入っ - みる会図書館


検索対象: 小説すばる 2020年12月号
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1. 小説すばる 2020年12月号

夢で見た亮太の後ろ姿が頭に浮かんだ持ちになった。作業台の上には、何色もの「今からデートなんです。彼に褒めてもら 時、こん、こん、とためらうようなノック糸東をピンでとめたコルクポードが置かれえるかな ? 」 の音が聞こえてきた。鳥の羽をモチーフにている。ここから一糸一糸抜き取って、女「よくお似合いですよ。素敵です したアクセサリーが並ぶ入り口近く、透明の子を可愛くするための仕事をしているの ピンクのリポンが揺れる耳元は可憐だっ すどう な窓ガラス越しに、須藤さんの姿が見えだ た。彼女が軽い足取りでアトリエを後にす た。「はい」と間の抜けた声で返事をする「頼んでいたリボンのイヤリング、できてると、甘い香水の香りが残った。私はふ と、彼女はふんわりとした笑顔を浮かべ、ます ? 、つ、とため息をつき、ツッジにコットンヾ アトリエの中に入ってくる。 「もちろん」 ールを縫い付ける作業を再開しようとし みさき 「ごめんなさい。美咲さん、お仕事中でし 私はまだばおっとする頭で、引き出しのて、赤い糸を探す。作業台の上にある針に たよね 中を覗く。丸い金具に蝶々結びのリボンが通った糸は、随分短くなっていた。けれ 私は背筋をピシッと伸ばし、彼女と向きついたイヤリングを透明な袋に入れ、水玉ど、コルクポードにも戸棚にも、赤い糸の 合う 模様のテープで封をし、須藤さんに手渡し在庫がない。この雨の中、手芸屋さんまで 「大丈夫ですよ、ちょうど休憩中だったかた。 ひとっ走りしないといけない。 ら」 「よかった、また出会えて。道端で知らなそう思った瞬間、携帯電話の着信音が鳴 須藤さんは近所の印刷会社の O*-Äさんい間に落として、落ち込んでたんです。もって、私は身体をびくりとさせる。画面を おろ で、常連のお客さんだった。シフォン生地う卸してないって言ってたから、無理かと見ると亮太からラインが来ていて、「今日 のプラウスとフレアスカ 1 トを身にまとっ思っていたけど : : : 」 の夜九時に、荷物持っていくから」と、素 ている。作業台にあるツッジの一群を見「独立する前に、手作り市で売ってたものつ気ないメッセージが表示された。「了解 て、わあ、と声を上げた。 なんです。会社の仕事の合間に、遊び半分と送ると、すぐ既読になった。三日前、た 「これ、全部手作業で縫い付けているんでで作ったイヤリング。その時から須藤さった二時間の別れ話で、彼に振られてしま すよね」 ん、私の作品買ってくれてるんですよね。った自分を思い出す。 「そうですよ。細かくて同じような作業ハンドメイドは全部一点物だから、そんな「そうだ、私 : : : 」 を、一人でずっと繰り返すんです」 風に思ってくれて嬉しい」 アクセサリーに夢中で、俺と向き合おう 「こんなの、自分では絶対作れないです , 私がそう言うと、イヤリングを両耳につとしない 、と言われて愛想をつかされたん 私はそう言われて、ちょっと誇らしい気けて、須藤さんはニコッと笑う だった。あんな夢を見て、続けざまに須藤 106

2. 小説すばる 2020年12月号

るよ、つだ。 「ほな、わたしもいただきます」 待って返事があった。 おはようございます。泉尾署刑事課新垣もいった。女はうなずいて応接室を「手広くやってはるんですね」 出ていった。 「どれも小さい建物です」 の新垣といいます。 ーテ 「家賃収入で食えるて、羨ましいですわ」 レンズに向かって一礼した。上坂も低頭「遼さん、アールグレイて、フレー 上坂がいった。 ィーやて知ってました ? 」 する。 「なんや、それ」 「満室ならいいんですがね、昨今、そうい 知念さんが出された告訴状につい て、話をお聞きしたいんですが 「ダージリンとかアッサムとか、紅茶の銘うわけにもいきません」 「新垣 ( しーい。ご苦労さまです。主人柄ゃないんです。紅茶にベルガモットで香熱のこもらぬふうに知念はいい、 遼太郎さん : 沖縄の出ですか」 はおります。 りづけしたんがアールグレイですー 玄関ドアが開いた。白いカーディガンに 「ほう、そうか。ひとっかしこなったわ」 「那覇です。両親がいてます」 しいことを。 「転勤されたんですか。那覇から大阪ヘー ジーンズ、サンダル履きの年輩の女が出てどうでも、 ノック 男が入ってきた。知念で「警察庁採用の上級職は沖縄県警から北海 きて門扉の掛け金を外す。どうぞ、お入り ください ありがと、つごさいます す、と白髪の頭をさげてソフアに座った。道警まで転勤があります。我々は大阪府警 家に入った。案内されて、廊下の右の応赤のポロシャツにグレーのニットプルゾン採用の地方公務員やし、定年まで大阪で す , 接室へ。低い天井に、いまどき珍しいシャをはおっている。 キャリアとノンキャリアの身分の差 ンデリアが吊るされている。知念の両親だ「早速のお越しですな。さすが、泉尾署は 殿様と足軽の差は、一般人に説明しても分 ろう、鴨居に黒縁の写真が掛かっていた。対応が早い にこりともせず、知念はソフアに片肘をからない。いうだけ無駄だし、胸がわるく 「おかけください なる。 「すんませんー革張りのソフアに腰をおろついた。 した。 「告訴状、読みました。わたしと上坂が担「捜査二係というのは」 「知能犯が対象です。詐欺、贈収賄、選挙 当します」 「お飲み物は」 上坂とふたり、名刺を差し出した。知念違反、企業恐喝、背任横領とかの金銭犯一 「いえ、かまわんです。仕事ですから」 も出す。《ちねんエステート代表知念罪、企業犯罪ですねー 「ばく、紅茶もらいますわ。さっき、コ 1 ヒー飲んだし」上坂がいった。遠慮がな昌雄》とある。名刺の裏を見ると、浪速区「それは心強い。比嘉を逮捕してくださ 桜川と幸町にもテナントビルを所有してい 19 ゆいまる一一黒川博行

3. 小説すばる 2020年12月号

さんと黒崎さんが恨めしそうにこちらを見イフを送りたいとのこと。遊んで遊んで遊ぞ。心配していたら最初に堪忍袋の緒が切 しみず び倒してその後は真面目に就職活動に打ちれたのは先輩ではなく、同じ一年生の清水 ていたからだ。 だった。 こむのだそうだ。 ふたりは飛鳥さんから撤退したくせに、 「あんたたちいい加減にしなさいよ。いっ 遠巻きながら存在をアピールしてくる。瀧 二週間が過ぎるころには練習へよくやったいなにしに邦楽部に来てんのよ」 さんは箏でいい加減なメロディーを気持ち よさげに弾いたあと、黒崎さんは尺八でろてくる部員の名前も覚えたし、ばくら以外清水は箏パートの小柄な子だ。小柄だけ れど厚みのある体つきをしていて、瀧さん に一年生がふたりいることもわかった。 くに音も出ていないのに格好つけて吹いた 問題は瀧さんと黒崎さんがまったく練習と黒崎さんの採点では六十五点と辛口だっ あと、お互いに親指を立て合う。「いいね、 おまえ天才、とか「いい感じじゃねえのーしないこと。和室にやってきて楽器に触りた なんて口にしながらサムズアップをくり返はするが、五分も経たずに投げ出して先輩「なにしにつて見りゃあわかるだろう。尺 八を吹きに来てんだよ」 す。飛鳥さんの視界に入りたくてわざと大部員に話しかける。女子と親しくなりたい 袈裟にやる。ほかの部員の反応などおかまだけで選んだ邦楽部だ。練習などするはず黒崎さんが小ばかにした口調で返す。 がない。また、瀧さんは黙ってさえいれば「嘘言わないで。練習なんか全然してない いなし。自己満足と身勝手の極致だった。 おめでたいふたりであることは承知してそこそこ格好がいい。先輩女子の中には憎くせに。どうせあんたたち邦楽部に女子が からず思っている人もいるようで、サムズ多いからってんで来てんでしよう」 いた。けれど、そのおめでたさはサッカー 選手の、特に得点に対してエゴイスティッアップがこっそり流行っていた。なにかあ「そ、そ、そんなことねえよ。なに言って んだよ」 クであることを要求されるフォワードだつると親指を立てて褒め合うのだ。 図星過ぎて黒崎さんがしどろもどろにな たから許される性分だった。雅やかな世界ふたりがおしゃべりばかりするせいで、 尚 である邦楽部において、いまやふたりは目引っ張られて練習をさばる先輩も出てきる。代わりに瀧さんが言い返した。 関 た。おしゃべりにつき合ってもらって邦楽「おれたちはもともと体育会系の人間だか を覆いたくなるほどの異分子だった。 部に受け入れられたと勘違いしたふたりはらよ、やるときはばっちりやるんだよ。集 「サッカーは大学でやらないんですかー 音 ふたりに尋ねたことがある。するとふたさらにやりたい放題となった。大声で騒中力が違うんだ。サッカーやってたおれたの りはもう練習漬けのきついサッカー人生はぐ、プロレスごっこをして襖を破る、みんちの集中力をなめんなよ。あっという間に うまくなってやらあ こりごりなのだという。一浪の末に希望のなが練習している中いびきをかいて眠る また無茶苦茶なことを言っている。清水 大学に入ったからには楽しいキャンパスラ調子に乗っていると先輩から雷が落ちる

4. 小説すばる 2020年12月号

いと弾けなかった。 みた。 ない。「小さいころ海外にいたせいか、日 スクイは撥で絃の裏側から掬うように弾「憧れかなあ」 本に帰ってきたらいまひとっ周りにとけこ ばんやりと飛鳥さんは答えた。 く奏法だ。普通に弾いたあと戻るタイミン めなくてねえ。クラスでも部活動でもみん グで絃を掬う。「ギターのダウンピッキン「憧れですか」 なが盛り上がっているところに入っていく グからのアッパ ーピッキングだよ」と飛鳥「日本的なものへの憧れだね。実はわたのが苦手なの。同じテンションで交われな さんが言う。残念ながらばくはギターを触し、小学校のときはタイにいたんだよ。中 いし、テンションが上がったり下がったり ったことすらないのだけれど。 ハジキは絃学校に上がるときに日本に戻ってきたの。 のタイミングもわからなくて」 を押さえる左手の指で絃を弾くこと。スク日本を感じられるものに飢えていて、中学「ずばり、空気が読めない ? そうきよく イやハジキによる音は、撥で絃を叩いて出校で弓道部、高校は箏曲部。大学でもお「読めないよ。読めるように紙に書いて貼 る音と異なる。三味線は多彩な音色を奏で箏を弾こうと思ったんだけど、三味線をやり出してほしいくらいだもん」 られる楽器だった。 ってみたら楽しくなって転向したんだよ「あはは」 ばくの上達はすぐそばに飛鳥さんというね」 飛鳥さんにとっては切実なんだろうけれ 目標がいたおかげだ。彼女が奏でる音は同「飛鳥さんって帰国子女だったんですね」ど、彼女の朗らかな訴え方に笑ってしまっ じ三味線という楽器から出ているとは思え 「いわゆる帰国子女のイメージとは違うた。 ないほど美しかった。ときにやさしく、とよ。英語しゃべれないし、タイにいたとき「中学生のときなんてさ、はしゃぐタイミ きに儚く、ときに艶つほく、ときに猛々しは日本人学校に通ってて日本語オーケーだングを間違えてよく白い目で見られてた く。三味線は三本の絃しかない。そのたっ ったし。タイの言葉だっていまじやコップよ。かと言って大人しくしていれば暗い子 た三本の絃で彼女はさまざまな情感を表ンカーしかわからないもん」 って言われるし。なんかもうわからなくな す。深い森の奥へ誘っていくかのような蠱「なんですか、それー って、気づいたらなにを考えているかわか 惑的な響きまで生んでみせる。飛鳥さんが「正しくはコ 1 プ・クン・カー。タイ語でらない不思議ちゃんってレッテルを貼られ 誘ってくれるならどこまでもついていくだありがとう」 てたんだよね。別にわたし不思議ちゃんじ ろう。そんな夢想に耽ることもあった。 「でも、幼いころを海外で過ごしたなんてやないよ。ずれているのは認めるけど 「どうして飛鳥さんは三味線を うらやましいですよ」 初めて飛鳥さんの人となりに触れたよう 和室でふたりきりになったときに尋ねて「そうかなあ , と飛鳥さんは釈然としてい な気がした。

5. 小説すばる 2020年12月号

後、ドアを無理やりこじ開けた。それかを想えばこそだろ」 【前回まで】長崎のコンビニでアルバイト ら、乱暴に観月の肩を押し、下がらせる なんだか気持ちが悪かった。 をしている樋口 ( 旧姓【一ノ瀬 ) 観月は、 と、後ろ手でドアの鍵を閉めた。 「あなたは、お金が欲しいんでしょ ? その少ない収入を夫の直紀とその家族に吸 「お前さ、なんで逃げるの ? 話はまだ終「とにかく聞けよ。代官山でポストに入れ い取られ、結婚生活に光を見いだせないで わってないんだよ」 ておいた手紙、読んでくれた ? あれが今 いた。精神的に追い詰められ、あてもなく 「わたしは、話すことなんてない」観月の僕の気持ちだ。ほんとうに悪かったと思公園を歩いている道すがら、見知らぬ女が は、後ずさりをした。「もうここにはこなってる。周りからよく鈍感だといわれるけ植え込みに隠したポストンバッグを発見す る。バッグの中には苦しい生活から抜け出 ど、その通りだ」 すには十分な大金が入っていた。物陰に隠 「ほんと、頭くるよ。お前のそんな態度。殊勝な直紀がむしろ怖かった。 れて様子を窺っていると、観月の目前で持 自分がなにしてんのか、わかってんの ? 「なにが目的 ? ち主である朋美が交際相手のイッキに殺害 せつかく僕が助けてやろうと思ってんの観月は、徐々に彼との距離を取っていっ されてしまう。大金の誘惑に勝てずに観月 がバッグを持ち帰ったことは誰にも気づか 「なにをどう助けるのよ ? あなたはわた「そう警戒するなって。観月がさ、いなくれていないはずだったが、同僚の山下和恵 の不審死や何者かに追われている気配に言 しを精神的に追い詰めてるの。それがわかなってから、イッキと名乗る男が店に来た いようのない焦りを感じる。かねてより預 らないの ? んだよ けられていた離婚届を無断で役所に出し、 ィッキ ? あの男だ。観月は、思わず息 「まあ、とにかく落ち着いて話し合おう 搾取するだけの夫の元を離れて上京をする よ。そうすれば、観月も心が変わるって。を呑んだ。あの男が店に ? なら、直紀は ものの、ただお金を浪費するだけで、幸せ お前を助けてやれるのは僕しかいない。考すべてを知ってるってこと ? とは言えない日々。そんな生活から脱却す えてみろって。今、僕が携帯電話で警察に 「イッキからすべて聞いた。なぜあの男が るべく、古くからの友人・春菜のってで面 電話をすれば、観月は終わりだよ」 観月を追うのかも。ィッキは僕を脅した接を受けた会社オアシス・スプリングに就 そこで、直紀は、右手の拳を携帯電話代よ。夫の僕にも支払いの義務があると言っ職した。長崎で知り合った日紫喜は、偶然 にもその会社の社長で、観月はときめきを わりに演技をした。「『もしもし、警察ですてね。むろん、僕は断った。あの男の言う ひぐち か ? 長崎でお金を持ち逃げした樋口観月ことが信じられなかったから。そうした感じるのだった。だが、自らの罪を知り、 夫も巻き込んで執拗な脅迫をしてくるイツ がここにいます。捕まえてください』。なら、なんとあの男は、僕と手を組もうと言 キが日常に影を落とし続けて んでそれをしないと思う ? すべては観月ってきたのさ 438

6. 小説すばる 2020年12月号

ハカ野郎、と、伸行がまた大きな声を出えんだよ。金なんて、棺桶には持っていけ文した。大盛りは、ごはんとルウを合わせ て約二・五キロ。そこに手のひら大のトン やしねえんだから す。 結局、「ヤッ , は、五合飯を二杯、つま「お葬式するのだって、全部お金がかかるカツが乗る。メニューに加えて以来、近所 バ二人暮らしでもの大食い自慢たちが軒並み白旗を上げたメ りはごはん一升を軽々とらげ、付け合わんですからね。ジジバ せのお新香から味噌汁まて、唐揚げ定食をね、何かと入用なんですよ。お父さんが考ニューだ。これは大半が残飯になってしま うのではないかと危惧されたが、予想に反 完璧に食べ尽くした。まだ食べられる、とえもしないだけで」 して、男はあれよあれよという間にカレー と謝「うるせえな、このクソババアが」 いった様子の男に、「もう米がない なんですって、と、幸代が牙を剥くと、を平らげてしまった。時間にして、二十分 ったことが、伸行にはよほど悔しかったら しい。男は、別段腹を立てる様子もなく、伸行は、うるせえうるせえ、と怒鳴り散らもかかっていなかった。 いつばい食べてすみません、と頭を下げてしながら、そっほを向いて畳に寝転がっ 以来、週に一度、男は夜遅い時間帯にふ た。まるで子供だ 帰っていった。 うた らりとやってくるよ、つになった。注文は、 「かりそめにも、マンプクを謳ってる食堂 一品メニューなら常に大盛り、定食を頼む がよ、お客を満腹にさせられなかった上男が初めて店に来たのは、数か月前のこ に、頭まで下げられたんだ。こんなことがとだった。閉店一時間前の閑散とした時ときはおかずがなくなる限界までごはんを いちげん 間、一見にもかかわらす、男は一人でふらおかわりしていく。だが、店を出て行くと あっていいのか ? 「いいのか ? って言われましてもね。ありと店に入ってきた。顔は青白くて、体はきの男の顔は、明らかに他の客と違ってい薫 成 の子、底なし沼かっていうくらい食べるどこもかしこも細い。マンプク食堂にやった。満腹だ、という満足感を見て取ること 行 ができなかったのだ。 てくる客層とはかけ離れた外見だ し。細いのに」 「お前だって、聞きてえだろ。ャツが、腹堂 伸行は、初めての客にはいつも、普通の 「かくなる上は、おかずの量を倍にして、 って言うのをク つばいでもう食えない、 食堂に比べてかなり量が多いことを説明す 飯を専用に二升用意してだな」 ン ダメに決まってるでしよ、と、幸代が一る。男にも、半ば忠告のように説明をしたよ」 マ が、大丈夫です、という答えが返ってき「そりやそうですけど、でも、あの子の食 喝すると、伸行は、ぐう、と唸った。 「そんなことしたら大赤字でしよ。今でもた。伸行が、幸代と目を合わせて、本当にべつぶりじゃ、少しお代を上げないとつい闘 ていけないわよ」 わかってんのか、と首を捻った。 儲けなんかほとんどないのに」 ダメだ ! と、伸行が怒鳴る 「ジジババ二人暮らしに儲けなんかいらね男は少し悩んで、カッカレー大盛りを注

7. 小説すばる 2020年12月号

ているが、民家らしきものがまったく見当い し、 (-nZoo もプロックされていない。そ「母屋はそこからまだ歩くと二十分以上か たらない。進むべきか ? 退くべきか ? れだけが救いだった。 かります」 「進退きわまるとはこ、つい、つことかちょ けれど、空しく鳴る呼び出し音を十回ほ 「そうなんだ」ガックリして、私は言っ っと違うような気もする ど聞いてから、私は背負っていたリュックた。二十分という距離よりも、寒さと暗さ 日が落ちると寒さが一層身にしみてくをおろし、最終兵器を取り出した。あっきが気持ちを萎えさせていた。歩いているう る。制服のスカ 1 トは特に足元がスース 1 のスマートフォンで、野々宮を呼び出す。ちに真っ暗になってしまうだろう。 する。そして人はもちろん、車一台通らな 三回鳴らしたところで、応答があった。 「今、どこにいるんですか ? 」 「もしもし ? 」ひどく警戒している声だつ「倉庫の前を通りすぎるところ」 だんだん心細くなってきた。今引き返せた。無理もない 「そこにいてください ば帰りのバスに間に合うかもしれない。戻「野々宮君 ? ごめん、私、さくや」 すぐに倉庫の横のドアがあいて、人影が ろうか ? でもまだ目的を果たしていな長い長い沈黙があった。 現れた。トレーナ 1 にジーンズをはいたた い。もう少しだけ探してみよう。途中「塩「なんすか ? 」息づまる時間のあと、ぶつだの野々宮が、翼のある天使のように見え 二 , と少し走ってみたきらばうな声が聞こえた。 が、無駄に体力を消耗してるような気がし「ごめんね。この電話なら、出てくれるか てやめた。この坂の一番上まで行って、見と思って : : : あの、実は、野々宮君ちの近倉庫の中は結構広かった。軽トラが四台 つからなければ引き返そう。この暗さならくまで来てるんだけど : : : 来てるはずなんくらいは入りそうだ。野々宮は片方の壁に ばまだ、あたりが見渡せるはず。 だけど」 古いホッケーのゴールを設置し、その手前 だが坂の上の少し開けた場所から見回し「うちのですか ? , 微かに驚いた気配があに樹脂製のボードを敷き詰めて、シュート ても、視界に入った建物は、百メートルくった。 練習をしていたようだった。短めのスティ らい先の草地にほっんと建っている、よく 「うん」 ックが五、六本と、練習用のパックがカゴ 農機具やトラクターをしまうのに使うよう「どうやって ? 」 に山盛り置いてある。 な古い倉庫だけだった。私はスマ 1 トフォ「歩き。ええと、大松下のバス停から 一方、もう片方の壁際には生活空間を作 ンを取り出した。断念する前にもう一回だ「バス停から ? ひとりで ? 」 っているようで、大きなカーベットが敷い け、野々宮のアカウントに無料通話をかけ「そう。でもね、なんか、倉庫みたいなのてあり、その上に毛布、寝袋、折り畳み机 てみる。電話には出ないし、メッセ 1 ジもしか見えないんだけど : : : 家はどこ ? まが置かれている。机の上にはカセットコン 既読スルーだけど、着信拒否もされていなだ遠い ? ロ、ペットボトルにカップラーメン、スナ かす

8. 小説すばる 2020年12月号

それも自分のバタフライナイフではな掴みかかってきやがったのさ。だからおれ蛇口から流れる冷水をすくい、掌で幾度 のほ、つも、つし も顔に叩きつける。 く、河石要のボウイナイフで ? 冷たい、 とは思う。でもそれだけだ。 はやる気持ちを抑え、木内は平静な声音隆之は頭を掻いて、 で問うた。 まるで現実感がない。いま自分が警察に 「だからさ、わかるだろ ? こんなもんど 「いやだったなら、どうして引き受けたんう考えたって事故じゃねえかいや正当防いるという現実も、樋田真俊が死んだとい 衛か ? とにかく刺すつもりじゃなかったう事実も。皮膚の感覚だけでは、とても胸 んだ。なあ、普通に考えてみろって。あんた 隆之が鼻を鳴らす。 に迫ってこない。信じられない なら、たった十万ほっちで人を殺すかよ ? 「おい、まだか。いいかげんにしろ」 「十万出すって言うからさ。まああいつに 背後に立っ若い刑事がうんざりと言う ちょこっと切りつけて十万なら安いもんだ媚びるように、そう上目で木内をうかが と思ったんだよ。、、 だがその声もひどく遠い。世界のすべて へつに切るのもいやじゃってくる あぜん が薄膜の向こうにあるように感じる ねえし。くっそ生意気な、気に入らねえや木内は唖然と彼を見かえした。 つだしな。でも 「なぜだ」 鼓膜の奥でよみがえる声のほうがーー過 去の記憶のほうが、いまはよほどリアルだ。 「でも ? 」 「土壇場で、その、なんていうか」 「なぜ真俊は、きみに自分を傷つけてくれ死ねよ、とあの日の真俊は言った。 要に馬乗りになって、真俊は両手を彼の 言いよどむ隆之に「どうした」と、なるなんて依頼をした ? 喉にかけていた。 「さあな。知るかよ、そんなこと」 べくやさしい声音で木内はうながした。 あらが 隆之は肩をすくめた。そして悪びれず、彼はもがいた。抵抗ではなかった。抗っ 隆之が顔をしかめて、 「 : : : 十万じゃ割に合わねえ、って言って「ただ働きはいやだから , と死体から財布たところで、跳ねのけられないのはわかっ ていた。圧倒的な体格差であり体勢だっ やったんだよ。三十万出せ、そんならやつを抜いて逃げたことを認めた。 けいれん 木内の耳に「河石七枝の死体が見つかった。意志に反して、手足が断末魔の痙攣を てやる、って」 と一言、つ た」との報が入ったのは、それから数分後踊っているだけであった。 録音した母の通話音声を聞かせた直後、 「そしたらあいつ、急に怒り出してよ。のことであった。 真俊は要を殴り、蹴り、首を絞めあげてき 『今日は十万しか用意できないんだ。今夜 洗面所で、要は顔を洗いつづけていた。 やらなきや意味がないんだ』とか言って、 のど

9. 小説すばる 2020年12月号

うるせえ黙ってろ ! という伸行の声 あまりにも成長しすぎて、中学に上がる頃 が、真っ白な病室に響いた には、背丈も体重も父親を抜いてしまった ほどだ。 昼だぞ、昼だ、飯の時間だぞ、お 「あれは、忘れらんねえよな」 中学で柔道をやり始めてから、その食欲 お父さんー 長雨の季節が過ぎて、空は高く、きれい はさらに膨れ上がった。一日五食、毎日一 べッドの上では、真っ白な顔をした息子に澄んでいた。吹き抜けていく風は、もう升は米を平らげた。大盛りだらけのマンプ が目を閉じようとしていた。体に差し込ま肌を刺すほど冷たい。もうじき、風に乗っク食堂を作ったのは、息子の食欲も一つの れた管が痛々しい。手足は枯れ枝のようにて細かい雪が舞うだろう。陰気なグレーの要因であったかもしれない 細く、頬は肉がなくなって、まるで骸骨に雲に押しつぶされそうな、長い冬がやって 息子は、大飯を食らって家計を圧迫する くる 皮を貼りつけただけのようだった。 分、柔道には真剣に打ち込んだ。メキメキ 息子の口から、到底声とは言えない、あ食堂から数分のところにある小さな寺のと実力をつけ、大会でも優勝するようにな あ、というかすれた音が漏れた。伸行はべ墓地には、人の姿はなかった。年老いた住った。お陰で、近所の私立高に学費免除の ッドに顔をねじこむようにして、息子に顔職の母親が、表で落ち葉を掃く音だけが聞スポーツ特待生として入学することができ こえてくる を寄せた。暴れる伸行を止めようとしてい た。学費免除でなかったら、経済的に私立 た幸代も、思わず手を止めた。 「佐藤家之墓 . と彫られた墓石は、伸行の高には行かせてやれなかっただろう。幸代 おい、なんだ、どうした ! 祖父母の代に建てられたもので、十五年前 にとって、息子は誇りだった。 息子はゆっくりと視線を伸行に移し、かに亡くなった息子もここに眠っている。嫁「あんなにバカみてえに飯ばっかり食って 細い息を吐いた に来た以上、幸代もいすれはここに入るとたやつがよ、一口も飯が食えなくなっちま はら、へった、よ。 思っていたが、 まさか自分の手で、息子のうんだからな。神様はひでえことしやが 動かない唇を懸命に動かして声にならな骨壺を収めることになるとは思ってもみなる」 い声を残し、そのまま息子は動かなくなっかった。 た。幸代が泣き崩れる中、伸行はいつまで 息子は、小学校の頃から食欲旺盛な子だ高校三年、最後の大会を前にして、息子 も、何が食いたいんだ ! 作ってやるからった。家が食堂だったせいもあったかもしは手に力が入らない、と訴えるようになっ 言え ! と叫んでいた。 れないが、とにかくごはんをよく食べた。 た。柔道では、技をかけるために相手の胴 134

10. 小説すばる 2020年12月号

と打診してきた。秀頼がそれを拒むと、家ません」 うきた きゅうざえもん 康は諸大名に大坂再征を命じたのだ。家康「元備前宇喜多家家臣、金子久左衛門」 はすでに京に入り、諸大名の軍も続々と集素っ気なく答え、久左衛門は踵を返し 「おぬし、まだこんなところにおったの結中だという か」 対する大坂方は、城が丸裸にされたこと幕府の大軍が目前に迫りつつある四月一一 はるふさ 声をかけられたのは、同じ毛利隊の仲間もあり、かなりの数の牢人が城を去ってい十六日、豊臣方の大野治房は機先を制すべ と京橋ロ近くで酒を飲んだ帰りだった。 る。十万いた豊臣軍はいまや、七万余りにく大和へ侵攻、郡山城を攻め落とし、城を 私が大坂城に入ったその日に出会った、 まで減っていた。戦になれば、籠城はでき焼いて撤退した。さらに二十八日には、昨 へいたん あの牢人者だ。 ない。城外に出て戦っても、勝ち目はほと年の戦で幕府軍の兵站を担った堺の町を焼 「そちらこそ」 んどないだろう。 き討ちする 仲間から離れ、男に歩み寄った。 それでも私は、城を出ようとは思わなか五月一日、ついに出陣の命が下った。毛 「わしにはまだ、やらねばならんことがあった。 利隊三千は後藤基次、真田信繁らとともに るからな」 戦は恐ろしいが、ここで逃げ出せば、こ河内国分村まで進出し、大和路を進んでく 「それは : れから先の生は恥辱にまみれたものになる幕府軍別働隊を叩く役目である 訊ねかけた私を無視して、男は言葉を重る。京に帰って絵師になったとしても、そまた、河内路から侵攻してくる幕府軍本 ちょうそかべもりちか ねる んな男の描いた絵が、人の心を動かすこと隊には、木村重成、長宗我部盛親の両隊が 「噂は聞いているだろう。再戦は近い。今などできるはずがない 八尾・若江方面に進出して迎え撃っことに 度こそ、この城は終わりだ。それでも、こ「徳川のやり口は、あまりに理不尽です。なっていた。 こを離れぬつもりか ? 」 約東を違えて内堀まで埋め、移封か牢人の 五日深夜、河内平野まで進んだ味方か すすきだかねすけあか 年が明けて、すでに四月に入っていた。召し放ちに応じねば攻めるなど、武士の風ら、まずは前軍の後藤基次、薄田兼相、明 ちまた してるずみ ふつぎよう 巷では、近く再び幕府軍が攻め寄せてく上にもおけない 石全登らが出立した。明けて六日の払暁、 るとい、つ噂でもちきりになっている 「そうか。まあ、好きにしろ」 後軍の毛利、真田隊が続く。前軍と後軍は 昨年の戦が終わると、家康は和睦の条件 私は、立ち去ろうとする男を呼び止め道明寺で合流し、さらに国分まで進んで幕 を反古にして秀頼に移封を受け入れるか、 府軍を迎撃する手筈になっている さもなくば城内の牢人衆を召し放ちにせよ「そういえば、私はまだ、貴殿の名も知り 味方は前軍と後軍を合わせても一万八千 、」 0