まだ暮れきっていない空が、部屋の灯りと、 はじっとしていた。それからそっと部屋を を点けると突然夜になったように感じられ「わかってるよ」 出た。表はもうすっかり暗くなっていて、 た。佐和子さんが手作りした。ハッチワ 1 ク 微かに届く建物の灯りを頼りに、川沿いを と有夢はいっそう不機嫌な声で言う。 のべッドカ・ハー、壁にかかった押し花の小 「それを言うためにかけてきたの ? 」 歩いていく。この前見たときと同じ場所 さな額、緑色のペンキを塗ったーー塗った「うん : : : そうなのかな。ごめん」 に、泉が立っているのが見えた。 のは佐和子さんのご主人だと聞いている「あやまる意味がわかんない」 行かないほうがいいかもしれない、と思 木製の椅子。小さな頃から見慣れてい有夢がそう言ってから、しばらく考える ったけれど、行きたいと思う気持ちのほう るそれらのものが、突然よそよそしくなっ気配があった。 が強かった。帰らないと言い張ったのはこ たように感じられた。瑤子はべッドに上が 「どうしたの。そっちでもなんかあったのためだったのだと思った。瑤子が近づい の ? 」 りへッドボードに背中をもたせて、有夢の ていくと、泉はゆっくりとこちらに顔を向 アイフォンに電話をかけた。 「そっちでも」と有夢が言ったことに瑤子けた。 「なに。どうしたの」 「レナ、死んだの ? 」 は気がつく。でも気がっかなかったことに いかにも不機嫌そうに有夢の声が応えする。 瑤子のほうからそう言った。これも自分 る。でも、本当に不機嫌なときは電話に出「ううん。ない。ないよ、なんにも。明後が言わなければならないような気がして、 ないから、よかったと思うべきだろう。 日には学校行くから」 言ったのだった。泉は頷いた。 「どうだった、今日 ? 大丈夫だった ? 」 「当たり前でしよ。来なかったらマジで怒 「聴きたい ? 」 るよ 「大丈夫」 瑤子はイヤフォンをつけたままのアイフ 「ほんとに ? 電話を切ると、突然すべての音がぶつつ オンを差し出した。泉はちょっとびつくり 「ほんと」 りと消えたみたいな感じがして、瑤子は泣した顔になったが、もう一度頷いた。 ほんとだと、瑤子は思うことにした。ほきたくなった。でも泣きだす前に、いくっ瑤子は渡した。泉がイヤフォンを装着 んとじゃないとしたって、どっちみち有夢かの音が聞こえてきた。バタバタという足し、「ベルー」を聴くのを見つめた。その は今日は話さないだろう。 音。ドアの開閉の音。それから泣き声。あ頬に涙が一筋伝って、薄い灯りに照らされル 「明日、やつばり帰れないから」 れは佐和子さんと愛さんの声だ。 て光ったのを見た。 何を言えばいいか考えた末にそう言う それらの音を聞きながら、しばらく瑤子 ( 第三話・了 )
ら、住みやすい環境だ。自分の欲望どお とすると、先輩は、 り、自由にやればいい。何の苦労もない 「やつばりな」という声に顔をあげると、 「せつかく寝てくれたんだから、寝かせて し、最高じゃないか。何度そう言い聞かせ先輩が立っていた。 おこうぜ。やっと平和が訪れたんだから」 ても、いつもどこかにむなしさが付きまと「あれ ? 」 と肩をすくめた。 った。それは、夢中で走った日々のせい 「きっと、二人とも寝てるんじゃねえかっ 「でも、ご飯は ? 」 。こ 0 て思ってたんだ」 「大丈夫、大丈夫。俺も最初はきちんとし 必死にならざるをえない衝動。誰かのた先輩はそう笑って、床の上でぐっすり眠ねえとやばいって思ってたんだけどさ、こ めに駆り立てられる気持ち。自分の全身全っている鈴香を部屋の隅に敷いた布団に運れがちょっとぐらい飯の時間ずれたって平 霊を動かしている快感。誰かと一つ一つ目んでバスタオルをかけた。 気なんだって。たまにタ飯食う前に寝て、 の前にあるものを越えていくことで満たさ「鈴香は泣き疲れて、お前は振り回されてそのまま朝ってのもあるくらいだぜ」 れていく時間。それを知ってしまった今、疲れて、きっと二人とも熟睡してるだろう「そうなんすか」 昔の俺には戻れなかった。それはすごく苦なって嫁さんと話してたんだけど、当たっ部屋の片隅で鈴香は何事もなかったかの しいことだ。 たな」 ようにけろりと眠っている。子どもって案 そういう気持ちを知ってるのは、悩める「いつの間に、寝てたんだろう」 外丈夫にできているようだ。 のは、幸せなことだ。なんていうのは、ち俺は顔をごしごしとこすった。あんなに 「それより、お前は腹減っただろう。食お ようどいいぐらいの挫折しか味わったこと泣いていた鈴香は、うそのように眠っていうぜ。俺も朝食ってねえから腹ペコだし のないやつらの一一一口葉だ。何も考えずにばか る。大音量の泣き声を聞きながら、俺もう さ」 とうとしてしまったようだ。 をやっていられるほうが、どれだけ幸せだ 先輩はコンビニで買ってきた食べ物を食 ろう。あの夏走らなかったら、俺はこの高「疲れただろう ? 泣き声って聞いてるだ卓の上に並べた。先輩なりに気を遣ってく 校で楽しんでいたはずだ。昔の俺には戻りけで、神経やられるからなー れているのだろう。。ハンにおにぎりに弁当 きれず、まともにもなりきれず、完全に放「俺は見てただけで何もしてないっすけどにサラダ。いろんな種類がそろえられてい 棄することもできないまま、出口も先も見 。あ、鈴香に昼ご飯用意しないと」 えない日々。どうすればいいのか途方に暮時計を見ると、十一時三十分を過ぎてい「奥さんはどうでした ? 」 れるだけの高校生活を、俺はもう一年半もる。鈴香は一時間半以上泣いて、一時間近俺は鮭のおにぎりの包みを開きながらき 送っている。 く眠っているのだ。慌てて台所へ向かおういた。
「だから帰ります、って佐和子さんたちに どき有夢と話題にするけれど、最後は冗談い ? 」 ぼく笑えるような会話にしてしまうから、 母親が父親に言っている。歩きながらし言うの ? 」 「きっと向こうだってそっちのほうがいい 実質的な相談にはなっていない。でも冗談ていた話の続きらしい。父親はうーんとい ではないのだということはふたりともわか うような曖昧な声だけを返す。 わよ。私たちが帰れば、レナにかかりきり っている。ゴンドラのドアをちらりと見「戻ってから、またどこかに行くの ? 」 になれるもの。言いだすのを待ってると思 うわ」 る。中からは開かないような仕組みになっ 瑤子は聞いた。 ているのだろうか。ドライ。ハーとか持って 「お父さんと、もう東京に帰ろうかって話そうだろうか。帰ったほうがいいのだろ うか。父親の顔を見ると、例によって唇を いたら、開けられるかもしれない。ふたりしてたのよ。瑤子もそのほうがいいでしょ う ? 」 尖らせて首を傾げた。そのことに気づいた きりで乗せてもらわないとだめだけれど。 朝早くとかいちばん遅い時間とか、人が乗なんでもなさそうな口調で母親がそう言母親が、「ねえ ? そうよね ? 」と父親に 言う。そうだなあ、そうすれば瑤子も火 らないような時間を狙って、ふたりで乗ったので瑤子はびつくりした。 「なんで ? 」 曜日は学校に行けるしね、と父親は言っ る。ドアをこじ開け、手を繋いで一、二、 ( 0 三で飛ぶ。ベルーへ。 「気づまりじゃない、レナがあんなふう 女性たちが降りてきた。あいかわらずき 頂上には屋根付きの休憩コーナーと展望で、佐和子さんたちも全然元気がなくて。 台があるだけで、飲みものの自動販売機すごはんもなんだかおいしくないし、それなやあきゃあ騒いでいる。こんな場所でどう らない。そのことはわかっていたのに、あら東京に戻ってちょっといいレストランでしてそんなに楽しくなれるのだろう。石畳 らためてがっかりさせられるようだった。 も行ったほうがいいんじゃないかって話にの上をピンクのハイヒールがかろやかに跳 ねていく。ピンクの地球外生物みたいだ。 なんにもないじゃないのお、と女性ふたりなったのよ」 ははしゃいだ声を上げながら、展望台へ上「だって : : : レナのことはお母さん最初かああいうのを履いて歩いたらどんな気分に がっていったので、そのあとに続くわけにらわかってたんでしよう ? ごはんだってなるだろう、と瑤子は思う。履くだけであ んなふうに楽しくなれるのだろうか。一度 もいかず、瑤子は休憩コーナ 1 のべンチにおいしいよ、いつも通りだよ」 「気分的においしく感じられない、っていだけでいいから、履いてみたい。ベルーへ 座った。辺りをウロウロしていた両親も、 間もなく座りにやってきた。 う意味よ。それにレナがあそこまでひどい行く前に。 「あたしは残る」 「戻ったらすぐ出たほうがいいんじゃななんて思わなかったもの」 1 30
ずだ。しかし、それを指摘するほど野暮ではない。 「相変わらず大変だな」 いきなり湯浅が話題を変えた。 「緑川とは、その後どうなってるんや ? 今日は会うたん か ? 」 「さっき会った。でも、別に : : : 」 そもそも、彼女と付き合ったのは、わずか三か月だ。始ま る前に終わったようなものだから、未練もない。向こうもお そらくそうだろう。この二年間、メール一本よこさなかっ こ 0 「仕事が順調そうで、よかったとは思うけど」 湯浅は顔をしかめながら首を振った。 「順調だなんてとんでもない。あいつ、助教にまったく向い てないわ。学生の指導がエライ苦手でな。口を開けば、愚痴 のオン。ハレードや。学生のほうも、あの助教の指導はさつば り分からんて、プープー言うとるし、教授も困り切っとる」 そう言うと、湯浅は上目遣いで智次を見た。 「悪口言いたいんとちゃうで。俺なりに気い揉んでるんや」 智次はうなずく。湯浅は他人を羨ましがっても、妬むよう な人間ではない。 「頭が切れすぎるから、学生にイ一フつくんだろうな。でも、 そのうち慣れるさ」 「まあ、慣れるほかないわな。学生の相手や、くだらん書類 仕事は、ポストとセットになってる」 そのとき、裕美が会場から出てきた。誰かを探すように庭 園を見回している。智次が手を上げると、すぐに気づいた。 分かったというようにうなずくと会場へと姿を消す。 どうしたのかと思っていると、裕美はすぐに再び姿を現し た。驚いたことにべイカー博士を伴っている。二人ともワイ ングラスを手にしていた。 智次と湯浅は慌てて立ち上がり、二人を迎えた。 「会えて嬉しいよ」 べイカー博士が満面に笑みを浮かべながら、右手を差し出 した。それを力強く握り返し、ノーベル賞受賞のお祝いを述 べる。久しぶりにロにした英語は流暢とは程遠かったが、べ イカー博士は嬉しそうにうなずいてくれた。 「ありがとう。でも、運がよかっただけだ。僕より優秀な人 間は、たくさんいるよ。たとえば、ここに一人」 べイカー博士は、裕美の肩を親し気に叩いた。秋に博士の ラボの特別研究員として渡米するのだという。 湯浅が目を丸くする。 「そんな話が進んどったんかいな。まったく知らんかった 「ようやく決まって、ほっとしました」 裕美が、白い歯を見せる。 誇らしげな笑顔がまぶしかった。突き上げる羨望を無理や命 り飲み下し、智次は徴笑む。 「おめでとう。大変だろうけど、緑川ならきっと大丈夫だ」
ろうか 3 ( 承前 ) 自室も掃除しようと降りていくと、べッドサイドのテープルに かん 置いてあった封筒に、ついまた手をのばしてしまった。この前貫 閑散期はシフトの融通もきくので、カレンダーに書き込んであ 一の上着から取ってきた写真だ。もう何度も見ているのに、また る母の通院日に合わせて次の休みを取った。なのに母が友人の樫取り出して眺めてしまう。 山さんと病院へ行くと言うので驚いた。樫山さんが車を出してく 五枚の写真は、すべて同じ日に撮影されたもののようだ。最初 れるので、診療を受けてからふたりで映画を見に行くというから に見た写真の他は、大勢で飲み会をしているものだった。貫一は さらに驚く。この前、韓流好きの彼女のことを悪し様に言ってい 今より少し若い。髪がやや長く前髪が額にかかっている。外見的 たのに、どうしたのだろう。 には今よりも都の好みである。そしてどの写真にも、隣に女性が 元気が出てきたかというとそういうわけでもなく、話しかけて 写っていた。 も反応が薄いし、顔は無表情で腫れぼったい。それでも外出着に どうしてあの時すぐ、この写真のことを貫一に聞かなかったの 着替えて化粧をして出かけて行った。 かと都は後悔していた。黙って持ってきたりするからいろいろと 思いがけず留守番をすることになってしまい、家中の掃除をす勘ぐってしまうのだ。今度会ったときには写真を見てしまったこ ることにした。この前父親に言われたことを思い出し、自分も家 とを謝って、この写真がいつどんな状況で撮られたものか、一緒 のことを大事にしているのだと態度で表明しなければと思ったの にいるのはどんな人達なのかちゃんと聞こうと思った。 だ。水回りを磨き、階段にも丁寧に雑巾をかける。玄関まわりも そこでジーンズの尻に入れてあったスマホが鳴って、都はびく 庭先も掃き清めた。そう大きな家ではないが、一軒家を掃除して りと顔を上げた。貫一からのラインかと思って見ると、店長から まわるのは骨が折れる。夕方にはくたくたになって、リビングの だったので顔をしかめる。休みの日の連絡は大抵ろくなことでは ない。 ソフアに寝転がった。今日は父親も帰りが遅くなると言ってい る た。自宅でひとりになるのは珍しいことだったので所在ない気持 相談したいことがあるのでこのサイトに目を通して来てほしいす ちになる。 と、何かのが貼られていた。商品のことかと思って。ヘージ公 みやこ な を開ける。 両親が建売で買ったこの家のことを、都は正直なところあまり し 自分の家という気がしていなかった。一人暮らしをしていたワン よくある個人のプログのようだ。一番新しい投稿には、。ハンケ転 ルームにも特に愛情はわかず、やはり仮住まいだった。ここは自 ーキの写真がアップされている。なんだろうと首を傾げ、そして とうま あんな 分の家だ、と思える住処を手に人れることが、いっかできるのだ すぐ東馬に言われた安奈のプログだと気が付いた。巻き込まれた やま かし いち
「理事長には決まってから報告しましよう」 「でも、京阪大の教授にも相談したいし」 一一年もプランクがある人間はいらないと言われたらお終い だ。任期付き研究員のロがあるかどうか分からない。病院を 捨てるとしたら、父の援助を受けるなどもってのほかだっ ( 0 倭島は、智次の目をじっと覗き込んだ。圧迫感を覚えて、 身じろぎをする。それでも、倭島は目をそらさなかった。 「教授にダメだと言われたら、諦めるんですか ? その程度 の気持ちしかないのなら、最初からやめたほうがいい。そし て、ふざけるなと言いたい。研究への未練があって、今の仕 事に身が人らないのだと思っていました。気持ちは分かる。 それなら、いっそ、戻っていただこうと。しかし、その程度 の半端な気持ちなら、あなたは親の意向を言い訳にふてくさ れている、ただの怠け者だ」 叩きつけるように言われ、智次は唇をかみしめた。頬は熱 いのに、頭の芯は冷え冷えとしている。 倭島は視線をすっとはずした。 「あなたの人生です。ご自由になさい。ただし、後悔します 突き放されて、ようやく踏ん切りがついた。 倭島の言うとおりだ。またとないチャンスなのに弱気にな ってどうする。自分の人生を取り戻したければ、前に踏み出 すしかない。 「井野さん、胃の調子はどうですか ? まだ痛みますか ? 」 「痛いですねえ」 胡麻塩頭をひつつめ髪にした井野栄は、すぐに言葉を継い 「それより、聞いてくださいよ。ウチの嫁がね、トイレの掃 除をきちんとしないんですよ。まったく、最近の若いもん は、何を考えているんだか。若いって言っても、先生、もう 五十ですよ。戦国時代は人生五十年って言うじゃありません か。昔は、便所掃除をするといい子が生まれるとか言われて たから、頑張ったものだけどねえ。先生、どう思います か ? 」 スツールにちょこんと腰かけ、首をかしげる。 また始まったと思いながら、付き添いの息子のほうを見 る。彼は、智次と目を合わせようとしなかった。 「ね、先生。どう思います ? 」 痛みが増したのか、顔をゆがめながら言う。 「それより、痛みは引いていないんですね」 初診のときも胃炎にしては痛みがひどそうだったので、内 「倭島さん、話を進めてください」 頭を下げると、倭島はうなずいた。 「任せてください」 161 使命
がないんです」 二宮が桜井と会ったのは、翌日の夕方だった。コンビニか ら帰宅するのを待って、彼のア。ハート近くの喫茶店で待ち合 わせた。二宮自身も勤務明けだったが、倉持彩子のことが気 になり ( もちろんスケベ心じゃないぞ、と自分にいい聞か せ ) 、交代の巡査部長に引き継ぎをしなかったのだ。 さわやかな青年だった。特に目がいい。どう見ても二十代 前半にしか見えないが、聞けば三十歳だという。 「おれ、いくらでも証言します」 二宮はノートとポールペンを手に、尋ねた。「昨夜のあれ は、ただの危険運転ではないと思われるんですね」 「ええ」ネコのように大きな目で、じっと二宮を見た。「あ れは、あの人を意図的に狙っていたと思います」 倉持の証言を被害妄想ではないかと疑っていたが、考えを あらためなくてはならない。 「殺意があったってこと ? 」 「はい、そう見えました」 「どういう車か、おぼえてないかな ? 」 「軽トラックでした。荷台にはなにも積んでなかったと思い ます」 「ナンバーは ? 」 「見ていません」 「運転手の顔は ? 」 「カネ貯めて、外国を見てまわりたいんです」 「いや、ヘッドランプがまぶしかったから」 くわしく話を聞いたあと、二宮はコーヒーを飲みながら雑 談を交わした。 「失礼だけど : : : 三十でフリーターしてて、なにかやりたい ことがあるの」 「まあ」桜井は照れながら、コーヒーカップに口をつける。 「それから、どうするの」 「そうですね : : : やりたいこと、あるにはありますが」 「なにするの」立ち人ったことを訊いていると反省したが、 目の前の青年に好感を持ち、事情聴取とは無関係に答えを知 りたかった。 桜井はカップをテープルに置いた。 「なんでもいい。なにか、人の役に立っ仕事がしたいんで 「だったら警察官になりなよ。三十ならぎりぎりセーフだ 桜井はにつこり笑った。 「ところで倉持さんのこと、守ってくれますよねー 思わぬ問いだった。「被害届はあずかったし、い まおたくが話してくれたことも報告するし : : : あとは署の判子 の 断だね」 馬 白 「なんでですか」怒っているようだ。「命を狙われているん ですよ。人命を守るのが、警察の仕事じゃないですか」
さあ、どうしようか。娘のぼつぼっとした話を聞きなが ら、香子の頭が動き出した。 結婚年齢が遅くなったと言われる今日でも、いや、今日だ からこそ、まともなお相手は二十代のうちにいなくなってし まう。 ジャガイモは、あか抜けていないし、話していても頭の回 転の速さも感じなかったが、だからこそ、他の女に盗られた り浮気したりすることもないだろうと、自分を納得させてい た。なのに誠実でなかったら、その価値は半減だ。婚約もす るし、両親にも会わせます、と言うから、結婚前の同棲を認 めた。 一度会った、ジャガイモの親は息子を溺愛しているらし く、くどくどと彼の自慢話をしていた。人前で身内を褒める なんて品のないことと思っていた香子たちは徴笑みながら我 慢して聞いた。 それもこれも、ジャガイモが首都圏の国立大卒で、商事 の社員で、誠実そうな人柄だから許したのに、結婚前にこん なことになるとは。 しかし、咲苗が二十六歳であるのも、また事実なのだ。き っと、この失恋の傷をいやすのに半年、いや一年ぐらいはか かるだろう。それから新しい相手と恋して婚約し、結婚式場 の予約をして : : : 二十代のうちに結婚できるだろうか。 しかも、咲苗は婚約して、同棲までした相手と破談するわ けだ。婚約だけは上司や周囲の同僚に話してあって、同居の 事実は公には発表してない。とはいえ、会社の中ではきっと 知られているに違いない。破談の理由が西原の浮気だとして も、社内での咲苗は婚約者を寝取られた哀れな女だ。もう、 社内恋愛は無理かもしれない。いや、それどころか、会社に とどまることもつらくなるかもしれない。 浮気をした男でも、西原が商社勤務であることは変わりな いのだ。それは、建築家と結婚した香子には決して手に人れ られなかったもの。 「そういえば、 Z ホテルの下見はどうだったの ? 」 「ああ、良かったわよ。食事がとてもいいの」 急に話題を変えた香子に一瞬だけ怪訝な表情を向けたが、 娘は素直に話し出した。 銀座を回って、香子が家に戻ると、当然、部屋は暗かっ 一人だけでは面倒だから、と銀座のデ。ハートで買ってきた お惣菜を食卓の上に置き、寝室で着替える。冷蔵庫にしまわ ないのはだらしないけど、すぐに食べるのだから冷やしてし まっては味が落ちる、と言い訳をしていた。 香子はいつもそうだ。心の中で弁解してしまう。相手は亡 くなった母だ。もう二度と会えない人を常に意識している。娘 の 寝室でワンピースを室内着に着替え、ハンガーにかけ、ざ っと汚れをチェックしてからクローゼットにかけた。・ハッグ もほこりを落として、棚に置いた。
生物の、何億年にもわたる課題であったはずの、生存と生 殖に困らない状態にあってなお苦しむ、というのはどうい うことなのだろう。科学的に説明をしようと思えばいくら でもできる。だが、何かが満たされないままだ。ヒトとい う生物の業の深さを、自分の奥深くに口を開けたその空洞 の中に見るような思いがした。 すでに退会したが、私はかって Z という高— 団体に人っていた。そこでは会員同士の交流はごくゆるや かに行われていて、彼はその中の一人だった。彼はおそら 、知恵を競い合うか、心理ゲ 1 ムでもするような感覚 で、私に近づいてきたのだろうと思う。 ごく普通の感覚で連絡先を交換した。彼は礼儀正しいメ ッセージを送ってきて、しばらくはおとなしいやり取りが 続いた。今思えば、このとき、すこしずつ反応を確かめ、 私という人間の。ハーソナリティについて断片的に情報を集 め、像を構築していったのだろう。 やがて彼は、徐々に踏み込んだメッセ 1 ジを送ってくる ようになった。 たとえば、こんな調子だ。 あなたは、女の身で高学歴であり、専門性の高い領域で 生きていますね。 それには、相応の苦しみが伴うのではありませんか。 話の合う人がすくないのではないですか。 今だけではなく、いつも、そうだったのではありません 本当は、ずっと孤独だったのではないですか。 あなたは、誰とも共有することのできない世界を抱え て、生きてきたのではありませんか。 だから、わかってくれる人が欲しくて、に人 ろうと思ったのではないですか。 僕も、そうです。 誰かすこしでも、何かを共有できる人を、ずっと探して いるんです : なるほど、こうやって距離をつめてくるのだなと思っ た。彼が意識的にやっていたのか、無意識にそうしていた のかは確かめようがないが、知能の高い人ではあるから、 きっと意識的に考えられた戦略だったのだろうとは推測さ れる。 わかりやすい下心の感じられる文面だからこそ、女性も 相手の好意を期待して安心して踏み込んでいける。そうい うギミックも込みで、よく練られていると思った。女性の 孤独感を煽った上で、「あなたこそ、僕の孤独を理解でき る特別な能力をもった人だ」と暗示的な礼賛のメッセージ を送る。そうして相手の承認欲求を満たして、心に人り込
である竜崎が臨席すべきだと思った。何かです。蛇の道は蛇で、非行少年や裏社会の まう。何も身につかないだろう。 最低でも半年、いや一年は滞在して、必問題が起きたときに、すぐに対処する必要連中は独自の情報ネットワークを持ってい ますからね」 死で勉強をする必要がある。それでも何かがあるのだ。 「仇討ちなど許すわけにはいかない。何か 早期解決を望むしかない。 を学ぶには充分とは言えないだろう。 竜崎はそう考え、昼食をとることにし知っていることがあるのならロを割らせる 語学を学ぶだけでも何年かかかるに違い ない。邦彦はポ 1 ランド語を学びたいわけた。業者が仕出し弁当を署に納人していんだ」 「少年係の根岸が、興味深いことを言って ではないはずだ。さらに期間が必要だといる。その弁当を食べることにした。 、つことだ。 いました」 「どんなことだ ? 」 すると、卒業が延びることになる。邦彦 は一年浪人しているので、現役で卒業する 「彼らは、誰かをかばっているのかもしれ 者よりも何年か社会に出るのが遅くなる。 「ギャングの構成員を、何人か引っぱってない。でなければ、恐れているか : : : 」 その何年かを邦彦はどう考えているのだ話を聞きました」 「根岸は実際に彼らに接したのか ? 」 ろう。 午後一時頃、関本刑事課長が署長室に報「ギャングの構成員の多くは少年なんで 家に帰れれば、話ができるのだが : す。引っぱってきたやつらもほとんどが少 告に来た。 「それで : 竜崎は考えた。 年だったので、彼女に尋問を任せるか、立 「みんな同じように口を閉ざしていましてち会ってもらうかしました」 捜査本部は、実質管理官が仕切ってい 根岸がそう言うのなら間違いないだろ る。捜査本部長の刑事部長は多忙なので、 彼女は人一倍少年たちと接している。 捜査本部に腰を落ち着けるわけにはいかな「仲間が殺されたんだ。警察に協力するのう。 が当然だろう」 現在、捜査本部で一番少年犯罪に精通して 伊丹は頻繁に顔を出したがるが、彼は例「ところが、ああいう連中は警察を眼の仇いるのは根岸だ。 にしていますから : : : 。仇は自分たちで討竜崎は直接話が聞いてみたくなった。 外と言っていい。 ちたいと思っているのかもしれません」 根岸の話だけではない。捜査がどの程度 捜査一課長ですら常駐はできないのだ。 管理官に任せて、竜崎も帰宅することは「ばかな : : : 。警察より先に犯人を見つけ進展しているのか、肌で感じてみたかっ こ 0 できる。だが、そうしたくなかった。 られるとでも思っているのか」 もし異動になったら、捜査本部などの現 捜査本部長の伊丹がいない間、副本部長「実際に、しばしばそういうことがあるの 310