆる一筆箋というやつで、開いてみるたいして役には立たない助手だったが。 た。鉄腕は小学校からの同級生で、もちろ てつや とびっしりと文字が書き連ねてある。反射それらの果物で、母は毎年シロップをつん本名ではない。時田鉄也という。小学生地 的に、俺は目を逸らした。もとのページに く 0 た。シロップは水やソーダで割 0 て、の頃に腕相撲がめ 0 ほう強か 0 たので、そ一 一筆箋を挟み直し、ばたんと音を立てて本ジュースとして供される。夏は梅ジュースのあだ名がついた。名字が同じなのは「時 を閉じる。信号が青に変わって車がゆっくで冬はゆずジュ 1 スだ。おいしい、と言、つ田 , が肘差でいちばん多い姓だというだけて 思 りと動き出し、俺はコートのポケットにと母はまじめな顔で頷く。「目が笑っていで、親戚というわけではない。 AJ 「張り込み、だな」 ない」という表現があるが母はその逆で、 『初恋』を押しこんだ。 まじめな顔の時でも、いつも目だけは笑っ鉄腕はダイニングテープルの椅子の背に 片腕をかけて、刑事ドラマのようなことをに 運転手から領収書を受け取り、しばらくているように見えた。 庭に佇む。代行の車を待っているあいだに大きく息を吐いたら、白い息が缶にかか言う。俺はハンドミキサーのスイッチを切大 って鉄腕をちらりと見たが、あえて返事は 自動販売機で買っておいたあたたかい紅茶った。 の缶を鞄から取り出す。まだじゅうぶんに枝の揺れる音がして、俺はゆずの木のほしなかった。ボウルの中で泡立てられた卵
舞子とわたし。 どこにでもありそうで、でも、どこにもない関係のわたしたち。 駅に着いたときには、すでに午後九時を回っていた。今日は定きるのはほんの何分だとしても、少しでも早く彼女の顔が見たか 時で上がるつもりだったのに、帰る間際になっていきなり見積書ったのだ。 にミスが見つかってしまって、全員居残りで一から再チェックに 「ごめんね : : : 遅くなっちゃった」 なってしまったのだ。部下のミスは上司であるわたしのミスでも 扉を開くなりかすれ声でそう言うと、出迎えてくれた舞子はく ある。いくら今日が大事な日だからと言って、課の面々全員残しすくすと笑いながら「お帰りなさい、君香 , と言ってくれた。何 ておいて自分だけ先に帰るわけにもいかなかった。舞子は待ってだかまるで彼女を奥さんにもらったみたい。そのくらい、この部 いるとは言っていたが、きっと退屈させてしまっているだろう。屋に馴染んでいた 先に少しでも、お腹の足しにつまんでいてくれればいいのだけ「仕事で疲れてるでしように、そんなに慌てて帰ってこなくて ど。 地下鉄の階段を駆け上がり、地上の駅前広場に出ると、 *--æの 「だってお腹空いたでしよう。待っててね、今すぐ支度するから 乗降客も合わせて混み合う人波を縫ってゆく。バス乗り場には長 い列ができていたので諦めた。そしていつもは十分以上かかる道「これでも主婦なのよ。もう全部用意できてるわ。あなたのほう を、ときどき小走りでとばして五分。おかげでマンションに帰り こそすぐに着替えて、座って」 着いたときには息も切れ、真冬だというのにコートの下で大汗を そういえば、いい匂いがドアの外まで漂ってきていた。彼女の かいてしまっていたが、それでもかまわなかった。それで短縮で好きな海老と帆立のプイヤべースに、温野菜のバ 名前はいらない牧村一人 画・サトウあこ ーニャカウダ。 130
かというと、それは絵の話だった。 った。いや、実際には大学時代の友達を含 伸坊さんには三十代の頃に書いた『モン め、他のお客さんもいたけど。 ガイカンの美術館』という本がある 「あのさ、伊野さん : : : この後よかったら 「へえ、神保町の喫茶店でバイトしてる絵を歴史的に見てどうであるとかは書い 飲みに行かない ? と伸坊さんはとても遠慮がちに誘ってくの ? 伊野くんがさ、バイトしてるっておてない。絵を見て、自分の頭でああでもな いこうでもないと考えたことが書いてあ れた。 かしいよね」 え、え、え、はい喜んで、と答えたばくは、 「いえ、当然ですよ。売れる気は自分でもる。 〈「芸術」なんてなあ冗談のわかる人には、 しないんです」 控え室にさっと入って、天井に向かって、 いカンタンにわかるのだ ! 〉 これから南伸坊 ( 敬称略 ) と「え 5 、面白いよ、がんがん自信持って 「やばい 〈マルセル・デュシャンさんは、とっても いよ、自信持ってそのまま進めばオッケー 飲みに行くんだあ 5 ! 」 冗談のうまい人で、人を楽しませるから私 と声に出さないで叫んだ。何をしゃべつだよ」 たらいいのだろう 5 ! 時計を見るとまだ「そ、そうですかね : : : あ、そういえば伸は好きなのだが、この人を好きなマジメな 六時過ぎである。ギャラリーは七時まで開坊さんも、工芸高校、美学校、青林堂って人というのは、マジメの部、リクツの部だ けを好きになってしまうので、この部分だ けていなければいけない。伸坊さんはばくみんな神保町界隈ですもんね」 「そうそう、高校の頃にさ、三島由紀夫がけをマネされると、エライつまらないこと が他のお客さんの応対をしている時に外に になってしま、つ〉 出て行って、ギャラリーの前に置いてある後楽園のジムにボディビルしに来たの見た 行 〈カンディンスキーは自作をヒックラ返し孝 白いべンチに一人で静かに座っていた。時ことがあってさ : ギャラリ 1 を出て表参道の居酒屋のカウて意味をとったところで、純粋な美しさを 間よ速く過ぎてくれ。ばくは待たせて申し 訳ない気持ちになり、冷蔵庫からオープニ ンターで飲んだ。目の前ではサンマが口か発見した。こだわりをなくせば、美しいも ングパーティーの残りの缶ビールを取り出ら尻尾にかけて串刺しにされて炭で焼かれのは美しく見えることができるのである〉物 ていた。炭の照り返しが顔に熱かった。 〈画家が描きたいことっていうのは解説者保 して、持って行った。 がことばをならべて形容するようにではなの 「あ、ありがとう」 伸坊さんは、ちょっとしやがれたいつも何をしゃべっていいか心配だったが、こくきっとこんな風に冬瓜みたいだったり、 の声で答えると、プシュッと蓋を開けて、の日は七時から深夜二時まで、ずっとしやナスみたいだったりする、そういう、なん だかよくわかんない形や色そのものの中に べりつばなしだった。何をしゃべっていた 一口飲んだ。 絵の話
どおりこなすために、ほくの仕事速度は更った。その目は涙目だった。ウチのようなコにヘコまされ、その後、頭をぎゅうぎゅ に早くなっていった。山のように積み上が零細企業は一事が万事必死なのである う絞って思いついたのが、谷崎潤一郎の った食器も、ひとたびばくが洗い場に入れ怒られたばくは申し訳ない気持ちでいな『鍵』をテーマにすることだった。 ば、あっという間に片付いた。しかし、がらも、 十二月には古今東西の画家のポートレー 時々食器を割ったり、ちょっと洗い残しが ( 矛盾したことができないとプロじゃない トを描く『画家の肖像』という個展を原宿 あったりで「伊野くんは仕事が早いけどか : いいこと言うじゃん。そうだよの「リトルモア地下」で開催する。これも 雑 ! 」と叱られるのだ。いったい何年働いな、絵でもそうだけど、素晴らしい作品っ個展のテーマを決めかねていたほくに、日 ているのだと。 て矛盾がある。ゴッホの絵だって熱い激情下さんが、キミが画家の肖像を描いたらお と穏やかな静けさが一緒に入ってる。現実もろいで ! と半ば強制的に与えてくれた いつものように、溜まりまくった食器類世界では一緒にならないものが作品の中でテーマだった。 を、オレにまかせとけー とものすごいスは同居している。だから見飽きない。それ日下さんは言う。 ピードで洗い上げていた時のことだ。ガチが芸のカってやつだなあ : : : ) 「新しいことをしろ ! みんなを驚かせ ャンと音がしてカップが二、三個割れてし と全然違うことを頭の中で考えていた。 まった。ウチの店で使っていたカップはい 本気で叱りつける大人は二〇〇〇年代に い値段のものだった。運の悪いことにオー は天然記念物だった。ばくは、こつけいな 本気で此る人 ナ 1 に見つかった。 絵を描く変なャツがいる、くらいに思われ 真っ赤な顔でこっちに近づいてくる。 店も大変だが、自分の芸の方だって必死ていたマイナーな立場から、どうしたら脱孝 「あのねー、それで今日の売り上げはパー だ。八月に表参道の「ギャラリー」でや却できるか、自分一人では方法がわからな なのよー しいですか、早くて雑なのは誰る丹下京子さんとの二人展が近づいていた。 かった。日下さんを見返してやるために にでもできる ! ゆっくり丁寧にやるのも前回の「神保町物語なのにロンドン編、も、この二つの展覧会は絶対に成功させた 町 誰にでもできる ! プロは早くて丁寧に仕でも書いたが、ロンドン旅行で一緒だったかった。 保 くさか 事をするの。矛盾したことができなければブックデザイナーの日下潤一さんに、二人 の プロじゃないの ! あああああ 5 展のアイデアに待ったをかけられた。そん愛欲の悪夢『鍵』 オーナーは一気にそうまくし立てると、 なんやって何がおもろいねん ! やめと とボコボ テープルに手をついたまましやがんでしまけ ! アホ 5 ! 考え直せ 5 谷崎潤一郎の『鍵』を思いついた時点で 501