答えはものすた。 と思い悩んでいたのだが、 ごく簡単で、ホームページがなかったから「前からホームページを拝見していて、面 好きなんだけど離れたい街 みたい。イラストレータ 1 をネットで探し白いなと思ってたんですよ。いっか仕事を 二〇〇六年 ( 三十五歳 ) の秋、ばくは一て発注する時代になっていたわけだ。ネッ頼めたらと思っていました」 なんて答えが聞けると嬉しかったから。 度クビになったアルバイト先、珈琲店でトがばくにとって有効な手段だったのは、 当時の手帳を見ると二〇〇八年で平均し また働き出した。長年馴染んだ職場では、文章と絵を組み合わせて、見せられるとこ て月に約五万円の収入があった。翌年には ノーストレスで生活費が稼げた。珈琲店ろだった。 はばくの生命線だ。それにやつばり神保町ばくが売れない理由は、伊野孝行といえ月に約十万円以上稼げるようになった。自 は居心地のいい街。これでようやく落ち着ばこの絵、というわかりやすいスタイルが分としては上出来で、もう「イラストウェ ないためかもしれないと思っていた。でイター」などと自虐的なダジャレは言わな いて、絵に打ち込めるようになった。 でも、いつまでもこの街にいてはいけなも、スタイルを限定して、言いたいことをくて済むかもと思った。 、。ばくの中にもいろん「しかし、月に三十万円くらい稼げるよう いのだ。イラストレーターで食えるように絞るのもつまらなし なって、早くおさらばしなければ。好きなな自分がいるように、ばくという人間をすになるまでは、辞めないほうがいいだろう べて絵に出したいと思っていた。人間性のねー んだけど離れたい街、それが神保町。 とアルバイト先のオ 1 ナーに言われてい 二〇〇七年の九月にギャラリーで一部ではなくて全部だ 行 たし、自分でもそう思っていた。 そんなばくにとって、ホームペ 1 ジとい 『こつけい以外に人間の美しさはない』と 孝 野 だが、そろそろ四十歳になろうとしてい いう個展を開いた。同時に同タイトルの本う一つの小さなメディアを持てることは心 をギャラリーに作ってもらった。そして、強かった。売り込み用のファイルなんかでるのに、なかなか辞められそうにない。皮 やっと自分のホ 1 ムページも友達に頼んでは絶対に伝わらないことも、ホ 1 ムペ 1 ジ肉なことに、みんながネットを使い出す 物 町 と、出版不況が加速する。徐々に増え出し だったら伝わる。 出来上がった。 保 神 この年からようやく仕事がポッポッ来はそんなばくをどこかの誰かが「発見 , した仕事と、ずぶずぶ沈み出した出版界。イ の ラストレーターだけでなく、カメラマンも て仕事をくれる。 じめた。 当時は仕事の依頼が来るたびに、どこでライターも厳しい状況になっていた。タイ ( どうして自分には仕事が来ないんだ 5 ミング悪いなあ、自分。 自分のことを知ったのかいちいち聞いてい どうしてなんだ 5 っ ! ) 1 = ロ 501
中に金くさい血の味が広がる。飲みこんだ やがて真俊は、夜にはナイフを持ち出す ばくがこの手で殺したかった。 っ うが 途端、吐き気が衝きあげた。 ようになった。柄にいくつものホールが穿誰かに殺されるくらいなら、その前にば 顔をあげると、真俊の背後で校庭の桜並たれ、スリットから刃が見える細工のバタくが 木が薄紅の雲のように連なっていた。頬をフライナイフだ。月光を弾いて、夜気に銀要は目を閉じ、唇を噛んだ。 っ 引き攣らせ、大歯を剥き出して笑った真俊いろに光っていた。 二週間前にネットショップから届いた、 まな・つら の顔と、いちめんの花霞。対比となって、 真俊はけして、衣服の上から見えるとこ ハンティング用のボウイナイフが眼裏に浮 いまもあざやかに脳裏に焼き付いている ろに深手を負わせはしなかった。ただ頬なかんでいた。 その日を皮切りに、要は毎日のように真り腕なり、薄皮一枚を切り裂いてくること 俊に呼びだされるようになった。 は珍しくなかった。 自動販売機の取り出し口からコーヒーの き、っち すす 真俊は不良の取り巻きを連れていること校内では何度か階段から突き落とされ紙コップを取り出し、木内はひとくち啜っ もあった。だがたいていは一人だった。むた。かと思えば、河原で大をけしかけられて顔をしかめた。 かれつ たこともあった。 しろ殴打は、彼一人のときのほうが苛烈だ 相変わらずひどい味だ。だが糖分とカフ った。 大に押し倒されたあのときも、要は仰向ェインを一緒に摂れる飲み物といえば、署 場所はたいてい校舎裏か、もしくは人気いた視界に真俊の顔を見た。 内にはこれしかない ひらめ のない河原であった。 大型大の荒く臭い息と、閃く黄みがかっ 酒が無理なら、せめてカフェインで 真夏のむっとする草いきれ。アスファルた牙。その向こうに、真俊の愉悦の表情がも摂らなきややってられん。 かげろう すすき トに揺らめく陽炎。秋には薄が金色の波をあった。大の牙が要の肩に打ちこまれた瞬子供が被害に遭う事件は苦手だった。何 つくり、日中なら燃えたつような陽が、夜間、真俊は箍のはすれた笑い声をあげた。年刑事を勤めようがそれは変わらない。た なら冷えた月が彼らを見おろしていた。 いったい誰が、樋田くんを殺したんとえそれが、どんなにたちの悪い不良少年 にろ、つ であってもだ。 最初のうちは、殴る蹴るだった。 真俊の拳が頬に、爪先がみぞおちにめり要は思った。 樋田真俊。青葉台中学三年一一組、満十五 こんだ。地に這い、苦悶にのたうつ要に真ばくは殺していない。それだけははっき歳。 俊は声を上げて笑った。一片の疑いなく、 りしている。でも、それなら誰がやったと 彼が刺殺体で発見されたのは、月曜の零 たの い、つの、か 彼は愉しんでいた。 時四十五分頃であった。陸橋の下に転がっ たが
門前が騒がしい。怒号か聞こえてくる 長英は、若い弟子の言葉を聞き、ようやから思う。 すると、門扉を叩く音がした。かなり激河島が、草介と長英に頷きかけ、表に飛 く居室から廊下へと出て来た。 び出した。 笠や蓑を用意し、次々と他の弟子たちがしい。高野の名を叫んでいる 姿を見せる。 「き、来ました」 草介の声が震えた。 急ぎ裏口にやって来た若い弟子が、 「河島さま、水上さま、先生をよろしくお弟子たちの間に緊張が走る。私が行きま きびす 願いいたします。あとのことは、兄弟子たす、と一番年かさであろう弟子が踵を巡ら草介は手文庫を脇に抱え、懸命に走っ た。顔に当たる霙が冷たい。 ちがなんとかしてくれるでしよう。落ち着せながら、いった。 き先がわかり次第お知らせください」 「他の者は、先生の居室を片付けろ。おふ長英の唇から洩れる息が白かった。 裏口から細い路地を抜けて、表通りに出 河島と草介、そして長英の履き物をすばたりがいたことを知られては、面倒だ」 たたき 「提灯は持って出ないほうがよろしいでしる。町家の灯りに、ほっとしながら、緩や やく三和土に並べた かな坂を下る よう。灯りで気付かれますから 「世話をかけるな」 河島がいいながら笠の紐を結ぶ。草介弟子たちは大丈夫だろうか 長英が幾分張り詰めた表情をした。 裏口を出て、北に行けば町家だ。南は武は、年長の弟子から渡された風呂敷で手文長英本人がいないとなったら、屋敷中を ひっくり返し、弟子たちを厳しく問い質す 家屋敷が建ち並んでいる。まだ町木戸が閉庫を包んだ。 、 0 にしなし まる前だ。人通りのない武家屋敷の通りよ「それでは、先生 り、町家のほう力いいだろう。 河島が心張り棒を外すと、蓑笠を身に着なにゆえ、このような理不尽を繰り返す しえん のか。鳥居は私怨ではなく、「思想になっ 急に寒気が襲ってきた。草介はぶるりとけた長英が大きく首を縦にした。 子 身を震わせる。雨はまだ降っているようだ板戸を開けた途端、夜の闇が眼前に広がてはいかん」といった。それが、大きな渦 、つ になったとき、幕府の屋台骨が崩されるこ り、しやらしやらと地面を打っ音がした。 が、すいぶん静かになっていた。 梶 みぞれ とにつながるとでもい、つのだろ、つか それにしても、捕り方から逃げるなど、雨の代わりに吹き込んできたのは、霙だ。 まつりごと 草介に政はわからない。 これまで生きてきて初めてだ。痛んでいた春の霙。 ひとつだけわかるのは、確固たる志を持時 どうりで身が震えたはすだ。雨がいつの 脇腹と背がまたしくしくし始める つ者たちに弾圧を加えても、一度ついた火花 追われるというのは、これほど恐怖を感間にか霙に変わっていたのだ。 おきび じるものなのだ。そもそも悪いことはして 恐布だけではなかったのだと、草介は自は、容易に消せないということだ。燠火が 再び炎となって燃えるように、志は受け継 いないのだが、 悪事はすまい、と草介は心分に言い聞かせた。 みの たた
さらに頁を進めると、途中から戦の場面 この期に及んで、私は同時に、久左衛門は懐から一冊の小ぶりな せいだけではない に変わった。 帳面を取り出した。 死を恐れているというのか こちらは打って変わって、驚くほど大胆 歯を食い縛り歩き出そうとした刹那、不「見てみろ」 戸惑いながらも受け取り中を開いた私な筆使いだった。きらびやかな具足をまと 意に頭上から声がした。 かんか 、激しく干戈を交える武者たち。傷つ は、覚えず息を呑んだ。 「やめておけ それは、絵の下書きだった。描かれていき、倒れた足軽雑兵。疾走する馬。下絵と 弾かれたように顔を上げる。 声の主は、物見櫓の上にいた。金子久左るのは、大坂城の天守だ。豪壮さを余さずはいえ、血や硝煙、砂埃の臭いまで漂って 表現しながら、精緻な筆使いで細かいとこきそうだ。 悔しいが、絵師としての腕は私よりもは するすると梯子を下りて私の前に立ったろまで丁寧に描き込んでいる 頁をめくる。城門、城下の町並みから庭るかに上だろう。画風は異なるが、師であ 久左衛門は、刀こそ佩いてはいるものの、 の木々、草花にいたるまで、どれもが見事る岩佐又兵衛殿と比べても見劣りはしな 槍も鉄砲も持たず、具足さえ身につけてい な出来栄えだった。 しったい 「貴殿のなすべきこととは、、 「これを、貴殿が ? 「無理して死に急ぐこともあるまい。死な ど、望まずともいずれはやってくる」 震える声で訊ねた私に、久左衛門は頷 帳面の絵に目を奪われたまま、私は訊ね 「こんなところで、貴殿は何を ? 「十年ほど、土佐派の絵師の下で学んだ。 「見ての通り、戦見物だ」 たまち この厳めしい男が絵筆を握っているのはその後は、江戸の田町で絵師として働いて「話は後だ。まずは、生き残らねばな」 久左衛門は私の手から帳面を奪い取り、 意外だったが、私はそれ以上に、味方の死おる」 希 純 土佐派は古い歴史を持っ絵師の一派で、駆け出した。 命を決する戦で高みの見物を決め込んでい 野 長く朝廷のお抱え絵師的な立場にあった。気づけば、喚声がすぐそこまで迫ってい天 たことに怒りを覚えた。 、戦国乱世を経て没落し、天正、文禄た。駆け去る久左衛門を追って、私も走り 「戦にも加わらずに、ですか」 出す。あの男が何者なのか、なすべきことの 「そうだ。俺には戦の他に、なすべきことの頃から狩野派に取って代わられている 鬼 言われてみれば、久左衛門が描く建物やとは何なのか、聞かすには死ねない がある」 画 やはりこの男は、徳川が送り込んできた草花などの丁寧かっ繊細な筆致からは、土北へ向かって駆けると、すぐに町屋だっ かんちょう た。豊臣軍の敗北がすでに伝わっているの 間諜なのか。私が刀の柄に手をかけると佐派の影響が見て取れる けっ
家康公はいすれは天下をお取りになる御か 小姓として御ぎい様に従ったのは儂の子 方じゃ。儂はそれを疑うたことはない。あ家康公がまだ竹千代君でおわした時分、 に、本多重次の一粒種か。あれは我が子を れほど智慧深く、家士を大事になさる御方今川へやられたときは、岡崎の出方一つで目の中に入れても痛うないほど可愛がって もあるまい。この日の本の先の先まで、広明日の命をも知れぬお立場であった。父君おるのであろう ? 奥方は忠吉殿の娘御ゅ くはるかに見渡しておられるのは、あの御の広忠公は泣く泣く、竹千代君は死んだもえ、そなたにとっても甥じゃの。なるほど 方をおいてない のと諦めると仰せあそばした。そうせねば鳥居は家康公一途、外に主を取らぬ筋目じ 関白はのう。譜代の家臣がおらぬゆえ不竹千代君はおろか、岡崎そのものが踏み潰ゃな。 憫であろう。ようやく授かった世継もしよされる苦難のときであったゆえ いやいや、あの大坂城での謁見を恨んで せん赤子なれば、安寧に導きたいというの のう元忠。今川でともに過ごした我らじおるのではない。あれはおぬしらにしてみ も、それはただ親が等しく子に抱く思し。 、、こや、人質の暮らしがどのようなものかは存れば当然至極。非などない すぎぬ じておろう。 だが重次は己の子を取り替えてしもうた 関白はひたすら天下に執着する、己の強忠吉殿は歯を食いしばって今川の横暴をではないか。たしか病の母親を見舞わせた い念だけが拠りどころじゃ。儂は関白と話堪えたが、それでも竹千代君がご無事かど いと申して呼び戻し、御ぎい様のもとへ返 すたび、それが憐れに思えてならなんだ。 うかは知る由もなかった。たとえ主が殺さすときは別の子を寄越しおった。 だが執着というのも、あれほどになればれかけても家臣は馳せ参じることもでき御ぎい様は父君ばかりでなく家臣にまで 潔い。家康公に臣従を望むあまり、妹を夫ぬ、人質とはそのような御身の上を申すの捨てられたのじゃな。 婦別れさせて嫁がせ、母親まで人質に出しじゃ。 重次とて、御ぎい様がかっての竹千代君 た。御ぎい様とて人質に取るどころか、乞ああそうじゃ、御ぎい様が人質などであのような人質であれば、我が子を取り替え うて乞うて養子にした。 るものか。家康公には小牧長久手のあと、 たりするものか。御ぎい様のお命が危うう ごう 我が子といい譜代の家士といい、 家康公関白に人質を出さねばならぬ弱味など毫もなれば、小姓など真っ先に殺される。我が には幾人あることか。それにひきかえ関白なかった。関白が頼む頼むとひたすら頭を子いとしさに他人の子を差し出したとなれ は、あれだけ策を弄して手に入れたのは、下げるゆえ、ほだされて御ぎい様を差し上ば、重次とて恥ずかしゅうて、太刀など下 げなされたのよ 御ぎい様とこの儂のみであったろう げて歩いてはおられるまい その御ぎい様はのう。忠次などは人質じ、そう、差し上げた。信康様亡きあと、徳それゆえ重次はの。御ぎい様がそのよう やと息巻いておったが、どこが人質なもの 川の家を託すべき世継の君をな。 な危うい目に遭うことはない、それが分か 484
「は、はい」 ( しいから」 「だ、大丈夫 ? その知り合いと関わって「黙ってれよ、 強い口調で言う。だが、その言葉はどこ従順な下僕のように、俺は言われた通り かぎこちなく、河村も何故か顔を赤くしてに携帯電話を出した。河村が俺に電話を掛 絶対にキレられる、と身構えていたが、 け、携帯電話のバイプレーションが自分た 予想に反して河村は俺のことを心配するよいる ちしかいない教室で響いた。 「でも、それだと河村さんが , うな口調で言う。 いいから。交換条件」 「じゃ、じゃあ、明日の夏期講習で」 「私のことは、 「あ、いや、その知り合いは、悪い人じゃ 何かを言う隙をも与えず、河村は荷物を ないはずなんだけどね」 「え ? 」 まとめて、いそいそと教室を出ていってし 「 : : : 私にも、謎、解かせて」 「そ、そうなんだ」 おずおすと顔を上げると、河村は怒って河村が一歩前に踏み込み、自分との距離まう。 いるというよりは、むしろ困惑の表情を強を詰めた。俺は思わず息を止める。河村の「え、河村と謎解き、 息がかかってしま、つのではないかと思、つほ え、という声が、誰もいない教室に虚し く浮かべていた。 睨む、とい、つよく広がっていった。 どに、その距離は近い。 「その、とにかく、本当にごめんなさい 河村さんが疑われてるのは全くの冤罪だかり、必死の形相だった。顔を紅潮させ、自 【その後の展開】 ら、あとで自分がちゃんと名乗り出るの分のことを食い入るように見てくる。 校庭に残されたマークが意味するものは で、許してくださいどうかこの通り 「 : : : お願い 何なのか ? 館長が残した文書には何が秘 そう言って深く頭を下げる。 「わ、分かった、分かったから」 められているのか ? 祐人と理奈の間のわ その迫力に根負けして、俺も必死に頷 自分が書いたと名乗り出るのが一番い だかまりは消えないまま、科学館は最後の 手だろう、と思った。嘘を並べれば何とかく。すると河村は詰めた距離をすっと離 日を迎えよ、つとしている。謎が解けたと 薫さんの名前は出さなくて済むかなと、し、ふう、と息を吐きだした。俺も息を整き、ふたりは ( 原稿用紙三八四枚 ) える。何が、とは言わないが、危ないとこ 半ば諦めながら考えているそのときだっ ろだった。 『星に願いを、そして手を。』は加筆修正の 「ケータイ出して」 「名乗り、出ないで」 上、ニ〇一七年ニ月ニ十四日 ( 金 ) に小社 「え ? 」 窓を見たまま、唐突に河村が言った。 より単行本として刊行されます。 「番号、教えて」 「え」 238
めり 朝鮮出兵が思うようにはかどっていないこ「何、利休の形見 : : : 」 織部は平茶碗に目を落とした。偶然に 秀吉の顔色が変わった。 ともあるのか、かなり不機嫌な顔だった。 も、茶碗の中に書いた〈花見〉の二文字が くさかんむり おも 織部の新作は、主に夏に使う皿のように織部は構わず〈泪〉の茶杓を使い、茶入抹茶で隠れ、〈花〉の草冠〈サ〉と、 ひら のぞ 平たい平茶碗。平茶碗は底の深い筒茶碗とれから抹茶を取り出して新作の平茶碗に入〈見〉のひとあし〈儿〉だけが覗いている やす 違い、茶が冷め易く茶を点て難い。そこでれ、茶釜から湯をすくって注ぎ茶を点て「サルーと読めなくもない。何事も歪んで あかし 茶碗全体を波のように歪ませ、点て易くした。そして、静かに秀吉の前に平茶碗を置取ってしまうのが老いた証だろう。 ている。 織部は苦笑した。 器の見た目の景色もいい。下地の褐色の秀吉の茶碗を持つ手が止まった。 「畏れ多くも殿下より豊臣家の茶頭の任を うわぐすり 土が透けるように乳白の釉を薄塗りし、「サル : : : 。織部。この茶は、利休を切腹頂いた身。殿下に対し、そのような無礼な そこにやや濃いめの釉を水玉のように不規させた、わしへの仕返しのつもりかや」 茶を点てるとお思いか。暖かな春を殿下の 則に垂らし、全体に仄かな桜色を感じさせ「仕返し : : : ? 努めて明るく笑みを返し、いに贈ろうとっくらせた茶碗にて。さ、茶 ている で心の濁りを洗い流してくださりませ。き た。「何のことにござりまする」 さらに、桜の枝のような、漢字二文字の「これを見いや ! 」 っと良き景色が茶碗の底に見えましようほ 〈花見〉。蛇足と思えるような銘を入れるこ差し出された桜色の平茶碗には、黄緑のどに」 すぎごけ とで、飲み手に確実に春を感じさせてい抹茶の細かな泡が杉苔のように彩を添えて秀吉は面白くもないという顔だったが、 いろどり く。その中に黄緑の抹茶が彩を添えるこいる。 それでも言われるままに飲み干した。 とで春を完成させるという、織部の趣向だ「はて。それがしには、美しい春の景色に 「なるほど、確かに茶碗の底に春が見え ほほえ った。 見えまするが」 る」平茶碗の底を眺め微笑んだ。「 : : : 花 織部は懐から、いつも持ち歩いている六 秀吉は猿のように顔を赤く硬直させ、尖見か」 うるし 「少し煩わしさから離れられては。殿下の 寸 ( 約十八センチメートル ) 余りの黒漆った目で睨んできた。 ぐろう なみだ 塗の筒を出し一礼し、中から〈泪〉と銘の「こ、こんわしを、猿と愚弄しておろう心の乱れは、世の乱れとなりまする」 ある竹茶杓を取り出した。 が ! 」 「旨いことをいうだがや。おみやあさの点 かげ 「織部。おみやあさは、茶杓を持ち歩いと「猿・ : : ? はて、どこにも猿など見えまてた茶のお蔭で、心の濁りが消えたようじ たす るだか , せぬし、描いたつもりもござりませぬが」 ゃ。ところで織部。今頃、訊ねるのもなん 「はい 0 これはわが師、利休様自らおっく 「とばけるでにゃあ。茶の縁に分かれて、だが、なしてこげな奇妙な形や文様を入れ いびつ りになられた、形見の茶杓にござりますー〈サ〉と〈ル〉が見えとるだが」 た茶碗をこさえる。歪な茶碗は、お茶を飲 ほの ゆが つつ おそ
一文 集 あの日にドライフ人がんとけ 本義さ 」受 、意奥い性 もしも人生をやり直せるなら : ・ のに 女知 中年男のリ・スタート のとた、 ( もこし公概す 上司に放ったたったひと言をきっかけに、エリー たるま人、で ト銀行員からタクシードライバ 1 〈の転身を余儀なっすて主がい くされた牧村。現実を受け入れられず腐りかけた中な加ったた に参思のしみ 年男が自らの人生を見つめ直す、初の直木賞候補作。 補「とこまイ れル 賞全もわワ 木完あに言が 直も て囲 め周 初も 囎なて吟の さよならバースディ醗毳せママの狙撃銃 霊小教たう点 タイトルの切なさが胸に迫る 亡、をどし リ。て嶼えど平凡な主婦かスナイハー ? の丐さと性 人間との意思疎通を図るべく霊長類研究センタ 1 ま「矼け末これは一種のギャップ萌え 間カ切し ましを加ーい結 専業主婦としてそこそこの幸せを満喫していた曜圦 で飼育されてるオスのポノボ「「 1 スディ」を巡引功て年テしの 子のもとへ、二十五年ぶりにかかってきた「仕事」し り、研究者たちの間で巻き起こる愛憎と我欲を描いデ成べ何ス悲っ た迫真のミステリー。ラストシ 1 ンの「あいしてる」スもす 一にりる一がとの電話。曜子はおたまを銃に持ち替えて、家族の平 メてがしね には要注意 ! 「めみず」があふれ出すこと確実。 とまなバれひ和を守るため立ち上がる。痛快ハードボイルド ! のイい親まろ 、こつも まるまこそ - っ たうが母えこて さよならバースディ つい供る考と編 召戻れどて 荻原浩 あと子いとの長 かにそこしいな なれ の群 頭 初て のて 最え あの日に ドライプー、 光文社文庫 2005 年 10 月 単行本刊行 289 年文庫化 2005 年 7 月 単行本刊行 2008 年文庫化 荻原浩 狙撃銃 がい不い庫て 押入れのちょ んさな文いす さな ! まと動で じんわり、ぞわり、荻原怪談ー 御いい読本がい 親らなは行よ怖ス 日本推理作家協会賞候補となった「お母さまのロ のも訳の単ちと ロロ シアのス 1 プ」から、最終話の「しんちゃんの自転子てしる のつ申あたとよ 車」まで、読後感の異なる九話を収めた初短編集。 し撮、てるち ) まべで これまでの作品とはひと味違う、刺激と興奮、驅さテ い書祈並い れる快感が体感できる、短編ならではの魅力が モ靴聞てとをた きとっ紙み たエ ! 表た 浩 のない細でのき 原 撮た仰。 のかと 】入れ 新 双葉文庫 2006 年 3 月 単行本刊行 288 年文庫化 2006 年 5 月 単行本刊行 2g9 年文庫化
思わず、一成は声を上げた。 ど、聞いたこともなかった。場合によってだものではないのか 右から左へ進むにつれ、時が流れるとい は、徳川家を批判する絵とも受け取られか「この絵は、世に出すべきだ。家中の者た う趣向なのだろう。右隻が戦場の描写なのねない ちは、わしが命懸けで説得する。もしも殿 に対し、左隻は落城の光景が事細かに描き これを世に出すことはできない。そう思が反対なさるようなら、この黒田美作、腹 込まれている いながらも、一成の心は揺れた。 を切ってでもお諫めいたす。これは黒田家 そして、右隻が合戦の華々しい光の部分この絵に込められた民の苦しみ、怒り、の、いや、日ノ本の宝とすべきものだ」 だとすれば、左隻には地獄絵かと見紛うほ嘆き、恐怖、人が持っ醜さは、見る者を圧これからこの絵を福岡へ持ち帰り、長政 ど醜く凄惨な陰の部分が、執拗なまでに描倒し、惹きつけてやまない。これほどの絵をと家中の者たちを説き伏せるという仕事が かれていた。 見せられれば、八郎兵衛が一気に老け込む待っている。容易なことではないが、文字 乳飲み子を抱え、逃げ惑う母。泣き叫ぶのも理解できる。この絵のために己のすべ通り命を削って描き上げた八郎兵衛に較べ 若い娘の髪を掴み、連れ去ろうとする兵たてを注ぎ、挙句その体は病に蝕まれたのだ。れば、どうということもない ち。川へ漕ぎ出したはい、 しものの、人が乗どれだけの間、絵に見入っていたのか。「過分なお褒めの言葉、ありがたく存じま りすぎて転覆する小舟。 はじめて、一成は顔を上げた。 す。しかしこの絵は、私一人の手になるも 何とか泳いで城内から逃れ出た人々を待「見事だ」 のではございません。亡き金子久左衛門殿 っていたのは、野盗と落ち武者狩りの群れ絞り出すようにロにする。他のどんな言のお導きがあればこそ、完成にいたること だった。男たちは首を獲られ、女たちは身葉も、この絵の持っ力には遠く及ばない。 ができたのです」 ぐるみを剥がされ慰みものにされる 思えば、長政があの戦を屏風絵にしろと「無論、承知いたしておる。殿には、久左 それは、一成自身も目にした光景だっ 言い出したのも、一成が八郎兵衛の名と経衛門の名もしかとお伝えしておこう」 た。この世の地獄。他に、言い表す言葉が歴を出した時に反対しなかったのも、こ、つ答えると、八郎兵衛は肌艶を失った口元 見つからない。苦い記憶がまざまざと蘇した絵を望んでいたからなのかもしれなに微笑を浮かべた。 り、息苦しささえ覚える。思わず顔を背け ( 了 ) たくなるが、なぜか目を離すことができな これからは、戦の無い泰平の世が続くだ【参考文献】 『戦国のゲルニカーーー「大坂夏の陣図屏風」読み解 ろう。そして誰もが戦を忘れかけた頃、 き」渡辺武 ( 新日本出版社 ) 、「洛中洛外図・舟木本 これは明らかに、長政を讃えるための絵人々はこの絵を見て戦の醜さ、恐ろしさに を読む」黒田日出夫 ( 角川選書 ) 、「江戸の絵師「暮 などではない。戦場の惨禍を描いた戦絵な思いを馳せる。そんな絵こそ、長政が望んらしと稼ぎ」』安村敏信 ( 小学館 )
らっと揚げられていた。その店にまだ夕方前の中途半端な時 間、他に客は誰もいなかったのだが、 ガラガラと引き一戸を開 けていきなり、全裸の男が入ってきたのだ。「いらっしゃい ませ」と明るく声を出した次の瞬間、稲松は呆気にとられて 絶句していた。三十前後と見えるその男は肉体労働に従事し ていそうな逞しい体つきだったが、引きこもりのような色白 の肌、綺麗なピンクの乳輪及び乳首をしており、陰毛は健や かな黒い炎のようで、垂れ下がるべニスは肉屋のソーセージ を思わせた。「ちょっと、すみません、その格好は : : : 」と 稲松がどうにか声を押し出すと、男は椅子を引いてさっそく 座りながら、怪訝な表情で見返してきた。稲松は何とも言え す、急いで奥に行って「大将 ! 」と煙草休憩中だった店主を 呼び出した。大将は四十代後半の職人気質で根は優しく、子 供と女性客には人当たりがよかったが、不作法な男性客は時 に厳しくあしらうこともあった。客が店を選ぶのと同様、当 然ながら店も客を選ぶ。大慌てでしきりに手招きする稲松に つり出されて、腰を上げた大将は客席の方に現れた。お品書 きを眺める全裸の男を見た瞬間、さすがにちょっと眉を上げ て驚したが、 、 ' すぐさま目の色が変わり、厳めしい顔つきで歩 み寄っていった。 「おい、お前さん、その格好で俺の蕎麦を食うつもりか古 下 木 男は顔を上げてきよとんとしてから、ふっと笑みをこほし た。「大将、あんた目工ついてんのかい ? ご覧の通り、俺破 造 には格好なんて大層なものはないんだよ」 創 たしかに男は紛う方なき全裸であり、あらゆる「格好を 捨てている。だがそれで気圧される大将ではなかった。