六郎兵衛 - みる会図書館


検索対象: 小説新潮 2016年12月号
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1. 小説新潮 2016年12月号

六郎兵衛はゆっくりと茶を飲み干すと、闇討ちにいたしたことがございます」 圭吾は美津が持ってきた手拭いで汗をぬ しばしようご 六郎兵衛は柴省吾を討ち果たした夜のこ くい、さらに足の泥も払って縁側に上がっ茶碗を膝前に置いた。そしてかたわらに座 とを思い出しながら言った。あの夜から数 っていた美津をちらりと見る。 た。そして庭から離れに戻ろうとしていた 藩の機密に関わることゆえ、聞かないほ日たって、六郎兵衛は何者かに監視されて 六郎兵衛に、 「稽古をしてのどが渇きました。こちらでうがいいのだ、と察した美津は頭を下げているような気がした。 その後、夜道で影のような男たちに襲わ 部屋から出ていった。 茶を進ぜましよう」 れた。命を奪おうとするほどの執拗な襲撃 六郎兵衛はしばらくして、 と声をかけた。六郎兵衛は黙って頭を下 げた。そのまま裏にまわったのは、井戸端「梟衆と申す隠密がいると聞いたことがあではなく、腕前をたしかめるために襲われ たのではないか。 ります」 で足を洗うためなのだろう。 襲撃は三度に及んだ。 やがて六郎兵衛が部屋に来たのを見計ら「梟衆 ? ー だが、六郎兵衛がことごとく退けると、 「さよう、殿の密命により、家臣に不遜な って、美津は女中とともに茶を出した。 圭吾は茶を喫しつつ、 振る舞いがないかを調べ、もし怪しからぬびたりと止んだ。 あれが何だったのかはわからないが、い 「やはり稽古はよいですな。気が晴れまし振る舞いがあれば、ただちに命を奪うとい まにして思えば、剣筋がひと月前に襲った う噂でございました」 た」 者たちと似ていたような気がする。 六郎兵衛は淡々と言った。 と言った。六郎兵衛はうなずいて応じ 「知りませぬ。聞いたことがない」 武士の剣捌きではなく、剣術の裏をか 「お勤めで、煩わしきことが多いのでござ「わたしの若いころの話でございます。そく、忍びの剣だった。 そんなことを話すと、圭吾は腕を組んで いましよう」 のころ、わたしは怪しい者たちにつきまと さようです、とだけ答えようとした圭吾われました。あるいはあれが梟衆ではなか考え込んだ。 「もし、あの夜の者たちが梟衆だとする ったかと思います」 はふと気が変わって、 と、わたしは殿のお怒りを買ったのかもし 圭吾は息を呑んだ。 「ひと月前に料亭の帰りに襲ってきた者た ひぐち て ちのことですが、樋口殿は藩の隠密ではな「樋口殿は梟衆に狙われたことがおありなれません」 眉をひそめて言う圭吾に六郎兵衛は、 いかと言われた。心当たりがおありなのでのですか」 玄 「たしかにそうだ、とは申せません。わた「さほどまでに思わずともよいかもしれま すか」 と訊いた。 しは若いころ武士の意地にて、さるひとをせん。わたしは、梟衆はまず脅しをかける

2. 小説新潮 2016年12月号

馬鹿々々しいと思うが、いまさら派閥をに渡した六郎兵衛は、間合いをとってから″ ようなものがあることは圭吾も感じてい 脱すれば家中で孤立して閑職に追いやら正眼に構えた。 圭吾も正眼の構えだ。 帯刀が言った言葉が、それと関わりがあれ、陽の目を見ないことは明らかだった。 りゃあ るのかどうかはわからない。 やむを得ないと自分に言い聞かせ、砂を かえもん 気合を発して、六郎兵衛が打ち込んでく だが、帯刀と嘉右衛門の派閥の対立だけ・噛むような思いで圭吾は登城していた。 ろくろべえ そんな心持ちがわかるのか、六郎兵衛はる。圭吾はこれを木刀で受けたが、手が痺 に止まらない暗流が蓮乗寺藩にはあるのか もしれない、と圭吾は思うようになっていある日、早めに下城して屋敷に戻った圭吾れるほどの打撃だった。 こ 0 に、 六郎兵衛は続けて打とうとはせず、すっ その暗流がもっとも渦を巻いているのが「ひさしぶりに稽古をして汗を流されてはと退いて、 参られよ 勘定方なのかもしれない。圭吾が帳簿に不いかがか」 と声をかけた。 審を抱いて調べたことは、暗流に手を突っ と庭から声をかけた。 二本の木刀を手にしている。 かって道場で稽古をつけてくれたころの 込んだことになるのかもしれない。 本来なら帯刀から派閥を譲られた圭吾憂鬱そうな圭吾の気持を剣の稽古で晴ら毅然とした六郎兵衛がそこにいた。 を、助けようとする者がいてもいいはずそうというのだろう。 圭吾は猛然と打ち込んだ。 六郎兵衛が血を吐いたのはひと月前のこ 六郎兵衛は圭吾の打ち込みを余裕をもっ だ。ところが、帯刀は派閥を譲ったと称し とで、いまではかなり恢復しているようて、 ても、会合は自らの屋敷で開かせていた。 かっ だ。六郎兵衛を見て圭吾はふと気分を変え さすがにその場には出てこないものの、 たくなり、 かっ 圭吾は会合を終えた後、その日、話し合っ 「一手、教えていただきましようか」 と弾き返し、気が付いたら間合いを難な たことを帯刀に伝えてから引き上げるのが 常だった。 と応じた。かたわらで圭吾の着替えを手く詰めて、圭吾ののどもとに木刀の尖端を 擬していた。 つまるところ、帯刀は派閥をいまもなお伝っていた美津は徴笑んで、 「参りました」 牛耳っており、圭吾は形ばかりの領袖に過「それはよいことでございます」 圭吾は思わず言った。どっと汗が噴き出 ぎない。おそらく派閥の幹部たちは圭吾の と言って縁側に控えた。 いないところで、いまも帯刀と密議をして圭吾が着流しで素足のまま庭に下りるす。寝苦しい夜を過ごした後の脂汗ではな いるのだ。 と、六郎兵衛も下駄を脱いだ。木刀を圭吾く、力を振り絞った気持のよい汗だった。

3. 小説新潮 2016年12月号

のではないかと思いますから」 「では、わたしが殿に逆らおうとする気持と訊いた。六郎兵衛は気の毒なほどうろ 「脅しですか ? 」 がなければそれでいいと」 たえて、 「さよう、ご承知のごとく、いまの殿は忍「そういうことです」 「それはどうでしようか」 坂藩から来られました。わが藩は代々、他六郎兵衛に言われて、圭吾は気が楽にな としどろもどろになった。やがてこれで 家からの養子が多く、そのため梟衆は藩主った。梟衆が六郎兵衛の言う通りに動いてはいけないと思ったのか、臍下丹田に力を を守るために作られたのではないかと思い いるのだとすれば、殿に抗う気持さえ持たこめた気配とともに、 ます」 なければ安心してよいのだ。 「わが望みは、大切なる友を守ることで 「藩主の護衛ということですか」 圭吾が若くして勘定奉行になったことす」 いまむら ぬまた 「さようです。重臣の動きを監視し、藩主は、今村派や沼田派に疑心暗鬼を呼び起こ と言い切った。 を軽んじる者はこれを始末する。それが梟したが、藩主も警戒したのかもしれない。 圭吾は何と応じてよいのかわからず、庭 衆でしよう。そのため、怪しい者には何度その警戒を解くには無心に過ごしていく先に目をやった。、 か警告の襲撃をするのではありますまいしかない。思えば、形ばかりとはいえ、派すでに陽が落ち、薄暗がりとなっていた か」 閥の領袖になったと思った瞬間、圭吾の胸が、何となく艶めいたものを感じるのはな 六郎兵衛は考えながら言った。 にも権勢への野望が浮かばなかったと言えぜなのだろうか。 「だとすると、どう備えたらいいのでしよば、嘘になる。 うか」 その心持ちが帳簿の不審を調べさせたと 十七 「何もせぬことだと存じます」 も言えた。 「何もしないことが身を守ることになると そんなわずかな野心の臭気を梟衆に嗅ぎ 翌日、登城した圭吾は嘉右衛門の御用部 言われますか」 付けられたのではないか。そこまで考えた屋に呼ばれた。 圭吾は目を瞠った。 とき、自らの野心を殺して生きるとは、ま執政会議は数日前にあったばかりで、勘 「無論、襲われれば防がねばなりませんるで六郎兵衛の生き方のようではないか、定奉行としての報告も月初めに終えてい が、それだけにして放っておけば、梟衆はと思い至った。 る。何の用なのだろうと思った。 やがて去るように思います。こちらに、殿圭吾は思わず、 圭吾が御用部屋に行くと、嘉右衛門は腕 に抗うつもりがあるのかないのかを見定め「樋口殿には野心というものはなかったの組みをして何事か考えている。圭吾は、敷 れば、それでよいのではないでしようか」 ですか」 居際に手をつかえた。

4. 小説新潮 2016年12月号

らうという名目で、敵対する者を殺すこと 「お受けいたします」 ことができたのは、そのためだったのか、 と田 5 った。 と答えた。そう言うしかない、と肚を決もできるということだ。 「どうだ、よい話であろう」 いや、それだけでなく、永年、帯刀が権めた。 利景は押し付けるように言った。 利景は、はつは、と笑った。 勢を振るうことができたのも、梟衆を預か 「これは話が早くてよかった。今後は大蔵「まことにありがたく存じます」 り、常に利景の内意を受けていたからなの がわしの意を伝えるゆえ、それに従って動圭吾は平伏して答えた。これで、藩内を 「だが、帯刀は死んだゆえ、いまは預かるけ。意見具申は許すが、帯刀のように、わ牛耳る権勢への道が開かれたのだ、と思っ がために利用しようとしてはならぬぞ。此た。すると、嘉右衛門が言った、半年もす 者がおらぬ。それで、そなたに預けること 度は樋口六郎兵衛が殺めたが、さもなけれれば自分の派閥にしたくなる、自分はこん にしたのだ」 ば梟衆に帯刀を斬らせるところであった」な男だったかと知るだろう、という言葉が 利景は何でもないことのように告げた。 利景は何もかも知っているのだ、と思っ耳の奥に蘇った。 「それがしが梟衆をお預かりいたすのでご て圭吾はぞっとした。だとすれば六郎兵衛梟衆を預かると聞いたとき、圭吾の中に ざいますか」 圭吾が思わず訊き返すと、利景は微笑しが圭吾のために帯刀を殺したことも、利景いままで思ってもみなかった権勢欲がむく こ 0 りと起き上がったのだ。 は知っているのかもしれない。 「そうだ。不服か」 圭吾は背筋につめたい汗が流れるのを感利景はそんな圭吾を見すえて、 「さて、帯刀を殺めた樋口六郎兵衛のこと 「滅相もございません。ただ、今村様亡きじた。 だが、梟衆を預けた者を殺した罪は許せ 利景はにこやかな表情で話を続ける。 後の執政では沼田ご家老がおられますが」 「三浦はとんだ役目を押し付けられたと思ぬ。また領内に戻ってくることがあれば、 圭吾は手をつかえ、利景をうかがい見た。 「たしかに沼田はおるが、あの者は近頃、うかもしれぬが、わしは家中を誰が取り仕梟衆によって討ち取れ」 増上慢になっておる。しかも帯刀をひそか切るかに介人はせぬ。いや、いままでは梟と言ってから、よいな、と念を押した。 に殺めたのは、沼田であろう。梟衆を預け衆を預けた者が家中で一番の権勢を握って「承ってございます」 圭吾は手をつかえて頭を下げた。 た帯刀を殺した沼田に梟衆を預けるわけにきた。わしに逆らいさえせねば、そのよう ひとたび去った六郎兵衛がまた戻ってくり にできるのだ」 はいかぬのだ。それで、そなたを選んだ。 ることはないだろう。だが、もし、戻ってく烏 利景に言われて圭吾ははっとした。 どうだ、引き受けるか」 利景はゆっくりと言った。圭吾は頭を下梟衆を預けられたということは、家中のれば討ち取るしかない、と圭吾は覚悟した。 ( つづく ) げたまま、 者たちの秘事を知り、さらに利景の意に逆

5. 小説新潮 2016年12月号

ったのだ」 圭吾ははっきりと答えた 0 狗と言われた樋口六郎兵衛しかおるまい。 そなた、なぜ樋口をわしのもとに寄越さな「そうか、もし、樋口がふたたび、そなた圭吾はため息をついた。 の屋敷に来たならば、すぐに報せろ。始末「樋口様に、申し訳ないことをいたしまし かった」 た」 せねばならぬ」 圭吾は息を呑んだ。 美津は涙声になった。 「樋口殿は、ご家老のもとに参らなかった圭吾は嘉右衛門を見すえた。 「だが、これで、わたしは今村様から操ら 「樋口殿を殺すのでございますか」 のでございますかー 「今村帯刀を殺めた男だぞ。もし家中の者れずにすむ。派閥の者たちに動揺はあるだ 「来ぬとも、もし来れば、帯刀を殺めるの に日時や場所を考えた。しかも斬るのではに捕らわれれば、われらとの関わりを白状ろうが、とりあえずわたしを領袖としてや っていくほかはあるまい。それに今村様を なく、心ノ臓の発作に見せかけて殺させたするかもしれぬ」 りなどはせぬ。これではただの病死だ。家嘉右衛門は苦い顔になって、わしにすべ殺めようとした沼田様も、わたしに弱みを てまかせておけば、かようなことにならな握られたのも同然だ。しばらくわたしをつ 中への脅しにはならぬ」 ぶすことはできないだろう」 かったものを、とつぶやいた。 「さようでございますか」 呆然とした様子で圭吾はつぶやいた。嘉嘉右衛門は六郎兵衛に帯刀を斬らせた圭吾が言うと、美津は悲しげに答えた。 「すべては樋口様のおかげでございます 後、すぐに殺してしまうつもりだったの 右衛門は圭吾をつめたく見つめた。 。こ 0 ね。もはや、樋口様にはお会いできぬので 「もし、そなたが何も知らぬのであれば、 しようか」 圭吾は頭を下げて御用部屋を出た。 樋口はおのれの考えで帯刀を殺めたという ひとたび去った六郎兵衛がまた姿を見せ ことになるな」 この日、下城した圭吾は美津に帯刀が死ることはあるまい、と言いかけた圭吾は、 「わたしは妻を通じて、樋口殿に沼田様の もし六郎兵衛が戻ってくれば、圭吾が帯刀 んだことを伝えた。 お屋敷に参るよう伝えてございます」 の暗殺に関わったことが露見するのだ、と 美津はうなだれて、 嘉右衛門が自分の顔を手で撫でた。 「では、樋口様は、沼田様のもとには行か思った。 「樋口め、わしの命に従わず、そなたの苦 そうなれば、すべてを失い、腹を切るこ ずに今村様を殺められたのですねー 境を救ったというわけか」 あたりを見まわしてから、嘉右衛門は低「そうだ。おそらく、沼田様は樋口殿を口とになる、と考えて圭吾はぞっとした。 封じのために殺すつもりだったろう。そう い声で言葉を添えた。 三日後ーー 「樋口はいまもそなたの屋敷にいるのか」なればわたしも、ただではすまなかったか もしれぬ。樋口殿はわたしを守ってくださ圭吾が勘定方で帳簿を見ていると、藩主 「いえ、去りましてございます」 381 玄鳥さりて

6. 小説新潮 2016年12月号

と言った。 吾の脳裏に燕が曇天の空に向かって飛び立嘉右衛門はそのまま登城し、御用部屋に 圭吾は、ああ、とうめいた。 っ様が浮かんだ。 入るなり、小姓に圭吾を呼ばせた。 「わたしはそなたが樋口殿にあのことを言 ( あのひとは本当に去ったのだろうか ) 圭吾が御用部屋に来ると、嘉右衛門は何 うだろうとわかっていた。それを知りなが圭吾は唇を噛んだ。 げなく手招きして側に寄らせ、 ら止めなかった卑怯者だ」 「聞いたか。帯刀が今朝方、死んだぞ」 美津が目に涙を滲ませた。 十八 と告げた。圭吾は青ざめたが何も言わな 「非道なのはわたしです。樋口様のおやさ い。そんな圭吾を見て、嘉右衛門は吐き捨 しさにつけ込んだのでございます」 二日後ーー てるように言った。 圭吾は肩を震わせた。 今村帯刀が屋敷の中で死んでいるのが見「やはり、そなたの仕業か。三浦圭吾はお 「いまさら、何を言ってもしかたがあるまっかった。 となしそうな見かけと違って、恐ろしい男 だな」 い。わたしはこれより、沼田様のお屋敷に 明方、厠の近くの廊下で倒れていた。 行って参る」 朝になって女中が廊下を拭き掃除しよう 圭吾は何の事かわからないといった表情 「何をされるのでしようか」 とした際、帯刀が倒れているのに気づいで、 美津は圭吾をうかがい見た。 た。外傷はなく、心ノ臓の発作で息絶えた「今村様はどのような亡くなり方だったの でございましようか」 「決まっておろう。樋口殿を連れ戻すののではないかと見られた。 だ」 念のために呼ばれた藩医の中井藤庵も、 と訊いた。 「ご無用だと存じます。それでは樋口様の「起き抜けに厠に行って発作が起きるの嘉右衛門はじろりと圭吾を睨んだ。 は、年を召した方にはよくあることです」 ご厚意を無にすることになります」 「とぼけるな。帯刀は何の傷もなく死んで 「それはわたしたちの勝手な理屈だ」 と言った。それでも藤庵は帯刀の全身をいたゆえ、家人は心ノ臓の発作だと思った 圭吾の激しい口調に、美津は涙ながらに調べて、盆のくぼをあらためた時、眉をひょうだ。しかし、中井藤庵があらためたと 訴えた。 そめた。緊張した表情になった藤庵は何もころ、盆のくぼに小柄で突いたような跡が 「さようなことはございません。樋口様は言わず、今村家を辞した後、沼田嘉右衛門あったそうだ。藤庵の話では盆のくぼを深 出ていかれるときに言われたのです。追わの屋敷を訪ねた。 くさせばひとを殺せるそうだ」 まだ登城前で屋敷にいた嘉右衛門に会っ 「では、何者かがーーー」 ないでくれと。あの方はわが家から去られ たのです」 た藤庵は、ひそひそと何事か話した後に辞圭吾の額に汗が浮かぶ。 「さような真似ができるのは正木道場の天 六郎兵衛は去ったのだ、と言われて、圭去した。 なかいとうあん まさき

7. 小説新潮 2016年12月号

みうら ってもよいが、殿のご身辺のことに手を出 は、嘉右衛門にとって痛手だろう。 「ご家老、三浦圭吾、参りました」 圭吾が声を発すると、嘉右衛門ははっと「大野殿を襲ったのは何者なのでしようすな、すなわち殿が使われる金を惜しまぬ ようにと告げておられるのだ」 か。まさか、夜盗とも思えませぬが」 して、目を遣った。考え事をしていたこと 「しかし、どれほどの金であろうと、藩庫 圭吾が訝しげに言うと、嘉右衛門は鼻で を悟られまいとするかのように顔をつるり 嗤った。 の金なら殿の気ままにお使いいただけるの と撫でてから、 「夜盗などであるものか。おそらく梟衆ではありませんか」 だ」 圭吾が言うと、嘉右衛門はぎよっとした と声をかけた。 ように圭吾を見つめた。 圭吾は膝行して近づき手をつかえ、うか「梟衆ーー」 圭吾は緊張した。嘉右衛門はじろりと圭「そうか、帯刀め、そなたに勘定方の隠し がうように嘉右衛門を見る。 金のことを話していないのだなー 吾を見た。 嘉右衛門はため息をついた。 おおのでんしろう 「隠し金でございますか」 「聞いたか、大野伝四郎が右手を斬られた「ほう、そなた梟衆のことを知っているの か」 圭吾は首をかしげた。 「そうだ。いわば殿の御手許金なのだが、 「なんと」 「いささか、耳にしたことがございます」 六郎兵衛から話を聞いたばかりだとは言なぜ隠し金にしているかと言えば、この金 圭吾は驚いた。 が梟衆の陰扶持になるからだ。本藩から来 大野伝四郎は馬廻り役を務め、嘉右衛門えない。圭吾が重々しい表情でうなずく られた殿は家臣を信じてはおられぬ。梟衆 と、嘉右衛門は吐息をもらした。 にとっては派閥の幹部だった。 「ならば話は早い。梟衆は殿の隠密だ。おは家臣を監視する隠密ゆえ、その陰扶持を 嘉右衛門は苦々しげに言った。 「昨夜、大野は下城して屋敷に戻る途中でそらく殿は、今村派を継いだそなたと首席表に出すわけにはいかんのだ」 賊に襲われた。斬り合いになったが、右手家老になったわしを脅しておられるのだろ嘉右衛門はさらに苦い顔になる。 「さようでございますか」 を落とされたそうだ。命は助かったが、さ・う」 藩主が家臣を信じることができず、隠密 ような身となってはお城務めはできぬ。家「なぜさようなことを」 圭吾は声をひそめた。藩主が家臣を脅そを使って身を守ろうとしているとは、何とり 督を息子に譲って隠居するしかあるまい」 荒涼とした藩なのだろうと圭吾は思った。鳥 伝四郎は将来、嘉右衛門の派閥を引き継うとするなど聞いたことがなかった。 「だがな、殿も闇雲に梟衆を使うわけでは 「今村帯刀が隠居して、わが藩の人事もい ぐのではないかと思われていた男だった。 その伝四郎が突然、隠居に追い込まれたのろいろ変わった。それだけに殿は派閥で争ない。さようにしてはどうか、と唆す者が 3 ぞ」

8. 小説新潮 2016年12月号

利景つきの小姓が御用部屋に来て、 と、利景はにこやかに、 「大蔵は、梟衆の頭だ。今日は、そなたに 「殿のお召しにございますー 「今日は新任の勘定奉行に茶を振る舞おう 引き合わせるために茶室にあげたのだ」 と告げた。 と思ってな」 梟衆の頭と聞いて、圭吾はあらためて大 「わたしをお呼びなのかーー」 と言いながら、作法通りに茶を点て始め蔵を見た。地味でどこにでもいるような男 圭吾は驚いた。主君、永野利景と顔を合た。 だが、引き締まった体つきは武術で鍛えた わせたことは御前での執政会議と新年の賀「恐れ人ります」 ものかもしれない。 のときぐらいしかない。しかも御座所に呼なぜ呼ばれたのかわからないまま、圭吾 ふと、大蔵は六郎兵衛に似ている、と圭 び出されるなどは初めてのことだった。 は頭を下げた。 吾は思った。 圭吾が立ち上がると、小姓は前に立って 利景は四十を超えている。ふくよかな体利景は自分のために茶を点てて喫してか 案内した。だが、小姓が圭吾を連れていっ つきで、穏やかな表情の丸顔である。大名ら、 たのは御座所ではなく、茶室や能舞台など というよりも富裕な商人のように見えた。 「三浦は梟衆のことはどれほど知ってお がある奥庭だった。 利景が圭吾の前に茶を点てた黒楽茶碗をる」 茅葺の茶室の前に立った小姓は、 置いた。緑の茶が楽茶碗の黒色の地肌に映と訊いた。圭吾は用心して答える。 「勘定奉行、三浦圭吾殿でございます」 えて美しい。 「殿の隠密とだけ耳にしたことがございま と声をかけた。中から応えはなかった 圭吾がひとロ、喫して相席であろうと思す」 が、小姓はにじり口から上がるようにうなえる男に茶碗をまわそうとすると、利景は「そうか。だが、わしの隠密だとは言うて がした。裃姿の圭吾はとっさに脇差を小姓さりげなく、 も、扶持のことなどもあるゆえ ) 梟衆は に預けて、茶室に人る。 「その者は足軽身分だ。茶は飲ませずとも代々の執政の中からひとりを選んで預ける 利景は羽織袴姿で炉の前に座り、もうひょい」 のが決まりだ。そのことをほかの執政は知 とり、黒い着物の男が末座に控えるように と言った。 らぬ」 して座っていた。 男は手をつかえ頭を深々と下げた。 淡々とした利景に圭吾が何と答えていい しようらい 炉の茶釜が松籟の音を響かせている。 「足軽の大蔵と申します」 かわからず、黙っていると、 男は三十過ぎの地味な顔立ちの男だが、 低いがよく通る声だった。 「いままでは今村帯刀に預けておった」 上士ではないことはすぐに見てとれた。 なぜ、足軽が藩主の茶室にいるのか、と 利景はぼつりと言った。 ( 何者だろう ) 圭吾は驚いた。 圭吾は息を呑んだ。嘉右衛門もそのこと 圭吾は訝しく思いながら座った。する 利景が圭吾に顔を向ける。 は知らないようだが、帯刀が梟衆を動かす だいぞう 382