身の手で切ったハサミの傷も、かすかに白「最終目標は、プロだから」 からそう思った。涼香は元気だ。先のこと く盛り上がり残っている。 扉を開けたその向こうに、中原が立ってはわからないが、今この瞬間、彼女は健や かに、それなりの速度でこの道を歩くこと 「はやくボラボラ島に行きたいのに」 「あんたたまにそれ言ってるけど、なんでサンタクロースの体型をした、この店のができている。吾輩はそれを、友として喜 ボラボラ島なのー マネ 1 ジャ 1 の男だ。そこで彼がずっと聞ばしく思う。その姿を見ることができてよ かった。 き耳を立てていたことを、吾輩は知ってい 「まえ飼ってたサメの実家なんで」 、」 0 「 : : : あんたさあ、喋るときはちゃんと、 さて、と、再び考える。さて、では、吾 相手に伝わる言葉で喋んなさいよー 「お疲れさま , 輩はど、つしよ、つか。考えている時間にも、 エーテルは消費されていく。 生きる目的の 「ああ、はい。 やつばみんな、サメと同じ「 : : : さーっす」 こと言いますね 微笑みを浮かべる中原に、涼香は視線を定まらぬまま、着実に死期は近づいてく 「だからさあ」 そらし低い声で答えた。店内で違法薬物をる。思うのは、「ボラボラ島に行きたいー リノは呆れたように吐き捨てたが、その売りさばく彼の、涼香はかって客だった。 と言った涼香の、声に滲んだ渇望。あれ 声に以前のような真剣な悪感情は含まれてしかし今、涼香からそれに該当する煙の匂が、少し羨ましかった。泳ぎ着くまでエー 、よすっかり消えている。横をすり抜けるテルが持つかはわからないが、ひとまず旅 いないように聞こえた。涼香のほうもそ、つし ( いらだ だ。時に苛立った声を出してはいるが、そ涼香の背中を、中原の目が追う。サンタクを続けてみようか。故郷の海、ボラボラ島 れは当人のコントロールのもと示されていロースにしては、愛情に欠けた目だ。 る感情に思える。共通の話題で、人間の距 上昇しようとヒレをくねらせたとき、左 たやす 離は容易く縮まる。ダイビング。それが美大通りに出たところでリノと別れ、涼香右のエラが、不穏なにおいを捉えた。雑多 しい海の話ならなおさらだ。 はひとり、家路をたどった。吾輩はその頭な街の匂いに紛れたそれを嗅ぎ分けること 「なにもダイマスまで取らなくたって、遊の上を、一定の距離を保ちついていった。 ができたのは、以前にもすっかり同じもの びで潜りに行けばいいじゃない」 歩く速度が以前より速い。靴底が地面をこを、もっと近くで嗅いだことがあるから 「そうだけど : ・・ : でも するようだった足も、一歩ごとに高く上がだ。 涼香の着替えが終わったタイミングで、っている。水中のスポ 1 ツを始めて、筋肉 どうすべきか、と考えた。少女の声が頭 かついたのだろう。 で響く。ィッツノットユアビジネス リノも立ち上がる。先立って歩く涼香が、 ロッカールームの扉に手をかけた。 しかし、吾輩は結局、ひとり来た道を引 涼香を食べなくてよかった。吾輩は、心
ロッカーを開く瞬間の涼香の上を漂うの「ウェットスーツ着るとはいえ、寒くなっ囲の反感を買うことしかできない。そし おとし て、自らをゴミだと貶める は、愉快なことではなかった。どちらかとてきたし」 吾輩は細かなガラスのぶら下がった照明 言えば、ウニを飲み込むような気持ちに近「うん」 い固い棘が、あちこちに刺さる 「なんか今日、いつにも増してだるそうでの間を縫うように、店内を泳いだ。涼香と は遠く離れたテープルに、華やかな笑顔を 鍵がなくなっているのを見つけた時点すね , 小林の言葉に、涼香は大きく息を吐き出振りまくリノの顔が見えた。ぐるりと一周 で、ある程度の予想はしていたのだろう。 したが、中原の姿はない。空調をつたって 細く開いた扉の隙間から覗くドレスの残骸す。 を前に、涼香は暴れ出したりはしなかっ 「わかりますか ? 」 廊下に出て、ちょうど人の声の聞こえた事 務室に入る。中原が、携帯を耳に当て、何 た。しかし、諸々不器用な人間なのだ。感「いや、丸出しっすよ」 事かを話していた。 情の処理に向かない神経の造りをしてい 「あーあ。リノさんに怒られる」 る。怒ったり、泣き出したりしないかわり投げやりにそう言って、涼香はソフアの中原が涼香に売っていた草は、国によっ ては合法だ。善悪など文化でしかない。し に、涼香はたつぶり五分間ほど、扉に手を背に深く身体を沈めた。 かし、人は各々のいる場所で、その瞬間の かけたその姿勢でフリーズしていた。同僚「はやく、店辞めたいな」 のっと 法に則り生きるべきではないか、と吾輩は の人間が入ってきたのをきっかけにのろの「それ、客の前で言いますか」 考える。 ろと動き出し、薄い灰色のドレスに着替え「すみません」 、リこ。、、ですナど。なんですか 始める。頬の筋肉が固く強張っていること「え男 ( 長い年月の中、その時の人間が手を加 なんかあったんすかー え、人の繁栄と幸福を願い形作ってきた法 に、おそらく本人は気がついていない が、今現在の形としてここにあるのだか 「いや : : : 別に」 「え、もうライセンス取れたんすか早く ないっすか 涼香はふさぎ込んでいる。ドレスを裂から。重たい頭と不条理な二足歩行。生き物 れたことで明確に示された悪意に、怒りととしての美しさと引き換えに、人は過去を 「、つんー 「まさかスズさんに先越されるとは。俺も悲しみ、不安を感じている。しかし、彼女積み上げる力や、社会性を手にしてきたの 週末行こうかな。って、毎週思うんすけどは発生したトラブルや乱された精神状態にではないか。 ね。なんやかんや土曜になると、今日はだついて、誰にも、なにも相談しない。相談しかし、吾輩はサメである。 るいわ、ってなっちゃうんですよね」 という文化を、きっとよく知らないのだろ う。ただひとり、黙って機嫌を悪くし「周閉店後、涼香は中原に呼び出された。浮 「うん」
「ダメな人間でもなにかしらできることが 中で、男がひとりレジスターの金を数えて既に着替え終わっていたリノは、ジーン あるんでしょ いる。スタッフォンリーと札の立った奥かズの足を組みながらため息をついた。 ら人の気配がしたので、そちらに向かつ「休みくれないなら、もう、店辞めようか「そうだった。私、泳ぐの得意なんです た。廊下には、これから捨てに行くのだろな」 「辞めるときは二週間前までに雇用側に伝泳ぎが得意など、サメである吾輩の前で うゴミ袋が雑に積み上げられている。この 廊下で、涼香が某先輩に謝罪をするためのえる義務がある。これはうちの店のルールよく言えたものだ、と思ったが、どうやら アシストとして、その女の足を引っ掛け足じゃなくて、労働基準法で決められてるこ涼香には、もう吾輩の姿が見えていないよ うだった。話し込む涼香とリノの間を横切 止めしたことを思い出す。と、ロッカールとだから リノさんが店長とデキてるこ ってみたが、彼女はもう吾輩の鋭いヒレを 1 ムから涼香の声がした。まだ、ここで働「うつぜ 1 目で追うことはしない。以前から、涼香は いているのだ。 と、やつば客にばらそうかな」 「いいよ。そのかわり、二度とダイビング吾輩の姿を水槽の中にしか見なかった。そ 「だから、お願いしますつつってんじゃな の水槽はもう、人工海水を抜かれ空つほ いですか」 のできない身体にしてやっからな」 かかと ヾ、」 0 扉の隙間から中に入る。見覚えのある赤重たそうなプーツの踵を床に打ち付け、 「だから、はやく次の段階に進みたいんで いドレスを着た涼香が、イライラとした様リノは立ち上がった。 すよ」 子で腕を組んでいた。中央のソフアにはも ダイビング。美しい響きの言葉だ。 「熱心なのはいいけどさ、ダイブマスター うひとり、髪の長い女が座っている。件の「冗談ですよ。リノさん怖いー 先輩、リノだとわかった。 涼香はロをとがらせ、床に腰を下ろして目指すんだったらそれこそ何十本も潜んな 優 「ダメ。もう来週のシフトはでたでしょロッカーにもたれた。はやく着替えなさいきゃなんないわけだし、長い目で見たほう 辺 渡 力いいんじゃない。私だって、レスキュー う。急に長期の休みなんて無理に決まってよ、とリノが言う んじゃん 「もっと早く言ってくれれば、こっちだっダイバーまで取るのにも数年かかったし」 後 「数年なんて、待ちきれないですよ」 前にリノさんに殴られたときは休ませらて融通できたのに」 話 「だって、オープンウォーターのライセン仕事中のアルコールが残っているのか、 れたのに」 の 「あれはてめえが先に手え出したんだろうスこんなすぐ取れるって思わなかったんで緩慢な動作でドレスを脱いだ涼香の右足メ が。あんときだって困ったのよ。顔に怪我す。私、ダメな人間だから、最初の段階でに、うっすらと赤い斑点が見えた。吾輩が 噛みついた痕だ。目を凝らすと、彼女が自 したから、仕方なくでしよ」 もっとかかると思った」
る仕事に移って楽しみながら生きたらいい ルの上の灰皿を蹴る、かと思われたが、す思う。 んじゃないの」 んでのところでその足を下ろした。中原の 中原は大きく舌打ちをし、点けたばか いえ。私には人生より大事な柱がある言葉に、涼香はかすかに頷いていた。自らりの煙草の火を荒々しく灰皿に押し付け 、」 0 ので、それに沿って生きますー が、あまり社会に歓迎されない人間だとい 「柱ってなに ? 」 うことを彼女は知っている。中原は短く笑「あっそう。じゃあいいや。なんかおまえ 「サメ」 い声をもらすと、二本目の煙草に火を点ムカつくし、組織に消してもらう」 中原のロが、笑いの形に広がる。しかしけ、ソフアの背もたれに大きくのけ反り、 「は ? なに。組織って。馬鹿じゃない そこから出てきたのは、低くかすれた冷た言った。 突如飛び出した浮世離れしたワードに、 ひそ い声だった。 「スズちゃん貯金とかしてないっしよ。サ涼香は眉を顰めた。しかし、中原は冗談を 「ゴミなだけあってゴミみたいな柱だね」メとか言ってどうせ男に貢いでるんでし言った風ではない。サンタクロースの微笑 「 : : : サメを馬鹿にすんじゃねえよ ! 」 よ ? そしたらさあ、ブッシャーやらなみも悪意を込めた嫌な笑みも掻き消して、 ひじ あお ガッ、と、涼香はローテープルの脚を蹴 開いた膝の上に肘をつき、煽るように涼香 まいにん った。涼香の沸点の低さに、中原は一瞬目「ブッシャー ? ・ : 売人てこと ? を睨め付けた。 を丸くした。その目を、今度は針のように 「そう。もうちょっと稼げるお店に移っ ふたりの頭上を、吾輩は滑らかに泳い 細める。針を持っ生き物が、吾輩は好きでて、そこのお客さんに売ってほしいんだよだ。狭い室内とはいえ、二メートル x 一メ ーーオし ね。おまえがやってたぬるい草とかじゃな ートル x 九十センチの水槽よりはずっと泳 「おまえさあ . 中原は言う。 くて、もっと高級なお薬ね。そっちからもぎやすい。緩やかな弧を描いて移動し、中 たゆた 「トークもできない愛想もないプスがこのお金入ってくるし、なんなら商品のティス原の背後、首の後ろのあたりを揺蕩う 業界でいつまでも生きてられると思ってんティングもできるし、悪い話じゃないと思「おまえ最近リノとつるんでんだろ。俺の の ? ズズちゃん。お客さんだから甘やかうけど こととか商品のことさ、オーナーにばれた してたけど、他の店じゃまずおまえみたい 「やらない。私はダイバー。 こなるから」 ら面倒なんだよね。おまえ頭ャパいからさ な頭ャパいやっ雇わねえから。ろくな指名伏せていた瞼を上げ、涼香は言った。静あ、その辺あっさりばらしそうで目障りな もとれねえわ、他の女の子からも嫌われるかに響く良い声だった。こういった声も出んだわ。ま、幸い、おまえひとり消えたと さが わで、邪魔なだけじゃん ? 」 せるのだ。彼女の、浮き沈みの激しい性こで、誰も騒ぐやついないでしょ 涼香は再び足を持ち上げ、今度はテープは、海の生き物の動きに似ているようにも「サメだ ! 」 まぶた
涼香が叫んだ。まっすぐに吾輩を指差 中原が振り返る。吾輩を見る。 「サメだー 叫んだ中原の頭に、吾輩は噛みついた。 下顎の歯がこめかみに食い込む感触がす る。熱い血がロ腔内に広がった。溢れる血 の匂いにテンションが上がる。尾ピレで鋭 くターンし、膝をついた中原の首にさら に噛みつく。こめかみからふき出し続ける 血が、左の胸ビレに降り注いだ。 涼香の声に、吾輩は顔を上げた。支えを 失った中原の身体がゆっくりと床に沈む その上にい吾輩の口からあふれた血がボタ ボタと滴った。 「マネするなよ。吾輩はサメだから許され 優 る」 辺 渡 「マネしないよ。うつわ 顔中を顰めて涼香が言った。血の匂いが編 不快なようだ。中原の血は複数の人工物の後 混じりあった複雑な匂いがした。あまり吾話 輩の好みではない。テンションを上げておメ いてなんだが。 「なんで、サメがここにいるの」 3 す。
痙攣する中原の身体と吾輩を交互に見なの組織に猟奇的な方法で消されたと思われ「わかった。私はボラボラ島にする」 がら、」 - 杳が問、つ るさ。生きていたなら、自らサメに噛まれ「素晴らしい。君に向いていると思うよ」 「これといった理由はないんだ」 たと証言する」 吾輩は胸ビレを振り、高度を上げた。左 「そうなの ? うわ、本当にサメだ。どう はあ、と大きく息を吐くと、涼香はポケ右に揺れる尾ビレの先を、涼香が目で追 して ? でも、嬉しい。ああ、でも、ちょ ットから携帯を取り出し、救急車両を要請う。 っと、ヤバいね。サメって、危ない生きした。なんとも社会的な行動だ。文明人と「さらばだ」 して正しい。通話を終えると、頭上を漂、つ鼻先を星の広がる宇宙に向け、吾輩は空 「ああ、吾輩のようなタイプは普段、人に吾輩を見上げ、目を細めた。 へと昇った。流線形のこの身体の美しいフ 噛みついたりしないのだがね。うつかり小 「久しぶりだね、サメ、元気だった ? ォルムを、涼香はいつまでも見送ってくれ 魚と間違えることもある。海に入るとき涼香が吾輩をどういう生き物としてとらるだろう。ヒレの先から、少しずつ工 1 テ は、ある程度気を張ったほうがいい。とこえているのかはわからない。しかし、かっルが空に溶け出す。吾輩は、自分の生涯に ろで、人に見られてはまずいな。外に出よて飼っていた水槽の中のサメと、空を泳ぐっいて考えた。 、つか」 吾輩とを同一の個体として認識してくれた友を得て、イカを食べ、清潔な水の中を ことは、吾輩には喜ばしいことだった。普泳いだ。同胞を見て、自らの美しさを知 裏口のドアノブを吾輩が噛んで回し、涼通に会話をしてしまえるところは、一般的り、少女に学び、旅をした。友と再会し、 香と共に路地へ出た。シンと冷えた空気がな文明人として少々正しくない気もするひとりの人間を殺して、友と別れる。 身体を包む。空を仰ぐと、昨日よりも幾分が。とにかく、最後に会えてよかった。ど短い生涯を振り返り、そして理解した。 またた かはっきりとした星の瞬きが見えた。 うやら本当に、吾輩はもう、最後のよう 吾輩が生まれた意味は、特になかった。 「中原は死んだのかな ? ただ、吾輩が楽しかっただけだ。 ゴミ捨て場近く、人気のない路上で足を「ああ、元気だ。だが、もう行かなくてそして吾輩は、ボラボラ島を目指す。吾 止め、涼香は言った。 輩は、なにかのために生まれたものではな 「どうだろうか。まあ、気にすることはな「そう。またここに来る ? 」 工 1 テルがすべて宙へと還る瞬間ま 、。廊下には監視カメラもない。涼香が一 「いや、もう来ない。人食いザメは殺処分で、この生を謳歌する。吾輩は自由なサメ 緒だったとは誰も知らないし、奴から出てされるからな。各々、好きな場所で、人生である くるのは動物に噛まれた痕だ。きっと、闇を謳歌しよう」 ( 了 ) けいれん
ズちゃんよりずっと昔からずっと努力して かない顔で着替えを済ませ、まだ赤いドレ退職の懸念も含めて」 スの残骸のそのまま残るロッカーを閉じる涼香は少しの間自分の指先を見つめ、やるわけでしよ。思いっきでふらっとプロ目 指すなんて、無理だよ」 と、事務室と呼ばれる小部屋に向かう。吾がて、ロを開いた。 ィッツノットユアビジネス、と、吾輩は 「出勤減らしてるのは、免許取るためで 輩は、もちろん友の後をついていった。こ す。リノさんには、あらかじめ言ってま言ってやりたかった。しかし、かって少女 れも、ビジネスではない。 小部屋の奥には薄汚れた事務机がひとっす。退職は、いっか、します。そのうち、に似たようなことを言われた吾輩よりは、 あり、その手前に、ソフアとローテープル免許取れたら。私は、日光に当たったほう中原には発言の権利がある。吾輩は少女と のセットが並ぶ。中原は奥のソフアに座がいいみたいだし、夜は寝たほうがいいか初対面のサメであったが、彼は、涼香を雇 用する側の人間だ。 り、小さなノ 1 トパソコンを前に、煙草をら」 「今後の人生考えるなら、現実的にちゃん 「なるほど ふかしていた。 う 1 ん、と高い唸り声を上げ、中原は煙と働いて、若いうちに貯金したほうが絶対 「お疲れさま , 涼香は小さな頷きを返して、手前側のソ草を口に運ぶ。そして、なにか含むところいいよ。スズちゃん可愛いんだし、いろい ろ息抜きしながらでもちゃんと稼げるでし フアの端に腰を下ろした。挨拶は言葉で返のある笑顔で、頷いた したほうが良い、と、いっか伝えたと思う「あのさあ、ごめんね。プロのダイバーをよ。だから」 目指してるって聞いちゃったんだけど、免「人生とか別にいいですー のだが。 速やかに営業ト 1 クに移行しようとして 「ごめんねー、お疲れのとこ。ちょっとい許っていうのも、その免許だよね」 さえぎ いた中原を、涼香は遮った。その声には、 っこ、確認したいことがあって」 優 そう言って、中原はノートパソコンの画「嫌なことを言うけどさ、それって、かな諦め、投げやりのようなマイナスの感情と辺 はいささか温度の違う、少しの自由を感じ渡 面をこちらへ向けた。涼香は伏せていた視り現実逃避に近い夢だと思う」 線をちらりと上げる。映っていたのは、な中原は窮屈そうに腹を丸めて、身を乗りさせる響きが、含まれているように聞こえ 編 後 出した。その組まれた両手の指の辺りを、た。 んのことはない。この店のシフト表だ 話 「私って、あの、わりとゴミっていうか、 「ここのとこさ、毎月ちょっとずつ出勤減涼香は黙って見つめる。 の 「ダイビングなんてさ、そりや楽しい趣味そんな感じなので。私の人生とかは別に大メ ってるでしよ」 の世界じゃん。プロになりたい奴なんてい事じゃないです , 「はあ」 : じゃあなおさら、もっと稼げ刀 「なんでなのか、聞いておきたいなって。つばいいるでしよ。で、そういう奴らはス「は ?
排出しながら死亡した。なんとも無茶な輸送プランだった。雑な 仕事をされたものだ。アクアリウムショップ側で死着保証のつか 2 水槽を出たサメ こ - つむ ない個体だからと、手を抜かれた感がある。そして被害を被った すずか のは、命を落としたサメと、エンドユーザーである高橋涼香だ。 吾輩はサメである。名前はサメである 和名はツマグロ。ツマグロって、マグロかい ? と思うかもし可哀想に。 ーフ・シャー しかし、その結果として吾輩は形作られた。手狭ではあるが最 れないが、サメだ。英名は、プラックチップ・ ク。更に正確に言うなら、吾輩は、ツマグロの死にぎわの霊子が適温度の水槽の中、涼香の手により与えられるイカを食べる、快 人の思念と結合したことにより顕現したエ 1 テル体のサメだ。好適なサメとしての間を得た。サメを飼う者としての涼香の手際 に不満はなかった。アクアリウムは素人のようだが、恐らく年単 物はイカ。 吾輩を形作ったサメは、フランス領ポリネシアのボラボラ島の位で下調べを続け、準備を重ねてきたのだろう。彼女がどれほど 浅瀬で泳いでいたところを地元の業者に捕まり、売り飛ばされサメを必要としてきたか。その結果として可哀想なサメは命を落 た。海にいた時点で、その日はもともと体調がすぐれなかったのとしたわけだが、吾輩は字宙の歴史を責めるつもりはない。 今、その涼香は、吾輩の水槽が設置された部屋のフローリング だ。だからこそ捕まってしまったのだろう。ボラボラ空港からマ の上で、パンツ一丁で横たわっている。眠っているのだろう、恐 ニラ国際空港までの空輸中にすっかり衰弱し瀕死の状態となり、 さらに乗り換えた日本行きの飛行機の中で、エーテルを少しずつらく。先ほど、吾輩の水槽に飛び込んできて、自傷行為を働い 工 1 テル体のサメは空中を優雅に泳ぐ。 ある時は温泉に。ある時は友のもとに サメの話渡辺優 画・中原青餅
プラックチップシャークの写真。それらに落ちた。水中でたなびく血の帯のようだ。 き返した。これはビジネスではない。 突然、中原が振り返った。 目を止めると、中原は小さく鼻で笑った。 ロッカール 1 ムに、中原はいた。閉め作そして、ハンガーにかかったドレスの中か吾輩を見る。目が合った、と感じたが、 業の完了した店内に、彼以外の人影はなら、今日涼香が着ていた赤い一枚を手に取そうではないようだ。中原の目はそこにあ 、 0 り、尻ポケットから銀色の細いハサミを取るなにかを探して、細かく動き続けてい た。しばらくの間、すべての動きを停止し 中原は堂々としていた。マネージャーでり出した。 まったく、手口の少ない男だ。涼香がネたまま、彼は吾輩の浮かぶ空間をただ見つ ある彼は店に関わる全ての鍵を所持してい コザメ柄だと信じていたヒョウ柄のドレスめていた。吾輩はゆったりと尾ビレを振 て、女子ロッカーであってもオ 1 プンスペ ースだ。涼香のロッカーの前で足を止めるを切り裂いたのも、この男だった。彼にしる。血を連想してうつかり漏れ出たエーテ と、物音を気にする様子もなく、そこにぶてみれば、これは営業活動の一環なのだろルは、もう止まっていた。 やがて小さく息を吐いて、中原は手元の ら下がったダイアルキーを手に取った。鍵う。芝刈り機を売り込むため、他人の庭に を引っ張りながらダイアルを適当に回し、せっせと雑草を植えるようなものだ。そうハサミに視線を戻した。ポロポロのドレス して、自ら需要を作り出す。確かに、悲しをロッカーに戻し、床の上に散った布切れ 錠の若干浮く位置を見つけると、ロッカ 1 いことが起これば、そのときの気候や体調もきっちりと集めて中に収める。扉を閉め の金具に押し当て、捻った。それほど力を やがて弦次第では、涼香は再び法に反した方法で心ると、最後にもういちど部屋を見渡し、ど 込めたようには見えなかったが、 の部品がカープの始点からぐにやりと曲がを慰めようと考えるかもしれない。それがこか納得しきれていないような表情を浮か べたままで、足早にそこを立ち去った。や り、キーホールから外すには十分な隙間が中原の日々の糧へと繋がる 優 開いた。安物の鍵を壊す一連の動作も手馴中原のハサミがドレスを裂くのを見なががて、施錠の音がいくつか聞こえた。 辺 吾輩はロッカールームの換気扇から外へ渡 ら、吾輩は、まだ吾輩の生涯について考え れている 中原は迷いない手つきで、やや乱暴に扉ていた。この身が朽ちるまでの一連の変化でて、夜の空へと泳ぎ出した。空気はさら を開く。涼香のロッカーは、きれいというについて。変化を時間という概念で捉えりと乾いている。鼻先を真っ直ぐ上に向け後 より単純に物が少ない。数枚のドレスにる。吾輩の時間について。吾輩は、なんのると、街明かりに霞んだ星がわずかに見え話 メ ために生まれたのか。目の前では、中原がた。海の中から見るよりは、まあ、美しい 靴。扉側には、サメの写真が貼ってある。 サ 海面から顔を出し、カメラに大きく口を開無秩序にハサミを動かし続けている。赤いと言える。 けたホオジロザメと、澄んだ浅瀬を泳ぐ、布の切れ端、細かな繊維がはらはらと床に
スに干渉するつもりはない。ただ、会しオ 、こ間は、全国を泳ぎ回っていたことになる。 を食べることだって」 いから、会いに行くだけだ。 「ありがとう。参考にしてみるよ サメ部屋の入ったビルを裏手に回り、窓 を数えながら七階まで昇った。まず、日を 「どういたしまして」 少女が、手を差し出した。友好の印、握日本の美しい風景を見て回っていた吾輩遮っていた厚手のカーテンがなくなってい 手を求めているようだ。吾輩は右ヒレを差にとって、久しぶりに見る涼香の街はこまることに気がついた。窓の隙間から中に入 し出し、それに応えた。濃縮されたエ 1 テごまとして薄汚く、しかし、ぎっしり詰まる。水槽はまだそこにあった。しかし、水 ルは物理的干渉も可能である。少女の小さった街の表面を人間や光が這うように行きの匂いがしない。暗い部屋の中、水の抜け な手の感触も、吾輩はしつかりと記憶に刻かう様は、緻密な細工の器械が力強く動くた乾いたアクリルの箱だけが、ひっそりと むことができた。 のを見るようで、それはそれで愉快に感じそこに残されていた。隅にあった発泡スチ ロ 1 ルの箱もない。むせかえるような死臭 そうして吾輩は、日本全国津々浦々名所時刻は十七時。吾輩が旅立ったときの朝も、すっかり消え去っていた。吾輩は懐か 巡りの旅を開始した。日本三名園と呼ばれ焼けと同じ色で、反対の空が燃えている。しい水槽の中を回遊し、薄く積もった埃を る兼六園、後楽園、偕楽園を見て巡り、日覚えのある道を見つけ、高度を下げた。涼舞い上がらせながら、眠った。 本三名泉と呼ばれる有馬温泉、草津温泉、香の職場から、吾輩のいたサメ部屋のごく 下呂温泉に浸かり、日本三景と呼ばれる、近くまで続く賑やかな道だ。浮かれた大学夜半過ぎに目覚め、部屋を出た。目指す 天橋立、宮島、松島を泳ぎ巡った。少女の生の集団の頭の上を、彼らと同じペースでのは、涼香の職場だ。 祖母と吾輩は、なかなかに旅の好みが合っのんびり泳いだ 涼香の働いていた店は、繁華街のメイン たようだ。各所を満喫し、松島まで北上し涼香は元気だろうか。そもそも生きてい通りを横道に逸れた先にあるキャパクラ たついでに、イカの水揚げ量ナンバーワンるだろうか。距離が離れてしまうと、さすだ。高級路線とセクシ 1 路線のどちらにも を誇る八戸市にもお邪魔した。久しぶりに がに個人の発するささやかな情報までは嗅振り切れていない感のある、良く言えば親 海に出て新鮮なイカを齧っているとき、涼ぎ取れない。きちんと数えてこなかったのしみやすい、入りやすい店である。ありふ 香に与えられたイカの、鮮度には欠けるがで、吾輩が旅立ってから何日が経過していれたデザインの看板を奥に進み、吾輩は客 るのかも、よくわからなかった。が、 発っ用の入り口から堂々と入店した。営業時間 趣の深い味わいを思い出した。 そして吾輩は、最後にもういちど涼香のたときと比べ、人々の服装がやや厚手に変は既に終了したらしく、フロアの照明は落 様子を見に行こうと決めた。彼女のビジネ化している。季節が移り変わるくらいの期とされていた。一段下がったカウンターの かじ