「死んでいます。多分、農薬を飲んだんだとで、端役しか来ない。そんな挫折感の中抱こうとするのです。私は、そこにあった で、突然、歌舞伎の大バトロンの尾形誠一果物ナイフで、彼の背中を、何回も突き刺 と思います」 郎さんに、自宅に呼ばれたのです。尾形さ しました。この他のことは、先日、十津川 十津川は、狭い部屋の中を見廻し、机の さんが、いわれた通リです。きちんと罪を んの「女形殺し』という綽名のことは、知 上に、白い封筒があるのを見つけた。 っていましたが、その頃は、少しばかリ自償おうと考えていたのですが、もはや、恥 封筒の表には、墨で、 をさらして生きることもできません。それ 棄気味になっていたので、尾形さんのいう 「警視庁捜査一課十津川警部様」 ご迷惑をおか がままに、芸者の恰好で尾形さんのマンシは、私の自尊心が許さない。 と、書かれてあった。 ョンに行きました。行ってみると、部屋にけします」 十津川は、中身を取り出した。 は尾形さんひとリしかいません。その時 中身も、筆で書かれていた。 こういわれたのです。『君は、名前 読み了ってから、封筒の裏を見ると、そ 「私は、歌舞伎の世界で生れ、育ってきま拘わっているようだが、今、七代目の中村こにあった名前は、 した。子供の時から、華やかな女形に憧芝翫が亡くなって、芝翫の名前が空いてい 娘る。中村芝翫はだめだが、嵐芝翫と名乗リ 「嵐芝翫」 れ、稽古を積んで、上手い役者になリ、 道成寺の白拍子や、助六由縁江戸桜の揚巻たければ、私が話をつけてやる』と。私 だった。 などを演リたいと思っていたのですが、成は、芝翫の名前が好きだったから、一もニ 人するにつれて、名門に生れなかった私にもなく、肯いて、その時、尾形さんに抱か十津川は、持参した逮捕状を取り出し いくら稽古を積んでも、白拍子も、揚れました。そうして、私は念願の芝翫の名て、その横に置いた。 そこに書かれた名前も「嵐芝翫」だっ を手にしたのです。ところが、その一ヶ月 巻も、一生かかっても、演じるチャンスが こ 0 来ないことが、わかってきました。私は、 後に、また尾形さんに呼ばれました。また 理不尽だと思いました。私の方が役者とし しても花魁の姿で、行きました。会う 「嵐芝翫こと嵐好三郎」である。 ては、演技が深いと思うのに、単なる名前 尾形さんは、「芝翫の名前は、もう使 「ここまでは、分かっていたんだがーー」 で、格差をつけられてしまう。和の名前 、つな。私が悪人になってしま、つ』と、 いうのです。その勝手さに、ムは、 と、十津川はいった。 が、歌右衛門だったら、白拍子だって、揚なリ 巻だって出来るのに、嵐好三郎だというこ呆然としました。そのくせ、都合良く私を ( 了 )
『婦系図』と『瀧の白糸』がありますが、 てくるような名前じゃありません。二世松 はなやぎしようたろう だんじゅうろう 2 ともに花柳章太郎さんにとっての当り役で 川団十郎の助六なら別ですが」 した」 「そういえば、あなたが一時使っていた芝 かん 「それを、あなたが、やるわけですか ? 」 「どうして、すぐ、訊問しないんですか ? 翫というのは、大きな名前なんでしよう ? 「とんでもない。今回、『下町のお巡り向うも承知していたのに ? 」 よく、使わせてくれましたね ? 」 さん』という喜劇をやるんですが、下町と、亀井が、別れたあとできいた。 十津川がきくと、嵐好三郎は、明らかに のおばさんが出来る女優さんがいないの 「一週間、調べたいことがあるんだよ。そ戸惑いの色を見せた。夕食に、天ぶらを食 で、ぜひ、私にという話を頂きました。私の答えを見つけてから、嵐好一二郎に話を聞べながらの、和気あいあいとした話し合い は喜んで、やらせて頂くことにしたのできたいと思っている」 と思っていたのに、急に、難しい話になっ と、だけ、十津川はいった。 たと、感じたのだろう。 「実は、今までの事件について、ぜひ、あ 五月十日までの一週間、十津川は、ほと「先日も申し上げましたが、あれは、中村 はしのすけ なたに聞きたいことがあるので、時間をとんどひとりで家に閉じ籠り、一日だけ、琴橋之助さんが、八代目中村芝翫を継ぐまで って頂きたいのですがね。退院したばかり電に乗るために四国へ出かけた。 の間、ご無理をいって、使わせて頂きまし なのに申し訳ありません。ご都合いかがで そして、五月十日。午後六時。 た。私は先代の中村芝翫さんの芸が好き しようか」 新宿西口の超高層ビルの四十階にあるで、あこがれていたので、少しの間でも、 「それなら、いつでも構いませんよ。今い『天とじ』の個室で、夕食をとりながら十その名前を借りさせて頂きました。今回中 った公演は、一ヶ月後ですから、明日で津川と亀井は、嵐好一二郎に会った。まだ太村橋之助さんが、襲名されるので、お礼を も」 陽は沈んでおらず、黄昏時とでもいう時間 いいながらお返しいたしました」 だった。 「じゃ、一週間後にして下さい」 「実は、このあいだ、成駒屋に聞いてみた と、十津川は、注文をつけた。 「新派に移ったあなたを、何と呼んだらいんですが、芝翫の名前を使うことを、許可 嵐好三郎は、変な顔をして、 いんですか ? 今まで通り、嵐好一二郎でいしたことはないといっているんですよ。そ いんですか ? 」 「それなら、一週間後の五月十日に」 の点は、どうなんですか ? 」 と、納得した。 と、まず、十津川がきいた。 「しかし、芝翫の名前で舞台にあがって 場所と、時間を決めて、十津川は嵐好一一一嵐好三郎は、箸を動かしながら、 も、何もいわれなかったので、喜んで使わ 郎と別れた。 「今のままで結構です。歌舞伎十八番に出せて頂いたんですがーー」
「そこが問題なんです。今回の一連の事件「代々、成駒屋が継いできた名前で、他のの人たちも、見て見ぬふりをするので、私 において」 役者は、使えないと聞きました。が、あなは勝手に、許可がおりたものと考えていた と、十津川がいった。 たが使っているのに、成駒屋の人たちが、 んです。中村橋之助さんが、襲名するまで 「ちょっと、わかりませんが 何もいわず、黙認している。それで、私はーー」 嵐が、眉を寄せている。 は、松川市之介さんのせいかなと思ったの と、嵐好一二郎がいった。 「何がですか ? 」 です。彼は名門の生れで、人気も高い " 。そ十津川が、微笑した。相手が、嘘をつい 「松川市之介さんが脅迫されたり、こんびの松川市之介さんの、あなたは、番頭役をているのが、わかったからだった。 ら歌舞伎の帰りの殺人事件などと、私が、 やっていたので、成駒屋の人たちが、松川 ( 私は本当の理由を知っているのだ ) 芝翫の名前を使わせて頂いたこととは、全市之介さんに遠慮して、黙認しているのか と、思いながら、 く関係がないと思いますが」 とも考えたのですが、歌舞伎に詳しい人に 「松川市之介さんも、成駒屋の人たちも、 嵐は、箸を置いて、十津川に抗議した。 聞くと、そんな・ハ力なことはあり得ないとあなたが芝翫の名前を使うのを、とめなか 十津川は、微笑して、 いうのです。そうだろうと私も思いまし った。だが、許可もしていない。というこ 「今、あなたがいうように、私たちも関係た。何代にもわたって、代々継いできた名とはもっと強い力が働いているとしか、私 ないと考えていました。ところが、そうす前ですからね。その名前を継承するときにには考えられなかったのですよ。では、ど ると、一連の事件の謎が、解けないんですは、盛大な襲名披露興行があるのは、そのんな力が働いていたのか ? 私が最初に考 よ。それで、関係があると、考えることにためでしよう。しかし、なぜ、あなたが、 えたのは、歌舞伎座を持っている z 株式会 しました。歌舞伎のことを知らない人間の芝翫という名前を使えたのかが、わからな社です。その会社の社長なら、歌舞伎役者 考えたことですから、どうぞ食事をしなが くなってしまう。そのことについて、あなに命令したり、頼んだりすることが出来る ら聞いて、もし間違っていたら、遠慮なく たご自身のことだから、答えて貰えませんのではないか ? しかし途中で、この考え 指摘して下さい」 は捨てました。役者を預っている会社の社 「いや、私にも、わからないのです。前に長が、こんな・ハ力なことを許可する筈がな件 嵐好一 = 郎は、や 0 と、箸を取 0 て、食事もいいましたが、私は、先代の芝翫さんをいと思 0 たからです。第一、あなたに芝翫砒 を再開した。それを見ながら、 尊敬していて、ある時、何気なく、嵐芝翫を名乗らせることの意味がない。大事な成電 「そこで、芝翫という名前ですがーー」 と名乗ってみたんです。それを見ても、松駒屋の役者たちを、不愉快にさせるだけで と、十津川が、いう。 川市之介さんは、何もいわないし、成駒屋すからね」
302 号室の前に、管理人がいた。 の気持を整理しようとしていることだけた。 は、わかった。 「二時二十分になったら、起こしてくれと コーヒーを頼んで、嵐を待つ。 そんな男が、逃げたりするとは、とても約束の午後一一時になったが、嵐は姿を現いわれていたので、ノックしているんです わさない。 が、返事がありません」 思えなかったのだ。 と、管理人がいう。 だから、二日間の余裕を与えたのであ更に、五分経った。 「すぐ、開けて下さい ! 」 だが、嵐の姿はない。 る。二日間あれば、状況証拠しかない事件 十津川が、大声でいう。 のことで彼の方から、全てを話してくれる「しまった ! そういうことか ! 」 管理人は、昨日、嵐から預っていたとい のではないかという期待を、十津川は、持突然、十津川が、叫んだ。 うカギで、ドアを開けた。 っていた。 「逃げましたか ? 」 二人の刑事が、部屋に飛び込んだ。 「いや。自殺だよ。その可能性を忘れてい 十津川には、自信があった。 べッドの上で、嵐は俯伏せに寝ているよ たんだ」 十津川は、レジで金を払い、ホテルの玄うに、見えた。 二日後、十津川は、亀井と二人だけで、 しかし、十津川が脈を診、心臓に耳をあ 関に向って走った。 帝国ホテルに向かった。 タクシーで、嵐の住むマンションに向てると、嵐が死んでいることがわかった。 拳銃も、手錠も持たなかったが、逮捕令 「死んでいるんですか ? ー 状は持っている。 と、管理人が、きく。 到着すると、三階まで駈け上った。 約束の時刻より五分早く口ビーに着い 潮た 新れ 伝説の奇書の誕生を目撃せよ。 0 ネ 体万 本ネ ブッキッシュで過剰な仕掛けと洒脱な文体遊戯でマニア悶絶 博覧強記のミステリ作家が放つ、これが究極の「読者への挑戦状」たー 法月綸太郎あ 561 琴電殺人事件
ありませんか。依頼人のこの背の高い男男は、私じゃない。誰に見せたって、別人「その通りです。地元警察の調べでは、歌 が、わからないんじゃ、私が頼んだ証明にだといいますよ」 舞伎のファンで、特に松川市之介さんのフ は、ならないんじゃありませんか ? 」 アンだということが、わかっています」 「いや、その男のうしろに、数人の人間が と、嵐は強い口調でいう。 写っているでしよう。男三人に女二人で 「それなら、私とは関係がない。関係があ 「それでも、私は、あなた以外には、考えす。その人たちの端にいて、カメラの方をるとすれば、松川市之介さんの方だ」 られないんですよ」 「いや。あなたにも動機があるんですよ」 見ている男をよく見て下さい」 と、十津川がいった。 と、十津川がいった。 「どうしてですか ? 」 嵐好三郎の眼が、一瞬、止ってしまっ 「私にも ? 何の動機がある ? 彼女は、 「あなたなら、問題の日、何時の高松築港た。 松川市之介のファンだといったし、サイン した色紙を持っていた。私とは、関係な 行の列車に乗ったか、知らせることが出来十津川は、ニッコリした。 ますからね」 「どう見ても、あなたですね。あなたは、 「サインの日付がおかしいとは、思わなか 「それなら、こんびら歌舞伎に関係していその背の高い男に頼んだが、心配になっ る人間なら、誰でもわかっていますよ。私て、四月十日に、かくれて見に行ったんでったんですか ? 四月十五、十六、十七 たちを、琴電琴平駅に見送った人間もですすよ」 と、興行をやったが、色紙の日付は十八日 よ」 「しかし、これはーー」 だった」 「問題の横断幕があったのは、琴電の仏生「そうです。犯罪じゃありません。ただ、 「それがなんだというんです ? 松川市之 山駅なんですが、行かれたことは、ありま今、嘘をつかれるのは困りますね」 介さんは、時々、ーサインの日付を間違える すか ? 」 「でもーーー」 し、あの日は、琴電琴平駅で、盛大な見送 「ありませんよ。当然でしよう」 「それでは、琴電の中で起きた殺人事件りを受けたから、その時にサインしたのか 「誓えますか ? 」 に、話を移しましよう」 も知れない。いずれにしても、松川市之介 「もちろん」 と、十津川はいった。嵐好三郎は、話をさんの問題だ。私と関係はない」 件 事 人 「それでは、もう一度、写真を見て下さ遮ってきた。 と、嵐は、繰り返した。 「それこそ、私は関係ない。殺された女性「先日、あなたはこのサインは自分が書い電 と、十津川が、いった。 と会ったことはないし、松川市之介さんのたものだとお認めになったことをお忘れで ファンですよ」 しようか ? また、嘘をつかれるのです 「いくら見ても同じですよ。この背の高い
嵐好三郎の表情が、少しずつ、おだやかに、もう一度、お会いする時を楽しみにし ています」 「いいたくありません。尾形さんを殺したになってくるのが、わかった。 と、いった。 といっているんだから、それでいいじゃあ だが、このままでは、嵐が尾形誠一郎を りませんか」 殺した動機を、話すようには思えなかっ嵐好三郎は、そのまま、帰すことにし 嵐の声が、低く小さくなっていく。 「今日は、お互いに疲れたので、二日後店をでる頃には、終電の時間となってい 「そうはいかないんですよ。あなたが、 に、もう一度、会うことにしましよう。場たが、新宿西口のビル群の明かりは変わる 『私が殺した』といっても、それだけで、 あなたを逮捕し、起訴することは、出来ま所は、帝国ホテルのロビー、時刻は、午後ことなく点り続けていた。 せん。特に殺人の場合は、殺人の動機、殺二時。それを、最後の話し合いとしたいの 4 しの方法、殺した相手、殺しに使った凶器です。その時には、われわれはあなたに対 などが、はっきりしなければ、逮捕は出来する逮捕状を、持ってきます」 と、十津川はいった。 十津川のやり方に反対する声もあった。 ないのですよー 「私が、自供しておいて、裁判の途中で自「二日の間に、私が、逃亡してしまったらあそこまで追い詰めておいて、帰してしま えば、嵐好三郎は、逃げて、姿を消してし 供をひるがえすのを、心配しているのでしどうするんです ? 」 ようが、私はそんなことをしたりはしませ嵐好三郎がきく。その顔は、笑っていまうだろうと、危惧する者もいたし、自宅 に帰らず、海外に逃げてしまったら、どう んよ。第一、琴電の車内での殺人についてた。 も、私がやったことを認めますよ。それ「私は、あなたが、逃げたりはしないと思するのだと、十津川を批判する者もいた。 っています」 に、あなたが、動機も話してくれたので、 しかし、十津川には、彼が逃げるとは、 「そんなに簡単に、私を信用していいんで思えなかった。 私は、誤魔化せなくなっている。そうで 彼は、ここにきて、歌舞伎の世界から、 す、松川市之介に対する脅迫状は、私が書すか ? 」 新派に移っている。もちろん、芝翫とい きました。動機は、捜査を松川市之介に向嵐の言葉に、十津川は徴笑を返して、 けさせるためで、この自供は絶対に変え「私は、あなたの自尊心を尊重しているんう名前は返上して、嵐好一二郎に戻ってい ないし、変えて、私が有利になるわけでです。だから、あなたは、私たちに対してる。 もない。これで、いいんじゃありませんも、嘘はつかないし、あなた自身に対して彼が、どんな気持で、新派に移ったの も嘘はつかないと、信じています。二日後か、本当のところはわからない。が、自分 ( 0
ね。ところで、この時殺された女性ですとも知らなかったからですよ。初めて会うその写真を、地元の警察から借りてきまし 女性で、事件がなかったら、お互いに知らた。全部で五枚ですー が、かなりの美人です」 十津川は、その五枚を、嵐の前に並べて 「急になんですか。それが、どうだというないままだった筈ですから」 「被害者は、二両編成の後の車両にいたんいった。 んですか ? 」 「あなたは、この女性にいいところを見せですが、その車両に人って、被害者と話を「ごらんのように、あなたが被害者の女性 の隣りに座って、おしゃべりをしている写 ようとして、自分は、嵐芝翫だと名乗ったしたこともありませんか ? 」 んだと思う。芝翫は、歌舞伎では大きな名「覗きはしましたよ。しかし、被害者と話真です。この間、五、六分と、撮った女性 前だから彼女が、びつくりして、あなたのしたことなんかありませんよ。全くの他人はいっています」 「しかし、この件で、地元の警察から質問 サインも欲しいといってくれれば、あなたですからね」 は満足したに違いないが、彼女は知らなか「彼女の隣りに腰を下して、話したことははされませんでしたよ」 「これだけでは、しないでしよう。犯罪じ った。もっというと、聞く耳をもたなかつありますか ? 」 た。その頃あなたは、誰に対しても、嵐芝「ありませんよ。何度もいいますが、被害やありませんから」 翫を名乗っていた。芝翫ではないが、嵐芝者の女性は、松川市之介さんのファンですと、十津川はいってから、 「しかし、嘘をつくのはいけませんね。あ 翫には、誇りを持っていた。ホンモノの芝から」 翫より、自分の方が、芝居は勝っている「実は、地元の警察は、あの電車の高松まなたが嘘をつくのはこれで二度目です。あ で乗っていた乗客全員に、何回か、気がつなたの心証は、限りなくクロくなりました と、思っていたのでしよう。それなのに、 よ」 無視された。あなたは、ニセモノの芝翫だいたことはないかと聞いているんです」 と、十津川はいった。 「私と、松川市之介は聞かれませんでした が、それでも、自尊心が傷ついた。いやニ 嵐好一二郎は、また、黙ってしまったが、 セモノだからこそ、余計に、傷ついた。そよ」 「それは、お二人が容疑者だからですよ」 小声でつぶやいた。 れが、あなたの動機だ」 「一つ聞きたい」 と、十津川はいってから、 「証拠はないんでしよう ? ある筈がな 「どんなことですか ? 」 「今は、ほとんどの人が、カメラ付きのス い。全部推測だ」 マートフォンを持っていましてね。あの電「この写真を、スマートフォンで撮った女 「どうしてです ? ー 「私は、この被害者と琴電の中で、話した車にも何人かいて、その中の一人が、自分性は、なぜ撮ったんですか ? 被害者の知 り合いですか ? 」 こともないし、第一、琴電に乗っているこの端末で、あなたを撮っていたんですよ。
件の最初の殺人事件ですよ。だから、さけ 「いや、彼女は、あなたの写真を撮りたか「そうです。あなたのおっしやるとおり、 ては通れない。これが、最後ですから、一 殺人の瞬間ではありません」 ったんですよ」 「私の ? 信じられませんよ。芝翫だって十津川の隣に座る亀井は、食事に一切手緒に考えて欲しいのですよ」 「だから、もういいと、いってるじゃあり 知らない女性がいるのに、私を知っているをつけず、メモを続けている。 「最後にーー東京で起きた最初の事件に戻ませんか」 筈はないでしよう ? 」 今度は、怒りを見せて、嵐がいう。 「三十歳の独身の女性で、歌舞伎ファンでりましよう」 「しかし、どちらかに決める必要がありま すが、吉右衛門とか、菊五郎とか、仁左衛と、十津川は、続けた。 門といつ、た大物の役者に憧れてはいなく「四月十一二日に、東京の高層マンションのす。犯人だと認めるか、あくまでも、否定 て、端役を一生懸命に演じている無名の役二十八階の角部屋で、最大の歌舞伎の後援 .. するかのどちらか決めないと、収拾がっか 者に注目する人なんだそうです。東京に行者、尾形誠一郎さんが、ナイフで刺されたなくなりますからね」 十津川は、わざと、ゆっくりいった。 った時、時間があったので、歌舞伎座にい事件です」 「だから、その件は、もういいと、いって と、いって、嵐好三郎の反応を見た。 き、その時、『助六由縁江戸桜』を見たん るんですよ。四月十三日の夜半に、尾形誠 が、彼の反応が、少し、おかしかった。 だといいます。松川市之介が、助六を演じ 一郎さんのマンションで彼を、ナイフで刺 十津川が予想した反応は、「関係ない ! 」 ていたが、彼女は、それよりも、花魁の一 人に扮したあなたに感動したというのでと、大声をだすか、黙り込んでしまうかしたのは私ですよ。認めるから、それでい いじゃありませんか」 す。それで、あなたの名前を覚えて帰ったの、どちらかだろうというものだった。 ところが、嵐の反応は、予想外のものだ嵐好三郎が、押し殺した声でいう。 が、あの日、たまたま琴電に乗っていて、 った。 「どうして、殺したんですか ? 尾形さん あなたを見た。それで、夢中でカメラで、 は、あなたにとって、大事な後援者だった あなたを撮ったというのですよ。もちろ突然、泣き出したのだ。 んでしよう ? 女形殺しの噂のように、尾 嗚咽である。 ん、あんな事件が起きるとは思っていなか ったので、あくまで、あなたを撮っていた十津川が、あっけにとられていると、嵐形さんは、あなたの演技に惚れて、芝翫の 件 んだと、いっているそうです。そんな、あは、 名前も、中村橋之助が、八代目芝翫を襲名 するまで、使っても構わないと、頼んでく電 「もういい。やめて下さい ! 」 なたのファンもいるんですよ」 れたんでしよう ? それなのに、どうし と、いい、また、嗚咽するのだ。 「しかし、私が、被害者を殺した写真じゃ 「この話は、嫌ですか ? 今回の一連の事て、尾形誠一郎さんを、殺したんです ない」
うです」 した。歌舞伎には、いろいろな名前がある人は後援者の尾形誠一郎さんらしいという と思っていたからです。ここで重要なのものでした」 「あなたに、びったりの話じゃありませんは、こうした事情を知らず、私たち警察話を整理しながら、十津川は事件の時計 か ? 歌舞伎の生き字引といわれ、上手いが、一連の事件の捜査に介人したというこを進める。 となのです」 女形だが役に恵まれない女形に、びったり 「この時は、歌舞伎を背負う大役者なら、 ですよ。だから、尾形誠一郎は、あなたに 歌舞伎の大舞台に力を人れるべきで、地方 3 色気を感じて、ファンになったんじゃあり のこんびら歌舞伎に出演するのはやめろと ませんか ? 」 いう、後援者のもっともらしい要求だと理 十津川の言葉に、嵐好三郎は、黙ってし いっしか、窓外の景色は闇に沈み、煌々解できたと思います。しかし、尾形誠一郎 まった。 と輝く新宿西口のビル群が映し出された。 さんが、『女形殺し』といわれ、嵐好三郎 「更に、誠さんは、お父さんのことで、こ「最初は、松川市之介さんが、脅迫されてさんが、芝翫という名前を使うことを、役 んなこともいっていましたよ。『今度、私いるという芝翫さん、いや嵐好一二郎さんの者の皆さんに頼み込んでいたとすれば、そ が好きになった嵐好三郎という女形は、先訴えでした。しかし、この事件も、今、私んな時に松川市之介さんが、こんびら歌舞 代の中村芝翫の熱烈なファンでね。一度でが明らかにした事情に従って、考え直さざ伎に出ることに文句をつけることは、考え いいから、芝翫という名前になってみたいるを得ないのです」 にくいです。実際にも、尾形誠一郎さんが と、十津川はいった。 というので、私が、成駒屋に頼んでやっ 死に、脅迫状の主が、彼でないことがわか た。中村橋之助が、八代目芝翫襲名披露を嵐好三郎は、完全に、箸を置いてしまっ りました。私たちが事件に介入したのはこ するまで、嵐好三郎が、芝翫の名前を使うた。十津川はそれを見て、自分も食事を止のときでしたね」 のを許してやって欲しい、とな』と。成駒め、番茶を運んで貰った。一口飲んでか嵐好三郎はなにを考えているのだろう 屋としては、相手が尾形誠一郎だけに、表ら、再び、話を続けた。 か。新宿西口のビル群に目を向けたまま、 立っては反対できない。しかし、歌舞伎の「最初にあなたが探偵に依頼した話では、話をきいている。 歴史には、今までに、無かったことであ松川市之介さんに、脅迫状が送られてきて 「その後、松川市之介さんは、関西歌舞伎 かたやましんたろう る。私のように、歌舞伎のことはわからないる。その脅迫状には、松川市之介さんの人気女形の片山新太郎さん、それに、あ い人間から見れば、あなたが、芝翫と名乗が、四国の小さな芝居小屋に出演することなたと共に、こんびら歌舞伎に出演されま っても、別に、おかしいとは思いませんでをやめるように脅していて、どうやら、犯した。金丸座ですが、ここにまで、脅迫状
とくたろう 十津川がロにする話を、嵐好三郎は聞き形誠一郎の父、徳太郎が経済援助をして、 を使わせてやってくれないかといったら、 ながら、黙々と箸を動かしていた。それで支えてくれた。その子の誠一郎も、亡くな成駒屋でも、承知せざるを得なかったんじ も聞いていることは、時々、彼の耳がびく った父親の遺志を継いで、歌舞伎の最大のやないか。もちろん、芝翫襲名の時までで びく動くのでわかった。 後援者になった。いわば、尾形徳太郎も、 すよ。成駒屋では、不満だが、歌舞伎界全 「そこで、私が思い出したのは、尾形誠一息子の誠一郎も、歌舞伎にとって、恩人、体のことを考えて了承したのではないかと ろう 郎という名前です。あなたも、よく知ってそうでしよう ? 考えたのですが、違いますか ? 」 いる名前ですよ。六十歳で死んだ。ゲーム十津川は、言葉を切って、嵐好三郎の顔「とんでもない勘違いですよ。第一、私な 機メ 1 カーの社長で、大変な資産家で、個を見た。 んかのために、尾形さんがどうして、力を うたえもん 人資産は六千億円ともいわれた。何より「十津川さんのいわれた通り、尾形さん貸してくれるんです ? 例えば、歌右衛門 も、歌舞伎の最大の後援者だった」 は、歌舞伎にとって、最大の後援者ですさんのような名優のために、尾形さんが、 十津川は、不思議な気がしていた。嵐好が、私みたいな歌舞伎の端にいた人間にと尽力するのならわかりますがー 三郎と知り合ってすぐに、死んでしまったっては、逆に近寄りがたい存在でしてね。 「歌右衛門というのは、亡くなった先代の 男の名前である。それから、ずいぶん時間あまり恩恵は感じませんでしたね」 歌右衛門のことですね ? 」 たまさぶろう が経った気がするのだが、実際には、さほ と、嵐がいう。 「そうです。今なら、玉三郎さんとかです よ ど時間は経っていないのである。 「本当ですか ? 」 「今回の一連の事件は、この尾形誠一郎の「嘘なんか、ついていませんよ」 「なるほど。私も、実は、同じ疑問にぶつ 死から始まったといってもいいのです。彼「しかし、私はここに来て、尾形誠一郎のかりました。歌舞伎の第一の。ハトロンな の父親も、同じように資産家で、歌舞伎の存在を、考え直してみたんですよ。あなたら、今、あなたがいった玉三郎とか、勘九 後援者でした。戦後、占領軍が歌舞伎の演が、芝戳を名乗っていることに、成駒屋は郎とか有名役者に肩人れするのではないか 目の多くを上演禁止にしました。仇討ちの不快に思いながら、黙認していた。松川市と。それなら、芸能ニュースになっている 話が禁止されたんです。考えてみると、歌之介さんも、何もいっていない。今まで、 だろうと思って、調べたんですが、それら 舞伎には仇討ちの話が多い。忠臣蔵もあるその理由がわからなかったのですが、それしい記事は見つからなかった。その代り、 し、石川五右衛門の出てくる話だって、仇をやったのが、尾形誠一郎だったら、どう尾形さんは、『ザ・カプキ』という会を作 討ちの話ですから、それが禁止されて歌舞だろうかと、考えてみたんですよ。尾形誠って、その会を通して歌舞伎全体に、援助 伎が危機に陥ってしまった。そんな時、尾一郎が、嵐好三郎に、しばらく芝翫の名前 していた」 おがたせいいち ろう かんく